儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

54 / 55
第三十九話 同じ場所で、別のことを

 白磁の肌を走る一本の細いひびが、卓上ライトの柔らかい光を受けて、淡い飴色の輪郭を浮かび上がらせた。

 

「――そう、そこなんです。いま光が当たったところ、ただのひび割れじゃなくて、ちょっとだけガラスみたいに艶っとして見えるでしょう?」

 

 机の上の小型カメラへ向けた右手の角度をほんの数ミリだけ寝かせながら、儒烏風亭らでんはノート端末のプレビュー画面と、その右隣を流れていくチャット欄へ交互に目を走らせた。

 

『あ、今の角度すごく見やすいです!』

『漆で直す金継ぎとはまた違うんですね』

『ガラスの粉でくっつけてあるんですか?』

 

「はい、これ『焼き継ぎ』っていう直しの跡なんですよ。漆じゃなくて、白玉粉っていう鉛ガラスの粉を割れ口に塗って、もう一回低い温度の窯で焼いて溶かし合わせるんです。だからね、こうして指の腹でなぞると――」

 

 らでんは左手の親指で、小さな白磁の片口の胴をそっと撫でた。そしてすぐ横の銀色のスタンドマイクへ近づけた指先で、器の縁を「チン、チン」と軽く弾いてみせる。

 

「ね、割れてたはずなのに、澄んだ高い音がするでしょう? 昔の街場の焼き継ぎ屋さんは、町を回って各家庭の割れたお茶碗や片口を預かって、こうして直してたらしいんです。ちなみにこの片口、注ぎ口のところの釉薬の削れ方を見るとですね、どうやら左手で持って手前に傾ける人が――あ、そう! 去年、木匙の減り方の話をしたときにも来てくださってた方、覚えてます? やっと見つけたんですよ、左利きさんのお気に入り!」

 

『覚えてます! みかん箱の栗の木匙のときですね』

『一年半越しの左利き道具だw』

『うちのおばあちゃんも左利きで、急須の注ぎ口だけ反対側がよく欠けてました』

 

 チャット欄のスクロールが一段と速くなり、らでんは思わず声を上げて笑った。

 

 一九九八年十月。窓の外では、街道沿いの古い宿場町を吹き抜ける秋の夜風が、宿の格子窓をかすかに揺らしている。

 

 運河沿いの街の宿で、黒い隅切りの小盆をカメラのレンズに五センチの距離まで押し付けて「ほら、蝶々です!」と叫んでいたあの冬から、早いもので一年と九ヶ月あまりが過ぎていた。当時十八歳だったらでんも、今年の二月で二十歳になっている。

 

 あの夜、最大九人の視聴者と一緒に三十四分十二秒の生配信を終えたあと、らでんが記録ノートに書き留めた三行のメモは、いつの間にか背表紙に番号を振った四冊目のノートへと続いていた。文化財の調査や保護の仕事でいくつもの街を巡り、短期滞在の宿やウィークリーマンションへ荷物を解くたびに、鞄の中から小型カメラと卓上ライト、そしてあの銀色のスタンドマイクを取り出して机の右側に並べる。それが今では、朝起きてお湯を沸かすのと同じくらい当たり前の暮らしの手つきになっている。

 

『その片口の下に敷いてる木の小皿も、同じ古道具屋さんですか?』

 

「お、いいところに気づきましたね! これは昨日、この街の旧街道にある古物商の棚の隅っこで一緒に出てきた欅の茶托なんですけど、裏返すとですね、前の持ち主が小刀で彫ったらしい屋号の略字が――いや、待って。この屋号の彫り方の変遷から話し始めると、たぶん時計の針が十一時を回っちゃうな。よし、茶托の裏側は来週の動画にとっておきましょう!」

 

『あ、自分でブレーキかけたw』

『成長してる……!』

『でも来週また見られるなら楽しみです!』

 

「ひどいなあ、私だってもう一年半もやってるんですからね、ちゃんと時計くらい見ますよ!」

 

 画面の向こうで笑っている人たちの気配を感じながら、らでんは白い布の上へ白磁の片口をそっと戻した。

 

 最初の頃は、少しでも言葉が詰まると背中まで変な汗をかいていたし、ライトの反射で漆が白く飛ぶたびに焦ってメモを見失っていた。けれど今は、相手の「ここが見たい」という一言でライトの首をひょいと動かし、自分が脱線しそうになれば落語のまくらを切り上げるみたいに笑って話題を畳むことができる。

 

