ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
僕には、死ぬ前の記憶があった。
こう言うと、何やら大きな使命を託されて生まれ直した者のようだが、記憶の中に神様も不思議な声も出てこない。前の人生の大半は白い壁と白い天井に囲まれた病室で過ぎ、窓の外だけが季節に合わせて色を変えた。
朝になれば体温を測られ、決められた薬を飲む。具合がよければ少し勉強をして、悪ければ眠った。昼には検査か点滴があり、夕方になると家族が顔を見せた。大きな予定といえば、それくらいだった。
前の人生は十六歳になる少し前に終わったはずだ。学校より病室にいた時間のほうが長く、話す相手も家族と医師と看護師がほとんどだった。
楽しみは、ゲームだった。
上手だったかと聞かれれば、まるでそんなことはない。特に反射神経と集中力を求められるアクションゲームには、好きなだけでは越えられない谷があった。体調の波に指の動きまで左右される身では、画面の向こうで暴れ回る怪物の攻撃を見切るのは難しい。
それでも、『モンスターハンター』は好きだった。
巨大な生物が本当にどこかで暮らしているように感じられる世界。装備の説明文にわずかに残された伝承。骨格や食性から組み立てられた生態。人の住む村と、その外に広がる圧倒的な自然。それらを眺めていると病室の窓よりずっと遠くへ行ける気がした。
実際の狩猟については、行ける気がするだけだった。
初心者の壁などと呼ばれる怪鳥に追い回され、慌てて回復薬を飲もうとして突進を受ける。武器を研ぐ場所を間違え、尻尾に弾き飛ばされる。ようやく相手が弱った頃には、こちらの集中力が尽きていた。そんな有様だったから、物語の奥にいる怪物たちへ自力で会いに行くことは早々に諦めた。
代わりに、設定資料集を読んだ。
枕元には『ハンター大全』をはじめとする分厚い本が何冊も積まれていた。ゲームを普通に進めるだけでは気づけない話や、画面では一瞬しか見えない身体の作りが載っている。僕は頁の隅にある小さな骨格図まで眺め、気に入ったモンスターを何度も模写した。
ゲームでは出会えなかった怪物も、本の中なら逃げない。見開きの図を好きなだけ観察でき、手が疲れれば途中で休めた。なぜその脚で歩けるのか、どこへ体重を預けているのかを考えながら線を引く時間は、狩猟に失敗するより僕に合っていた。
前世の僕は、そうやって本を読み、絵を描き、たまに怪鳥に追い回されながら生きた。
最期のことは、あまり覚えていない。
枕元に資料集が置いてあったことと、今日は続きを読めそうにないと思ったことだけは覚えている。眠るつもりで目を閉じ、次に気づいた時には、知らない女の人に抱かれていた。
それから十一年が過ぎた。
読んだ本の中身や、何度も描いた絵は今も覚えている。病室で暮らしていたのが自分だったことも分かる。ただ、思い出すときはゲームの画面越しに昔の僕を見ているようで、その頃の気持ちは少し遠い。十六歳近くまで生きた続き、という感じがしないのだ。
今の僕は走れる。階段を上っても息が切れず、熱を出すたびに周りが顔色を変えることもない。初めの数年は、朝起きても胸が苦しくないことに毎日驚いていた。十一歳になった今では慣れたものの、身体を好きなだけ動かせるありがたさまで忘れたつもりはない。
しかも今の両親は、大陸中央部の都市で商いを営んでいた。父の店は布地や顔料、香辛料に乾燥させた薬草など、旅商人や職人が必要とする品を広く扱っている。大富豪と呼べるほどではないが、食卓から肉が消える心配はなく、子供に紙と絵具を買い与える余裕もあった。
母は帳簿に強く、父より値切りに厳しい。五歳上の姉は店を手伝いながら得意先の顔と名前を覚え始めていた。僕にもいずれ商売を学ばせるつもりらしいが、今のところ急かされてはいない。
父に絵を褒められれば、母にも見せに行く。仕事中なら終わるまでそばで待つ。店の手伝いもそのくらい熱心にしてほしいと姉には言われるけれど、それとこれとは話が違う。
理想的だった。
前の人生で使えなかった分まで丈夫な身体を大切にし、成人したら家業を手伝う。帳簿をつけ、ときどき絵を描き、危ないことには近づかない。長生きして、できれば老衰で死ぬ。
