重たい船体がふわりと浮き上がった瞬間、窓ガラスに額をくっつける勢いで張りついていたはじめが声を上げた。
「うわ〜、すっご!」
床板の下からエンジンの低い振動が足の裏へ伝わってくる。窓の外では、さっきまでいた採石場の白い岩肌と補助灯の明かりが、みるみるうちに夜空の下へと遠ざかっていくところだった。
らでんもその隣へ並び、分厚いガラス越しに小さくなっていく谷間を見下ろした。
「はじめさん、飛行船に乗るのって初めてなんです?」
「初めて」
「実は、私もなんですよ」
「え、らでんもそうなんだ。一緒だね」
窓から顔だけこちらへ向けたはじめが、嬉しそうにくすっと笑う。らでんは少しだけ肩をすくめた。
「私だって、何でも経験済みってわけじゃないですよ」
「だってさ、らでんっていつも何でも知ってそうなんだもん」
そんなやり取りをしている二人のすぐ後ろを、メンチが通りすがりに呆れたような声でかすめていった。
「子供ー」
はじめがぱっと振り返る。
「えー、メンチだって同い年くらいだろ」
「私も乗るのは初めてだけど、窓に張りついて騒いだりしてないから」
「なんだ、そっちも初めてなんじゃんか」
言い返してけらけら笑いながら、はじめはもう一度窓の外へと向き直った。
第二次試験を終えて、この船へ乗り込めた受験者は三十六人。朝の地下会場にいた人数を思えば、いよいよ少なくなってきた。
案内によれば、船内には食堂や休憩室、簡易寝台に展望室まで備わっていて、第三次試験の会場へ着くまでは自由に使って休んでいいらしい。
「試験の合間に、こういうちゃんとした休憩時間もあるんですね」
食堂へ移り、配られた機内食のトレイを受け取りながららでんが言うと、向かいに座ったメンチはさっそく皿の上の料理を検分するように見回していた。
「まぁね。ここでしっかり休ませておかないと、次の試験で本当に見たいものがちゃんと測れないんじゃない?」
「なるほど、確かにそうですよね」
「……あー、このスープ、ちょっと塩が強いわね」
「もう味の評価してるんですか」
らでんが目を丸くすると、メンチはスプーンを持ったまま少しムッとしたように眉を寄せた。
「疲れてるときでも、食で我慢したくないのよ」
「もう気持ちはすっかりグルメハンターですね」
「まあね」
その短い返事には、少しの迷いも混じっていなかった。
ただ、もう一度スープをすくうメンチの手つきだけが、さっきよりほんの少しだけ柔らかく緩んでいる。
湯気の向こうでそれを見ながら、らでんはふと隣でパンを頬張っているはじめへ目を向けた。
メンチにはもう、追いかけたい味がはっきりある。自分にも、古いものや人が遺した文化を知りたいという向きがある。
じゃあ、はじめさんはどうなんだろう。「よくわからない」と言っていたけれど、胸が動くような好きなことや興味のあることは、まだ見つかっていないのだろうか。
◇ ◇ ◇
夕食を済ませたあとも、三人はそのまま食堂の端のテーブルに残っていた。
空になった皿の脇で、はじめがテーブルへぐでっと頬杖をつく。
「なんかさ、らでんもメンチも、二人ともやりたいこと決まってていいよなぁ」
ぼやくような声に、メンチはナプキンで口元を押さえながらあっさりと言った。
「あんた、それを探しにここへ来たんでしょ? せっかくのハンター試験なんだから、受けながら探してみればいいじゃない」
「そんなこと言われてもなぁ。わかんないものはわかんないんだって」
テーブルの木目を指でなぞるはじめを見て、らでんは小さく笑った。
「でも、私たちまだ十二歳ですよ。まず試験に受かってから、ゆっくり探したっていいじゃないですか」
はじめが頬杖をついたまま、ぱちりと目を瞬かせて二人を見る。
「……じゃあ、今はまだなくてもいい?」
「いいんじゃないです? これからいくらでも見られますよ」
らでんが頷くと、はじめの肩からほんの少しだけ余計な力が抜けたのが分かった。
そのとき、すぐ隣の通路からふいに声が降ってきた。
「おもしろい話をしとるのう」
三人が同時に振り向く。
テーブルの脇に、小柄な老人が小さな盆へ湯呑みを乗せて立っていた。白い豊かな髭に、細められた目元。どこか人を食ったような、妙に楽しそうな顔をしている。手元の湯呑みから、温かいお茶の湯気が細く立ち上っていた。
その顔を見た途端、メンチがわずかに背筋を正す。
らでんも息を呑んで、老人の顔を二度見した。
「……ネテロ会長?」
「ほっほ」
老人は小さく笑うと、断りもせずに空いていた隣の椅子を引いてひょいと腰を下ろした。
「ほう、ワシを知っとるか」
「はい、協会のホームページで写真を見ました」
緊張して答えるらでんの袖を、はじめがテーブルの下でちょんと引いて小声で尋ねてくる。
「ねえ、偉い人?」
「はい。ハンター協会で一番偉い人ですよ」
すぐ目の前だから筒抜けのはずなのに、ネテロはまるで気にした様子もなく、三人の顔を順番に眺めた。
「で、お主らはどういうハンターになりたいんじゃ?」
「グルメハンター」
メンチが間髪入れずに即答した。
「私は、古いものや文化に関わるハンターです」
らでんも背筋を伸ばして続ける。
残ったはじめは、ネテロの視線を受けて少しだけ目を泳がせ、「……わかんね」と短く呟いた。
細められていたネテロの目が、ほんの少しだけ開く。
「分からん?」
「うん……なんか、自分って何ができるんだろうって思って。それを試してみたくて試験を受けに来たんだけど」
命懸けでライセンスを奪い合う受験者たちが聞けば、何を呑気なことを言っているんだと呆れるかもしれない。
けれど、ネテロは髭を揺らして屈託なく笑った。
「そうか」
手元の湯呑みを持ち上げ、ずずっと一口すすってから言う。
「なら、それを探すのも立派なハントじゃろ」
はじめがぱっと顔を上げてネテロを見た。
「……そういうもん?」
「知らん」
「知らにゃいの!?」
思わず噛みながら裏返ったはじめの声に、ネテロはますます楽しそうに目を細める。
「ワシがお主の答えを知っとるわけなかろう」
はじめは一瞬、ぽかんと口を開けて固まった。
