ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
僕には、死ぬ前の記憶があった。
こう言うと、何やら壮大な使命を背負って生まれ直した者のようだが、僕はその記憶をあまり立派なものだとは考えていない。前の人生の大半は、白い壁と白い天井に囲まれた病室で過ぎた。窓から見える景色は季節ごとに変わったが、僕の一日はさほど変わらなかった。
朝になれば体温を測られ、決められた薬を飲み、具合がよければ少しだけ勉強をする。昼には検査か点滴があり、夕方になると家族が顔を見せた。体調の悪い日は眠り、比較的ましな日は本を読んだ。大きな予定といえばそれくらいだった。
ゲームも好きだった。
ただし、上手ではなかった。とりわけ反射神経と集中力を要求されるアクションゲームは、好きであることと遊べることの間に深い谷があった。体調の波に指の動きまで左右される身では、画面の向こうで暴れ回る怪物の攻撃を見切るなどという芸当は難しい。
それでも『モンスターハンター』は好きだった。
巨大な生物が本当にどこかで暮らしているように感じられる世界。装備の説明文にわずかに残された伝承。骨格や食性から組み立てられた生態。人の住む村と、その外に広がる圧倒的な自然。それらを眺めているだけで、病室の窓よりもずっと遠くへ行ける気がした。
実際の狩猟については、行ける気がするだけだった。
初心者の壁などと呼ばれる怪鳥に追い回され、慌てて回復薬を飲もうとして突進を受ける。武器を研ぎ始める場所を間違え、尻尾に弾き飛ばされる。ようやく相手が弱った頃にはこちらの集中力が尽きている。そんな有様だったから、物語の最奥にいる怪物たちへ自力で会いに行くことなど、最初から半ば諦めていた。
代わりに、設定資料集を読んだ。
枕元には何冊もの分厚い本が積まれていた。『ハンター大全』をはじめとするそれらの本には、ゲームを普通に進めているだけでは気づけない話が詰まっていた。僕はページの隅に描かれた小さな骨格図まで眺め、気に入ったモンスターを何度も模写した。
最初の頃は翼と脚の位置さえ怪しかった。だが、時間だけはあった。一度描いては消し、首の太さを直し、鱗の流れを確かめる。資料を閉じたあと、記憶だけで同じ姿を描いてみる。翌日になって見比べ、間違えた部分を直す。その繰り返しで、僕のノートにはゲーム内で一度も遭遇できなかった怪物まで増えていった。
最後の日も、特別なことはなかった。
開いた資料集を胸元に置き、少し眠ろうと思って目を閉じた。次に目を開けたときには、知らない女性が泣きながら自分を抱いていた。
死んだのだと理解するには時間がかかった。
生まれ直したのだと受け入れるには、さらに時間がかかった。
けれども、それから十一年が過ぎた今、僕は二度目の人生をおおむね気に入っている。
何より、健康だった。
朝、目を覚ましただけで身体が軽い。階段を上っても息が切れない。食べたものを吐かずに済む。少しくらい雨に濡れても、翌日から何日も寝込んだりしない。走れば疲れたが、その疲れは休めば消えた。
当たり前のことが、いちいち嬉しかった。
しかも今の両親は、大陸中央部の都市で商いを営んでいた。父の店は、布地、顔料、香辛料、乾燥させた薬草など、旅商人や職人が必要とする品を幅広く扱っている。大富豪と呼べるほどではないが、食卓から肉が消える心配はなく、子供に紙と絵具を買い与える余裕もある。
母は帳簿に強く、父より値切りに厳しい。五歳上の姉は、すでに店の仕事を手伝いながら得意先の顔と名前を覚え始めていた。家族は僕にもいずれ商売を学ばせるつもりらしいが、今のところ急かされてはいない。
理想的だった。
前の人生で使えなかった分まで丈夫な身体を大切にし、成人したら家業を手伝う。帳簿をつけ、ときどき絵を描き、危ないことには近づかない。長生きして、できれば老衰で死ぬ。
二度目の人生の目標として、これ以上に健全なものはないと僕は思っている。
