飛行船が浮かび上がる時、地面が少し遠ざかる感覚にはじめは窓へ張りついていた。
「うわ」
「すげえ」
エンジンの振動が足裏に伝わり、窓の外では採石場が小さくなる。その横でらでんも普通に見ていた。
「初めてです?」
「初めて」
「私もです」
「らでんもそうなんだ」
はじめはくすっと笑った。
「何でも経験済みみたいに言わないでください」
「だってなんでも知ってそうだし、らでんって」
メンチは二人の後ろを通り過ぎながら一言添えた。
「子供」
はじめが振り返る。
「メンチも同い年くらいだろ」
「私は騒いでない」
はじめは笑って窓へ向き直った。
---
第二次試験終了時、残った受験者は三十六人。飛行船には食堂、休憩室、簡易寝台、展望室があり、第三次試験は翌朝。それまでは自由時間だった。
らでんが言う。
「試験じゃない時間ってあるんですね」
メンチが機内食の皿を確認しながら答える。
「休ませないと、見るものも見られないんじゃない?」
「確かに」
「このスープ、塩強い」
「もう評価してる」
メンチが少しムッとする。
「食で我慢したくないの」
「もう気持ちはグルメハンターですよね」
「まあね」
その返事には迷いがなかった。スプーンを持つ手つきだけが少しだけ緩む。
らでんは思った。メンチにはもう追いたいものがある。自分にも方向はある。
はじめは、どうなんだろう。よくわからないって言ってたけど、気になることとかもないのかな。
---
夕食後、三人は食堂の端に座っていた。はじめがテーブルへ頬杖をつく。
「二人とも、やりたいこと決まってていいなぁ」
メンチはあっさり言った。
「探しに来たんだから、探せば?」
「簡単に言うなあ」
らでんは少し笑った。
「でも、まだ十二歳ですよ。受かってから探せばいいです」
はじめが二人を見る。
「じゃあ、まだなくてもいい?」
「いいんじゃないです?」
はじめの肩からほんの少し力が抜けた。
---
突然隣から声がした。
「おもしろい話をしとるのう」
三人が振り向く。いつからそこにいたのか。小柄な老人が盆に湯呑みを乗せて立っている。白い髭、細い目、妙に楽しそうな顔。湯呑みの湯気が細く立ち上る。メンチがわずかに姿勢を正した。らでんも気づく。
「……ネテロ会長?」
「ほっほ」
老人は勝手に空いている椅子へ座った。
「ワシを知っとるか」
「ホームページで見ました」
らでんが答える。はじめは小声で聞く。
「偉い人?」
「ハンター協会で一番ね」
ネテロは聞こえているのに気にしない。三人を見る。
「で、何ハンターになるんじゃ?」
「グルメハンター」
メンチが即答した。
「文化に関わるハンターです」
とらでんが続けた。
はじめは「……わかんね」とだけ言った。
ネテロの目が少しだけ開く。
「分からん?」
「うん、だから探しに来た」
周囲なら何を言っているんだと思うかもしれない。だがネテロは笑った。
「そうか」
湯呑みに口をつける。
「なら、それを探すのも立派なハントじゃろ」
はじめがネテロを見る。
「……そういうもん?」
「知らん」
「知らにゃいの!?」
ネテロが楽しそうに笑う。
「ワシがお主の答えを知っとるわけなかろう」
はじめは一瞬ぽかんとした。それから笑った。
「変なじいちゃん」
ネテロはさらに笑った。
「ほっほっほ!」
---
老人はしばらくして立ち上がった。去り際、らでんを見る。
「知りたいものが多いのは、悪くない」
次にメンチを見る。
「食いすぎて腹を壊すなよ」
「壊しません」
最後にはじめを見る。
「見つからんでも焦るな」
はじめが少しだけ目を丸くする。
「見つけた時に分かればよい」