目標としては、かなり健全だと思う。
そういえばこの世界には、竜がいるらしい。
初めてその話を聞いた時も、僕はさほど驚かなかった。生まれ変わった後では、竜の一頭や二頭で驚けと言われても順番が悪い。
もっとも、僕の暮らす都市で本物の竜を見た者はほとんどいない。街は高い城壁に囲まれ、外へ延びる街道には定期的に護衛がつく。危険な獣は狩人やギルドの者が追い払うため、空を飛ぶ巨大な竜など吟遊詩人の歌にしか出てこなかった。
歌の中の竜には、たいてい名前がなかった。火を吐けば火竜、砂漠に棲めば砂竜、山ほど大きければ山の竜。勇敢な狩人か騎士が剣を振るうと、最後には必ず倒される。
市場では大きな鱗や牙も売られていたが、仕入れ先は遠い地方だった。磨かれ、飾り金具に収まった鱗は生き物の一部というより珍しい宝石に見えた。
だから僕は、この世界を前世のゲームと結びつけなかった。
それでも時々もしやと思うことはあった。猫に似た二足歩行の人々は、物心がつく前から市場を歩いており、ある時僕は母に、あの人たちは何という種族なのか尋ねた。
「獣人族の方よ。じろじろ見るものではありません」
母には叱られ、父に聞いても「あの方はうちのお客だ」としか教えてもらえなかった。
商人の答えとしては正しい。僕が聞きたかった答えではない。
アイルーに似ているとは思った。しかし彼らは言葉を話し、市場で働き、魚の値段を巡って母と口論していた。猫に似た人が出る物語は前世にも珍しくなく、聞かされた種族名も違う。昔の記憶に引っ張られているだけだと、その時は片づけた。
ほかにも、たまに竜人族や土竜族、海人族と呼ばれる人たちを見かけた。耳が尖っていたり、水かきがあったりするらしい。人よりずっと長生きする種族や鍛冶の得意な種族もいると聞けば、エルフやドワーフみたいな人たちなのだろうと思った。
何より、ここには画面も体力の数値もない。倒れても拠点へ運んでもらえる保証はなく、やり直しもできない。
仮に似た世界だったとしても、僕には関係のない話だった。竜と戦う者になるつもりなど毛ほどもないからだ。
「店先を見ていてちょうだい」
昼を過ぎた頃、母が奥の倉庫から声をかけてきた。
「お父さんが戻るまででいいから。荷車が来たら呼んで」
「分かった」
返事をした僕は、会計台の横へ椅子を運んだ。
市場の大通りに面した店内には、乾いた薬草と油、それに皮革の匂いが混じっている。昼時を過ぎて客足は落ち着いていた。店の前を荷車が通るたび石畳を車輪が鳴らすものの、急いで片づける仕事はない。
僕は荷包みから切り落とした紙を取り出した。端が歪んでいるため売り物にはならない。父が帳簿に使えない紙を残しておいてくれたもので、質はよくないが炭筆なら十分に描ける。
何を描くか少し考え、飛竜にした。
午前中、通りを歩いていた吟遊詩人が火竜の歌をうたっていたからだ。歌詞に出てきたのは炎を吐き、赤い翼で太陽を隠す怪物だった。最後には若い騎士が姫を救い、火竜は胸を剣で貫かれて死ぬ。
胸を剣で貫くところまでどうやって近づいたのだろう。歌の火竜が前世で見たあれらと同じ程度の大きさなら、騎士が剣の間合いへ入る前に焼かれるはずだ。歌の中では、騎士にも火が遠慮するのかもしれない。
歌へ難癖をつけても仕方がないので、代わりに記憶の中の火竜を描くことにした。
丸を置いて頭部の位置を決め、背骨の流れを薄く引く。身体の中心から後脚へ重みを移し、前脚にあたる場所から翼を伸ばす。羽ばたいている姿ではなく、高所へ降り立った直後の姿にした。
リオレウス。
名前まで、きちんと覚えている。
モンスターハンターを象徴する怪物の一頭で、設定資料でも何度となく見た。格好よかったので模写した回数も多い。ゲームで相手をするのは嫌だったが、絵なら火球も飛んでこない。文句なく好きなモンスターだった。
頭部を低くしすぎたので線を指でこすって消す。首と胴のつながりを直し、翼膜を広げる。鱗を一枚ずつ描き込む必要はない。遠目にもそれらしく見える大きな流れを拾い、曖昧な部分だけ線を重ねた。
楽しくなってきた。