それから、ふっと肩を揺らして笑い出した。
「なんだそれ。変なじいちゃんだなー」
ネテロは腹の底から声を上げてさらに笑った。
「ほっほっほ!」
ひとしきり笑うと、老人は湯呑みを盆へ戻してふわりと立ち上がった。
去り際、まずはらでんへ目を向ける。
「知りたいものが多いのは、悪くない」
次に、メンチを見る。
「食いすぎて腹を壊すなよ」
「壊しません」
メンチがむっとしたように即答すると、ネテロは最後にまた、はじめの顔を覗き込んだ。
「見つからんでも焦るな」
はじめが少しだけ目を丸くする。
「見つけた時に分かればよい」
それだけ言い残して、ネテロは軽い足取りで食堂の奥へと去っていった。
はじめはしばらく、その小さな背中が扉の向こうへ消えるまでじっと目で追っていた。それから、老人が座っていた席のテーブルへそっと手を伸ばす。湯呑みが置かれていた場所には、まだかすかな温もりが残っていた。
「……変なじいちゃんだった」
ぽつりと漏れた声に、らでんは苦笑いしてもう一度念を押した。
「ハンター協会の会長さんですよ」
「うん。でも、面白いじいちゃんだった」
◇ ◇ ◇
夜が更けて、船内の消灯時間にはまだ少しだけ間があった。
らでんは割り当てられた簡易寝台へ潜り込み、首まで毛布を引き上げてみた。
ぱりっとしたシーツの冷たさと、壁や骨組みを伝ってくるエンジンの低い振動。
そのまま目を閉じてみる。朝から坑道を走り、採石場の斜面を歩き回った身体は、間違いなく芯まで疲れているはずだった。
それなのに、瞼の裏で今日見た石の断面や、さっきの食堂でのやり取りがぐるぐると回って、頭ばかりが冴えてしまっている。どうにも眠れそうにない。
らでんは毛布を押し除けて、静かに寝台から起き上がった。
「……少し歩こう」
誰を起こすともなく小声で呟いて、靴を履く。
すでに灯りを落とされた廊下は薄暗く、らでんの足音だけが床の厚い絨毯に吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇
船体の端にある展望区画の近くまで来ると、他の受験者の姿はほとんどなかった。
大きく取られた窓の外には、暗い雲の海が広がり、そのずっと高いところに白い月が浮かんでいる。
船底の方から、飛行船のエンジン音が一定の間隔で規則正しく響いていた。
ドン、ドン、ドン。
低い拍子に合わせて窓枠がわずかに震え、ガラスの向こうで月の光が雲の白い端を静かになぞっていく。
その展望区画の開けたスペースに、はじめが一人で立っていた。
らでんは「はじめさん」と声をかけようとして、そのまま通路の陰で足を止めた。
はじめが一人で、黙々と身体を動かしていたからだ。
最初は、寝る前に軽いストレッチでもしているのかと思った。けれど、すぐに違うと気づく。
右足を出して、左足。すっと一歩引いて、また元の位置へ戻る。
そこから腰を軸に身体をひねり、肩から腕を揺らして、つま先で軽く跳ねる。
床板を伝ってくるエンジンの振動を足の裏で拾い、一定の間隔で鳴る駆動音の拍子へぴたりと重ねるようにして、全身が滑らかに乗っていた。一つ一つの動きが途切れず、水みたいに次の形へと繋がっていく。
静かな展望室に、靴底が床を擦る小さな音だけがリズムよく重なっていた。
らでんは声をかけるのも忘れて、少しの間そのまま見入ってしまった。
昼間、岩場を駆け回っていたときよりもずっと足取りが軽い。月明かりに照らされた横顔は真剣そのものなのに、見ているこちらまで胸が弾むくらい、なんだかとても楽しそうだった。
一区切りついたように足が緩んだところで、らでんはそっと声をかけた。
「はじめさん」
「うわっ」
はじめの動きがぴたりと止まる。驚いたように肩が少し跳ねて、回っていた身体の余韻だけが服の裾に残った。
「え、らでん、いつからいたの?」
「ちょっと前からです」
「……もしかして、今の見てた?」
「はい、見てました」
「うわっ……」
はじめは一気に耳まで赤くして顔を逸らし、気まずそうに窓の外へと視線を逃がした。
らでんは歩いてその隣へ並び、少し首を傾げて尋ねた。
「何をしてたんですか?」
「いや、なんかちょっと身体を動かしたくてさ。緊張して眠れんし」
言い訳するように答えながら、はじめは落ち着かない様子でまた靴の先を軽く動かす。
「ほら、船の音がずっと鳴ってるからさ」
言って、足元の床を指差した。
ドン、ドン、ドン、と低い振動が二人の靴底を揺らす。
「これに合わせて動いてたら、なんか気持ちよくて」
らでんは納得して、ふっと頬を緩めた。
「ダンスみたいですね」
「ダンス?」
動かしかけていたはじめの足が止まる。
「今のが?」
「はい」
「えー、ただちょっと身体を動かしてただけだけど……そうなのかな」
「私には、そう見えましたよ」
はじめはぱちくりと瞬きをして、自分の足元を見下ろした。
少し考えるように黙り込んでから、試しにもう一度だけ足を踏み出してみる。
右、左、そこからくるりと軽いターン。
暗い窓ガラスに映る自分のシルエットを、横目で一瞬だけ確かめるように見た。
「……これ」
ぽつりと漏れた声の続きを、らでんは黙って待った。
「楽しいかも」
エンジン音に紛れてしまいそうなほど小さな声だった。けれど、確かにそう言った。
らでんはすぐには言葉を返さなかった。足元を震わせるエンジンの拍子を一つだけ聞き送ってから、穏やかな声で言った。
「さっき、それをやってる時」
「?」
「すごく真剣で、楽しそうでしたよ」
はじめの動きが、またぴたりと止まった。
「……マジ?」
「マジです」
「うちが?」
「はい」
はじめは目を丸くしたまま、きゅっと口をつぐんだ。
運動が上手いね、とは昔から何度も言われてきた。足が速い、力が強い、手先が器用、何をやらせてもすぐできる。そういう言葉なら、地元でも耳にタコができるほど聞いてきた。
けれど、動いている自分を見て『楽しそう』と言われたのは、今夜が初めてだった。
「……そっか」
噛みしめるように呟いて、はじめは再び足を動かした。