それだけ言ってネテロは去っていった。はじめは去っていく背中を見ていた。空いた席へ手を伸ばすと、湯呑みの底の温もりがわずかに残っていた。
「……変なじいちゃんだった」
らでんがもう一度言う。
「会長ですよ」
「でも面白いじいちゃんだった」
---
夜、消灯時間にはまだ少し早かった。らでんは寝台へ入ってみた。シーツの冷たさとエンジンの低い振動。目を閉じる。五分、十分。眠れない。坑道の分岐、谷の斜面、ビスケの言葉、明日の第三次。身体は疲れている。なのに頭がまだ動いている。らでんは起き上がった。
「少し歩こう」
小声で呟く。廊下の灯りは落とされ、足音だけが布に吸われる。
---
展望区画の近く、人はほとんどいなかった。窓の外には雲、その上に月。飛行船のエンジン音が一定の間隔で響く。ドン、ドン、ドン。窓枠がわずかに震え、月の光が雲の端をなぞる。少し先、誰かいる。はじめだった。らでんは声をかけようとして止まった。
はじめは一人で身体を動かしていた。最初はストレッチかと思った。違う。足、右、左。一歩引く、戻る。身体をひねる。肩、腕、軽く跳ねる。床の振動を拾い、エンジン音の間隔に合わせるように身体が乗っている。決まった型があるわけではない。でも動きが途切れずに繋がっている。靴底の擦れる音だけが小さく重なる。らでんは少しの間黙って見ていた。
不思議だった。今日のはじめはどれも上手かった。でも今はそれとは少し違う。試験の動きではないのに、足取りだけが軽い。一番楽しそうだった。
らでんが声をかける。
「はじめさん」
「うわっ」
はじめが止まる。肩が少し跳ね、動きの余韻だけが残る。
「いつからいた?」
「ちょっと前」
「見てた?」
「見てました」
「うわ」
恥ずかしそうに顔を逸らし、視線を窓へ逃がした。
「何してたんです?」
「なんかちょっと身体動かしたくて。眠れんし」
また軽く足を動かす。
「音がずっと鳴ってるからさ」
エンジンの振動を指す。ドン、ドン、ドン。
「これに合わせて動いてたら、なんか気持ちよくて」
らでんは少し笑った。
「ダンスみたいですね」
「ダンス?」
はじめが止まる。
「今のが?」
「はい」
「ちょっと身体動かしてただけだけど……そうなのかな」
「そう見えました」
はじめは自分の足を見る。少し考える。もう一度動かす。右、左、ターン。窓に映る自分の動きを一瞬だけ確かめる。
「……これ」
らでんは続きを待つ。
「楽しいかも」
小さな声。でも確かに言った。らでんはすぐには返さなかった。エンジン音を一つ聞き送ってから、穏やかに言った。
「それやってる時」
「?」
「今日見た中で一番楽しそうでしたよ」
はじめの動きが止まった。
「……マジ?」
「マジです」
「うちが?」
「はい」
はじめは黙った。運動が上手いとは何度も言われた。速い、強い、器用、何でもできる。そういう言葉は昔から聞いた。でも〈楽しそう〉それは少し違った。
「……そっか」
再び足を動かす。一歩、二歩、少し跳ねる。さっきより意識して。窓の外の雲が流れ、月の位置だけが変わらない。
「じゃあ・・・うち、ダンス好きなのかも」
らでんが笑う。
「いいじゃないですか」
「そっかな」
「一個見つかりましたね」
「何が?」
「好きなもの」
はじめが動きを止めた。そしてほんの少し考えてから笑った。
「……うん」
その笑顔は昼間見せたものとは少し違った。声を上げない分だけ、輪郭がはっきりしている。らでんはそれ以上何も言わなかった。好きかもしれないものを一つ見つけた夜だった。
---
二人はしばらく窓の外を見ていた。エンジン音と雲の流れだけが続く。
「らでん」
「はい」
「うちら、明日も残れるかな」
らでんは少し考える。
「分かりません」
「そこは大丈夫って言ってよ」
