午前六時。旧第三河川管理事務所の二階には朝と呼ぶにはまだ少し冷たい空気が残っていた。
割れた窓から差し込む光も白い。
昨夜あれほど巨大に見えた廃都市の影は、夜が明ければ輪郭を取り戻している。
けれど五人の注意は窓の外ではなく、四つの腕章に向けられていた。昨夜の指令だ。
はじめは三度読んだ。理解できないわけではない。
むしろ意味が分かったからこそ納得したくなかったらしい。
はじめが自分の左腕を持ち上げて言った。
「……つまりさ」
赤い腕章。
そこへ金属製の小さな認証札が固定されている。朝の光で金具が鈍く光る。
はじめが言った。
「これ、他の奴にもらえばよくね?」
ミナが瞬きをして言った。
「確かに」
はじめの顔が一瞬明るくなった。
「ほら!第四チームから一個あげて、向こうからも一個もらえば終わり!」
らでんは腕章の表示を下へ送った。
補足規定には、同一二チーム間で相互に譲渡した認証札は双方の確保数に算入しないとある。
はじめは黙って画面を見た。次に天井を見た。天井の染みが朝の光で濃く見える。
ガロが鼻で笑って言った。
「そこまで穴だらけの試験じゃないらしい」
「試験官に失礼ですよ」
「褒めてる」
壁際で携帯食を齧っていたハインが何でもない調子で口を開いた。
「なら三チームで回せばいい」
はじめがそちらを向いて言った。
「え?」
ハインは食事を続けたまま指だけで三角形を描いた。
「第四から第五へ一枚。第五から第六へ一枚。第六から第四へ一枚。同一二チーム間の相互譲渡じゃない」
らでんも規則を見て言った。
「……あ。確かに文章だけを読むなら抜けています」
ガロも数秒黙ってから言った。
「よく気づいたな」
ハインは答えず、携帯食をもう一口齧った。
はじめとらでんの視線が重なったが、追及する前にガロが地図を指で叩いた。
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もっとも規則の穴が見えたからといって実行できるとは限らない。
旧バルサ市とその先の森林、河川、山岳地帯。残っているのは九チーム。しかもそれぞれが別方向から同じ裁判所を目指している。
三チームを見つける。互いに足を止める。ルールの解釈を信用させる。裏切らないことを信用する。札を交換する。そして四十八時間になるまで奪われずに保持する。
机の上なら簡単な話でも現場へ持ち出せば一気に面倒になる。
ガロが地図を広げた。
「札を探すためだけに進路を変えるのは無しだ」
ミナが言う。
「でも、なかったら失格でしょ?」
ガロは地図の一点を指して言った。
「ああ。だから札を探しながら目的地へ進む」
はじめが覗き込んで聞いた。
「どうやって?」
「相手が来る場所を探す」
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川沿いには協会が用意したと思われる給水施設がいくつかある。
食料はある程度我慢できる。だが水は無理だ。
水筒は朝の時点で半分を切っている。これから市街地を抜け森林部へ入れば補給地点は減る。
その中で最も自然に立ち寄れる場所が第二浄水管理所。地図の上でも水の記号がある。
らでんが指を置いて言った。
「ここなら何チームか寄ると思います」
はじめの声が少し弾んだ。
「待ち伏せ?」
ガロが顔を上げる。
「まず話す」
はじめが驚いた。
「え」
「何だ」
「殴って取らないの?」
ガロは呆れて言った。
「お前、昨日まで何聞いてたんだ。戦わずに済むなら、それが一番早い」
「でも札くださいって言って、くれる?」
「くれないだろうな」
「じゃあ殴り合いじゃん」
ガロが地図を畳みながら言った。
「交渉ってのはな。ください嫌ですで終わる会話のことじゃない、だからお前には任せん」
「にゃんで!?」
ミナが吹き出した。らでんも笑った。
午前六時四十分。第四チームは旧第三河川管理事務所を出た。
夜露の残る堤防を進む。右に川、左に倉庫と水処理施設、その向こうに旧市街のビル群が朝靄の中へ沈んでいる。
人はいない。昨日と同じ。
それなのにらでんには景色がまるで違って見えた。昨日までは誰かに見られているかもしれない街だった。今日からはどこかで誰かが自分たちを探している街になった。
同じ試験を受け、同じように疲れ、同じように合格したい三十二人が自分たちの腕の小さな金属片を欲しがっている。
前を歩いていたはじめが言った。
「昨日より嫌だな」