この世界には、竜がいるらしい。
その話を初めて聞いたときも、僕はさほど驚かなかった。そもそも生まれ変わっている時点で、世界に多少の竜がいたところで今さらである。
もっとも、僕が暮らす都市で、本物を見た者はほとんどいなかった。
高い城壁の内側には大きな市場があり、外から延びる街道には定期的に護衛がつく。近隣に現れる危険な獣は、街へ近づく前に狩人やギルドから派遣された者が追い払う。空を飛ぶ巨大な竜など、吟遊詩人が酒場で歌う物語の中にしか現れない。
歌の中の竜には、たいてい名前がなかった。火を吐けば火竜、砂漠に棲めば砂竜、山ほど大きければ山の竜。勇敢な狩人が剣を振るうと、最後には必ず倒される。
市場では大きな鱗や牙も売られていたが、仕入れ先は遠い地方だった。加工され、磨かれ、飾り金具に収まった鱗は、生き物の一部というより珍しい宝石に見えた。
だから僕は、この世界を前世のゲームと結びつけなかった。
似ていると思ったことはある。猫に似た二足歩行の種族を見かけたときには、さすがに三度ほど振り返った。しかし彼らは普通に言葉を話し、市場で魚の値段を巡って母と口論していた。前世の記憶に引っ張られて何でも同じものに見ているのだろう、と自分を納得させた。
何より、ここには画面も、体力の数値も、やり直しもない。
仮に似た世界だったとしても、僕には関係のない話だった。竜と戦う者になるつもりなど、毛ほどもないからである。
「店先を見ていてちょうだい」
昼を過ぎた頃、母が奥の倉庫から声をかけてきた。
「お父さんが戻るまででいいから。荷車が来たら呼んで」
「分かった」
返事をした僕は、会計台の横に椅子を運んだ。
市場の大通りに面した店内には、乾いた薬草と油、それに皮革の匂いが混じっている。昼時を過ぎ、客足は落ち着いていた。店の前を荷車が通るたびに石畳を車輪が鳴らしたが、それ以外には急いで片づける仕事もない。
僕は紙の切れ端を取り出した。
これは売り物ではない。荷包みから切り落とした、端の歪んだ紙である。父は帳簿に使えない紙を取っておいてくれた。質はよくないが、炭筆なら十分に描ける。
何を描くか少し考え、竜にした。
午前中、通りを歩いていた吟遊詩人が火竜の歌をうたっていたからだ。歌詞に出てきたのは、炎を吐き、赤い翼で太陽を隠す怪物だった。最後には若い騎士が姫を救い、火竜は胸を剣で貫かれて死ぬ。
胸を剣で貫くところまでどうやって近づいたのか、僕には分からなかった。歌の火竜が、前世で見たあれと同じ程度の大きさなら、騎士が近づく前に焼かれるだろう。
歌へ難癖をつけても仕方がないので、代わりに記憶の中の火竜を描くことにした。
丸を置いて頭部の位置を決め、背骨の流れを薄く引く。身体の中心から後脚へ重みを移し、前脚にあたる場所から翼を伸ばす。羽ばたいている姿ではなく、高所に降り立った直後の姿にした。
リオレウス。
名前まで、きちんと覚えていた。
モンスターハンターを象徴する怪物の一頭で、設定資料でも何度となく見た。格好よかったので、模写した回数も多い。ゲームで相手をするのは嫌だったが、絵にする分には文句なく好きなモンスターだった。
頭部を低くしすぎたので、線を指でこすって消す。首と胴のつながりを直し、翼膜を広げる。鱗を一枚ずつ描き込む必要はない。遠目にもそれらしく見える大きな流れだけを拾う。
楽しくなってきた。
前世では、長く机に向かっていると腕が重くなった。今は違う。炭筆を握った手は思った通りに動き、姿勢を変えるために立ち上がっても目眩がしない。
火竜の右脚を紙の手前へ出す。爪は獲物を押さえる形に開いた。そこまで描いてから、僕は毒爪だったことを思い出した。断面図でもないのに毒腺を描くわけにはいかないが、爪の根元を少し太くしておく。
口は大きく開かせず、歯の隙間から熱が漏れているようにした。咆哮する姿より、こちらを見下ろしている姿のほうが怖い。
「うん」
思っていたよりよく描けた。
