儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第九話 第三次試験 狩る側、狩られる側

 午前六時。

 割れた窓ガラスの隙間から差し込む光は、まだ冷たくて白かった。

 昨夜、見張りに立った屋上から見下ろしたときはあれほど不気味な巨体に見えた廃都市の影も、夜が明けてしまえば乾いたコンクリートの輪郭を取り戻している。

 けれど今、部屋にいる五人の視線は窓の外ではなく、自分たちの左腕に巻かれた四つの認証腕章へと集まっていた。深夜零時に届いた、あの追加指令だ。

 

 はじめが自分の左腕を目の高さまで持ち上げて、首を傾げた。

 

「……ねえ、つまりさ」

 

 赤いバンドの脇に、親指の先ほどの小さな金属製の認証札が留め具で固定されている。朝の白い光を受けて、四角い金具が鈍く光った。

 

「これ、どこかのチームと一個ずつ交換しちゃえばよくね?」

 

 隣で水筒の蓋を締めていたミナが、ぱちりと瞬きをした。

 

「……あ、確かに」

 

 思わぬ賛同を得て、はじめの顔がぱっと明るくなる。

 

「ほら! うちら第四チームから一個あげて、向こうからも一個もらえば、それで条件クリアじゃん!」

 

 らでんは苦笑いしながら、自分の腕章の小さな画面を指先で下へと送った。昨夜のうちに一通り目を通しておいた、追加指令の細かい補足規定を呼び出す。

 画面の隅には『ただし、同一の二チーム間で相互に譲渡・交換された認証札は、双方の確保数に算入しない』とはっきり記されていた。

 後ろから画面を覗き込んだガロが、鼻で笑う。

 

「残念だったな。そこまで穴だらけの試験じゃないらしい」

 

 すると、部屋の壁際で硬い携帯食を齧っていたハインが、何でもないことのように口を開いた。

 

「なら、三チームで回せばいい」

 

 はじめが丸い目をぱちくりさせて壁際を振り返る。

 

「え?」

 

 ハインは携帯食を持ったまま、空いた方の人差し指だけで宙に小さな三角形を描いてみせた。

 

「たとえば、この第四から第五へ一枚渡す。第五から第六へ一枚。そして第六から第四へ一枚だ。これなら、同一の二チーム間での相互譲渡には当たらないだろう」

 

 らでんは思わず手元の画面へ視線を戻し、補足規定の文章を最初から読み返した。

 二チーム間のやり取りは禁じられているが、三つ以上のチームを跨いだ場合についての記述はどこにもない。

 

「……あ。本当だ、文章の通りに読むなら、そこはすっぽり抜けてます」

 

 ガロも数秒だけ黙って画面を見つめ、それから低く唸るように言った。

 

「……よくそんなところに気づいたな」

 

 ハインは何も答えず、手元の携帯食をもう一口だけ無造作に齧った。

 一般人の証人役にしてはやけに頭の回る指摘に、はじめとらでんの視線がふっと重なる。けれど、どちらかが口を開くより早く、ガロが床に広げた地図の上をトントンと指で叩いた。

 

 もっとも、規則の文章に穴が見つかったからといって、それをこの現場で実行できるかどうかはまったく別の話だった。

 ここは旧バルサ市の市街地と、その先に広がる森林や河川、山岳地帯を含めた広大な試験領域だ。現在残っているのは全部で九チーム。しかも、それぞれが別の開始地点から同じ北西の裁判所を目指して散り散りに動いている。

 その中から都合よく他の二チームを見つけ出し、攻撃される前に足を止めさせ、このルール解釈を説明して納得させる。さらに、その場で裏切らないと互いに信用した上で札を回し、おまけに開始から四十八時間の期限が来るまで他の誰にも奪われずに持ち続けなければならない。

 机の上でパズルを解くだけなら簡単な話でも、疑心暗鬼の現場へ持ち出せば一気に現実味がなくなる。

 

 ガロが広げた地図の上へ、太い指先を置いた。

 

「札を探すためだけに、俺たちの進路を変えるのは無しだ」

 

 ミナが眉を寄せて顔を上げる。

 

「でも、明日の零時までに一枚も取れなかったら、その時点で失格でしょ?」

「ああ。だから、札を探しながら目的地へ進む」

 

 はじめが横からひょいと地図を覗き込んだ。

 

「どうやって?」

「こっちから探し回るんじゃない。向こうから勝手に集まってくる場所を通る」

 

 ガロの指が、市街地を抜けた先の川沿いのルートをなぞった。

 そこには、昨夜の事務所と同じようにハンター協会が用意したと思われる給水施設がいくつか点在している。支給された携帯食なら、多少は空腹を我慢して歩き続けることもできるだろう。けれど、水だけはそうはいかない。

 実際、自分たちの水筒も朝の支度で飲んで、残りは半分を切っていた。これから市街地を出て本格的な森林部へ入れば、安全に水を補給できる場所はぐっと減る。

 その手前で、どのチームにとっても一番立ち寄りやすい位置にあるのが『第二浄水管理所』だった。配布された地図の上にも、そこにははっきりと水道栓の記号が印刷されている。

 

 らでんはその記号のすぐ脇に指先を添えた。

 

「ここなら、森へ入る前に何チームか立ち寄ると思います」

 

 はじめの声が、少しだけ弾んだ。

 

「じゃあさ、もう誰かが待ち伏せとかしてるかもね」

 

 ガロが地図から顔を上げ、三人を見回した。

 

「いいか、もし他のチームを見つけたら、まずは交渉だ」

「えっ、戦って取るんじゃないの?」

 

 心底意外そうに聞き返したはじめへ、ガロは呆れたように息を吐いた。

 

「お前な、昨日から俺の話を何聞いてたんだ。戦わずに済む方法があるなら、それが一番早くて安全に決まってるだろう」

「でもさ、『札をください』って言って、素直にくれるかな?」

「まあ、くれないだろうな」

「じゃあ、結局喧嘩になるじゃん!」

 

 ガロはやれやれと首を振りながら地図を折り畳んだ。

 

「交渉ってのはな、『ください』『嫌です』で終わるおままごとの会話のことじゃない。……だから、お前には絶対に任せん」

「にゃんで!?」

 

 あんまりな噛み方に、隣で聞いていたミナがぷっと吹き出した。らでんも堪えきれずに声を上げて笑った。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午前八時十三分、第二浄水管理所。

 ガロとらでんの予想は、ぴたりと当たっていた。

 管理所を見下ろす緩やかな斜面の手前で、先頭のガロがすっと右拳を上げて合図を送る。後ろの四人も即座に足を止め、雑草の茂みの中へ低く身を沈めた。

 