まるで思考を読まれたようでらでんは少し驚いた。
「何がです?」
はじめは歩きながら自分の腕を上げて言った。
「昨日はさ。襲ってくる奴は最初から敵だったじゃん」
「そうですね」
「でも今日は普通に会って、こんにちはーってして、じゃーなーってして」
はじめは腕章を指さす。
「そのあと後ろからこれ取ってもいいわけだろ?」
「はい」
はじめが言った。
「なんか嫌だ〜」
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午前八時十三分。第二浄水管理所。予想は当たっていた。
いや当たりすぎていた。管理所を見下ろせる堤防上。
ガロが拳を上げた。全員がその場で止まる。
はじめが小声で言った。
「いた」
下。コンクリートで囲まれた施設。給水タンクのそばに五人。タンクの金属が朝日を反射している。受験者四名、証人役一名。
すでに水を補給している。らでんは身を低くし目を凝らした。腕章。青いライン。
らでんが言った。
「第六チームですね」
ガロが答える。
「四人ともいるな」
一人。大柄な男。三十代ほど。坊主頭で、腰に訓練用らしき短棍。もう一人。細身の男。四十前後で動きが静かだ。一人。荷物を整理している若い男。
そしてもう一人、十五歳くらいの少女。背は高くなく細身だが、足の置き方が浅くいつでも動けそうで、話しながらも目だけは周囲を見ていた。腰には抜けないよう固定された細長い得物。
はじめが呟く。
「……あいつ」
ガロが聞いた。
「何だ?」
「小さい方、なんか強そう」
はじめは少女を指した。
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五人は隠れるのをやめ、正面から管理所へ入った。砂利の音がはっきりする。
大柄な男が一歩前へ、細身の男が証人側へ、若い男が後ろへ、少女は水筒の蓋を閉めた。
カチという音だけで一秒で配置が変わった。
ガロが両手を見える位置へ出して言った。
「第四チームだ」
大柄な男が返した。
「見れば分かる」
「ならばわかるだろ。札の話をしたい」
一瞬大男の口元が動いた。大男が言った。
「奇遇だな。俺たちもだ」
空気が重くなる。タンクの水音だけが続く。
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ガロは正面から交渉した。食料は不要、医薬品は十分ある、水は今補給した、ルート情報は信用できない、と確認が進んだ。
こちらも札一枚が必要。向こうも札一枚が必要。しかし二者交換は無効だ。
らでんが三角交換の共同探索を提案した。大男が仲間の位置を確認する。
その隣で少女ははじめの腕の赤い認証札を見てほんの少し笑った。足の向きがまっすぐこちらへ向いている。らでんはぞくりとした。
あ、この子交渉する気ない。
「ガロさん」
「何だ」
らでんが言いかけた。「たぶん――」言い終わる前だった。
少女が動いた。砂利の跳ねる音だけが残る。
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実際には一歩だった。右足が滑るように前へ出て、上体が遅れてついてくる。予備動作がほとんどない。少女は給水タンクの縁を蹴って軽く浮いた。
はじめが見た時にはもう目の前だった。少女の手が伸びる。狙いは当然左腕。はじめは考えるより前に半歩下がった。指先が認証札の表面を撫でる。届かない。少女の眉がほんの少し上がった。
少女が言って着地した。
「……へえ」
音が小さい。はじめも一歩離れる。
「いきなり取る!?」
少女はやけに古風な口調で答えた。
「交渉が長そうだったので。先に取った方が早いでござる」
「……ござる?」
そこから戦闘になった。
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コンクリートの上で足音が乱れる。
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大男はそのままガロへ向かった。短棍を横薙ぎにする。
ガロは受けない。一歩引いて通す。そのまま懐へ入る。
肩、胸、体重をぶつける。ドンと鈍い音。普通はそれだけで姿勢を崩すが、大男は崩れなかった。
むしろ嬉しそうに歯を見せた。
大男が聞いた。
「警備屋か?」
ガロが返した。
「何で分かる」
「動きが堅い」
二撃目。今度はガロが腕を取った。関節。