 集まってくれる人の数も、あの冬の夜に比べればずいぶん増えた。最初から毎回のように顔を出してくれる常連もいれば、古い建築や焼き物の動画からふらりと迷い込んでくる初見の人もいる。何万人、何十万人という途方もない大所帯ではないけれど、自分が「うわ、これ面白い!」と目を輝かせたものに、画面の向こうからいくつもの視点や家の記憶が返ってくる、心地よくて風通しのいい場所だった。

 

「それじゃあ、今夜はこのあたりでお開きにしましょうか。来週は、この欅の茶托の裏側と、もう一つ見つけた面白い銅の油皿をお見せしますね。秋の夜長で冷えてきましたから、皆さんも温かいものを飲んでお休みください。それでは、おやすみなさーい!」

 

 カメラへ手を振り、画面の『配信終了』ボタンをクリックする。

 

 左上の赤い『LIVE』の文字が消え、一時間と少しの配信が静かに閉じた。

 

 らでんはヘッドホンを外して首の後ろをトントンと叩き、冷めかけた急須から湯呑みへほうじ茶を注いだ。

 

 机の上を見渡せば、右側には配信用の機材と、これまでに紹介した道具のスケッチや視聴者からの質問を書き留めた四冊のノートが並び、左側には今滞在している宿場町の旧家から依頼された、明治期の襖の下張り文書の調査記録がきちんと整えられて置かれている。

 

 どちらも、今のらでんにとって欠かせない大切な日常だ。仕事で古い品や人の記録に出会い、そこで磨かれた目が、また古道具市の片隅に眠る小さな工夫を見つけ出す。

 

 ただ、湯呑みを両手で包みながら静かになった画面を眺めていると、この頃ふと胸の奥に浮かんでくる小さな問いがあった。

 

 この机の上で、カメラに向かって一人で古い道具の面白さを話すやり方は、もうすっかり自分の手に馴染んだ。このまま五冊目、六冊目とノートを増やしていくのも、きっと楽しいに決まっている。

 

 けれど、慣れたからこそ思うのだ。

 

 同じこの机、同じこのマイクの向こう側で、もし今の自分とはぜんぜん違うやり方や、自分一人では思いつかないような届け方ができるとしたら、そこにはどんな景色が広がっているのだろう、と。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そんなことをぼんやり考えながら、自分のチャンネルの管理画面からI-Tubeのトップページへ戻ったときだった。

 

 画面の右側に並ぶ「おすすめの動画・配信」の枠に、どこかで見覚えのある名前と、明るい金髪の女性の姿が映ったサムネイルがぽんと出てきた。

 

『【秋の夜長に】今夜の晩酌おつまみ三品、ちゃちゃっと作っちゃうよ~!【鷹嶺ルイ/ホロライブ】』

 

「……えっ、ルイさん?」

 

 らでんは湯呑みを机に置き、思わず身を乗り出して画面をクリックした。

 

 数日前に公開されたばかりのアーカイブ映像が始まると、エプロン姿でカメラの前に立ち、手際よくフライパンを温めながら『こんばんはー! 今日も一日お疲れさま!』と気さくに手を振る鷹嶺ルイの姿が映し出された。

 

 間違いない。以前、仕事の連絡や立ち寄り先で言葉を交わしたことのある、あの面倒見がよくて頼りになるルイさんだ。現場や事務のやり取りでは、複雑な段取りを涼しい顔でさばいていく切れ者という印象だったのに、画面の中の彼女は、視聴者からの『今日もおつまみがお酒を進ませる顔してる』『先月の激辛回みたいな事故は起きませんか?』というコメントに『ちょっと! 今日は平和な秋の味覚だってば!』と大きな声で笑い返しながら、包丁で小気味よくきのこを刻んでいる。

 

「うわあ、ルイさん、I-Tubeで配信なんてやってたんだ……!」

 

 しかも、動画の概要欄を見てさらに目が丸くなった。そこには『ホロライブ所属・鷹嶺ルイ』という記載と一緒に、昨年の十一月から活動していることや、コラボ相手のリンクがずらりと並んでいる。

 

 そのリンクの一つに並んでいた名前に、らでんの指先がぴたりと止まった。

 

 ――風真いろは。

 

「ちょっと待って、いろはちゃんまで!?」

 

 慌ててそのリンクを開くと、こちらも昨年の十一月から同じく『ホロライブ』の所属として活動しているチャンネルページが飛び出してきた。並んでいる動画のサムネイルには、山あいの風景や素朴な和菓子、それに丁寧な手仕事の紹介や雑談配信の枠が並んでいる。一つ再生してみると、らでんが知っているあの礼儀正しくて真っ直ぐないろはが、視聴者から機械の操作を心配されて『だ、大丈夫でござるよ! 今日はちゃんと音も出てるし、画面も固まってないもん!』と必死に言い張って笑いを誘っていた。