 隣にしゃがんだはじめが、息を潜めた小声で囁く。

 

「……いた」

 

 斜面のすぐ下は、低いコンクリートの塀で囲まれた浄水施設の敷地になっていた。

 その中央に据えられた円筒形の給水タンクのそばに、五人の人影がある。朝の強い日差しを受けて、銀色のタンクの表面が眩しく光を跳ね返していた。

 赤い腕章をつけた受験者が四人に、証人役が一人。すでに全員分の水筒へ水を補給し終えたところらしい。

 らでんは草の間から首を伸ばし、目を凝らして相手の腕元を確かめた。赤い腕章の端に、識別用の青いラインが入っている。

 

「青いライン……第六チームですね」

 

 らでんの報告に、ガロが短く頷く。

 

「ああ、一人も欠けずに四人とも揃ってるな」

 

 一人は、三十代くらいの体格のいい大柄な男だ。綺麗に剃り上げた坊主頭で、腰のホルダーには訓練用らしい黒塗りの短棍を差している。

 二人目は、四十歳前後の細身の男。給水タンクの陰に立ち、周囲を窺う動きが妙に静かだ。

 三人目の若い男は、足元に置いた背嚢の口を締めて荷物を整理している。

 そしてもう一人、らでんたちとそう歳の変わらなさそうな、十五歳くらいの少女がいた。背はあまり高くなく華奢な体つきに見えるのに、砂利の上に立つ足の置き方がどこか浅く、いつどこへでも跳び出せそうな独特の軽さがある。仲間と何か言葉を交わしながらも、その涼しげな目だけは油断なく敷地の外周を撫でていた。腰には、抜けないように革帯で固定された細長い得物を差している。

 

 隠れて近づけば奇襲と取られかねない。ガロの判断で、五人は茂みから身を起こし、正面の開いた門から堂々と管理所の敷地へと足を踏み入れた。

 靴底が乾いた砂利を踏みしめる音が、静かな施設内にざくりと響く。

 その音に気づいた瞬間、第六チームの四人が一斉に動いた。大柄な坊主頭の男が迷いなく一歩前へ出て壁になり、細身の男が証人役のすぐ脇へ寄り、荷物をまとめていた若い男が半歩後ろへ下がる。そして少女は、手にしていた水筒の蓋をパチンと閉めてこちらを向いた。

 

 ガロは武器を持たない両手のひらを相手によく見える高さまで上げ、よく通る声で呼びかけた。

 

「俺たちは第四チームだ」

 

 正面に立った大柄な男が、低い声で応じる。

 

「その腕章を見りゃ分かる」

「なら、話も早いはずだ。認証札のことで相談したい」

 

 一瞬だけ、大男の口元が皮肉っぽく動いた。

 

「奇遇だな。俺たちも、ちょうどその話がしたいと思ってたところだ」

 

 朝の涼しい空気が、ぴんと重たく張り詰める。

 誰も止めなかった給水栓から、ぽたり、ぽたりと水滴の落ちる音だけがコンクリートの上に響いていた。

 

 ガロは両手を上げたまま、正面から条件の擦り合わせを試みた。

 だが、言葉を交わすうちに状況の厳しさが浮き彫りになっていく。向こうも食料は十分に持っており、今のところ怪我人がいないからミナの医薬品も必要ない。水は今まさにここで補給し終えたばかりで、この先のルート情報など、そもそも敵になるかもしれない相手の言葉を信用できるはずもない。

 こちらが欲しいのは、第六チームの認証札が一枚。

 向こうが欲しいのも、こちらの認証札が一枚。

 けれど、この二チームだけで札を交換しても規則で無効になる。

 

 ガロがそこまでの前提を口にしている最中だった。正面の大男が、ちらりと目だけで自分の仲間たちの立ち位置を確かめたのが見えた。

 そのすぐ隣に立つ少女が、ガロの後ろにいるはじめの左腕――赤い腕章に留められた認証札をじっと見つめて、ほんのわずかだけ唇の端を持ち上げた。

 砂利を踏む少女のつま先が、まっすぐはじめの方へと向いている。

 それを見た瞬間、らでんの背筋がぞくりと粟立った。

 

 ――あ、この子、最初から交渉なんかする気ない。

 

「ガロさん!」

「何だ」

 

 らでんが慌てて声を上げた。「たぶん、向こうは――」と言いかけた、その言葉が終わるより前だった。

 

 少女の姿が、ふっと掻き消えたように動いた。

 

 パッと小石の跳ねる乾いた音だけが、元の場所に残る。

 たった一歩の踏み込みで、少女はすでにこちらの間合いの内側へと滑り込んでいた。右足が砂利の表面を滑るように前へ出て、低く沈んだ上体が後から吸い寄せられるようについてくる。予備動作と呼べるものがほとんどない。

 真っ直ぐに狙われたのは、はじめだった。

 

 少女の白い指先が、下からはじめの左腕へと伸びる。

 だが、はじめは考えるより先に、反射だけで半歩後ろへと飛び退いていた。

 少女の指先が金属の認証札の表面をかすかに撫でたが、掴み取るには至らない。空を切った手元を見て、少女の整った眉がほんの少しだけ跳ねた。

 

 少女は音もなく砂利の上へ着地し、一歩離れたはじめを真っ直ぐに見つめた。

 

「……へえ」

 

 踏み込んだとは思えないほど足音が小さい。はじめも自分の左腕を庇うように引きながら、目を丸くして声を上げた。

 

「うわ、今いきなり取ろうとしたね!?」

 

 すると少女は、落ち着いた声で、やけに古風な言い回しを返してきた。

 

「このまま話していても無意味に終わりそうだったので。ならば、隙を突いて一枚いただいた方が早いでござる」

「……ござる?」

 

 はじめが素っ頓狂な声で聞き返したのを合図にしたように、コンクリートの上でいくつもの足音が一気に乱れた。

 

 正面の大柄な男が、迷いなくガロへと突っ込んでくる。

 腰から抜きざまに振るわれた訓練用の短棍が、風を切って真横に薙がれた。ガロはそれを腕で受け止めようとはしない。半歩だけ後ろへ引いて棍の先端を鼻先でやり過ごし、振り切った相手の懐へとそのまま逆に入り込んだ。

 鍛え上げた肩と胸を、大男の胴体へ正面からぶつける。ドン、と重い肉のぶつかる鈍い音が響いた。

 

 並の人間ならそれだけで体勢を崩すはずの一撃だったが、大男は靴底で砂利を削りながらも踏み止まった。それどころか、楽しそうにニヤリと白い歯を見せる。

 