大男が身体を捻る。足元のコンクリートが靴の下で鳴った。
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細身の男はミナとハインへ向かった。拳を振らない。蹴らない。
目的は銀色のケースだ。最初からそれしか見ていない。ミナはハインを背へ回す。自分の身体が壁になる。
ミナが言った。
「下がって」
男が右へ、ミナも右へ。
すぐさま左へ、ミナも動く。徹底して間に立つ。
男が聞いた。
「医者?戦えんのかよ」
「救急救命士」
ミナが答えた。
「あなたより弱いと思う」
「正直だな」
「でもケースは渡さない」
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らでんの前にも一人。若い男。手には短い訓練棒。
彼は頭を掻いた。
「俺、子供殴る趣味ないんだけど」
らでんは距離を取りながら返した。
「奇遇ですね。私も殴られる趣味ないです」
男が聞いた。
「じゃあ札くれよ」
「それも嫌です」
男が言った。「だよなぁ」と構えた瞬間、気の抜けた雰囲気が消えた。
踏み込む足音が変わる。
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昨日の襲撃役より速い。らでんは最初の一撃を見た。
棒の先、肩、避ける。二撃目、低い、脚、跳ぶ。三撃目。
来る。間に合わない。左腕。バシッと硬い音。痺れが指先まで走る。
「っ!」
痛みより先に腕が痺れる。数歩離れる。男は追わない。
男が聞いた。
「降参するか?」
「札取られるんでしょう?」
男が答えた。
「そりゃ取るよ」
「じゃあしません」
らでんは男に向き直って構える。男が言った。
「ですよね」
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まともに相手をしないと決めた。自分より強い。
技術も身体能力も体格も違う。それを認めることは負けではない。第二試験でビスケに見られたのと同じだ。
相手を倒せないなら、倒す必要がない場所へ。
らでんは施設内部へ走った。男が追いながら聞いた。
「逃げる?」
「逃げます!」
操作室。狭い。天井が低い。机、椅子、配管、古い制御盤。
男なら邪魔になる。自分なら抜けられる隙間。
椅子を倒す。相手が避ける。机を回る。追う。
男が聞いた。
「戦い方それでいいの?」
らでんも負けじと返す。
「勝てばいいんでしょう!」
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外。はじめと少女。少女の右足が半歩出る。はじめの視線が足へ落ちる。
次の瞬間もう少女は目の前にいた。近い。
(早っ)
ラッシュが来る。避ける、いやなんとか避けられた。
少女は右、左、右。同じように見えて全部違う。
はじめが跳んで叫んだ。
「うわっ!」
着地の砂利が滑る。少女もそれを読み着地地点へ。
はじめはなんとか足を着く寸前で身体を捻った。
片手で手すりをつかむ。そこを支点に身体を横へ流す。
着地。少女の目がわずかに開く。
「格闘技は?」
「やってない!」
「剣術は?」
「やってない!」
「体術?その他もろもろ」
「だからなんもやってない!」
少女の表情が少し真面目になる。
「……本当?」
「本当!」
少女が言った。
「それはちょっと・・・読みづらくて嫌でござるな」
はじめが突っ込んだ。
「また出た!」
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型がない。構えがない。重心も毎回少し違う。なのに崩れない。
一度見せた動きを二度目には避ける。身体が先に動く。
目がいいのか神経がいいのか。
少女は口元を上げた。楽しくなってきた。
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はじめにもそれが分かった。急に相手の雰囲気が変わった。
はじめが聞いた。
「なんか速くなってない!?」
「気のせいでござる」
「絶対速い!」
少女が言った。
「まだ札取ってないし」
目ははじめの札をしっかりと狙っている。
はじめが言った。
「取らせるか!」
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少女には技術がある。距離、誘い、フェイント、足運び。はじめにはそれがない。