十一歳の子供の落書きとしては、かなり上手い。前世から数えれば何歳になるのかという問題は、この際考えないことにする。
僕は紙を少し離して眺めた。翼の付け根が曖昧だ。記憶だけでは分からない部分を陰影でごまかしている。尻尾もやや短い気がする。
直そうと炭筆を置き直したところで、影が紙の上へ落ちた。
「それは、君が描いたのか」
低い声だった。
顔を上げると、旅装の男が会計台の前に立っていた。年齢は父より少し若いくらいだろう。日に焼けた顔に丸眼鏡をかけ、革の鞄を肩から提げている。外套には細かな砂埃がついていた。
客が来たら母を呼ぶように言われていたことを思い出し、僕は慌てて立ち上がった。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか」
「いや、先にその絵を見せてほしい」
男の目は紙から動かなかった。
僕は、少しだけ嬉しくなった。絵を褒められるのは好きだった。前世でも、看護師がノートを覗いて感心してくれると、その日は気分がよかった。
「まだ途中ですけど」
「構わない。手に取っても?」
「どうぞ」
男は両手で紙を受け取った。荷包みに使われていた紙を、古い書物の一葉でも扱うように慎重に持つ。
ずいぶん丁寧な人だ、と僕は思った。
「この竜を見たことがあるのか」
「ありません」
「では、誰かに姿を聞いた?」
「いいえ」
「何かの絵を写したのではないのか」
「今日は何も見てません。覚えていたので」
正確には、前世で見たものを覚えていたので、である。だが、転生について説明するつもりはなかった。信じてもらえないだろうし、信じられても困る。
男は黙り込んだ。
あまりに長く返事がないので、僕は不安になった。もしかすると、この土地では特定の竜を勝手に描いてはいけないのだろうか。商標や家紋のように、誰かが権利を持っている可能性もある。
「あの、何かまずかったですか?」
「この脚の爪は、なぜこの形にした」
「なぜって……獲物を捕まえやすそうなので」
「根元だけ太い」
「毒を作るところが、その辺りにあった気がして」
男の指が止まった。
僕は、自分が余計なことを言ったらしいと察した。しかし何が余計だったのかまでは分からない。
「気がした?」
「想像です」
すぐに言い直した。
嘘ではない。現物を解剖した経験などないのだから、記憶が正しいかどうかも含めて想像である。
「ほかにも描いたものはあるか」
「ありますけど……」
男の表情が真剣すぎて、見せるのが少し怖くなってきた。
そのとき奥から母が戻ってきた。男を見ると、すぐに商売用の笑みを浮かべる。
「お待たせして申し訳ありません。書士隊の方ですね。ご注文の紙と顔料でしたら、主人が倉庫で確認しております」
「ああ。王立古生物書士隊の書士です」
男はようやく紙から目を上げた。
「失礼ですが、この子はあなたのご子息ですか」
「ええ、息子です。この子が何か?」
「少し、お話を聞かせていただきたい」
母の視線が、男の手にある紙へ落ちた。それから僕を見る。
「また店番を忘れて絵を描いていたの?」
「忘れてはいないよ。お客さんが来たから、ちゃんと話してた」
「お話というのは、その絵についてです」
書士隊の男は、妙に硬い声でそう言った。
母が息子の絵を見て、首を傾げた。
「竜でしょう? この子は昔から、こういうものばかり描くんです」
「昔から?」
僕には、なぜかその一言がいちばんまずかったように聞こえた。
* * *
私は、中央の都市が嫌いではなかった。
街道は安全で、宿の寝床に虫が少なく、頼んだ料理にはきちんと火が通っている。市場へ行けば、地方の駐屯地では手に入らない紙や薬品が揃う。書士隊の仕事を忘れて数日過ごすのであれば、これほど快適な場所はないだろう。
だが、書士隊員として訪れるたび、居心地の悪さも感じていた。
この街の住民にとって、大型モンスターは遠い世界の出来事だった。荷を運ぶ商人でさえ、危険な街道を避けるための情報には関心を示しても、その生物がなぜ移動したのかまでは知りたがらない。火竜と雌火竜を区別できる者も少なく、どちらも火を吐く大きな竜として一括りにされる。