一歩、二歩、そこから軽く床を蹴って跳ねる。さっきまでの無意識な動きより、ずっと自分の足取りを確かめるように。
窓の外では暗い雲が後ろへと流れていき、白い月の位置だけが変わらずに二人を照らしていた。
「じゃあ……うち、ダンス好きなのかも」
照れくさそうに笑うはじめを見て、らでんも嬉しくなって笑った。
「いいじゃないですか」
「そっかな」
「はい。一個見つかりましたね」
「何が?」
「はじめさんの、好きなもの」
はじめが足を止めて、らでんの顔を見た。
そして、ほんの少しだけ考えてから、ふっと顔を綻ばせた。
「……うん」
その笑顔は、昼間に見せていた屈託のない笑い方とは少しだけ違って見えた。声を上げない分だけ、自分の気持ちを確かめた輪郭がはっきりと浮かんでいる。
らでんはそれ以上、何も付け加えなかった。
まだ名前もつかないような動きの中から、好きかもしれないものを一つ見つけた夜だった。
二人はしばらくの間、並んで窓の外の夜空を眺めていた。
一定の間隔で鳴るエンジン音と、流れていく雲の影だけが静かに続いていく。
「らでんさぁ」
「はい」
「うちら、明日も残れるかな」
ぽつりと投げられた問いに、らでんは少しだけ考えてから答えた。
「分かりません」
「そこは『大丈夫』って言ってよ」
「だって、明日の試験内容がまだ分からないですし」
「真面目か」
「でも、ちゃんと残れるようにはしますよ」
はじめが窓から顔を上げて、すぐ横のらでんを見る。
「一緒に?」
「できるなら、もちろん」
「……そっか」
少しの間を置いてから、はじめは再び窓の外の月を見上げながら言った。
「じゃあ明日も、仲間だな」
らでんは思わず吹き出した。
「まだそれ言うんですね」
「いいじゃん」
「まあ、そうですけど」
らでんも半歩だけ前へ出て、はじめの隣で窓ガラスへ肩を寄せた。
暗いガラスの向こうに、並んだ二つの影がくっきりと映る。
「もう完全に仲間ですね」
二人を乗せた飛行船は、そのまま雲の上の夜空をまっすぐに進んでいった。
◇ ◇ ◇
翌朝、高度を落とした飛行船の窓の下に、広大な街並みが見えてきた。
いや、正確には「かつて街だったもの」が広がっていた。
「……でっか」
はじめが窓ガラスへ顔を寄せて目を見張る。ガラス越しに、降下態勢に入ったエンジンの低い響きが額へ伝わっていた。
らでんもその横から眼下の景色を覗き込んだ。
碁盤の目のように走る道路、大小のビル、川に架かる橋、工場地帯、錆びた線路。遠目に見下ろす分には、ごく普通の近代的な都市に見える。
けれど、いくら目を凝らしても道路に車の影はなく、工場の煙突から煙も上がっていない。駅のホームに列車は止まっておらず、近づくにつれて、高層建築の窓ガラスがそこかしこで歯抜けのように割れているのが見えてきた。アスファルトの裂け目からは、緑の雑草や低木が我が物顔で道路へ入り込んでいる。
らでんは窓枠に手を添えて、建物の傷み方をじっと観察した。
窓ガラスの割れ方は一様ではなく、強い風が吹きつけるらしい南側の面に集中している。黒く口を開けた窓のすぐ下には、何年も吹き込んだ雨水が乾いてできた黒ずんだ縦の染みが、外壁を何本も汚していた。
何より、街全体が気味の悪いほど静まり返っている。飛行船のエンジン音が地上へ落ちていくのに、建物の間へ吸い込まれるばかりで活気のある音が少しも跳ね返ってこない。その乾いた静けさだけで、ここが一晩の事件で急に捨てられたのではなく、人が離れてから長い年月が積み重なった場所なのだと分かった。
後ろから近づいてきたメンチも、二人の肩越しに窓の下を見下ろした。
「これ、廃墟になった街?」
「みたいですね。かなり長いこと手が入っていない感じです」
らでんが答えると、隣のはじめはむしろワクワクしたように目を輝かせた。
「すっげえ、こういうとこ勝手に入っていいの?」
「試験会場ですからね」
「ハンター協会って、ほんと何でもありだなー」
◇ ◇ ◇
やがて飛行船は、都市の中心部から少し外れた旧貨物飛行場へと着陸した。
タラップを下りて地上へ降り立ったのは、第二次試験を突破した三十六人。
遮るもののない滑走路には強い風が吹きつけ、空気は喉が渇くほど乾いていた。足元の分厚いコンクリートはあちこちで深くひび割れ、その隙間から硬く短い草が束になって突き出している。
その滑走路の向こう、四角い格納庫のような建物の前に、一人の大男が太い腕を組んで仁王立ちしていた。
身長も、分厚い胸板も、そこに立っているという存在感も、何もかもが規格外にでかい。鋭い眼光が、降りてきた三十六人を無言で射抜いていた。
はじめが風の中で小声になり、「うわ、強そう」と呟く。
すぐ横でメンチが「見れば分かるわよ」と短く返した。
らでんは男の分厚い胸元に光る、ハンター協会のバッジへ目を留めた。
大男が低く響く声を上げた。
「第三次試験担当、ボトバイ=ギガンテという」
その名乗りに、大人の受験者たちの間から緊迫したざわめきが上がった。
らでんはその名前を知らなかったけれど、周囲の顔つきが一瞬で引き締まったのを見て、協会の中でも相当に名のある人物なのだと察した。
ボトバイが重い軍靴を鳴らして一歩前へ出る。
声は地鳴りのように低いのに、強い風の中でも少しも掠れず、最後列の耳までくっきりと届いた。
「ここからの試験は三日間かけておこなう。正確には七十二時間」
三十六人の間から、どっと動揺の声が漏れる。
隣のはじめも「長っが!」と思わず声を漏らしたが、ボトバイは聞こえているのかいないのか分からない厳つい顔のまま言葉を継いだ。
「これまでの試験で、お前たちは自分一人で現場へ辿り着けるか、モノの価値を見抜きそれを信じられるか。それを見られた。だが、次は違う」
ボトバイが一拍だけ間を置き、全員の顔を睨み渡す。
「他人を連れて、任務を完遂できるかを見る」
らでんの目がわずかに引き締まった。自分の足だけで走り抜ける試験ではない。
ボトバイは太い親指で、背後に広がる廃都市のビル群を指した。
「舞台は旧バルサ市。十五年前の大規模災害と産業撤退以降、中心区域の大半が閉鎖されている。現在は協会管理下の訓練区域だ」