「お前、警備屋か?」

 

 ガロはすぐさま次の構えを取りながら、短く返した。

 

「何で分かる」

「重心の落とし方と動きが堅いんだよ!」

 

 大男の二撃目が振り下ろされる。今度はガロが踏み込み、短棍を握る太い手首を下から引っ掴んだ。そのまま関節を極めようと捻り上げるが、大男も強引に腰を回して力を逃がす。二人の革靴の下で、コンクリートの地面がギギッと激しく擦れ合った。

 

 同時に、タンクの陰にいた細身の男は、ガロたちには目もくれず後ろのミナとハインの方へと回り込んでいた。

 拳を振り上げるでもなく、蹴りを放つ構えもない。その鋭い目は、最初からハインの抱える銀色のケースだけをロックオンしていた。ケースを奪って三十分間引き回すか、それを人質に札を要求する算段だ。

 ミナは即座にハインの腕を引いて自分の背中側へと回し、自らが盾になるように男の前に立ち塞がった。

 

「ハインさん、私の後ろへ下がって!」

 

 細身の男がフェイントをかけて右へ動けば、ミナも正確に右へステップを踏む。すぐさま左へ切り返しても、ミナはハインとの直線コースを決して空けようとしない。攻撃は仕掛けず、徹底して二人の間の壁になり続ける。

 舌打ちした男が、苛立たしげに吐き捨てた。

 

「姉ちゃん、医者か何かか? その構えでまともに戦えんのかよ」

「救急救命士よ」

 

 ミナは眼鏡の奥の目を細めず、真正面から男を見据えて答えた。

 

「たぶん、殴り合ったら私の方があなたよりずっと弱いと思う」

「はっ、ずいぶん正直だな」

「ええ。でも、このケースと後ろの人は絶対に渡さないわ」

 

 そして、らでんの目の前にも、背嚢を放り出した若い男が立ち塞がっていた。

 左手には、大男が持っていたのと同じ短い訓練棒が握られている。男は目の前の小柄ならでんを見下ろし、困ったようにぽりぽりと頭を掻いた。

 

「いやあ……俺、あんまり子供を殴る趣味はないんだけどな」

 

 らでんはじりっと半歩後ろへ距離を取りながら、努めて軽い声で言い返した。

 

「奇遇ですね。私も、年上の人に殴られる趣味はまったくないです」

「だよな。じゃあさ、お互い痛い思いをする前に、大人しくその札をくれよ」

「すみません、それもちょっと嫌です」

 

 男が「だよなぁ」と苦笑いして棒を構え直した瞬間、その全身から気の抜けた雰囲気がすっと消え失せた。

 一歩踏み込んでくる靴音の鋭さが、さっきまでとはまるで違う。

 

 ――速い! 昨日の妨害役よりずっと!

 

 らでんは必死で目を見開き、男の最初の一撃を見極めた。

 黒い訓練棒の先端が、右肩を狙って伸びてくる。上体を反らしてぎりぎりで躱す。

 息をつく間もなく二撃目。今度は低く、足元を払うような横薙ぎだ。咄嗟にその場で跳び上がって棒をやり過ごす。

 だが、着地した瞬間にはもう三撃目が来ていた。

 頭では見えていても、浮いた身体の回避が間に合わない。らでんが咄嗟に上げた左腕の外側に、ゴッ、と硬いゴムの塊が叩きつけられる音がした。

 

「っ……!」

 

 熱い痛みより先に、肘から指先までビリビリと嫌な痺れが突き抜ける。昨日、煙幕の中でぶつけた左肩の奥まで一斉に疼いた。

 らでんは顔をしかめながら、転がるように数歩後ろへと飛び退いた。

 男は深追いしてこなかった。棒の先を軽く下げたまま、その場で問いかけてくる。

 

「どうする、降参するか?」

「……降参したら、この札は取られるんでしょう?」

 

 痺れる左腕を右手で押さえながら聞き返すと、男は肩をすくめた。

 

「そりゃあ、試験だから取るよ」

「じゃあ、降参はしません」

 

 らでんが奥歯を噛み締めて向き直ると、男は「ですよね」と小さく息を吐いた。

 

 短い打ち合いで、らでんははっきりと理解していた。この人とここでまともに殴り合っても、絶対に勝てない。

 棒を振る技術も、踏み込む足の速さも、そもそも大人の男との体格差も違いすぎる。まともに相手をしないと決めることは、別に恥ずかしいことでも負けでもない。

 自分の力で相手を倒せないなら、倒す必要がない場所へ引き込めばいい。

 

 らでんはくるりと踵を返し、すぐ後ろにあった浄水管理所の建物内部へと全力で駆け込んだ。

 背後から、男の呆れたような声と足音が追いかけてくる。

 

「おいおい、逃げるのか?」

「はい、逃げます!」

 

 開け放たれた鉄扉を抜けた先は、薄暗いポンプの操作室になっていた。

 外と違って道幅が狭く、天井も低い。部屋のあちこちに古い事務机やパイプ椅子、太い給水配管、それに背の高い制御盤が窮屈に並んでいる。大柄な大人の男が長い棒を振り回すには邪魔になるが、十二歳の小柄ならでんなら、その隙間をするすると潜り抜けられる。

 らでんは走り抜けざまに通路のパイプ椅子を手で引き倒した。追ってきた男が舌打ちしてそれを跳び越える。その隙に、らでんは大きな事務机の角を回り込んで距離を取った。

 

 机を挟んで回り込みながら、男が呆れた声を投げてくる。

 

「お前、ハンター試験の戦い方がそれでいいのかよ?」

 

 らでんは痺れる左腕を庇いながら、負けじと声を張り上げて言い返した。

 

「どんなやり方だって、最後に勝てばいいんでしょう!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 外の砂利の上では、少女の右足が再びすっと半歩だけ前へ出た。

 はじめの視線が、そのつま先の動きへと落ちる。

 次の瞬間にはもう、少女の顔が目の前にあった。さっきよりもさらに速くて近い。

 

 ――うわ、距離詰めるの早っ!