 

 現地で会ったときは、背筋がすっと伸びていて、どこか武芸者のような凛とした空気をまとっていた人だ。それなのに、画面の向こうでコメント欄とやり取りしている声は驚くほど柔らかくて、見ている側が思わず応援したくなるような温かさがある。

 

「へええ……! 二人とも、こんな場所で活動してたんだ」

 

 らでんは頬杖をつき、いろはのチャンネルページから、所属事務所である『ホロライブ』の公式紹介ページへと飛んでみた。

 

 白い背景にすっきりとしたデザインで整えられたそのページには、所属している配信者たちの一覧と、最近のイベント告知や番組の案内が並んでいる。歌をメインにしている人もいれば、ゲームの生配信で何時間も盛り上がっている人、料理や雑談、企画動画を上げている人もいる。

 

 どんな人たちがいるんだろう、とマウスホイールをくるくると回して一覧を上から眺めていったらでんの目が、中ほどにあった一つの名前と写真でまたしても釘付けになった。

 

 黒髪に穏やかな目元。そこに添えられた名前は、『大神ミオ』。

 

「……えっ!? ミオさん!?」

 

 宿の部屋の真ん中で、らでんは素頓狂な声を上げた。

 

 大神ミオといえば、二年前の秋、あの鉱山町の古い記念館と旧庫の調査で現地窓口としてやり取りし、昨年の冬にも調査書類の控えを送った、あの地元の職員さんではないか。

 

 慌てて個別ページを開いてみると、なんと活動開始の欄には『一九九四年十二月』と記されている。らでんが去年のお正月に小盆の動画を撮って四苦八苦するよりもずっと前、それどころかあの鉱山町で顔を合わせるより二年も前から、ミオはこの場所で配信を続けていたことになる。

 

 公開されている雑談配信のアーカイブを少しだけ覗いてみると、穏やかで落ち着いた声で視聴者の悩みを聞いたり、タロット占いや季節の料理の話をしたりして、コメント欄から『やっぱりミオしゃの枠は実家みたいな安心感がある』『今日もいい声』と慕われている姿があった。

 

 あの調査のとき、複雑な図面の照合や現地の緊急保全の手続きを、いつも落ち着いた手つきで支えてくれたミオさん。仕事でやり取りしていたときにはおくびにも出さなかったけれど、仕事が終わった夜の机では、こうして何年も前から画面の向こうのたくさんの人たちと温かい時間を積み重ねていたのだ。

 

「すごいな……。ぜんぜん知らなかった」

 

 胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら一覧をさらに下へスクロールしていくと、今年の春――『一九九八年三月』に活動を始めた比較的新しい枠のところに、もう一人、絶対に忘れようのない名前があった。

 

 金色の髪を無造作に流し、クールな目元で画面の向こうを見つめる女性。

 

 『カエラ・コヴァルスキア』。

 

「カエラさんまでいるんだけど!?」

 

 らでんは椅子の上で仰け反りそうになった。

 

 カエラといえば、あの美術館での一件で知り合った、れっきとしたプロハンターである。鍛冶や鉱物、道具の扱いにも並々ならぬ造詣と粘り強さを持つあの人が、どうやらいつの間にかこのホロライブに所属し、生配信を始めているらしい。

 

 気になって彼女の最新の配信アーカイブを開いてみると、なんと五時間を超える長尺の動画だった。再生バーをどこへ動かしても、カエラはほとんど表情を変えずに淡々と、しかし信じられないほどの集中力で画面の中の作業を続け、視聴者から『カエラ、もう夜中だけど寝ないの?』『そろそろ休んで!』と心配されると、低く落ち着いた声で『まだ全然平気。ここまでは今日中に終わらせるから』と涼しげに返して、控えめに笑っている。

 

「あはは、カエラさん、配信でもそのままなんだ!」

 

 思わず吹き出しながら、らでんは改めてホロライブの全体ページへと画面を戻した。

 

 鉱山町で出会ったミオさん。仕事や旅先で知ったルイさんやいろはちゃん。そして同じハンターであるカエラさん。

 

 出会った場所も、普段の仕事も、得意なこともバラバラなあの四人が、それぞれの暮らしや本業を手放すことなく、この『ホロライブ』という同じ屋根の下で自分のチャンネルを持ち、自分の好きなことを発信している。

 

 しかも、ページの下部にある『最近のコラボ企画』の欄を見れば、普段は別々の時間帯にまったく違う配信をしている人たちが、週末の特別枠では二人や三人でマイクを並べ、歌ったり、クイズを出し合ったり、お互いの好きなものを紹介し合ったりして、一人だけのときとはまた違う賑やかな空気を作り出していた。