遠くに見える倒れずに残った信号柱や、割れた窓を晒したままのビル、雑草の伸びた道路。放置された廃墟の顔と、協会が手を入れて管理している訓練場としての顔が混ざり合っている。だからこそ、こういう大掛かりな試験に使えるのだとらでんは合点がいった。
そのとき、建物の脇から試験補助員たちが九人の人物を伴って現れた。
連れてこられた九人は年齢も服装もまちまちで、くたびれたスーツ姿の男もいれば、白髪の老人、若い女性、作業着姿、白衣めいた研究員風の者までいる。ただ一つ共通しているのは、全員が自分の手で銀色のアタッシュケースを一つずつ抱えていることだった。
ボトバイが告げる。
「チームによる護送任務だ。これから四人一組になれ」
三十六人が一斉にざわめき立った。
「制限時間、十分! 組めなかった者はその時点で失格」
場の空気が一瞬で跳ね上がった。全員が弾かれたように周囲の受験者を見回す。
そのざわめきの中で、はじめが即座にらでんの腕をがしっと掴んだ。
「らでん、組む」
「早っ」
「組むよな?」
「もちろん、よろしくお願いします」
二人分の枠が埋まったところで、らでんはすぐ隣のメンチへ顔を向けた。
「メンチさんも――」
「悪いけど、私は別で行くわ」
「えっ」
思いがけない返事に、はじめも目を丸くしてメンチを見る。
「なんで?」
メンチは風に揺れる髪を押さえながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「あんたたち二人のことを信じてないわけじゃないわよ。でも、最初からずっと同じ三人で固まってたら、何のための試験か分かんないでしょ。それに、知らない連中相手でも一人でやれるって証明したいの」
強い目をして言い切るメンチに、はじめは少しだけ瞬きをしてから「……そっか」と頷いた。
メンチが二人を交互に見る。
「あんたたち、途中で落ちないでよ」
はじめがにっと笑って胸を叩いた。
「当然でしょ」
メンチはふっと満足そうに笑うと、踵を返して別の受験者たちの方へと声をかけに歩いていった。
さて、と残された二人は顔を見合わせた。ここで少し困ったことになった。
見回せば、大人の受験者たちはすでに一次試験からの顔見知りや、体格の良さそうな者同士で声をかけ合って固まり始めている。十二歳の子供が二人並んでいる組には、どう見ても誰も目を向けそうにない。
「あれ、うちら人気ない? なんか失礼じゃね?」
「見た目だけなら完全に子供二人組ですからね。護送任務で敬遠されるのはしょうがないですよ……」
どう切り込んだものかとらでんが周囲を探りかけた、その時だった。
「おい、お前ら」と後ろから低い声がかかる。
二人が同時に振り向くと、背の高い男が立っていた。年は三十歳前後だろうか。短く刈った髪に、引き締まった体つき。右の眉の上に古い傷跡が一つ走っている。胸のナンバープレートは47番。第一次試験の坑道でも見かけた顔だった。
男は二人を見下ろして、単刀直入に尋ねた。
「俺と組む気はあるか」
「ある!」
「あります!」
はじめとらでんが声を揃えて即答すると、男は二人の立ち姿をもう一度だけ確かめるように見た。
「俺はガロ。元警備会社勤務だ。近接戦なら一通りできる」
「あの、私たちでいいんですか?」
「一次試験の走りを見ていた。お前たちは二人とも充分なスタミナがあるし、要所要所での状況判断も悪くなかった。足手まといにはならん」
淡々と言い切るその口調が、らでんにはとても好ましく感じられた。子供だからと端から除外するのでも、逆に子供だから守ってやると侮るのでもなく、これまでの試験で見た動きだけを基準に戦力として選んでくれている。
「あと一人だな」
ガロが周囲へ視線を巡らせた、ちょうどそこへ、横から落ち着いた女性の声が割り込んだ。
「そこ、私も入れてもらえる?」
歩み寄ってきたのは、二十代半ばほどの細身の女性だった。眼鏡をかけていて、肩には使い込まれた小さな鞄を提げている。受験番号は112番。
「ミナっていうわ。仕事は救急救命士をやってる」
ガロの傷のある眉がわずかに動いた。
「どの程度戦える?」
「戦闘は最低限しか自信ないわね。暴漢に襲われたときに、なんとか身をかわして逃げられる程度よ」
「正直だな」
ガロが短く言うと、ミナは眼鏡の奥の目を細めてすかさず切り返した。
「前衛は、あなたが戦えるんでしょう?」
「あぁ、そうだ……最初に確認を怠らない奴は嫌いじゃない」
ガロが小さく口角を上げた。これで四人、チーム成立だ。
直後、ボトバイの太い声が滑走路に響き渡った。
「残り三十秒!」
ぎりぎりのところで、らでんたちの第四チームは形になった。
十分が経過し、滑走路には九つのチームが整列した。それぞれの班の正面に、先ほどの証人役が一人ずつ配置される。
らでんたちの前へ立ったのは、五十歳前後の痩せ型の男だった。くたびれたスーツを着ていて、どこか神経質そうに目元をピリピリさせている。胸の名札には『ハイン=ボルク』と記されていた。男は誰にも触れさせないと言わんばかりに、銀色のケースを自分の両腕で抱え込んでいる。
ボトバイが説明を再開した。
「各チームへ一人、重要証人役を配する」
あくまで「証人役」。つまり実際の事件の証人ではなく、この試験のために雇われた役回りということだ。
「その人物と、本人が所持する証拠品ケースを、七十二時間以内に――」
補助員たちの手で、格納庫の前に巨大な地図が掲げられた。
現在地の旧貨物飛行場から、広がる廃都市を抜け、その先の森林地帯、河川、山間部を越えた北西の端。そこに赤い印がついている。旧バルサ地方裁判所だ。
「ここまで届けろ」
説明を聞いていた受験者の一人が手を挙げた。
「質問したい。移動方法の制限は? 車両の利用は認められるのか?」
「自由だ。車も使っていい」
会場がわずかに色めき立つ。すぐに別の受験者が声を上げた。
「車両は協会が用意しているんですか?」