 

 少女の両手が、目にも止まらぬ速さで交互に繰り出される。

 はじめは上体を揺らし、首を傾け、ほとんど紙一重のところでそれを避け続けた。いや、自分で避けたというより、なんとか身体が勝手に逃げてくれたに近い。

 右から、左から、また右から。同じような手刀や掴みの動きに見えて、指先の伸びる角度もタイミングも一回ごとに微妙に違っている。

 

 下からの掬い上げに追い詰められ、はじめは堪らず後ろへ大きく跳んで声を上げた。

 

「うわっ!」

 

 着地した足元の砂利が、ざざっと意地悪く滑る。

 少女はそれすらも読んでいたように、はじめの体勢が崩れる着地地点へとすでに踏み込んでいた。

 だが、はじめは靴底が地面に噛む寸前で、空中で強引に腰を捻った。すぐ横にあった給水タンクの鉄の手すりを片手でパッと掴み、そこを支点にして自分の身体を真横へと滑り流す。

 

 タッ、と軽い音を立てて離れた場所へ着地したはじめを見て、少女の涼しげな目がわずかに見開かれた。

 

「……少しはやるね。何か格闘技は?」

「やってない!」

「じゃあ、剣術とかは?」

「やってないって!」

「体術は? その他もろもろ、何か習い事は」

「だから、そういうのはなんもやってない!」

 

 全力で首を振るはじめに、少女の表情がほんの少しだけ真面目なものに変わった。

 

「……本当?」

「本当!」

 

 少女は小さく息を吐き、腰を落として構え直した。

 

「それはちょっと……動きが読みづらくて嫌でござるな」

 

 再び間合いを詰めながら、少女は目の前の小柄な相手を冷静に観察していた。

 この子には、武術を修めた人間なら必ず身につけているはずの決まった型や構えというものが一切ない。一歩ごとの重心の移動も、その場の思いつきみたいに毎回少しずつ違っている。

 それなのに、どれだけ崩しても絶対に転ばない。こちらの動きを見てから頭で考えるのではなく、身体そのものが瞬時に反応して、危ない場所から先に逃げている。並外れて目がいいのか、それとも生まれつきの運動神経の塊なのか。

 

 少女はふっと小さく口元を持ち上げた。それでも、その鋭い視線ははじめの左腕にある赤い認証札から一ミリも外れていない。

 それに気づいたはじめも、負けじと声を上げた。

 

「絶対、取らせるか!」

 

 少女の側には、鍛え抜かれた確かな技術がある。間合いの測り方、視線での誘い、細かなフェイント、音を立てない足運び。はじめには、そういう名前のある技術は何一つない。

 その代わり、一度相手の動きの速さに目が慣れて噛み合ってしまえば、はじめの身体は水のように滑らかに流れ始めた。

 あの飛行船の展望室で、低く響くエンジンの振動に自分のステップを重ねて遊んでいたときと同じだ。少女が繰り出す鋭い拍子に対して、自分の身体の拍子をほんの少しだけずらして合わせる。

 少女の右手が腕章へ伸びてきた瞬間、はじめは逃げるのではなく、その手首の外側へ自分の手のひらを軽く添えた。相手が踏み込んできた勢いをそのまま借りて、くるりと独楽のように横へ滑り、少女の背後へと回り込む。

 

 自分の身体が思った以上に上手く回ったことに、はじめ自身が目を丸くして息を呑んだ。

 

「――っ!」

 

 けれど、驚くより先に右手は勝手に動いていた。がら空きになった少女の左腕、青いラインの入った腕章の認証札へと指先が伸びる。

 冷たい金属の縁に、指の腹が触れた。外れるまで、あとほんの数センチ。

 

「ッ! ――させるかっ!」

 

 鋭い気迫とともに、少女が無理やり空中で身を翻した。

 パッと指先が空を切る。

 

「あーっ、惜しいぃぃ!」

 

 悔しそうに声を上げたはじめの前で、少女が砂利の上へ着地し、素早く向き直って小さく笑った。

 

「今のは、かなり危なかったでござる」

 

 言われたはじめも、悔しさを忘れてにっと笑い返す。額から浮き出た汗が、頬を伝って顎へと落ちた。

 

「ねえ、もう一回!」

「いいよ。何度でも」

 

 二人が同時に楽しそうに構え直した、そのときだった。

 横で大男と組み合っていたガロの怒鳴り声が、コンクリートの塀にビリビリと反響した。

 

「はじめ! お前、試験中に遊ぶな!」

「遊んでないってば!」

 

 少女も少しだけバツが悪そうに頬を掻く。

 

「いや、拙者もちょっとだけムキになって――」

 

 すると、ガロの腕を押し返していた坊主頭の大男までが、少女に向かって吠えた。

 

「おい、お前も遊ぶな! さっさと札を取れ!」

 

 その隙を逃さず、ガロが低く言い放つ。

 

「よそ見してるお前もな」

 

 ガロの硬い右肘が、大男の無防備な脇腹へと深くめり込んだ。大男が「ぐっ!」と呻いて大きく体勢を崩す。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その頃、薄暗い建物内部の操作室では、ついにらでんの背後の逃げ道がなくなっていた。

 後ろは冷たいコンクリートの壁、左右は背の高い制御盤と太い配管。唯一の出口である通路の正面には、訓練棒を持った若い男が立ち塞がっている。

 

「よし、これで鬼ごっこは終わりかな?」

 

 男の声にはまだたっぷりと余裕がある。一方のらでんは、肩で荒い息を繰り返していた。さっき棒で殴られた左腕が、脈打つたびにズキズキと熱を持って痛む。

 男は訓練棒の先端をだらりと下げて、宥めるように言った。

 

「言っとくけど、俺たちが欲しいのはその認証札一枚だけだ。まだ試験の残り日数はあるし、他のチームから取るチャンスだってある。こんな狭い部屋で、無理に暴れて怪我を増やす必要はないだろ」

 

 らでんは荒い息を整えるふりをしながら、頭を動かさずに視線だけをほんのわずか横へと滑らせた。

 すぐ脇のコンクリートの壁に、黄色と黒の古い案内表示板が貼られている。そのすぐ下、床に近い配管の根元に『非常用洗浄設備』と書かれた鉄の作動ペダルが突き出ていた。

 さっきこの部屋へ逃げ込みながら、ちらりと目端で捉えていた設備だ。

 天井近くに据え付けられた予備の水槽タンク。薬品を扱う操作室の、排水溝へ向かってわずかに傾いたコンクリートの床。そして、自分が今立っている位置と、男が足を止めている床の低い窪み。ばらばらだった部屋の構造が、頭の中で一本の線になって繋がった。

 

 らでんは痛む左腕を押さえたまま、男を見上げて尋ねた。

 

「……じゃあ、最後に一個だけいいです?」

「あん? 何だよ」

「お兄さんの後ろ。危ないですよ」

 

 男は鼻で笑って、ぴくりとも後ろを振り向かなかった。

 

「ばーか、今さらそんな古典的な手に引っかかるわけないだろ」

 