 

 自分一人で机に向かって話す楽しさは、この一年半でたっぷり知った。

 

 だけど、こんなふうに、それぞれの得意を持った人たちが集まる場所に自分の机を一つ並べてみたら、一体どんなことが起きるのだろう。

 

 画面の右上、メニューバーの端に小さく置かれた『タレントオーディション・常設募集のご案内』という青いバナー文字が、その夜のらでんの目に、やけに鮮やかに飛び込んできた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌日の夜。宿場町での襖の下張り調査を無事に一区切りさせたらでんが、宿の机で荷造りをしながらノート端末を開いていると、ピロン、と軽快な通知音が鳴った。

 

 音乃瀬奏からのメッセージと、音声ファイルが一つ届いている。

 

『らでん、いま宿? 起きてる? 来月出す歌ってみたのサビだけ、コーラス二種類録ってみたんだけど、どっちがいいか分からなくなっちゃったから聴いて!』

 

 相変わらず前置きなしの元気な文面に頬を緩めながら、らでんは『起きてるよ! いま聴くね』と返してヘッドホンを耳に当てた。

 

 再生してみると、秋の夜に似合う少し疾走感のあるバンドサウンドに乗って、奏の伸びやかな歌声が流れてくる。一分ほどの短い音源が二パターン入っていて、一つ目は主旋律のすぐ下に落ち着いた低いハモリが寄り添う形、二つ目はサビの後半だけ高い上ハモが重なって、最後にふっと主旋律一人だけの声に戻る形になっていた。

 

 二度繰り返して聴き終えたところで、画面に『音乃瀬奏・音声通話』の着信が光る。

 

「もしもし、奏ちゃん。いま両方聴いたよ!」

『お、早い! ねえ、どっちがよかった? 私、最初は一個目の低い方でいくつもりだったんだけど、さっき高い方も入れてみたら、あれ、こっちもよくない? ってなっちゃって』

「私ね、二個目の方が好きだなあ。特に最後の『遠くまで』って伸ばす前のところ、あそこだけハモリを消して奏ちゃんの声一本にしてるでしょう?」

『えっ、そこ!? 待って、上ハモじゃなくて、抜いたところ!?』

 

 通話の向こうで、奏がぱっとマイクに近づく気配がした。

 

『いや、そこね、最初は最後までハモリ入れてたの! でもなんか音が詰まりすぎてる気がして、試しに最後の二小節だけ消してみたんだよ。やっぱり一本にした方がよかった?』

「うん、すごくいい。途中まで高い声が重なってキラキラしてるから、最後でふっと一人になったときに、急にすぐ隣で歌ってるみたいに近く聞こえるんだよね。あとさ、去年の冬に聴かせてくれた曲より、低い音から高い音へ跳ぶときの声がずっと軽くなってるね。力んでないのに、スコーンて抜けてて気持ちいい」

『えー、嬉しいんだけど! 跳ぶところ、夏からずっと練習してたの。喉で押さないで、息のスピードだけ上げるやつ! ……よし、決めた、二個目でいく! やっぱりらでんに聴いてもらうと一発で決まるわ』

「あはは、お役に立てて何よりです」

『あ、昨日のらでんの配信も見たよ! あの白い器の、ガラスで直したやつ。あれさ、指で弾いたときの「チン」って音、すごく綺麗だったね。去年の黒いお盆のときより、音の出し方だいぶ上手くなってない?』

「お、先輩に褒められた。マイクの角度、もう目をつぶってても握り拳二つ分に置けるからね」

『成長したなあ、お天気お姉さんだったのに』

「それを蒸し返すのは禁止だってば!」

 

 二人でひとしきり笑い合ったあと、らでんはふと、昨夜見たページのことが頭をよぎって言葉を継いだ。

 

「ねえ、奏ちゃん。奏ちゃんはさ、I-Tubeで誰か他の人と一緒に歌ったり、コラボ枠をしたりって考えたことある?」

『ん? コラボ? うーん、今はまだ一人で好きな曲をどんどん歌いたい時期かなあ。でも、自分とぜんぜん違う声の人とハモったらどうなるんだろう、とは思ったりするよ。……なに、らでん、誰かと古道具の漫才でもやるの?』

「漫才じゃないよ! いや、昨日たまたまね、仕事や旅先で知り合った人たちが、同じ事務所に入ってI-Tubeで配信してるのを見つけちゃってさ。普段はそれぞれ料理とか雑談とか別々のことをやってるんだけど、ときどき集まって一緒に企画をやったりしてるのを見て、なんだか面白そうだなって思ったんだよね」