前世では長く机に向かっていると腕が重くなった。今は炭筆を握った手が思いどおりに動き、姿勢を変えるために立ち上がっても目眩がしない。
火竜の右脚を紙の手前へ出す。爪は獲物を押さえる形に開いた。そこまで描いて毒爪だったことを思い出したが、断面図でもないのに内側の器官を描くわけにはいかない。代わりに爪の根元へ少し厚みをつけた。
口は大きく開かせず、歯の隙間から熱が漏れているようにする。咆哮する姿より、黙ってこちらを見下ろす姿のほうが怖い。
「よし!」
思っていたよりよく描けた。
近所の人にもよく褒められるけれど、今日は自分で見てもいい出来だった。色を塗って店に飾ってもらえないだろうか。売れたら困るので、もちろん非売品で。
紙を少し離して眺める。翼の付け根が曖昧で、記憶だけでは分からない部分を陰影でごまかしていた。尻尾もやや短い気がする。
直そうと炭筆を置き直したところで、影が紙の上へ落ちた。
「それは、君が描いたのかな」
低い声だった。
顔を上げると、旅装の男が会計台の前に立っていた。年齢は父より少し若いくらいだろう。日に焼けた顔に丸眼鏡をかけ、革の鞄を肩から提げている。外套には細かな砂埃がついていた。
客が来たら母を呼ぶよう言われていたことを思い出し、僕は慌てて立ち上がった。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか」
「いや。その前に、絵を見せてもらってもいいかな」
男の目は紙から動かなかった。
少しだけ嬉しくなった。絵を褒められるのは好きだった。前世でも看護師がノートを覗いて感心してくれると、その日は気分がよかった。誰かに絵を見せるというのは、僕の中ではそういう出来事だった。
「まだ途中ですけど」
「途中でも構わないよ。手に取っても?」
「どうぞ」
男は両手で紙を受け取った。荷包みの切れ端を、古い書物の一葉でも扱うように慎重に持つ。
ずいぶん丁寧に見る人だった。見せれば褒められて終わると思っていた僕は、その手つきの意味を考えなかった。
「この竜を、どこかで見たことは?」
「ありません」
「誰かから姿を聞いたことは?」
「いいえ」
「何かの絵を見ながら描いた?」
「今日は何も見てません。覚えていたので」
本当は前世で見たものを覚えていた。転生について話す気はない。信じられても困る。
男は紙を見たまま黙り込んだ。
僕はようやく、褒めるための質問ではないと気づいた。けれど火竜の絵が何の問題になるのかは分からない。どこかのお偉い人の紋章と似ていたのだろうか。そういうものを勝手に使うと叱られる、と父からは聞いている。
「あの、何かまずかったですか」
「この脚の爪は、どうしてこの形にしたんだい」
「獲物を捕まえやすそうなので」
「爪の根元だけ、少し太く描いてあるね」
「毒に関わる器官が、その辺りにあった気がして」
男の指が止まった。
「……毒腺か」
その止まり方を見て、僕の頭にも一つの考えが引っかかった。
火を吐く竜がいて、その脚の爪に毒を作る器官がある。もしそこまで同じなら、歌に出てきた火竜は、僕の知っている火竜なのではないか。そうなると――。
「ちょっと! 帳場の下に、青い紐は残っている?」
奥から母の声が飛んできた。
僕は反射的にしゃがみ、会計台の下を覗いた。荷をまとめるための紐が目に入る。
「三つあるよ!」
「じゃあ、一つ持ってきてちょうだい」
言われたとおり紐を届けて椅子へ戻る頃には、さっきの考えから勢いが抜けていた。
毒を持つ生き物なら、蛇にも虫にもいる。火を吐く生き物より、よほど普通だろう。そもそも僕は本物の火竜を見たことがなく、男も毒があるとは一言も言っていない。自分で描き足した特徴へ自分で驚くのは、少し順番がおかしい。
似たところが一つ増えただけだ。たぶん。
視線は紙から上がらなかったが、男が気にしているのは絵の出来ではないらしい。僕は爪の絵を見直した。
「どうしてそこにあると思った?」
「手で掴めないなら、足で獲物を捕まえた時に使うのかなって。想像ですけど」
今度は言葉を選んだ。本物を解剖したことなんてないし、記憶が正しい保証もない。想像という答えは、ぎりぎり嘘ではなかった。