 らでんは「ですよね」と頷きながら、右足の靴底で、足元の鉄ペダルを全体重をかけて思いきり踏み抜いた。

 

 ガコン、と配管の奥で重たい弁が外れる手応えが響く。

 男が初めて「え?」と頭上の天井を見上げた。けれど、もう遅い。

 

 男の真上にある古い大口径のシャワー配管から、溜まっていた大量の水が滝のように一気に落ちてきた。

 

「うわあっ!?」

 

 浄水用の薬品を浴びた作業員を丸ごと洗い流すための、非常用の洗浄水槽だ。上階のタンクから重力で落とす仕組みだから、街の電気が止まっていても関係なく作動する。

 埃っぽかったコンクリートの床が、一瞬にして水浸しになった。

 突然の濁流に視界を奪われた男が、慌てて後ろへ下がろうとして、傾斜のついた濡れた床でツルリと派手に靴底を滑らせる。

 その瞬間を、らでんは逃さなかった。水しぶきの中へ迷いなく飛び込む。狙うのは、男がバランスを取ろうと広げた左腕の認証札だ。

 

「っ、甘い!」

 

 体勢を崩しながらも、男は反射的に空いた右手を伸ばし、踏み込んできたらでんの右手首をガッと引っ掴んだ。

 

「っ……!」

 

 大人の男の握力は、想像していた以上に強い。そのまま手首を捻り上げられ、骨が軋むような痛みにらでんの顔が歪む。

 ――このままじゃ振り払えない。なら、引くんじゃなくて、もっと前へ!

 らでんは掴まれた右手を引くのをやめ、逆に自分の小さな身体ごと男の懐へと真っ直ぐに突っ込んだ。

 

「なっ――!?」

 

 痛む左肩と胸を、男の脇腹へぶつける。もちろん、まともな力比べなら体格差で押し勝てるはずがない。

 けれど、男の足元は水浸しのコンクリートだ。らでんに下から潜り込まれた拍子に、男の踏ん張っていた軸足がまたほんの数センチだけ滑った。

 その一瞬、らでんの手首を掴んでいた男の指の力がふっと緩む。

 らでんは強引に自分の右手を抜き、そのまま男の左腕の腕章へと指を掛けた。濡れた留め具の金具に爪が引っ掛かり、パチン、と札が外れる確かな手応えが指先に伝わった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 外の敷地でも、決着の瞬間はほとんど同時に訪れていた。

 何度も打ち合いを重ねていた少女が、ここで初めて、全身を使った大きなフェイントを入れたのだ。

 左側から回り込むような深い踏み込み。はじめの身体が、反射的にそちらへと反応してしまう。

 

「あっ、しまっ――!」

 

 はじめが声を上げた瞬間には、少女の身体は逆の右側へと滑るように切り返していた。

 少女の白い指先が、はじめの左腕の腕章へと届く。ほぼ同時に、体勢を崩したはじめも少女の腕へと右手を伸ばした。

 カチッ、と硬い金属音が一つだけ鳴り、誰かの腕章から外れた小さな認証札が朝の光の中で宙へと跳ね上がった。

 お互いの動きが速すぎて、自分の札か相手の札かも咄嗟には分からない。はじめと少女は、同時に落ちてくる金属片へと手を伸ばした。

 

 まさにそのとき、建物の入り口から弾けるような声が飛び出してきた。

 

「はじめさん!」

 

 操作室の鉄扉から駆け出してきたのは、頭から水をかぶって髪も上着もびしょ濡れになったらでんだった。

 その高く掲げられた左手には、青いラインの入った第六チームの金属札がしっかりと握られている。

 らでんが息を切らしながら、敷地いっぱいに響く声で叫んだ。

 

「取った!!!!」

 

 その声を聞いた瞬間、はじめの顔がパッと太陽のように明るくなった。

 

「マジで!?」

「はい、取りました!」

 

 らでんが札を握り締めて頷いた、その一瞬だった。

 はじめは、目の前の宙に浮いていた認証札へ伸ばしかけていた自分の手を、すっと迷いなく引っ込めた。

 代わりに、一歩踏み込んだ少女の指先が、落ちてきた金属札をそのまま空中でパッと掴み取る。

 少女の手の中に収まったのは、赤い印の入った第四チーム――今まさに、はじめの左腕から外れたばかりの認証札だった。

 

 少女は自分の手の中の赤い札と、目の前で手を引っ込めたはじめの顔を交互に見て、少しだけ意外そうに目を瞬かせた。

 

「……取り返さないので?」

 

 はじめは、操作室の前でらでんが掲げている濡れた金属札を見た。それから、少女の手の中にある自分の札へ視線を戻す。

 

「うん。だって、うちらが欲しかったのはもう一個あるから」

「でも、これはあなたの札でござるよ?」

 

 言われて、はじめは自分の左腕をちらりと見た。認証札が外れて空っぽになった留め具が、なんだか妙に軽く感じる。

 それでも、はじめはすぐに顔を上げてにっと笑った。

 

「いいの。もう、らでんが取ってくれたから!」

 

 少女はぴたりと口をつぐんだ。そして、誰にも気づかれないくらいほんの一瞬だけ、なぜかとても嬉しそうな顔をした。

 

 すぐ横で、大男を突き放したガロの号令が響き渡る。

 

「よし、目的は果たした! 撤退だ、全員走れ!」

 

 ミナの後ろにいたハインを先頭に、第四チームの五人が一斉に敷地の裏門へと向かって駆け出す。

 体勢を立て直した第六チームの大男が「待てコラ!」とその後を追おうとしたが、横にいた少女が片手を上げてそれを制した。

 

「待って、追わなくていい」

「あん? いいのかよ!」

 

 少女は、自分が掴み取ったばかりの金属片を大男の方へひらりと見せて答えた。

 

「こちらも、必要な一枚は取れたから」

 

 その手の中で、第四チームの赤い認証札が光っている。自分たちの目的も達成した以上、これ以上消耗する理由はないという判断だった。

 

 第四チームの五人は、裏門を抜けて林の道へと走る。

 一番後ろを走りながら、はじめは自分の左腕をもう一度撫でた。やっぱり札がないと少しだけ軽いし、最後のフェイントに引っかかったのもちょっとだけ悔しい。

 そう思ったとき、背後から澄んだ声が追いかけてきた。

 

「――そこの!」

 

 はじめが走りながら首だけを後ろへ巡らせる。

 少女は追いかけてきてはいなかった。管理所の裏門のところに一人で立ち、こちらを真っ直ぐに見つめている。その右手には、はじめの赤い認証札が握られていた。

 少女はほんの少しだけ迷うような間を置いてから、声を張り上げて叫んだ。

 