「だって試験内容分からないし」
「真面目か」
「でも、残れるようにはします」
はじめが横を見る。
「一緒に?」
「できるなら」
「……そっか」
少し間を置いて、はじめが窓の外を見ながら言った。
「じゃあ明日も、仲間だな」
らでんが笑う。
「まだそれ言うんですね」
「いいじゃん」
「まあ」
少しだけらでんも窓へ寄る。窓に二つの影が並ぶ。
「もう完全に仲間ですね」
飛行船は夜空を進んでいった。第三次試験会場へ。
---
朝。飛行船の窓の下に、街が見えた。正確には、街だったものが。
「……でか」
はじめが窓へ顔を寄せる。窓ガラス越しにエンジンの低い響きが伝わる。らでんも横から覗いた。建物、道路、橋、工場、線路、川。遠目には普通の都市に見える。だが車は走っておらず、煙突から煙も出ていない。駅に列車はなく、高層建築の窓はところどころ割れ、道路には植物が入り込んでいる。
割れ方は一様ではなく、風の当たる南側に多い。割れた窓の向こうは黒く、雨が入り込んだ跡が外壁に縦の染みを作っている。街全体が静かだった。エンジンの反響が窓の外へ吸い込まれ、戻ってこない。その静けさで、ここが一晩で捨てられた場所ではなく、長い時間をかけて人の手が離れた場所だと分かる。
メンチも後ろから窓を見る。
「廃墟?」
「みたいですね」
らでんが答える。はじめは少し楽しそうだった。
「こういうとこ入っていいの?」
「試験ですからね」
「ハンター試験すげーな」
---
飛行船は、都市中心部から少し離れた旧貨物飛行場へ降りた。三十六人。第二次試験を突破した受験者たちが地上へ降ろされる。風が強く、空気は乾いていた。滑走路のコンクリートはひび割れ、その割れ目から短い草が突き出している。滑走路の向こう、四角い建物の前に一人の大男が腕を組んで黙って受験者たちを見ていた。身長も体格も存在感も、全部でかい。
はじめが小声で「強そう」と言う。メンチが「見れば分かる」と返す。らでんは男の胸元にあるハンター協会章を見る。
試験官が声を上げた。
「第三次試験担当、ボトバイ=ギガンテ」
何人かの受験者がざわついた。らでんは名前を知らなかったが、周囲の反応で相当な人物だということだけは分かった。
ボトバイは一歩前へ出る。声は低い。風があるのに掠れず、後列まで届く。
「ここからの試験は三日間だ」
ざわめきが起きる。「正確には七十二時間」と続ける。はじめが「長っ」と呟くが、ボトバイは聞こえているかどうかも分からない顔で続けた。
「これまでの試験で、お前たちは自分一人で現場へ辿り着けるか、価値を見抜けるか、それを見られた。次は違う」
少し間を置いて言った。
「他人を連れて、任務を完遂できるかを見る」
らでんの目が少し変わる。ボトバイは背後の廃都市を指した。
「舞台は旧バルサ市。十五年前の大規模災害と産業撤退以降、中心区域の大半が閉鎖されている。現在は協会管理下の訓練区域だ」
倒れずに立っている信号柱、割れた窓をそのままにしている建物、手入れされない道路。放置と管理が混ざっている。だから試験に使えるのだとらでんは理解した。
---
補助員たちが九人の人物を連れてきた。年齢も格好もバラバラで、スーツ姿の男、老人、若い女性、作業着、研究員風。その一人一人が銀色のケースを一つ持っている。
ボトバイが言った。「これから四人一組になれ」
三十六人がざわつく。
「制限時間、十分。組めなかった者はその時点で失格」
空気が変わった。一斉に周囲を見る。
---
はじめが即座にらでんの腕を掴んだ。
「組む」
「早っ」
「組むよな?」
「もちろん」
二人が揃ったところで、らでんはすぐメンチを見る。
「メンチさん――」
「私は別」
「え」
はじめもメンチを見る。