「用意しない。街に残っているものは、使用を禁止されている物を除き好きに使え。車、自転車、舟、旧鉄道、工事車両。動かせるなら何を使っても構わん。ただし故障、燃料切れ、道路封鎖、妨害、すべてお前たちの自己責任だ!」
隣で聞いていたガロが「なるほどな」と低く呟き、各班へ配られたばかりの粗い地図の余白へと視線を落とした。
ボトバイがさらに声を張る。
「次。証人と証拠品は、どちらを失っても失格。証人役に死亡判定が出ても失格。また、証拠品ケースが三十分以上チームの管理下を離れても失格とする!」
「チームのメンバーについては? 途中で欠けても問題はないのか」
別の班の男が尋ねると、ボトバイはその質問者をじろりと見据えた。
「目的地に受験者全員が到着する必要はない」
ざわついていた滑走路が、すっと静まり返った。
らでんの目がわずかに動く。すぐ近くで、別の受験者が確かめるように問い返した。
「つまり……途中で動けなくなった仲間を置いていってもいいんですか」
ボトバイは表情一つ変えず、淡々と答えた。
「規則上は失格ではない」
隣で、はじめが少しだけ眉を寄せて唇を噛んだのが見えた。
ボトバイは構わず先を続ける。
「さらに。市内および経路上には、協会が雇った妨害役が配置されている。連中は証人、ケース、そしてお前たちの認証腕章、それらを狙う」
補助員たちが列の間を回り、受験者全員へ赤い認証腕章を配り始めた。ボトバイが自分の腕を示しながら説明する。
「この腕章を奪われた場合、その受験者は三十分間行動不能となる。奪われた場所から一歩も移動するな」
腕章を受け取ったはじめが、ぱっと顔を上げて聞いた。
「もし動いたらどうなるの?」
「失格だ」
今度はガロが短く手を挙げて質問した。
「妨害役はどの程度の装備、強さですか」
ボトバイが即座に切り捨てるように返した。
「それを知ってどうする。本番の任務で、襲ってくる相手に強さを聞けると思うな」
ガロは「違いない」とでも言うように黙って頷き、手を下ろした。ボトバイの視線が再び全体へ向けられる。
「試験中の殺傷は禁止。故意に重大な後遺症を残す攻撃も失格とする。だが、打撲、捻挫、骨折、その程度なら――」
一拍、重たい間が置かれた。
「試験中は起こると思え」
ごくりと誰かが唾を呑む音がした。
そこへ、少し離れた第五チームの列からメンチが手を挙げた。
「証人役が私たちの言うことを聞かなかったら?」
ボトバイはメンチの方を見やり、一瞬だけ間を置いてから答えた。
「それも含めて護送だ」
メンチの目が鋭く細められる。らでんもその短い答えを聞きながら、自分たちの前に立つハインの横顔をちらりと盗み見た。単なる荷物運びでは済まない匂いがする。
説明はまだ終わらなかった。
「水と食料は、チームごとに最低限だけ支給する。三日分には足りん。途中の補給もない。不足分は現地で調達しろ。飲料水は都市内に数ヶ所あるが、全部が使えるとは限らん」
「地図はこれだけですか?」
「これだけだ」
らでんは手元の地図へ目を落とした。印刷はかなり粗い。
載っているのは主要な幹線道路と川、古い鉄道の線、それから目印になる大きな施設だけだ。入り組んだ路地の形もなければ、十五年前の災害でどこが崩落しているかの情報もないし、山間部の等高線すら省かれている。
らでんは紙の縁を指先でなぞった。足りない細部は、実際に歩きながら自分の目で見て描き足していくしかなさそうだ。
ボトバイが最後に、全員の腹の底へ響く声で言った。
「これは護送試験だ。戦闘試験ではない」
その言葉に、腕っぷしに不安のあった何人かがほっと肩の力を抜く。
だが直後、ボトバイの声が一段厳しく落ちた。
「だから、戦って勝つことと任務に勝つことを混同するな」
隣に立つガロの表情が、わずかに引き締まった。
らでんもその言葉の重みを胸の奥へ刻み込んだ。相手を倒すことではなく、証人とケースを守り抜いて裁判所へ辿り着くこと。それがこの七十二時間のすべてだ。
「以上!」
九つのチームは、開始時に互いの進路をすぐ追跡できないよう、それぞれ別の方角にあるゲートから出発することになった。
試験開始は、日付が変わる翌日の午前零時ちょうど。
それまでの間、各チームは割り当てられた控え場所で食事と仮眠を取り、出発の三十分前になって、らでんたち第四チームは最後の作戦会議に入った。
◇ ◇ ◇
待機場所に指定された古い格納庫の中は、外の滑走路よりもずっと薄暗く、鉄と埃の匂いがこもっていた。
木箱の上に広げられた粗い地図を囲んで、四人と証人役のハインが顔を突き合わせる。ガロが地図の現在地から北西の端までを指で結んで言った。
「目的地の旧地方裁判所まで、直線距離で六十キロ強といったところか」
らでんも身を乗り出し、地図に描かれた主要街道の線を指先でなぞりながら計算した。
「川や山を迂回して道なりに行けば、八十キロから百キロくらいはありそうですね」
「三日間あるなら、徒歩でも不可能な距離ではないが……」
ガロはそこまで言ってから、腕組みをして立っているハインへ視線を向けた。
「今回は証人込みだ。あんた、どのくらい歩ける」
ハインは眉間に皺を寄せ、少し不機嫌そうな声で答えた。
「私はごく普通の一般人程度の体力だと思ってください」
「その普通ってのは、距離にしてどれくらいだ」
「さあ、一日でせいぜい十五キロから二十キロってところですかね」
四人が思わず顔を見合わせて黙り込んだ。一日二十キロでは、三日歩いても六十キロにしかならない。
はじめが素直すぎる声を漏らした。
「少なっ」
ハインがぴくりと眉を跳ね上げてはじめを睨む。
「私は受験者じゃないのでね」
らでんは気まずい空気を脇へやりながら、もう一度地図の道路網へ目を落とした。
ハインの歩調に合わせる以上、徒歩だけで百キロ近い道のりを抜け切るのはかなり厳しい。となれば、どこかで移動手段を手に入れる必要がある。
ガロが地図をトントンと指で叩いた。
「まずは車を探す。序盤で距離を稼げるなら、できるだけ稼いでおきたい」
らでんは地図の市街地部分を見つめながら、少し考えて口を開いた。
「あの、車を探すにしても、最初からこの大通りへ出るのは避けません?」
「理由は」