その代わり一度噛み合うと流れが滑らかだった。
昨夜飛行船のエンジン音に合わせた時のように、相手の拍子へ自分の拍子を少しずらす。
はじめは相手の腕へ触れ、勢いを借りて横へ滑った。背後。
はじめ自身も驚いて声を上げた。
「――!」
でも手は動いた。少女の認証札へ。
指。触れる。金属の縁。あと数センチ。
「ッ!ーーさせるかっ!」
少女が身を翻した。
「惜しいぃぃ!」
着地。向き直る。はじめは笑った。
「今のはかなり危なかったでござる」
はじめも笑う。汗が額を伝う。
「もう一回!」
少女の眉が上がる。
「いいよ」
互いに構える。いやはじめは構えていない。
それが少女には一番嫌だった。
---
ガロが叫んだ。声がコンクリートに反響する。
「はじめ!遊ぶな!」
「遊んでない!」
少女が言った。
「拙者もちょっとだけ――」
大男が戦いながら言った。
「お前は遊ぶな!」
ガロが言った。
「お前も喋るな!」
ガロの肘が大男の脇腹へ入った。大男が声を上げた。
「ぐっ」
---
操作室。机、壁、制御盤、出口。逃げ道はない。
「終わり?」
男の息には余裕がある。らでんの肩が上下する。左腕が痛い。
男は棒を下げた。
「札だけでいい。まだ日数はあるしチャンスもある。ここで無理に怪我する必要ないだろ」
らでんは荒い息をつきながらほんの少し目線を動かした。
壁に案内表示があり、その下に非常洗浄設備の手動作動レバーがあった。
さっき逃げながら見つけた。天井のタンク、床の傾斜、水の流れが頭の中でつながった。
らでんが聞いた。
「一個いいです?」
「何?」
「後ろ。危ないですよ」
男は振り向かなかった。
「それは引っかからん」
らでんが言って足元のペダルを踏んだ。
「ですよね」
重い手応えがあった。男が初めて上を見た。
遅い。
天井近くの古い配管から大量の水が一気に落ちた。
「うわっ!?」
非常時に薬品を洗い流すための水槽だ。上階タンク式で電気はいらない。
床は一瞬で濡れた。男の靴が滑る。らでんが飛び込む。狙いは相手の腕の札だ。
「甘い!」
男は踏み込んできたらでんの手首を取った。
らでんが声を上げる。
「っ!」
相手が強い。手首を捻られて痛い。取れない。なら引かない。
らでんは逆に相手へ入った。
「何――」
胸、肩、体格差では押し勝てるはずがない。でも相手は濡れた床で足がほんの少し滑った。
その一瞬で握りが弱まる。手を抜く。腕章の金具に指がかかり、あと少しで外れる手応えがあった。
---
外。決着もほとんど同時だった。少女が初めて大きなフェイントを入れた。
左にはじめが反応する。違う。右。札。
はじめが声を上げた。
「しまっ――」
少女の指がはじめの腕章へ届く。同時にはじめも伸ばす。
カチと音がして札が一枚外れ、宙を飛んだ。どちらの札か分からない。二人とも札を追った。
その時に声がした。
「はじめ!」
らでんが操作室から飛び出してきた。髪も服も少し濡れている。
左手には金属片、第六チームの認証札があった。
らでんが叫んだ。
「取った!!!!」
はじめの顔が一瞬で明るくなった。
「マジ!?」
「取りました!」
その瞬間、はじめは宙の札へ伸ばしていた手を引いた。少女の手がそのまま札を掴んだ。
赤い札、第四チームのはじめの認証札だった。
---
少女は札を見る。はじめを見る。少し意外そうだった。
「……取り返さないので?」
はじめはらでんの持っている札を見た。濡れて光っている。
次に少女の手にある自分の札を見た。
はじめが言った。
「もう欲しかったのは一個あるから」
「でも、これはあなたの札でござるよ」
はじめは一瞬考えた。空になった固定具が軽い。
はじめは笑って言った。
「もう、らでんが取ってくれたから」
少女が黙った。ほんの一瞬だけ妙に嬉しそうな顔をした。
---
ガロが叫んだ。
「撤退!走れ!」
第四チームが裏門へ向かう。第六チームの大男が追おうとする。
だが少女が止めた。
「待って」
「いいのか?」
少女が手の中を見せて答えた。
「こちらも一枚取れた」
手の中にはじめの札があった。少女も目的達成と判断した。
---
第四チームは走る。はじめも走る。左腕。札がない。軽い。
ちょっとだけ悔しい。背後から声がした。
少女が呼んだ。
「そこの!」
はじめが振り返る。少女は追ってはいない。門のところからこちらを見ている。
手にははじめの認証札があった。
少女は少し迷いながら言った。
「返してほしければ、自分で取り返すでござる!」