「なんで?」
メンチは少しだけ笑った。
「ずっと同じ三人で固まってたら、何のための試験か分かんないし、それに、一人でもやれるって証明したい」
はじめが「そっか」と言う。メンチは二人を見る。
「落ちないでよ」
はじめが笑って返した。
「当然」
メンチはふっと笑って、別のメンバーを探しに声をかけに行った。
---
残り二人。ここで困った。大人の受験者たちはすでに顔見知り同士で固まり始めている。子供二人。どう見ても選ばれにくい。
「うちら人気ない?失礼じゃね?」
「子供二人組ですからねぇ。しょうがないですよ」
その時。「お前ら」と声がした。二人が振り向く。
三十歳前後、短髪、背が高い、右眉に古い傷。受験番号47番。第一次試験でも見かけた男だった。
男が聞いた。
「組む気あるか」
「ある」
「あります」
男は二人を少し見る。
「俺はガロ。元警備会社勤務。近接戦はできる」
「私たちでいいんです?」
「一次を見ていた。二人とも充分スタミナがある。それに要所要所での状況判断も素晴らしかった。足手まといじゃない」
その言い方がらでんには少し好ましかった。子供だから選ばない、子供だから守る、ではなく試験で見た能力で選んでいる。
「あと一人」
とガロが周囲を見る。
---
「入れてもらえる?」
二十代半ばほどの女性。細身、眼鏡、肩に小さな鞄。受験番号112。
「ミナ。救急救命士」
ガロの眉が少し動く。
「どの程度戦える?」
「最低限、襲われたら逃げられる程度」
「正直だな」
ミナが切り返した。
「あなたが戦えるんでしょう?」
「あぁそうだ・・・確認を怠らないやつは嫌いじゃない」
四人。成立。ボトバイの声が響いた。
「残り三十秒!」
チームはぎりぎりで成立した。
---
九チーム。それぞれの前に護送対象が一人ずつ立つ。らでんたちのチームの護送対象は五十歳前後の男だった。スーツ、痩せ型、少し神経質そう。名札にはハイン=ボルクとある。銀色のケースを自分で抱えている。
ボトバイが説明する。
「各チームへ一人、重要証人役を配する」
証人役。つまり本物の証人ではない。試験用。「その人物と、本人が所持する証拠品ケースを、七十二時間以内に」巨大な地図が掲げられる。廃都市を越え、森林地帯、河川、山間部、そして北西端の旧バルサ地方裁判所。
「ここまで届けろ」
---
一人の受験者が手を上げる。
「質問したい。移動方法の制限は? 車両の利用は?」
「自由、車も使っていい」
会場が少しざわめいた。さらに質問が出る。
「協会が用意してるんですか?」
「用意しない。街に残っているものは、使用を禁止されている物を除き好きに使え。車、自転車、舟、旧鉄道、工事車両。動かせるなら使え。ただし故障、燃料、道路封鎖、妨害、すべて自己責任!」
ガロがなるほどと呟き、配られた粗い地図の余白へ視線を落とした。
---
「次。証人と証拠品はどちらを失っても失格。証人役に死亡判定が出ても失格。証拠品ケースが三十分以上チーム管理下を離れても失格」
「チームメンバーは?」
と誰かが聞く。ボトバイはその質問者を見る。
「全員到着する必要はない」
静かになった。らでんの目がわずかに動く。別の受験者が言った。
「つまり、仲間を置いていってもいいんですか」
ボトバイは淡々と答えた。
「規則上は失格ではない」
はじめが少しだけ眉を寄せた。
---
「さらに。市内および経路上には妨害役が配置されている。彼らは証人、ケース、お前たちの認証腕章、それらを狙う」
ボトバイが受験者全員へ赤い腕章を配りながら説明した。
「腕章を奪われた場合、その受験者は三十分間行動不能。その場から移動するな」
はじめが聞いた。
「動いたらどうなるの?」