「妨害役の人たちも、足を確保したい受験者がまず大通りへ出てくるって読んでると思うんです。道幅が広い分、大型車で道路封鎖をするのも向こうはやりやすいはずですし」
隣から地図を覗き込んでいたミナが尋ねる。
「じゃあ、裏の細い道を行くならどう?」
「速度は落ちますけど、もし前が塞がっていても別の路地へルートを変えやすいです」
ガロは顎に手を当てて二秒ほど考え、短く頷いた。
「理屈が通ってる。悪くない」
すると、地図の端をじっと見ていたはじめが、現在地からそう遠くない場所にある印をちょんと指差した。
「ねえ、ここの旧消防署ってとこ、車ありそうじゃね?」
らでんもそちらへ視線を移す。
「あ、ほんとだ。救急車や消防車がそのまま残っていれば、あとは燃料とバッテリー次第ですね」
ガロが慎重な声で付け加える。
「ただし、緊急車両は図体がでかくて目立つか」
らでんは二人の顔を見て提案をまとめた。
「とにかく一度この旧消防署まで見に行って、実際に車を使うかどうかは現場の状態を見て決めましょう」
ガロとミナ、はじめが揃って頷いた。
すると、後ろで聞いていたハインがガロへ向かって口を挟んだ。
「私は車がいい」
「理由は」
「決まっているだろう、歩きたくないからだ」
あんまりな言い草に、隣ではじめがぶっと吹き出しそうになるのを、らでんは慌てて肘でつついて止めた。ハインは構わず顎を上げる。
「私はこの任務の重要証人なんだろう?」
「まぁ、試験の上ではそういう役だな」
ガロが適当にいなすと、ハインはますます不満そうに鼻を鳴らした。
「試験だろうが何だろうが、現場では同じことだ」
出発五分前。四人はそれぞれの装備を最終確認した。
左腕に巻いた赤い認証腕章、最低限の食料と水、ロープ、ミナの救急用品、夜間用の小型ライト、粗い地図、そしてハインが抱える銀色のケース。ガロの腰ベルトには、支給品とは別に私物らしい登山用の細いロープと金属製のカラビナがいくつも下がっている。
最後に、ガロが四人の立ち位置と役割を割り振った。
「移動中は俺が前へ出て襲撃に対応する。ミナは証人のすぐ近くについて、体調管理と負傷者の対応。らでんは地図とルートの誘導を頼む」
らでんは地図を胸ポケットへ収めながら「わかりました」と頷いた。
隣ではじめが手を挙げる。
「うちは?」
ガロはほんの少しだけ迷うように眉を動かしてから言った。
「お前は俺のそばにいて、周囲を警戒しろ。万一のときに俺がすぐフォローに入れる五メートル前後が目安だ。あとはその場の自分の判断で自由に動いていい」
「雑ッ!」
はじめが突っ込むと、ガロは傷のある目元を緩めて小さく笑った。
「一次試験のときの身のこなしが良かったからな。それに、お前は細かく縛るより感覚で動くタイプだろ」
言われたはじめは、まんざらでもなさそうににっと笑った。
「じゃあ、好きに動く」
ガロがすかさず人差し指を立てて釘を刺す。
「ただし、勝手に視界から消えるなよ」
「分かった」
◇ ◇ ◇
第四チームの出発ゲート前。
鉄格子の向こうには、明かりの一つもない巨大な廃都市が口を開けていた。錆びついた道路標識に、沈黙したままの信号機。遠くの夜空には、上半分が崩れかけた高層ビルの黒い影が聳えている。
夜風が吹き抜け、傾いた標識がぎい、とかすかに軋んだ。ゲート脇に立つ試験係員が腕時計へ目を落とす。
「第四チーム、出発準備!」
らでんは一度だけ深く息を吐き出して、肩の力を抜いた。隣を見ると、はじめがすぐ横からこちらを見ている。自然と目が合った。
「らでん、行ける?」
「はい、行きます」
「よし」
半歩前で、ガロがぐるりと大きく肩を回す。
後ろではミナがハインの歩調を確かめるように、「途中で少しでも体調が悪くなったら、我慢せずにすぐ言ってくださいね」と声をかけていた。ハインは無言のまま、胸元の銀色のケースを強く抱え直す。
針が重なる。午前零時ちょうど、係員が短く告げた。
「開始!」
◇ ◇ ◇
ゲートを抜けてからの最初の二キロは、拍子抜けするほど何も起きなかった。
だからこそ、背筋に張りつくような不気味さがあった。
足元を照らす小型ライトの光が伸びるたび、闇の中から商店のシャッターや住宅の玄関が浮かび上がる。建物も看板もそのまま残っているのに、そこにいるはずの人間の気配だけがすっぽりと抜け落ちていた。誰かが暮らしていた生活の跡は生々しいほどあるのに、生活そのものがどこにもない。
交差点へ出るたびに消えた信号機が頭上にぶら下がり、ライトの明かりが電柱の細長い影をひび割れたアスファルトへ落としていく。
見通しの切れる曲がり角へ差しかかるたび、先頭のガロが足を止めて建物の角から慎重に先を覗き込み、安全を確かめてから手で合図を送る。その繰り返しになるせいで、どうしても歩く速度は上がらなかった。
◇ ◇ ◇
やがて、最初の目的地にしていた旧消防署が見えてきた。
大きなシャッター式の扉は、半分ほど開いたまま錆びついて止まっている。
ガロを先頭に中へ入ると、広い車庫の奥は外の路上よりもさらに暗かった。ライトの光が、埃をかぶった赤い消防車を一台、白い救急車を二台、それに小型の作業車を照らし出す。
並んだ車体を見て、はじめの顔がぱっと輝いた。
「すっげ、ほんとにあるじゃん!」
「まだ喜ぶな。動くかどうかが問題だ」
ガロがすぐに運転席へ回り、順番に使えるかどうかの確認に入った。
一台目の作業車。キーを回してもうんともすんとも言わない。
二台目の救急車。バッテリーが完全に上がっている。
そして三台目、奥に停まっていたもう一台の救急車。運転席を覗いたガロが「キーが刺さってるな」と呟いて乗り込み、イグニッションを回した。
キュル、と乾いた音がして一度目は不発。二度目、三度目。重たい震動とともに、車庫の中でエンジンが息を吹き返した。
「よし、エンジンは生きてるぞ」
「やった、当たり?」
声を弾ませるはじめの横で、らでんは救急車の足元へライトを向けてしゃがみ込んだ。
「あ、ちょっと待ってください」