『へえー、事務所かあ。でもさ、らでんっていつも古い道具とか絵の話をしてるじゃん。そういういろんな人がいる場所に入ったら、らでんもゲームとかお料理配信ばっかりやることになったりしないの?』

「あ、それはね、私の知ってる人たちを見てても、みんな自分の好きなスタイルをそのままやってるみたいなんだよね。だからもし私が誰かと一緒に何かやるとしても、私はやっぱりこの古い道具や美術品の話を持っていきたいなって思うの。たとえばさ、奏ちゃんみたいに歌がすごく得意な人の隣で、『実はその曲に出てくる古い楽器や衣装にはこんな歴史があってね』って私が実物や絵を見せたら、ただ一人で話すよりずっと立体的になる気がしない?」

『あー、なにそれ! ちょっと面白そうじゃん。歌う前にそんな話聞いたら、その曲もっと好きになっちゃうかも』

「でしょ? まだ見つけたばっかりで、ちょっと考えてみただけなんだけどね」

『いいじゃん、らでんって一回気になりだすと、目がキラキラして止まらなくなるもんね。あ、この曲完成したらまた一番に送るから、今度はちゃんとコメント欄にも書いてよ?』

「はいはい、一番乗りで書きに行きますよ!」

 

 通話を切ったあとも、奏の『ちょっと面白そうじゃん』という弾んだ声が耳の奥に残っていた。

 

 そして二日後。

 

 宿場町での現地調査をすべて終えてはじめのいる街へ移ってきたらでんは、駅前のオープンカフェの丸テーブルで、練習スタジオから出てきた轟はじめと向かい合っていた。

 

「はい、らでん。お土産の栗きんとんのお礼に、カフェラテ奢り」

「わあ、ありがとう! 今年の新栗なんだよ、宿のおばあちゃんが分けてくれてさ」

 

 六月に二十歳になったばかりのはじめは、秋らしいえんじ色のスウェットの上に黒いナイロンジャケットを羽織り、ストローでアイスコーヒーをくるくると混ぜながら、テーブルの上へ自分の携帯端末をすっと滑らせた。

 

「ほら、きのう言ってた新しいやつ。さっきチックタックに上げる前に一回書き出したから、見てみて」

「お、新作! 見る見る!」

 

 らでんはカフェラテのカップを置いて、画面の再生ボタンをタップした。

 

 二十秒ほどの縦長の映像の中で、コンクリートの壁を背にしたはじめが、低く跳ねるベース音に合わせてゆっくりと横へ一歩を踏み出す。

 

 去年見た動画よりも、さらに身体の使い方が変わっていた。最初は水の中を動くみたいに重たく、粘るようなスローな重心移動で視線を引きつけておいて、ビートが裏拍で「タッ」と鳴った瞬間にだけ、首の角度と右手の指先がナイフみたいに鋭く止まる。しかも最後は決めポーズで止まるのではなく、曲が終わる半拍前にふっと肩の力を抜いて、カメラの横をそのまま歩いて通り過ぎていくのだ。

 

「……うわあ、かっこいい。ねえ、はじめ、最初のあの重たい動きから急にピタッて止まるところ、どうなってるの? 早送りしてないよね?」

「してないよ。最初の四拍をわざと遅れてるように見せてるだけ。ずっと速いより、一回ぬるっと引っ張ってから止めた方が、止まった瞬間が強く見えるでしょ」

「見える! あと最後、カメラの前で止まらないで歩いていっちゃうのもいいね。もう一回追いかけたくなっちゃう」

「でしょ。最近みんな最後にポーズ決めるからさ、逆にそのまま抜けてみた。……よし、じゃあこれでもう出しちゃお」

 

 はじめは満足そうに頷くと、手慣れた指先でチックタックの投稿画面を開き、その場で迷いなく公開ボタンを押した。自分の身体感覚と「ここを見せたい」という判断に一点の迷いもないその横顔は、いつ見ても小気味いい。

 

 端末をポケットへしまったはじめが、包み紙を開いて栗きんとんを一口かじり、「ん、これ美味しい」と目を細めたところで、らでんは少しだけカップの縁を指でなぞってから口を開いた。

 

「ねえ、はじめ。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけどさ」

「ん? なに、また新しいマイクでも買うの?」

「ううん、機材じゃなくてね。……ホロライブって、聞いたことある? I-Tubeでいろんな配信者さんが所属してる事務所なんだけど」

「あー、名前くらいは見たことあるかも。チックタックにもたまに切り抜きっぽいのが流れてくるし。そこがどうかしたの?」

「この前ね、知り合いの人たちがそこに所属して配信してるのを偶然見つけちゃってさ。ハンターの仕事で知り合った人や、調査先でお世話になった人なんだけど。それでページをいろいろ見てたら、常設のオーディション募集があったの」