「それが返してほしければ、あとで自分で取り返すでござる!」

 

 はじめは大きく息を吸い込み、後ろ向きに走りながら全力で叫び返した。

 

「おう! 絶対取り返すからなー!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 管理所から離れて十五分ほど走り続けたところで、ようやくガロが足を止めた。

 木々に囲まれた小さな窪地に入ると、全員から一斉に荒い息が漏れる。

 らでんは近くの太い木の幹へ背中を預け、そのままずるずると地面へ膝をついた。濡れた前髪から水滴が垂れるのも構わず、ふっと乾いた笑いが漏れる。

 

「あー……つっかれた……」

 

 そのすぐ横へ、はじめもどさりと音を立てて座り込んだ。

 

「ごめん、うちの札、最後に取られちゃった」

「外に出たときにちらっと見ました。あの相手の人、ものすごく速かったですね」

 

 らでんが言うと、はじめは悔しそうに口を尖らせてから、すぐにへらっと笑った。

 

「うん、びっくりした。でも、戦うのすっごく楽しかった。……らでん、札取ってくれてありがとう」

 

 らでんが差し出した第六チームの認証札を、ガロが受け取る。

 まだ非常用水槽の水で濡れている金属片の表面には、小さく『164』という受験番号が刻まれていた。ガロがそれを自分の赤い腕章の読み取り部へかざすと、ピピッ、と澄んだ電子音が鳴った。

 

《他チーム認証札:1》

 

 画面の表示を確かめたガロが、短く告げる。

 

「よし、認証成立だ」

 

 その一言だけで、張り詰めていた全員の肩からふっと力が抜けた。隣で息を整えていたミナが、ほっとしたように胸を撫で下ろす。

 

「あとは、これを明日の零時まで奪われずに守り切れば安心ね」

 

 はじめは自分の左腕を持ち上げて、空になった固定具の跡を指でつついた。

 

「うちの札は取られちゃったけどね」

「規則上は問題ない。腕章ごと奪われたわけじゃないから、三十分の足止めもないしな」

「それはそうだけどさ、なんかちょっと悔しいんだもん」

 

 ガロとそんなやり取りをしている横で、ミナはすぐにらでんの左腕へ目を留めていた。

 水で濡れた上着の袖口、その下の腕が不自然に赤く腫れ上がっているのを、救急救命士の目は見逃さない。

 

「らでん、ちょっとその左腕見せて」

「あ、いえ、大丈夫です」

 

 反射的に手を引こうとしたらでんへ、ミナは眼鏡の奥でじっと目を細めた。

 

「大丈夫かどうかは、私がちゃんと見てからね。ほら、出して」

 

 有無を言わせぬ優しい声に観念して腕を差し出すと、ミナは手早く濡れた袖をまくり上げた。訓練棒をまともに受けた前腕の外側が、熱を持って赤く腫れている。

 ミナは腫れの周りを指先でそっと触れながら尋ねた。

 

「……うん、骨まではいってないと思う。でも、かなり腫れてるわね。押すと痛みは?」

「あ、このあたりがちょっと響きます」

「そのあたりね。冷やして固定しておくから、あんまり左手で重いものを持ったり無理したりしないこと」

 

 ミナの慣れた手つきで湿布と包帯が巻かれていく間、らでんはガロの手にある『164』の金属札をぼんやりと見つめていた。

 さっきの若い男は、間違いなく自分よりずっと強かった。広い場所で正面から打ち合っていたら、今頃自分の札を取られて終わっていたはずだ。

 けれど、操作室の狭い通路と、床の傾斜と、あの古い洗浄設備の水を使ったから、こうして札を手にしている。自分の腕力じゃなくても、周りのものをちゃんと見て使えば戦えるのだと、痛む腕の奥で静かに噛み締めた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午前十時三十二分。

 川沿いの道を進んでいた五人は、打ち捨てられた旧河川監視所の桟橋で、一隻の小型保守艇を見つけた。

 後ろに小さな船外機がついた作業用のボートだ。ガロがタンクを揺らして確かめると、中に燃料が三分の一ほど残っていた。

 地図と照らし合わせれば、このまま川を遡って北西の旧物流港までおよそ十二キロ。徒歩で荒れた川岸の道を歩くより、二時間以上も早く先へ進める計算になる。

 ただし、遮蔽物のない広い川面をエンジン音を響かせて走れば、周囲からは丸見えになるという弱点があった。

 

 らでんは穏やかに流れる灰色の川面を見渡して、少し眉を寄せた。

 

「これ、川の上に出たらかなり目立ちますね」

 

 船外機の点火プラグを確かめていたガロが、顔だけを上げて聞き返す。

 

「ここから陸路で歩いた場合はどうなる?」

「……川が大きく蛇行してますから、道沿いだとかなりの遠回りになります」

「時間にしてどれくらいだ」

 

 らでんは手元の地図で距離を測り直して答えた。

 

「ハインさんの歩くペースも考えると、だいたい三時間は余計にかかります」

「なら、船を使う。三時間短縮できるなら、多少目立つリスクはここで取る価値がある」

 

 ガロが決断すると、桟橋の端でボートを覗き込んでいたはじめがパッと嬉しそうに手を叩いた。

 

「やった、船がいい!」

 

 舫い綱を解き、五人を乗せた小型の保守艇が桟橋から川面へと滑り出す。

 ガロがスターターロープを引くと、乾いた音を立てて船外機が目を覚まし、白く泡立つ水流が川面を力強く叩き始めた。

 冷たい風を切ってボートが進むにつれ、両岸に並んでいた廃都市の灰色の建物が、どんどん後ろへと流れていく。

 風を受けたはじめが、気持ちよさそうに船首の狭いところで立ち上がろうとした。その拍子に、小さな船体がぐらりと横へ揺れる。

 すぐ後ろに座っていたミナが、慌ててその裾を引っ張った。

 

「ちょっと、危ないわよ! ちゃんと座って!」

「えー、心配しすぎだって。これくらいで落ちないってば」

「川に落ちる人はね、落ちる直前までみんなそう言うんだから!」

 

 ミナの剣幕に押されて、はじめは「はーい」と渋々その場へ腰を下ろした。

 らでんは二人のそんなやり取りを背中で聞きながら、流れていく両岸の景色から目を離さずにいた。

 錆びついた鉄橋、壁の崩れた廃倉庫、藻の絡みついた古い船着場、そして高く積まれたコンクリートの堤防。

 そのうちの一つの古い橋の下をくぐり抜けた、ほんの一瞬のことだった。

 頭上の橋の欄干のところに、ぽつんと二つの人影が立っているのが見えた。上から、川面を走るこちらのボートをじっと見下ろしている。強い朝の逆光になっていて、顔立ちや腕章の色までは見えない。