はじめは数秒置き、息を整えてから叫んだ。
「絶対取り返すからなー!」
少女が返した。
「待ってる!」
そこで距離が開いた。名前は聞かなかった。向こうも聞かなかった。
---
十五分後。河川沿いの林。ようやく第四チームは足を止めた。
全員息が上がっている。らでんは木へ背中を預けた。膝をつき、少し笑う。
らでんが言った。
「つっかれた……」
はじめもその横へ座り込んだ。
「うちの札取られちゃった」
「ちらっと見ました。早かったですね」
はじめが少し笑って言った。
「でも、楽しかった。らでん、札ありがとう」
---
ガロがらでんから奪った札を受け取る。札は濡れている。
受験番号164と読み取り、腕章へかざすと電子音が鳴った。
《他チーム認証札:1》
ガロが短く言った。
「成立」
それだけで全員が少し息を吐いた。ミナが言う。
「これを四十八時間まで守れば安心ね」
はじめは自分の腕を見る。空になった固定具。金具の跡。
「うちの取られたけど」
「問題ない」
「ちょっと悔しい」
ガロがはじめを見て聞いた。
「お前、最後、なぜ手を引いた」
はじめはらでんを指差して答えた。
「らでんが取ったって言ったから」
「取り返しても損はない」
はじめが肩をすくめて言った。
「でも、もう要らなくなったから」
ガロが黙る。
「1枚取るために戦ってたんだろ? なら、取ったら終わりかなって」
ガロはほんの少し口元を動かして言った。
「……それでいい」
---
ミナはすぐらでんの左腕を見つけた。袖の濡れ方、腕の腫れがある。
「左腕、見せて」
「大丈夫です」
ミナが言った。
「その台詞、昨日禁止したよね」
そう言って袖を上げる。腕は赤く腫れている。
ミナが見ながら言った。
「骨はたぶん大丈夫。でも腫れてる。痛みは?」
「このあたりが」
「そのあたりね。無理しないで」
処置が進んだ。その間らでんは第六チーム札を見ていた。相手は明確に自分より強かった。
正面からなら負けていた。でも床の傾斜と水を使って勝てた。
---
少し離れた木の下でハインが水を飲んでいた。さっきの戦闘中、細身の男がケースへ手を出した瞬間、ミナが庇うよりほんの少し前にハイン自身が一歩動いていた。
ぶつからない場所へ滑るように出た一歩だ。あれは偶然なのだろうか。
らでんが見ているとハインが気づいた。ハインが言った。
「何だ」
「別に」
「またそれか」
らでんは少しだけ笑った。ハインは水筒を閉じた。
それ以上は聞かなかった。ハインもそれ以上は言わない。その距離が今はちょうどよかった。
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午前十時三十二分。旧河川監視所で小型の保守艇を見つけた。船外機付きで燃料三分の一。
川を使えば旧物流港まで約十二キロ、陸路より二時間以上早い。ただし隠れる場所がない。
らでんが川面を見て言った。
「これはかなり目立ちますね」
ガロが聞いた。
「陸路だとどうなる?」
「…かなり遠回りになります」
「どれくらいだ」
らでんが答えた。
「三時間です」
「なら船だ。船が使えるならここはリスクを取る」
はじめも嬉しそうに同意する。
「船がいい!」
---
船を出した。エンジンが川面を叩く。都市の灰色が後ろへ流れていく。
はじめは船首で立とうとした。船が揺れた。
ミナが言った。
「危ないよ!座って!」
「心配しすぎ、落ちないって」
「落ちる人はみんなそう言うんだから!」
はじめは渋々座った。らでんはそんなやり取りを聞きながら川岸を見ていた。
橋、廃倉庫、古い船着場、堤防。そして一瞬、人が二人見えた。
上からこちらを見ていた。逆光で顔は見えない。
らでんが声を上げたが、船が速くてエンジン音に掻き消えた。
振り返る頃にはもう見えない。橋の影だけが残る。
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午後一時。旧物流港。船を捨て徒歩へ戻った。ここから先は森林で目的地は北西だ。
道は二つ。広い旧物流道路が最短だが橋が一本だけかかる。もう一つは山腹の旧搬送路で遠く状態不明だ。
ガロは最短を選ぼうとした。らでんが待った。地図の橋の記号。川と谷。一本道だ。
らでんが搬送路を指してガロに言った。
「こっち」
「理由は」
らでんが指で示して言った。
「物流道路はこの橋を絶対に通ります。待ち伏せには最高です」
ガロが聞いた。
「搬送路は?」
「遠いです」