「ほかにも描いたものはある?」
「ありますけど、今ここにはありません」
綴じ本なら二階の部屋にある。しかし自分から持ってくるとは言わなかった。先ほどと同じ調子で答え続けてよい相手ではないと、遅ればせながら分かったからだ。
その時、奥から母が戻ってきた。男を見るとすぐ商売用の笑みを浮かべる。
「お待たせして申し訳ありません。書士隊の方ですね。ご注文の紙と顔料でしたら、主人が倉庫で確認しております」
「ああ。王立古生物書士隊の書士です」
男はようやく紙から目を上げた。
古生物という言葉と手元の火竜が頭の中でつながり、僕は椅子へ戻しかけた腰を止めた。問題は紋章ではなく、竜そのものだったらしい。専門家に見せるつもりなんて、なかったのに。
「失礼ですが、この子はあなたのご子息ですか」
「ええ、息子です。この子が何か?」
「少し、お話を聞かせていただきたい」
母の視線が男の手にある紙へ落ち、それから僕を見る。
「また店番を忘れて絵を描いていたの?」
「忘れてないよ! お客さんが来たから、ちゃんと話してた」
「ええ、お話というのは、その絵についてです」
書士隊の男は、先ほどより硬い声でそう言った。
母は息子の絵を見て首を傾げた。
「怪物でしょう? この子は昔から、こういうものばかり描くんです」
「昔から?」
丸眼鏡の奥で目が細くなった。
その反応を見て僕は何も言わなかった。今は黙っておくことにした。
* * *
私は、中央の都市が嫌いではなかった。
道は整い、宿の寝台には虫が少ない。市場へ行けば保存食ではない肉が手に入り、井戸水を飲む前に煮沸する必要もない。辺境で数か月を過ごした後なら、それだけでも十分にありがたい。
ただし、この土地で語られるモンスターの話は嫌いだった。
酒場では飛竜が人の娘をさらい、騎士は鱗の隙間へ剣を差し込む。雷を呼ぶ獣は神の罰とされ、山を歩く巨体は土地を守る精霊にされる。本物を知らぬ者ほど、怪物へ人の都合を背負わせたがる。
王立古生物書士隊は、物語の粗を探すための組織ではない。各地に生息するモンスターを観察し、生態を考察し、集めた情報を記録する。その知見は古龍観測所へ報告され、必要な部分はハンターが使える形に整理される。地味で時間がかかり、成果が人命を救っても、救われた者には書士隊の名すら伝わらない仕事だった。
今回私が中央部まで来たのも、華々しい調査のためではない。長期遠征で消費した紙や保存液、顔料を買い足し、次の隊商へ載せるためだった。この店を訪れたのは、以前納められた紙の質がよかったからである。
店主が倉庫へ向かい、その妻も在庫の確認に下がっていた。私は店内を眺めながら待っていた。その時、会計台の陰から紙を擦る音がした。
子供が絵を描いていることにはすぐ気づいた。
最初は声をかけるつもりなどなかった。覗き込むことさえ無作法に思えた。しかし紙の上へ引かれていく輪郭が目に入り、視線を外せなくなった。
火竜――リオレウスだった。
赤い色が塗られていたわけではない。子供は粗末な炭筆一本で描いていた。それでも私には分かった。
翼を持つ大型種を適当に描けば似た姿になるという話ではない。頭蓋の突起、頑丈な胸郭、飛翔を支える翼の比率。何より、翼が前肢として機能する飛竜種特有の骨格が無理なく一つの身体に収まっていた。
専門の絵師が文献をもとに想像した姿でもない。
生きている火竜が岩場へ降り、獲物へ体重をかけようとする一瞬だった。
私は北西部で火竜の調査に参加したことがある。討伐隊の護衛を受け、遠方から観察しただけだ。それでも、あの生物が地上へ降りる時に翼をわずかに持ち上げ、均衡を取る癖は覚えている。子供の絵にはそれがあった。
だから声をかけた。
少年は商人の息子らしい身なりをしていたが、指先には炭の汚れが染みついていた。質問には素直に答えた。火竜を見たことはない。姿を聞いたこともない。何かを写したのでもない。
覚えていたから描いた。
最後の答えだけが、これまでの話とつながらなかった。
私は絵を詳しく見た。描線には迷いがあり、翼の付け根には何度も修正した跡が残っている。尾は実際より短く、鱗の形も省略されていた。完成された記録画ではない。