光を当てたタイヤの側面を、指先で強く押してみる。ゴムが石みたいに硬く変質していて、無数に入った細かいひび割れの縁が白っぽく粉を吹いていた。
後ろから覗き込んだミナも同じように膝をつき、タイヤの深い亀裂を指の腹でなぞって眉をひそめた。
「うわ、これはかなり劣化してるわね。このまま長距離を走るのは怖いわ」
運転席から顔を出したガロが尋ねる。
「交換はできるか。予備のタイヤは積んでないか」
手分けして車体の後部や車庫の棚を探してみたが、使えそうな予備タイヤは一本しか見つからなかった。それに対して、救急車が履いているタイヤは四本とも同じようにひび割れている。
らでんは立ち上がり、開いた扉の向こうに続く夜の道路へ目を向けた。
盛り上がったアスファルトの段差に、ビルの窓から落ちて散らばった無数のガラス片。こんな悪路を重い車体で速度を出して走れば、硬くなったゴムは衝撃に耐えきれずすぐに裂けてしまうはずだ。
「長距離は無理でも、この市街地を抜けるまでだけゆっくり使うのはどうですか?」
「そうするか。歩くよりはマシだ」
ガロが頷いたところで、後ろにいたハインが不満そうに声を上げた。
「なんだ、その車で最後まで行けないのか?」
ガロが運転席のドアに手をかけたまま、冷ややかに切り返す。
「途中でタイヤが破裂して、妨害役の真ん中で立ち往生する方がいいか?」
ハインはむっとしたように口をつぐんだ。
その時だった。車庫の入り口近くで外を見ていたはじめが、ふいに動きを止めた。
道路を挟んだ向かいの雑居ビル。その二階の割れた窓の暗がりを、黒い人影が一瞬だけすっと横切った。
はじめが声を潜めて呼ぶ。
「らでん」
「はい?」
「あそこ、誰かいる」
車庫の中の全員がぴたりと動きを止めた。ガロが低く聞き返す。
「どこだ」
はじめが向かいのビルの二階、黒く口を開けた窓を指差した。らでんも目を凝らしたが、すでに人影は奥の闇へ引っ込んだあとで何も見えない。
ガロは即座に運転席へ手を伸ばし、救急車のエンジンを切った。
低く唸っていた駆動音が消え、車庫の中に張り詰めた静けさが戻ってくる。
「……妨害役か」
ガロが忌々しげに呟くのと同時に、ミナが素早くハインの腕を引いて車体の陰へと押し込んだ。
らでんの胸の奥で、心臓の鼓動がトクトクと少し速くなる。
これまでの試験とは違う。暗い街のどこかで、明確な悪意を持った誰かが自分たちの動きをじっと狙っている。その事実が、ただ廃墟を歩いていたさっきまでとはまるで種類の違う緊張を皮膚へ張りつかせた。
ガロが救急車から離れて決断を下した。
「この車は捨てる」
「なぜだ! せっかくエンジンがかかったのに!」
「今のでこちらの位置を見られた。こんな目立つ車で表へ出た瞬間、格好の的で追われるぞ」
噛みつくハインをガロが一蹴する。らでんも大きく頷いた。
「夜の静かな街だと、エンジン音だけでもかなり遠くまで響きますしね」
なおも向かいの窓を睨んでいたはじめが、不思議そうに言った。
「でも、もう窓のとこにはいないよ?」
「だから余計に怖いんだ。向こうはこちらに気づかれたと分かってすぐ身を隠した。つまり、万全の態勢でこちらの隙を狙ってくるぞ」
◇ ◇ ◇
五人は救急車をそのまま残し、消防署の裏口から徒歩で狭い路地へと抜け出た。
両側から灰色のビルの壁が迫り、見上げた夜空が細い帯のように切り取られている。大通りを避け、廃都市の入り組んだ奥へ奥へと足を進める。
五分、十分。足音以外に何も聞こえない。
十五分が過ぎ、路地の角をもう一つ曲がったところで、らでんは詰めていた息をほんの少しだけ吐き出した。
――その瞬間だった。
頭上のビルの上方で、パリン、と乾いたガラスの割れる音が響いた。
先頭のガロが怒鳴る。
「伏せろ!」
暗い空から、小さな塊が落ちてきて路地の地面へカン、と硬い音を立てて転がった。拳ほどの金属製の球だ。
次の瞬間、球の隙間から猛烈な勢いで真っ白な煙が噴き上がった。
鼻の奥へまとわりつくような、どこか甘い金属めいた匂いが一気に路地へ充満する。
「煙よ! 吸わないで!」
ミナの鋭い声が飛び、すぐ後ろでハインの袖を強く引き寄せる気配がした。
あっという間に周囲の視界が白く塗り潰される。二メートル先のビルの壁すら見えない。
白い闇の向こうから、はじめの声が飛んできた。
「らでん!」
「ここです、います!」
声を返した直後、煙の奥から複数の足音が突っ込んできた。一人じゃない、二人以上。ひび割れたコンクリートを蹴る靴音がすぐそこまで迫っている。
構える間もなく、白煙の中から伸びてきた黒い手に、らでんは左腕をがしっと掴まれた。赤い腕章を巻いている方の腕だ。
らでんは反射的にぐっと腰を落とした。前に護身術の教本で読んだことがある、掴まれたときの抜き方だ。相手の親指の隙間へ自分の手首を外側に回して一気に引く。不意を突かれた相手の握りが、一瞬だけわずかに緩んだ。
けれど、相手の方がずっと速かった。引き抜くより先に、空いた片手で左の肩口を乱暴に突き飛ばされる。
「っ!」
体勢が崩れ、足元がよろめく。相手は鍛えた成人男性だ。まともに組み合えば、十二歳の自分の体重など簡単にねじ伏せられてしまう。
らでんは無理に力で押し返そうとせず、突かれた勢いのまま地面を横へ転がって相手から距離を取った。
転がった先のすぐ脇に、錆びついた古い看板の鉄支柱が立っていた。
冷たくざらつく鉄の柱を片手で掴んで立ち上がり、それを盾にするように構えて、足元に流れる白煙の切れ間だけをじっと睨む。煙のすぐ向こうで、相手の黒いブーツの足先がぴたりと止まった。
「へえ、ガキのわりにやるな」
頭上から面白がるような男の声が降ってくる。
らでんは返事をせず、自分の呼吸と相手のつま先の向きだけに集中した。一対一で戦って勝てるとは端から思っていない。ガロたちが動くまで腕章を守り、ここで一秒でも長く時間を稼ぐ。やるべきことはそれだけだ。
◇ ◇ ◇
同じ路地の少し離れた場所では、はじめも別の襲撃者と向き合っていた。
視界を塞ぐ白い煙の中から、男の手がまっすぐ左腕の赤い腕章へと伸びてくる。
はじめは思考より先に、身体をひょいと横へ滑らせてその指先をかわした。