ガロが返した。
「悪いじゃねえか」
らでんがさらに指を動かして言った。
「でも、途中に旧採石施設があります。迂回路がある可能性もあります」
「確証は」
「ないです」
はじめが楽しそうに笑った。
「らでん、そういうの堂々と言うよな」
「ないものはないので」
ガロは数秒地図を見る。ガロが決めて言った。
「さっきの船で時間を稼げた。ここは搬送路で行く」
---
午後二時四十分、森に入った。葉擦れ、虫、鳥、呼吸、遠くの水音。道は舗装の名残だけ。
前を歩いていたはじめが突然止まる。
らでんが聞いた。
「何です?」
「……音」
ガロが聞いた。
「何の」
「枝。踏む音」
全員が静かになる。
はじめが言った。
「うちらが歩くと来る。止まると止まる」
ガロが合図し、全員が道を外れた。茂みで待つ。
一分、二分、何もない。三分経って遠くで枝の割れる音がした。
はじめが黙って頷いた。誰かいる。
---
らでんが言った。 橋の上の逆光を思い出す。
「川で見た二人かも」
「人数は」
「見えたのは二人でした」
ミナが声を落として聞いた。
「妨害役?」
「それなら全員いてもおかしくない」
証人、ケース、認証札を確認した。はじめが聞いた。
「どうする?」
ガロが答えた。
「進む」
「逃げる?」
「違う。戦う場所を選ぶ」
狭い道や足場を相手に選ばせないということだ。
---
旧搬送路は崖沿いで左は岩肌、右は谷だ。道幅は三メートルほどで足元は滑りやすい。
ガロが言った。
「ここは駄目だ。先へ行く」
らでんが地図を見ながら言った。
「旧採石場まで八百メートルです。急ぎましょう」
全員速度を上げる。その時後ろから足音がした。もう隠さない。
ガロが叫んだ。
「来るぞ!」
全員振り返る。森から一人の受験者、知らない男が出てきた。その手には小さな金属筒があった。
男が投げながら叫んだ。
「伏せろ!」
円筒が弧を描いて道の山側へ落ちた。爆発ではなく乾いた破裂音が耳の奥へ残った。
古い斜面の土が崩れる。その瞬間らでんは理解した。襲われたのではない。ここまで追い込まれたのだ。
---
ガロが叫んだ。
「走れ!!」
地面が鳴った。土砂、石、道そのものが崩れ始める。ミナもハインもガロもはじめもらでんも前へ走った。
その時、らでんの足元にひびが入り、アスファルトの割れる音がした。
一歩、もう一歩進んだが届かない。地面が消え、足裏の感触がなくなった。
らでんが声を上げながら落ちた。
「――っ!」
風の中、反射的に手を伸ばすと古い鉄柵に触れた。掴む。肩へ衝撃が来た。
らでんが声を上げた。
「ぐっ……!」
脚は空中だ。下は五メートル下でさらに急斜面、その先は底の見えない谷だ。石が身体の横を落ちていく。
落ちる間隔で深さが分かる。柵が嫌な音を立てた。
上からはじめが叫んで戻ろうとした。
「らでん!!」
土の崩れる音がする。ガロがはじめの腕を掴んだ。
「待て!」
「離せ!」
「そこも崩れるかもしれん!」
「でも!」
ガロが怒鳴った。
「行くな!」
声は怒鳴っているが、地面、崩落、時間、追手を全部見ている。
---
上にはじめ、ガロ、ミナ、ハイン、ケースの銀色。後ろには追手が少なくとも三人。下は底の見えない谷だ。
まず浮かんだのは助けてではなかった。任務、残り時間、証人、ケース、追手、そして自分が救助可能か分からないということだ。
鉄柵がまた軋む。はじめがガロの手を振りほどこうとする。
「はじめさん!」
声が谷へ吸われる。はじめの動きが止まる。
らでんが叫んだ。
「来ないで!」
「でも!」
「ガロさんの言うとおり、そこも崩れます!」
「だからって!」
「行ってください!」
自分の声が思ったよりはっきり出た。
昨日ハインに聞かれた。仲間でも置いていくか。分からないと答えた。
良かった、
私は置いていかれる側だった。
答えは簡単だった。自分一人なら行かせればいい。
らでんがもう一度叫んだ。
「はじめさん!行って!!」
---
はじめは何も言わなかった。土煙の向こうの顔は、昨日飛行船で笑っていた顔とも今朝札を取られて悔しがっていた顔とも違った。
ガロが低く言った。
「行くぞ」
足元の土を見た上での判断だった。ミナはケースを抱える手に力を入れる。ハインははじめを見ていた。
追手が近づく。はじめが進む道、証人、ケース、仲間を見て一歩踏み出した。
らでんは胸のどこかが少し痛んだ。
でも安心もした。これで私以外は試験を続けることができる。
はじめが二歩目を踏み出した。