「失格」
ガロが挙手し質問する。
「妨害役はどの程度の装備・強さですか」
ボトバイが切り返した。
「それを知ってどうする、本番で襲ってくる相手に強さを聞けると思うな」
さらにボトバイは続ける。
「殺傷は禁止。故意に重大な後遺症を残す攻撃も失格。だが打撲、捻挫、骨折、その程度なら」
一拍。
「試験中は起こると思え」
次はメンチが手を挙げた。
別のチームから声を上げる。
「証人役が言うこと聞かなかったら?」
ボトバイはメンチを見、一瞬置いて答えた。
「それも含めて護送だ」
メンチの目が少し細くなる。らでんもその答えが気になった。
---
説明はまだ終わらなかった。
「水と食料、チームごとに最低限だけ支給する。三日分ではない。補給もない。不足分は現地で調達しろ。飲料水は都市内に数ヶ所。ただし全部使えるとは限らない」
「地図は?」
「これだけだ」
チームごとに配られた地図。だがかなり粗い。主要道路、川、鉄道、大きな施設、それだけ。細かい路地はない。崩落情報もない。等高線もない。らでんは地図の縁を指でなぞり、細部は現場で足して描くしかないと判断した。
---
ボトバイが最後に言った。
「これは護送試験だ。戦闘試験ではない」
その言葉で何人かが安心する。
「だから、戦って勝つことと任務に勝つことを混同するな」
ガロの表情が少し変わる。らでんもその言葉を覚えた。
「以上」
---
各チームに出発時間が割り当てられる。一斉スタートではない。十分間隔。追跡しやすくしすぎないためだ。らでんたちのチームは四番目。出発まで三十分。まず作戦会議。
---
古い格納庫。四人と証人役ハイン。格納庫の中は外より暗い。ガロが地図を広げ言う。
「目的地まで直線で六十キロ強」
らでんが地図の街道沿いをなぞりながら言う
「道なりに行けば八十から百くらいありそうですね」
「三日なら徒歩でも不可能ではない」
ガロがハインを見ながら言った。
「でも証人込みだ。歩けるか」
ハインは少し不機嫌そうに答える。
「普通の一般人だと思ってください」
「普通ってどれくらいだ」
「一日で十五から二十キロってところですかね」
四人が黙る。はじめは思わず言った
「少なっ」
ハインが睨む。
「私は受験者じゃないのでね」
らでんは地図を見る。徒歩だけではかなり厳しい。
つまり移動手段を探す必要がある。
---
ガロが言った。
「まず車だ。距離を稼げるなら稼ぎたい。」
らでんは少し考える。
「最初から大通りは避けません?」
「理由は」
「妨害側も、車を使いたい受験者が大通りに出ると思うはずです。道路封鎖もしやすいです」
ミナが聞いた。
「細い道なら?」
「遅いけど、ルートは変えやすいです」
ガロは少し考えた。
「悪くない」
はじめが地図の旧消防署を指を差した。
「ここ車ありそうじゃね?」
らでんも地図を見る。
「救急車や消防車が残っていれば、燃料次第ですね」
ガロが注意した。
「ただし目立つか」
らでんがまとめた。
「まず見に行って、使うかは現場で決めましょう」
全員頷いた。
---
ハインがガロに言う。
「私は車がいい」
「理由は」
「歩きたくない」
はじめが笑いそうになるのをらでんが肘で止めた。ハインは続ける。
「重要証人なんだろう?」
「まぁ、そういう役だな」
ハインが不満そうに言った。
「試験中は同じことだ」
---
出発五分前。腕章、食料、水、ロープ、救急用品、地図、ケース。ガロの腰には登山用の細いロープとカラビナが下がっている。最後にガロが役割を決める。
「俺が前だ。襲撃対応。ミナは証人の近くで負傷者対応。らでんは地図とルートだ」
らでんが「わかりました」と答えた。
「はじめは?」
ガロは少し迷って言った。