 

 らでんは自分のノート端末の画面を少しだけ開いて、保存しておいた募集案内のページをはじめに見せた。

 

「ここ一年半くらい、一人で机から配信するのにもだいぶ慣れてきてさ。もちろん、今のまま古道具の話を続けていくのも大好きなんだけど……たとえば、はじめみたいに踊れる人や、奏ちゃんみたいに歌える人、全然違う得意を持った人たちがいる場所へ自分も飛び込んでみたら、自分が好きな美術や工芸の話を、もっと別の形で誰かに届けられるんじゃないかなって、ちょっと気になり始めちゃって」

 

 そこまで一気に話してから、らでんは「……なんて、ハンターの仕事も続けながらそんなところに応募するなんて、欲張りすぎかなあ」と少し照れくさそうに笑った。

 

 すると、はじめは栗きんとんの残りを口に放り込んで、カフェラテの湯気の向こうから、じつに気楽な声で言った。

 

「まあ、いいんじゃない?」

「……でた! はじめの『まあ、いいんじゃない』! もうちょっとこう、本当に両立できるのかとか、ちゃんと言ってよ〜!」

「言ってるって。いや、だって事務所の細かい仕組みとかは、はじめ分かんないしさ」

 

 はじめはアイスコーヒーのストローをくわえ直し、肘をついてらでんの顔をまっすぐ見た。

 

「でもさ、らでんって、この前の小盆のときもそうだったけど、『これ面白いから誰かに見せたい!』ってなったら、結局やるじゃん。仕事だって今まで一回も抜いたことないでしょ」

「それは、もちろん! 本業は絶対におろそかにしないよ」

「なら、いいんじゃないの。それにさ、うちが見てても、らでんが一番楽しそうなのって、そういうよく分かんない古い器の話を、全然詳しくない人が『え、なにそれ』って覗き込んできたときだし。いろんな人がいる場所の方が、そういうの増えそうじゃん」

 

 あまりにもあっさりと、けれど自分の真ん中にある気持ちをぴたりと言い当てられて、らでんは思わず目を瞬かせた。

 

「……はじめ、なんだかんだ言って、私の配信けっこう見てくれてるよね?」

「たまたま休憩中に流してただけだってば。ほら、カフェラテ冷めるよ」

「照れてる照れてる! ありがとう、はじめ。なんだかすごくすっきりした!」

 

 笑いながらカップを持ち上げると、秋の澄んだ日差しがテーブルの上で揺れていた。

 

 誰かに背中を押してもらったからではない。でも、親友のこの変わらない温度のおかげで、自分の中にあった「やってみたい」という輪郭が、はっきりと前を向いた気がした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 カフェではじめと別れたあと、らでんは夕方のうちに一度借りている部屋へ戻り、ハンター協会の支部施設へ提出する定期報告書を鞄に詰める前に、襟元の内側から小さな『鋼の雪玉』を取り出した。

 

 部屋の扉へその冷たい鍵を当てて開くと、日常の部屋の空気とは一線を画した、静謐で落ち着いた照明の回廊――《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》の内部が広がる。

 

 靴音を響かせながら回廊を歩き、まずは区画ごとに厳重に保たれた収蔵室の様子を一つずつ点検していく。

 

 二年前の秋、あの鉱山町の旧庫からセザール旧蔵の品々を引き継いでからというもの、らでんは旅先での文化財調査や配信の合間にも、毎日欠かさずこの館へ足を運び、少しずつ、しかし確実に本業の記録と整備を積み重ねてきた。

 

 現在、この《遺念収蔵館》が抱えている収蔵対象は、セザール旧蔵の作品十六品に、別区画へ厳重に隔離してある管理機構一式を加えた十七件。さらに、その後のハンターとしての仕事の中で新たに保護・受け入れを行った死後念の作品が三品。

 

 合わせて二十件である。

 

 そのうち、再利用の対象とはならない管理機構一式を除いた、利用対象となる十九品の作品すべてについて――この一年半あまりの地道な作業の末、形態の細密な調査、来歴の照合、宿っている作用の確認、そして《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》への利用登録と復元処置が、先月をもって一通り完了していた。

 

 休憩区画の木机の上に置かれた分厚い《遺念収蔵録》を開けば、らでん自身の万年筆の筆跡で、十九作品それぞれの寸法や材質、かつての持ち主がどんな思いでそれを遺したのかという記録が、ページいっぱいに整然と並んでいる。

 