だが、その迷いが模写ではないことを示していた。少年は構造を考え、自分の中にある像を紙へ移している。見本の線を追った者の絵ではなかった。
脚の爪について尋ねると、少年は毒に関わる器官が根元にある気がしたと答えた。
火竜の爪が毒を持つことは、ハンターなら経験として知っている。だが、その性質を爪の根元の厚みへ結びつけるのは、通常なら標本や記録に触れた者の発想だ。中央部の商家に暮らす十一歳の子供が、吟遊詩人の歌から推測できる情報ではない。
私は思わず指を止めた。
少年の視線が、紙の上で止まった私の指へ移った。それからは「想像です」と答え、ほかの絵も今はないと言った。
紙を差し出した時の顔に警戒はなく、褒め言葉を待つようだった。その期待が私の沈黙とともに消え、ようやく自分が子供を怯えさせたと気づいた。
母親が戻った後、私はできる限り慎重に質問を重ねた。
少年は都市の外へほとんど出たことがない。遠出といっても、家族で近隣の農園を訪れた程度だった。家に狩人の知人はいない。店を訪れる客から辺境の話を聞くことはあっても、特定の火竜について詳しく教わった経験はないという。
父親も倉庫から戻り、話へ加わった。最初は書士隊員が息子の絵を褒めていると思い、誇らしそうに笑っていた。質問が続くにつれ、その笑みは警戒へ変わった。
「息子が何か規則を破ったのでしょうか」
「いいえ。そのような話ではありません」
私は即座に否定した。
「では、なぜそこまで?」
「この絵の出来が素晴らしいからです」
「絵が上手いということなら、私たちも知っています」
「技術だけを申し上げているのではありません。飛竜の身体を詳しく知る者が描いた絵と遜色ないです。少なくとも私にはそう見えます」
両親は顔を見合わせた。
少年だけは居心地が悪そうに身を縮めていた。褒められて嬉しそうにしていた先ほどまでとは違い、今は紙を返してほしそうに見える。
「ほかにも描いていると伺いました」
私が尋ねると、父親は息子へ目を向けた。少年はすぐには答えず、少し考えてから頷く。それを見届けた父親が二階へ上がり、何冊かの綴じ本を持って戻ってきた。
古い本は紙質も大きさもばらばらで、糸でまとめただけだった。表紙には母親の字で少年の年齢が記されている。子供の成長の記録として、一冊も捨てずに保管していたらしい。
最初の本を開き、私は息を止めた。
幼い線で描かれた生物の多くは、確かに子供の空想に見えた。丸い身体へ翼をつけたもの。身体より角のほうが大きな竜。獣人族に似た生物が黄金色の銃槍を担いでいる絵もある。
頁を進めるにつれて、笑って済ませられないものが増えた。
長い身体と大きな胸びれを持つ海竜。雷光をまとった牙獣。頭部を覆う硬質な殻と、刃のように発達した翼を備える飛竜。既存の報告に似た生物もいれば、私の知識にまったくないものもいた。
想像の産物なら、それでよい。
ところが、どの絵にも同じ理屈が通っていた。脚のつき方、関節の向き、重心の位置。生息地らしき背景が描かれた頁では、身体の形が地形に適応している。砂地の生物には砂中を進むための構造があり、寒冷地の生物には熱を逃がさない特徴があった。幼い頃の絵ほど不正確ではあるが、成長につれて同じ生物が描き直され、細部が整理されている。
それは思いつくたび怪物を増やした記録というより、忘れかけた何かを線の上で何度も確かめた記録に見えた。
「質問いいかな?」
私は一枚の絵を示した。
大きな扇状の耳と嘴を持つ怪鳥が、翼をばたつかせながら滑稽な姿勢で走っている。
「これは、どんな名前の生き物だろう」
少年の唇が動きかけた。
すぐに閉じ、絵から私の顔へ視線を移した。
「名前までは考えてません」
嘘だとわかった。
少年はこの生物の名を知っている。答えかけて、意識的に止めた。
問い詰める気にはなれなかった。大人たちが自分の絵を囲み、理解できない理由で質問を続けているのだ。用心するほうが正しい。
「では、こちらはどうだろう」
次に示したのは、深い森らしき場所に立つ黒い生物だった。翼に見える器官で全身を包み、頭部から後方へ角を伸ばしている。輪郭だけなら、一年ほど前に調査報告が上がった黒蝕竜に近い。しかし登録されて間もない以上、似ているだけと考える余地もあった。