 

「あ、今、橋の上に――!」

 

 らでんは咄嗟に声を上げてガロの方を振り返ったが、その声はすぐ後ろで唸りを上げる船外機の激しいエンジン音と水しぶきに、そのまま掻き消されてしまった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後一時ちょうど。

 燃料が尽きる寸前で目的の旧物流港へ辿り着いた五人は、桟橋に保守艇を乗り捨てて、再び徒歩での移動へと戻った。

 ここから先は完全に市街地が途切れ、北西の裁判所へ向かう深い森林地帯へと入っていく。

 地図の上に描かれた進路は、大きく分けて二つあった。

 一つは、かつて大型トラックが往来していた道幅の広い『旧物流道路』。目的地までほぼ一直線の最短ルートだが、途中の深い谷を渡る場所に、大きな橋が一本だけ架かっている。

 もう一つは、山の斜面を縫うように走る『旧搬送路』だ。かなり大回りになる上、今はもう使われていない細い山道で、路面がどうなっているかも行ってみなければ分からない。

 

 ガロは地図を広げ、迷わず太い線の最短ルートを選ぼうとした。

 だが、その指先が谷を渡る橋の記号に触れたところで、横から覗き込んでいたらでんがもう一方の細い山道を指差した。

 

「ガロさん、こっちの旧搬送路から行った方がいいと思います」

「理由は」

 

 短く問うガロに、らでんは物流道路の真ん中にある橋の記号をトントンと指で示した。

 

「この最短の物流道路を行くと、途中で絶対にこの一本橋を渡ることになります。川の向こうへ抜ける道がここしかありませんから、もし他のチームや妨害役が待ち伏せをするなら、ここが最高の場所になっちゃうんです」

 

 ガロは眉を寄せ、地図の橋の記号を見つめた。

 

「だが、そっちの山腹の搬送路はどうだ?」

「……正直、かなり遠回りになります」

「ああ。ハインを連れて歩くには、距離が遠すぎるな」

 

 ガロの慎重な言葉に、らでんはさらに指先を動かして、搬送路の途中にある小さな四角い印を指した。

 

「でも、こっちの道の途中には『旧採石施設』があります。これだけ大きな作業場なら、資材を運ぶための別ルートや迂回路が奥に通じている可能性もあります」

「その迂回路が今も使えるという確証は?」

「ないです」

 

 きっぱりと即答したらでんを見て、隣のはじめが可笑しそうに吹き出した。

 

「あはは、らでんってさ、そういう分からないことは堂々と言うよな」

「だって、ないものはないですから」

 

 肩をすくめるらでんの横で、ガロは数秒間だけ黙って二つの道を見比べ、それから地図を閉じて顔を上げた。

 

「……よし。さっきの船で、予定より二時間以上は時間を稼げている。一本橋で罠に嵌まるよりはマシだ、ここは山腹の搬送路で行くぞ」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後二時四十分。

 鬱蒼とした木々が頭上を覆う森林地帯へ入ってから、しばらく歩いた頃だった。

 先頭のガロのすぐ後ろを歩いていたはじめが、突然ピタリと足を止めた。

 

 後ろのらでんが、ぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。

 

「はじめさん、何です?」

「……音」

 

 はじめは前を向いたまま、耳だけを澄ますように首をわずかに傾けた。

 ガロもすぐに足を止め、低い声で尋ねる。

 

「何の音だ」

「ずっと後ろの方。枯れ枝を踏む音」

 

 その一言で、五人全員が息を潜めて静まり返った。風が梢を揺らす音だけが、ざあっと頭上を通り過ぎていく。

 はじめは後ろの森の暗がりを睨みながら、小さく呟いた。

 

「さっきからさ、うちらが歩くと後ろから音が来るの。でも、うちらが止まると向こうもピタッと止まる」

 

 ガロは無言で手元の合図を送り、五人は足音を殺して山道から外れ、すぐ脇の深いシダの茂みの中へと身を隠した。

 そのまま息を殺して待ち受ける。

 一分、二分。森の中には鳥の声一つしない。

 そして三分が過ぎた頃、自分たちがさっきまで歩いていた山道のずっと後方から、パキッ、と乾いた小枝の折れる音が確かに一つ響いた。

 茂みの中で、はじめが黙ってこくりと頷く。

 気のせいじゃない。誰かが確実に、一定の距離を保って自分たちの後ろをつけている。

 

 らでんの脳裏に、昼前にボートで川を遡っていたとき、頭上の古い橋の上からこちらを見下ろしていた二つの逆光の人影がよぎった。

 

「……あの、さっき船に乗ってたとき、橋の上からこっちを見てた二人組がいたんです。もしかしたら、その人たちかもしれません」

「何人だった」

「橋の上で見えたのは二人だけでした。エンジン音で声が届かなくて、言えなくてすみません」

 

 らでんが小声で報告すると、隣でケースを抱えていたミナが声を落として尋ねた。

 

「二人ってことは、妨害役かしら? それとも他の受験者?」

「どっちにしろ、見えたのが二人だからといって、敵が二人だけとは限らん。一チーム全員が揃っていてもおかしくないぞ」

 

 ガロの言葉に、全員で改めてハインの安全と銀色のケース、そしてガロの腕章に入った認証札を確認し合う。

 はじめが茂みの隙間から道を覗き込みながら聞いた。

 

「ねえ、どうする? ここで待ち伏せしちゃう?」

 

 ガロは首を振った。

 

「いや、このまま先へ進む」

「逃げるってこと?」

「違う。俺たちが戦う場所を、俺たち自身で選ぶ」

 

 相手の人数も得物も分からないまま、こんな見通しの悪い森の中で足を止めれば、向こうの都合のいいように包囲されかねない。狭い山道や不利な足場を相手に選ばせないための前進だった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 だが、茂みを出てから五分ほど進んだところで、旧搬送路の地形は一気に険しくなった。

 山の斜面を無理やり削って作られた崖沿いの道だ。すぐ左側は切り立った岩肌が迫り、右側は古いガードレールと錆びた鉄柵があるだけで、その先は深い谷底へと落ち込んでいる。

 道幅はわずか三メートルほどしかなく、しかも湧き水で湿った古いアスファルトは苔と浮き砂でひどく滑りやすかった。

 

 先頭を行くガロが、険しい顔で舌打ちした。

 