 もちろん、登録と復元が終わったからといって、すべての品にまつわる過去の歴史が隅々まで解き明かされたわけでもなければ、宿っている念の危険や呪いがすっかり無害なただの道具に変わったわけでもない。中には、まだ箱を閉ざしたまま慎重に状態を保っている品もあるし、扱う際には定められた手順と警戒が常に求められる。

 

 それでも、利用登録と復元が完了したことで、今はもう危険な原本そのものを直接外へ持ち出したり動かしたりすることなく、安全にその力を扱い、また施設側との継続保全の条件も安定した形で維持できるようになっていた。台帳の所定の挟み込みには、規定の『館外貸出票』二枚も、いつでも正規の手順で使えるよう綺麗に収まっている。

 

「よし、今日も全区画、異常なしっと」

 

 らでんは最後の確認欄に今日の日付と署名を書き入れ、万年筆のキャップをパチンと閉じた。

 

 誰の目にも触れないこの静かな館で、見捨てられかけた品や記録に残らなかった人たちの思いを一つずつ受け止め、安全な形で未来へ繋いでいくこと。

 

 そして、部屋の扉を一歩出た先で、カメラの向こうの誰かに「昔の人がこんな可愛い工夫を残していたんですよ」と声を届けること。

 

 扱う品も、守るべき秘密の境界もはっきり分かれているけれど、らでんの中ではその二つは少しも矛盾していなかった。どちらも、人が作ったものと、そこに宿る時間を好きでたまらない自分が選んだ仕事なのだ。

 

 らでんは《遺念収蔵録》を所定の位置へ戻し、扉を閉じて鋼の雪玉を再び襟元の奥深くへ収めると、協会の支部施設へ提出する書類封筒を脇に抱えて部屋を出た。

 

 その日のうちに古文書調査の完了報告と定期保全の届出を済ませ、受領印の押された控えを鞄にしまった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 季節がもう一つ進み、一九九八年も残すところあとわずかとなった十二月中旬。

 

 冬の澄んだ空気が窓ガラスを冷やす部屋で、らでんは机の上にノート端末とカメラ、そしてあの銀色のスタンドマイクを並べて座っていた。

 

 画面に開かれているのは、ホロライブの常設オーディション応募ページだ。

 

 秋の夜にあのバナーを見つけてから、二つの地方調査をこなし、毎週の動画投稿と生配信を続けながら、らでんは少しずつ、自分がそこで何をしたいのかをノートに書き出して考えていた。

 

 誰かに推薦してもらったり、知り合いの名前を出して特別扱いしてもらったりするつもりは最初からなかった。一人の配信者『儒烏風亭らでん』として、自分の言葉と声で正面から応募したかったのだ。

 

 応募フォームの基本入力欄は、すでに昨日までに埋めてある。現在の活動実績として自分のI-TubeチャンネルのURLを貼り、自己PRと活動方針の欄には、自分がこれまで古道具や美術品、工芸品の面白さを伝える配信を続けてきたこと、そして現在も文化財に関わる専門の仕事を持っており、所属後もその本業を大切に続けながら活動していきたいことを、飾らない言葉でしっかりと書き込んだ。

 

 残っているのは、添付必須となっている『三分以内の自己紹介・自己PR動画』の撮影だけだ。

 

「よし。いつも通り、三分以内にまとめるだけなんだから、いけるいける」

 

 らでんは肩をぐるりと回し、録画開始ボタンをクリックした。

 

 一年半以上も毎週カメラに向かって喋っているのだ。今さら緊張することなんてないはずだった。

 

 ――はずだったのだが。

 

「えー、選考ご担当者様、はじめまして。儒烏風亭らでんと申します。本日は、私がこれまで行ってまいりました伝統工芸および美術史に関する動画発信の取り組みと、貴事務所における今後の展望につきまして――って、硬い! 硬すぎる!」

 

 開始十五秒で録画を止め、らでんは机に突っ伏して笑ってしまった。

 

 なんだ『貴事務所における今後の展望につきまして』って。これじゃあ二年近く前の最初の一本目、あの奉行所のお白洲とまるっきり同じではないか。

 

 普段の配信なら、画面の向こうにいつもの視聴者や、奏やはじめの顔が自然と浮かぶから、肩の力を抜いて「ねえ、これ見てください」と話しかけられる。なのに、『選考担当の人が見る応募用ビデオ』と思った途端、急に背筋が伸びて、よそ行きの言葉ばかりが口をついて出てしまうのだ。

 

「いやあ、新しい場所へ自己紹介を出すのって、慣れててもちょっと照れるなあ……」

 

 らでんは苦笑しながら顔を上げ、机の端に置いてあった黒い隅切りの小盆へ目をやった。

 