舌打ちとともに、男の長い脚が横薙ぎに蹴り込んでくる。
はじめの身体が、ひとりでに動いた。すっと頭を低く下げて蹴りの下をくぐり、そのまま軸足を一歩だけ外側へ踏み出す。気づけば、蹴り足を振り抜いた男の真横へ抜け出ていた。
男が驚いたように息を呑む。
「っ?」
体勢を立て直した男が、今度こそ逃がすまいとはじめの両肩を上から掴みにかかった。
その瞬間、はじめは自分の肩へ置かれた男の腕の力を逆に使って、その肩口を片足でぽんと踏み台にした。ふわりと身体が宙へ浮き、目を丸くする男の背中をそのまま頭上から飛び越える。
背後のアスファルトへ着地し、膝で柔らかく衝撃を逃がしてから、はじめ自身が自分の動きに一番びっくりして目を瞬かせた。
「……お」
振り返った男も、呆気に取られたように動きを止めていた。
「おい、今の何だ?」
はじめは自分の足元と男の顔を交互に見てから、素直に答えた。
「わかんね」
男が素っ頓狂な声で聞き返す。
「は?」
はじめは煙の中で、にっと嬉しそうに笑った。
「今とっさに思いついただけ。でも、なんかできた」
男が苛立ったように再び踏み込んでくる。はじめはまた、すっと半歩引いてその拳を避けた。
今度はまぐれじゃない、はっきり意識して足を動かす。
飛行船の展望室でエンジンの低い音に合わせた、あの足運びがそのまま足の裏に残っていた。
右、左、重心を移して、軽く跳ねる。
真正面から殴り合うんじゃない。相手が力を込めて踏み込んでくる拍子に合わせて、その脇の空いた隙間をするりと抜けていけばいいのだ。
そのとき、白煙の向こうからガロの低く鋭い掛け声が響いた。
直後、肉を打つ鈍い音と、誰かの背中が路地の壁へ激しく叩きつけられる音。襲撃者の一人が呻き声を上げて地面へ崩れ落ちる気配がした。
すると、煙の端で別の誰かが甲高い笛をピッと吹いた。
鋭いホイッスルの音が狭い路地の壁に反響する。
「チッ、撤収!」
襲撃者の一人が短く叫ぶと、目の前にいた男も深追いせず、煙の奥へと一気に飛び退いた。
複数の足音が夜の路地をタタタッと遠ざかり、あっという間に闇の向こうへと消えていく。
夜風に流されて白煙が少しずつ薄くなり、両側のビルに描かれた古い落書きがぼんやりと浮かび上がってきた。
煙が晴れた路地に、らでん、はじめ、ガロ、ミナ、そしてハインの五人全員が揃っていた。
ハインの腕の中には銀色のケースがちゃんとある。四人の左腕にも、赤い認証腕章がそのまま残っていた。
ガロは油断なく周囲へ視線を走らせ、路地の両端から頭上の屋上、割れた窓までをひと通り睨み渡したが、すでに敵の気配はなかった。
すぐにミナの落ち着いた声が飛ぶ。
「みんな、怪我は? ハインさんは私が確認するわ」
はじめが手を振って答えた。
「うちは平気」
らでんは看板の支柱から手を離し、先ほど突き飛ばされた左肩へそっと右手を当てた。
「あの、左肩をちょっとだけ」
ハインの無事を確かめたミナがすぐさま歩み寄り、らでんの上着の上から肩の骨と関節を手早く触診した。
「骨には異常ないわね、強く打っただけ。試しにゆっくり回してみて」
言われた通りに左腕をぐるりと回してみる。肩の奥にずんと鈍い痛みが残っていたけれど、引っかかる感じはない。
「はい、大丈夫です。動かせます」
その横で、ガロがまじまじとはじめを見下ろしていた。
「おい、はじめ。お前、何か格闘技でもやってたのか」
「ううん、全然やってない」
「……じゃあ、煙の中で見せた今の動きは何だ」
「いや、うちにもよくわかんない」
肩を撫でながら聞いていたらでんが、思わずくすっと笑って口を挟んだ。
「それ、私も聞きたいです。どうやったんですか」
「なんかさ、相手が来たときに身体が勝手に動いたんだよ。あ、こう動けば抜けられるかなって」
けろりと言うはじめを、ガロは数秒間だけ無言で見つめた。それから、小さく息を吐いて言った。
「……いい動きだった。これからも使えるなら、どんどん使え」
らでんは足元のコンクリートに転がっていた金属球へ目を落とし、しゃがみ込んで近くから観察した。
手を近づけると、表面がまだほんのりと温かい。中身を噴き出し終えたただの煙幕弾だ。
これ自体は、受験者を本気で傷つけるための道具ではない。けれど、今の襲撃者たちは動きの鈍いハインやケースではなく、迷わずらでんとはじめの「腕章」を狙ってきた。つまり妨害役は、力ずくで失格に追い込むだけでなく、腕章を奪って三十分間の足止めを食らわせ、じわじわと時間を削り取る戦い方もしてくるということだ。
「……これ」
「何だ」
ガロの問いに、らでんは立ち上がって暗い路地の先を見渡しながら言った。
「最初の襲撃でこの手際なら、三日目の終わりまで、どんどん嫌なやり方で足を止めに来そうだなって」
ガロの口元が、ほんのわずかだけ皮肉っぽく上がった。
「やっと分かったか」
「はい、しみじみと……」
ミナが救急用のポーチを鞄へしまい直しながら、明るい声で言った。
「でもいいじゃない。最初の奇襲で、誰も大きな怪我をしてないし離脱者もゼロ。滑り出しとしては上々でしょ」
◇ ◇ ◇
そこから遠く離れた、崩れかけた高層ビルの屋上。
吹きつける夜風の中で、ボトバイが夜間用の大型双眼鏡を目に当てて、眼下の路地を抜けていく四人と一人の姿を追っていた。
すぐ隣に控えていた試験補助員が、手元の通信機から顔を上げて報告する。
「第四チーム、最初の襲撃を全員で突破しました」
ボトバイはレンズから目を離さずに短く応じた。
「そうか」
「現時点での評価はいかがしますか?」
ボトバイはゆっくりと双眼鏡を下ろし、低い声で答えた。
「まだ早い」
暗視レンズの向こうで、小さな五つの人影が次の路地の暗がりへと吸い込まれて消えていく。
「護送というのは、最後の最後まで一瞬も油断できん。そういう任務だ」
ボトバイは腕を組み直し、もう一度静まり返った廃都市の全景を見渡した。
林立するビルの向こうの向こうまで、深い夜の闇がどこまでも続いていた。
試験一日目。開始からまだ二時間。
制限時間まで、残り七十時間。