「くそ、こんな足場で挟まれたら終わりだ。ここは駄目だ、急いで先へ抜けるぞ」

 

 らでんは走りながら胸元の地図を広げ、現在地から先の距離を目で追った。

 

「ガロさん、さっきの旧採石場まであと八百メートルくらいです! あそこなら開けてますから、急ぎましょう!」

 

 五人は一斉に走る速度を上げた。

 まさにそのときだった。背後の山道から、小枝を踏む音どころではない、複数の人間が全力で地面を蹴って迫ってくる足音が響き渡った。

 もう尾行に気づかれたと知って、隠れるつもりすらなくなったらしい。

 

 ガロが振り返りざまに吠えた。

 

「後ろから来るぞ!」

 

 走りながら全員が背後を見る。

 木々の影から飛び出してきたのは、赤い腕章をつけた見知らぬ受験者の男だった。その右手には、どこかの施設から回収してきたのか、灰色の小さな金属筒が握られている。

 

 男が、その金属筒を山側へ向かって放り投げたのを、ガロが真っ先に見た。

 

「伏せろっ!」

 

 放物線を描いた小さな円筒が、らでんたちのすぐ横にある切り立った山側の斜面へと落ちる。

 次の瞬間、火薬の爆発というよりは、空気を無理やり圧縮して弾けさせたような乾いた破裂音が鼓膜を突き刺した。

 その衝撃波だけで、長年の雨風で脆くなっていた頭上の古い斜面の土砂が、ごっそりと音を立てて崩れ落ち始める。

 崩れ落ちてくる土煙を見上げたその瞬間、らでんの頭の中で、冷たい氷の塊が落ちたようにすべての意味が繋がった。

 

 ――違う。私たち、ここでたまたま追いつかれて襲われたんじゃない。

 最初から、この一番道幅が狭くて脆い崖っぷちの通路まで、後ろから計算して追い込まれたんだ!

 

「止まるな、走れェッ!!」

 

 ガロの怒号と同時に、足元の地面そのものが低く唸りを上げて揺れた。

 ミナも、ハインも、ガロも、はじめも、そしてらでんも、崩れ落ちてくる土砂から逃れようと必死で前へと足を踏み出す。

 

 そのとき、一番後ろを走っていたらでんのすぐ足元で、ピシッ、と乾いた音がして古いアスファルトに黒いひびが走った。

 一歩、もう一歩と前へ跳ぼうとしたが、すでに遅い。

 足裏から硬い地面の感触がすっぽりと消え失せ、道そのものが谷側へと大きく崩れ落ちた。

 

「――っ!」

 

 声にならない息を呑みながら、らでんの身体が宙へと投げ出される。

 吹き上げる風の中、らでんはただ反射だけで両手を前へと伸ばした。指先が、崩れ残った道端の古い鉄柵の支柱にガッと触れる。

 夢中でそれを掴み取った瞬間、全体重が両腕にかかり、昨日から痛めていた左肩の奥へ、引きちぎれるような激しい衝撃が走った。

 

「ぐっ……!」

 

 食いしばった奥歯から、苦しい呻き声が漏れる。

 らでんの頼りない両足は、完全に何もない空中を蹴っていた。見下ろせば、自分のつま先の五メートルほど下に崩れた急斜面があり、その先は木の葉に隠れて底すら見えない深い谷底へと落ち込んでいる。

 崩れたアスファルトの破片や小石が、ぶら下がるらでんの身体のすぐ横をかすめて次々と谷底へ落ちていく。カン、と石が底に当たるまでの長い間隔が、そのままこの谷の恐ろしい深さを教えてくれた。

 掴んでいる古い鉄柵が、ギギッ、と今にも根元から抜けそうな嫌な音を立てて沈む。

 

 崩落を免れたすぐ上の道から、真っ青な顔をしたはじめが叫びながら駆け戻ろうとした。

 

「らでん!!」

 

 足元の縁から、まだパラパラと土塊が崩れ落ち続けている。

 戻ろうとしたはじめの細い腕を、ガロが横から強く引っ掴んで引き止めた。

 

「待て、はじめ! 今そこへ寄ったら、足元ごとまた崩れるかもしれん!」

「離してよ!」

 

 必死でもがくはじめへ、ガロがいつになく大きな声で怒鳴りつけた。

 

「行くなと言っている!」

 

 それは頭ごなしに叱りつける声ではなく、この場で一番危険な行動を取ろうとしている子供を必死で止めようとする、紛れもない説得の言葉だった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 鉄柵にぶら下がったまま、らでんは土煙の向こうにいる二人を見上げて、喉が張り裂けるくらいの声で叫んだ。

 

「はじめさん! ガロさんの言う通りです、こっちへ来ないで!」

「でも、らでんが!」

「危ないです! 今ここへ来たら、そこも一緒に崩れます!」

「だからって、このまま置いてけないよ!」

「いいから、先に行ってください!」

 

 ――ああ、そうか。今、私は置いていかれる側になったんだ。

 

 ズキズキと脈打つ左肩の痛みの中で、らでんの頭は不思議なくらい冷えていた。

 昨日、壊れた電話ボックスの前で出会った、あの足首を捻挫していた他チームの受験者の顔が浮かぶ。あの人が自分を囮にして仲間を先へ行かせたように、これが自分のことだけなら、出すべき答えは最初から簡単だった。

 ここでみんなが足を止めて、追ってきた敵にケースや証人、それにさっきせっかく取ったばかりの認証札まで奪われるくらいなら、自分一人を置いて先へ行かせればいい。

 

 鉄柵がまたミシリと鳴る。らでんは残った力を振り絞って、もう一度だけ上へ向かって叫んだ。

 

「はじめさん! 早く行って!!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 崖の縁に立ったはじめは、何も言い返さなかった。

 舞い上がる白い土煙の向こうに見えるその小さな顔は、飛行船の展望室で楽しそうに笑っていたときの顔とも、今朝、少女に自分の札を取られて子供みたいに悔しがっていたときの顔とも、まるで違っていた。

 

 その横で、ガロが低く押し殺した声で告げる。

 

「……行くぞ」

 

 はじめは、自分たちが進むべき採石場への道と、後ろでミナに守られている証人のハイン、銀色のケース、そして仲間たちの顔を順番に見て――それから、くるりと背を向けて一歩だけ前へと踏み出した。

 

 遠ざかりかけたその小さな背中を見上げて、らでんの胸のどこかが、きゅうっと音を立てるように少しだけ痛んだ。

 けれど、これでみんなが助かるのだと、心の底からほっと安心した。

 

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