 去年の冬、あの運河沿いの街の古道具市でみかん箱の中から見つけ出し、一番最初にカメラの前で裏返した、あの蝶々の埋め木の小盆だ。いまも机のすぐ手の届く場所に置いてある。

 

 らでんはその小盆を手に取り、裏底の二匹の黄色い柘植の蝶々を指先でそっとなぞった。

 

 自分がホロライブという場所へ持っていきたいのは、綺麗に整えた経歴書や、もっともらしい理念の朗読じゃない。

 

 この小さな蝶々を見つけたときに「うわ、これ誰かに見せたい!」と跳ねた気持ちと、それを歌やダンスやいろんな得意を持った人たちの隣に並べたら、まだ見たことのない面白い景色が作れるんじゃないかというワクワクそのものだ。

 

「……よし。もう一回!」

 

 らでんは小盆を片手に持ったまま、もう一度録画ボタンを押した。

 

 赤いランプが灯る。

 

 今度は背筋を固めすぎず、カメラのレンズの向こうにいるまだ見ぬ誰かと目を合わせるようにして、最初にふっと笑った。

 

「こんにちは! 儒烏風亭らでんです。普段は古い美術品や工芸品に関わる仕事をしながら、I-Tubeでこの机の上から、昔の道具や絵の面白いところをお話しする配信をしています」

 

 そして、手元の黒い小盆をくるりと軽やかに裏返してみせた。

 

「たとえばこれ、普通の黒いお盆に見えるんですけど、裏返すと、割れたところを直すために『蝶々の形をした木の埋め木』が二匹入ってるんです。昔の人が、割れたお盆を捨てずにこんな可愛い工夫をして使い続けていたっていうのが、私はたまらなく好きで、こういうワクワクをいろんな人に手渡したくて配信を始めました」

 

 小盆を机の上へそっと戻し、らでんは自分の言葉で真っ直ぐに続けた。

 

「二年近く一人で配信を続けてきて、カメラの向こうの人とお話しする楽しさはたくさん知ることができました。でも最近、自分にはない得意を持った人たち――たとえば、すごく素敵に歌う人や、目が離せなくなるくらいかっこよく踊る人、いろんな表現をする人たちと同じ場所で肩を並べてみたら、私の好きなこの美術や工芸の話も、もっと新しく、もっと遠くまで届けられるんじゃないかなと思うようになりました。仕事も、この好きなものの話も、どっちも全力で続けながら、誰かと一緒に新しい面白いものを作ってみたいです。どうぞよろしくお願いします!」

 

 最後はいつも配信を終えるときと同じように、少し照れながらも晴れやかな笑顔で手を振り、録画停止ボタンを押した。

 

 時計の表示は、二分十八秒。

 

 最初から最後まで再生して確かめてみると、声の張りも、小盆を裏返す手つきも、そして「誰かと一緒に新しい面白いものを作ってみたい」と言ったときの自分の目も、嘘のない今の自分の顔をしていた。背景にハンター協会の書類や館の鍵が映り込んでいないことも、指差しで隅々まで確認する。

 

 動画ファイルを応募フォームへ添付し、入力した文字をもう一度だけ上から下まで読み返す。

 

 これで受かるかどうかは、もちろん分からない。どんな人たちが同じ選考を受けているのかも、その先にどんな結果が待っているのかも、まだ白紙のままだ。

 

 それでも、マウスを握る右手には、二年近く前に最初の動画の『公開』ボタンを押したときのような迷いはなかった。

 

「いってらっしゃい!」

 

 らでんは小さく声をかけ、画面の『応募内容を送信する』というボタンを、カチッと力強くクリックした。

 

 画面が切り替わり、『ご応募ありがとうございました。受付が完了いたしました』という文字が静かに浮かび上がる。

 

 椅子の背もたれに体を預け、冬の窓の外に広がる高い青空を見上げると、胸の奥にすっと新しい風が通り抜けたような、気持ちのいい余韻が広がっていた。

 

ゴシカ・シティ編、最後までお付き合いいただきありがとうございました! さて、十老頭入りを果たした桐生組。となれば、気になるのは、その武力を担う念能力者集団――《陰獣》です。 皆さんは、誰に陰獣の一員として登場・活躍してほしいですか? 今後の構想の参考にさせていただきます!

  • 桐生組直参 天音かなた
  • 桐生組直参 角巻わため
  • 金虎堂頭領 虎金妃笑虎
  • ベルベット商会 フィクサー 一条莉々華
  • ゴシカでは掃除屋が陰獣を兼ねるしきたり
  • その他新規で別のホロメン
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。