「それも想像です」
少年は今度こそ迷わず答えた。
私は本を閉じた。これ以上の問いは記録を増やすより、少年の口を閉ざす結果にしかならない。
「この綴じ本を、お借りすることはできますか」
父親の表情が険しくなった。
「理由を明かさずに、息子の物を持っていかせるわけにはいきません」
「ごもっともです」
私は両手で本を卓上へ戻した。
「では、王立古生物書士隊の本部で専門の者に見てもらう機会をいただけないでしょうか。ご家族にも同行していただきます。絵をお預かりするのではなく、息子さん自身から描いた経緯を話してもらいたいのです」
「本部ですか」
母親が不安そうに息子を見た。
「息子さんを隊へ入れたい、という話ではありません」
その言葉に、少年の肩から目に見えて力が抜けた。
「本部へ行けば、絵を見せて質問に答えれば済むんですか」
「今お願いしたいのは、そこまでだよ」
「外へ調査に行ったりは?」
「しない。そこは約束する」
少年は両親の顔を見比べた。家族とともに行き、建物の中で絵を見せる。危険な土地へ連れ出されることはない。自分に分かる条件を確かめ、その範囲ならよいと判断したらしい。
「僕は、行ってもいいよ」
両親はすぐには返事をしなかった。
少年も急かさず、卓の上へ戻された綴じ本を自分の側へ引き寄せた。
結局、その日は正式な承諾を得られなかった。家族で話し合う時間が必要だという。当然の判断だった。私は滞在している宿と都市のギルド窓口を伝え、店を辞した。
外へ出る頃には、陽が西へ傾いていた。
市場の喧騒は変わらない。香辛料を売る声が響き、荷車が行き交い、通りの向こうでは吟遊詩人がまだ火竜の歌をうたっている。作り話の中で若い騎士はたった一人で巣へ踏み込み、炎をかいくぐって剣を突き立てた。
私は足を止めず、宿へ向かった。
部屋へ戻ると、荷解きより先に携帯用の筆記板を出した。紙を固定し、日付と場所を書く。何を見たのか。少年が何と答えたのか。推測と事実を混ぜないよう、一つずつ文章にした。
十一歳。中央都市生まれ。遠方への旅行歴なし。ハンターおよび書士隊関係者との継続的な接触は確認できず。
火竜の全身図。脚部の毒性器官を示唆する描写あり。
複数の未確認生物と思われる図画。既知の分類群との比較を要する。
私は筆を止めた。
報告書に感嘆は要らない。「天才」も「不気味」も検証できない。別の書士が同じ資料を見た時、同じ疑問へたどり着ける事実だけを残すべきだった。
迷った末、所見を一行だけ加えた。
対象の図画は、空想画として処理するには生物学的整合性が高すぎる。
封をした報告は、翌朝一番の風鳥便で本部へ送ることにした。
その後、私は記憶を頼りに店で見た火竜を自分の帳面へ描き写した。絵には自信がある。調査中に見た足跡や外傷を記録するため、必要に迫られて身につけた技術だった。
描き終えてから、本部より持参していた火竜の生態記録を開く。
公式の記録画と、少年の絵をもとにした粗い写しを並べた。細部の正確さでは、当然ながら記録画が勝っている。複数の標本と観察報告をもとに、専門の絵師が仕上げたものだ。
ところが、岩場から今にも動き出しそうなのは少年の火竜のほうだった。
次に私は、記憶に残る黒蝕竜らしい生物を描こうとした。
筆先が紙の上で止まった。
形を思い出せないのではない。輪郭も角の向きも覚えている。だが、それらを線としてつなげようとすると、どこかが必ず不自然になった。翼に見えた器官がどの骨から伸びていたのか分からない。本部にはいまだ完全な骨格が持ち込まれておらず、二本脚で立つのか、四肢を使って歩くのかさえ一枚の報告画からは読み切れなかった。
十一歳の少年は、それを迷いながら何度も描き直していた。
正解を写した線ではない。それでも、私には組み立てられなかった構造が、少年の絵では一つの身体としてつながっていた。
私は筆を置き、店で閉じた綴じ本を思い出した。
少年は火竜を見たことがないと言った。
その言葉が真実ならば、虚言であった場合よりも、はるかに恐ろしい。