「俺の側にいて周囲を警戒しろ。俺のリカバリーできる5メートル前後目安だ。あとは自分の判断で自由に動いていい」
「雑!」
ガロが笑った。
「第一次試験の時の動きが良かった。それにお前は感覚で動くタイプだろ」
はじめが笑って言った。
「じゃあ好きに動く」
ガロが釘を刺した。
「ただし勝手に消えるな」
「分かった」
---
ゲート。巨大な廃都市。錆びた道路標識。停止した信号。遠くに崩れかけた高層ビル。風が標識をかすかに揺らす。係員が時計を見る。
「第四チーム!準備!」
らでんが一度息を吐く。隣にはじめがいる。目が合う。
「行ける?」
「行きます」
「よし」
少し前。ガロが肩を回す。ミナがハインへ「体調悪くなったらすぐ言ってください」と声をかける。
ハインは銀色のケースを抱え直す。そして係員が告げた。「開始」
---
最初の二キロは、何も起きなかった。だからこそ不気味だった。人がいない。建物はある。生活の跡もある。でも生活だけが抜け落ちている。
交差点では信号が消え、電柱の影だけが長く倒れている。曲がり角のたびに見通しが切れ、ガロが先に覗いてから合図する。その繰り返しで進みが遅くなる。
---
旧消防署。到着。扉は開いている。車庫の中は外より暗い。消防車一台。救急車二台。小型の作業車。はじめの顔がちょっと輝く。
「あるじゃん!」
「まだ喜ぶな」
ガロが使えるか確認に入る。
一台目。エンジンがかからない。
二台目。バッテリーが上がっている。
三台目。救急車。キーあり。ガロが回す。
一度、二度、三度。エンジンがかかった。
「エンジンは生きてる」
「当たり?」
らでんはタイヤを見る。
「ちょっと待って」
指で押すとゴムは硬く、ひび割れの縁が白くなっている。
ミナもしゃがみ、側面の亀裂を指でなぞった。
「これ、長距離は怖い」
ガロが聞いた。
「交換できるか。予備はあるか」
皆で探す。予備は一本しかない。だが四本全部の状態が悪い。
らでんは車庫の外の道路を見る。割れたアスファルト、散らばったガラス片。速く走れば振動で裂ける。そう判断した。
「市街地を抜けるまでだけ使うのはどうですか」
「そうするか」
ハインが聞いた。
「最後まで車で行けないのか?」
ガロが切り返す。
「故障したらその場で終わる方がいいか?」
ハインは黙った。
---
その時。はじめが外を見る。午後の光が向かいのビルの窓ガラスに反射し、一瞬だけ人の影のような揺れが映った。はじめが呼んだ。
「らでん」
「はい?」
「誰かいる」
全員が止まる。ガロが聞いた。
「どこだ」
はじめが二階の窓を指した。向かいのビルだ。一瞬映った影はもう消えていた。
ガロが救急車から離れ、エンジンを切る。車庫に静けさが戻る。
ガロが呟いた。
「妨害役か」
ミナがハインを建物の陰へ入れた。らでんの心臓が少し速くなる。
誰かが自分たちを狙っている。その事実が種類の違う緊張を生んだ。
---
ガロが言った。
「車は捨てる」
「なぜだ!」
「位置を見られた。乗った瞬間追われる」
らでんも同意だった。
「エンジン音も大きいです」
はじめが窓を見ながら言った。
「もういないよ」
「だから怖いんだ。こちらの隙を狙ってくるぞ」
ガロは言った。
---
裏口から徒歩で狭い路地へ入る。両側の壁が迫り、空が細く切れる。廃都市の中へさらに深く入る。五分、十分、何もない。十五分。らでんが少し息を吐く。その瞬間、上方でガラスが割れる音がした。
ガロが叫んだ。
「伏せろ!」
何かが落ちてきた。金属製の球だ。地面へ当たった後に白煙が上がった。甘いような金属の匂いが一気に広がる。ミナが叫んだ。
「煙!」
ミナがハインを引いた。視界が消える。二メートル先の壁すら見えない。
はじめが叫んだ。
「らでん!」
「います!」
足音。一人、いや二人。コンクリートを踏む音が近い。らでんは煙の中で腕を掴まれた。反射的に腰を落とす。教本で読んだ動きだ。手首を外側へ回して抜く。相手の握りが一瞬緩む。だが相手が速い。次に肩を押され、体勢が崩れる。「っ!」相手は成人男性で、力が違う。
らでんは無理に力で競わない。横へ転がって距離を取る。近くに古い看板の支柱があった。冷たくざらつく支柱を掴んで構え、煙の切れ間に見える足だけを見る。相手が止まった。
「へえ、ガキのわりにやるな」
らでんは返事をしない。勝てるとは思わない。時間を稼ぐ。それだけだ。
---
別の場所。はじめ。白い煙の中で襲撃者が腕章へ手を伸ばす。はじめは横へ避ける。
相手が蹴ってくる。はじめの身体が勝手に動く。頭を下げ、足を一歩外へ出す。相手の横へ出た。
相手が声を上げる。
「っ?」
相手がはじめの肩へ手を置く。はじめはその肩を踏み台にして身体を浮かせ、相手の背中を飛び越えた。
着地して膝へ衝撃を受ける。はじめ自身が一瞬びっくりする。
「……お」
相手も少し止まった。相手が聞いた。
「今の何だ?」
はじめが答えた。
「わかんね」
相手が聞き返した。
「は?」
はじめが笑った。
「今おもいついただけ。でも、できた」
次の攻撃。はじめはまた避けた。今度は意識して。飛行船の夜、音に合わせた足運びを思い出す。
右、左、重心。殴り合いではなく、相手の間から抜ける。
---
煙の向こうからガロの声がした。鈍い音。壁へ身体が当たる音。一人が地面へ倒れた。
もう一人が笛を鳴らす。甲高い音が路地に反響する。
襲撃者の一人が叫んだ。「撤収!」襲撃者たちは一気に離れた。足音が遠ざかる。
煙が少しずつ薄くなり、壁の落書きが見え始める。
らでん、はじめ、ガロ、ミナ、ハイン。全員いた。ケースもあった。腕章も全員分あった。ガロが周囲を見る。路地の両端、屋上、窓を見たが、誰もいなかった。ミナの声。
「怪我は?ハインさんは私が確認する」
はじめが答えた。
「平気」
らでんが言った。
「左肩がちょっと」
ミナがすぐ見た。ミナが言った。
「打っただけ。動かしてみて」
らでんが腕を回す。肩の奥に鈍い痛みが残る。
「大丈夫です」
---
ガロがはじめを見る。
「お前、格闘やってたのか」
「やってない」
「……今の何だ」
「わかんね」
らでんが少し笑って言った。
「私もそれ聞きたいです」
「なんか身体が動いた」
ガロは数秒はじめを見る。それから言った。
「いい動きだった。これからも使えるなら使え」
---
らでんは落ちていた金属球を見る。まだ温かい。煙幕弾だった。本気で傷つける道具ではない。でも相手は証人ではなく腕章を狙った。つまり足を止め、時間を奪うことも狙ってくると判断した。
「……これ」
「何だ」
らでんが周囲を見渡しながら言った。
「最初の襲撃でこのレベルなら、三日目までどんどん嫌なことをしてきそうだなって」
ガロが少しだけ笑った。
「やっと分かったか」
「嫌ですね」
ミナが救急用品をしまいながら言った。
「でも、まだ誰も失ってない。それでいいでしょ」
---
遠く。高い建物の屋上。ボトバイが双眼鏡で四人を見ていた。隣には試験補助員がいた。
補助員が報告した。
「第四チーム、最初の襲撃を突破しました」
ボトバイが答えた。
「そうか」
「評価は?」
ボトバイが双眼鏡を下ろして答えた。
「まだ早い」
レンズの向こうの小さな人影が路地へ消える。
「護送は最初の戦闘に勝った奴が勝つ仕事じゃない」
もう一度街を見る。建物の影が長くなり始めている。
---
一日目。開始からまだ二時間。残り七十時間。