無理もなかった。日々の暮らしに必要のない知識を、誰もが求めるわけではない。
それでも、酒場で吟遊詩人がでたらめな火竜の歌を披露し、客たちが手を叩いているのを見たとき、私は訂正したい衝動に駆られた。火竜は財宝を集めて洞窟に籠もったりしないし、若い娘ばかりを攫う習性も確認されていない。
もちろん、訂正はしなかった。
王立古生物書士隊は、物語の粗を探すための組織ではない。各地に生息するモンスターを観察し、生態を考察し、集めた情報を記録する。その知見は古龍観測所に報告され、必要な部分はハンターが利用できる形に整理される。地味で、時間がかかり、成果が人命を救ったとしても、救われた当人には書士隊の名など伝わらない仕事だった。
今回私が中央部まで来たのも、華々しい調査のためではない。長期遠征で消費した紙、保存液、顔料を買い足し、次の隊商へ載せるためだった。
この店を訪れたのは、以前納められた紙の質がよかったからである。
店主が倉庫へ向かい、店主の妻も在庫の確認に下がっていた。私は店内を眺めながら待っていた。そのとき、会計台の陰で紙を擦る音がした。
子供が絵を描いていることには、すぐ気づいた。
最初は声をかけるつもりなどなかった。覗き込むことさえ無作法に思えた。しかし、紙の上に引かれていく輪郭が目に入り、視線を外せなくなった。
赤い色が塗られていたわけではない。子供は粗末な炭筆一本で描いていた。それでも私には分かった。
翼を持つ大型種を適当に描けば、似た姿になるという話ではない。頭蓋の突起、頑丈な胸郭、飛翔を支える翼の比率。何より、翼が前肢として機能する飛竜種特有の骨格が、無理なく一つの身体に収まっていた。
専門の絵師が、文献をもとに想像して描いたのではない。
生きている火竜が岩場へ降り、獲物へ体重をかけようとする一瞬を切り取った絵だった。
私は北西部で火竜の調査に参加したことがある。討伐隊の護衛を受け、遠方から観察しただけだ。それでも、あの生物が地上へ降りたとき、翼をわずかに持ち上げて均衡を取る癖は覚えている。子供の絵にはそれがあった。
偶然とは考えられなかった。
だから声をかけた。
少年は商人の息子らしい身なりをしていたが、指先には炭の汚れが染みついていた。質問には素直に答えた。火竜を見たことはない。姿を聞いたこともない。何かを写しているのでもない。
覚えていたから描いた。
その答えだけは、意味を成していなかった。
私は絵を詳しく見た。
描線には迷いがあった。翼の付け根には何度か修正した跡があり、尾は実際より短い。鱗の形も省略されている。完成された記録画ではない。
だからこそ、模写ではないと分かった。
少年は構造を理解したうえで、自分の中にある像を紙へ移している。見本の線を追った者の絵ではなかった。
脚の爪について尋ねると、少年は毒を作る場所が根元にあると思った、と答えた。
火竜の脚部に毒性を持つ器官が存在することは、ハンターなら経験として知っている。だが、その詳しい構造が調べられたのは、書士隊へ状態のよい標本が届くようになってからだ。中央部の商家に暮らす十一歳の子供が、吟遊詩人の歌から推測できる情報ではない。
少年は直後に、想像だと言い直した。
取り繕ったようには見えなかった。むしろ、自分の答えがなぜ問題になるのか分からず、困惑しているようだった。
母親が戻ってきたあと、私は慎重に質問を重ねた。
少年は都市の外へ出たことがほとんどない。遠出といっても、家族で近隣の農園を訪れた程度だった。家にハンターの知人はいない。店を訪れる客から辺境の話を聞くことはあるが、特定の火竜について詳しく教わったこともない。
父親も倉庫から戻り、話に加わった。最初は書士隊員が息子の絵を褒めていると思い、誇らしそうに笑っていた。質問が続くにつれ、その笑みは警戒に変わった。
「息子が何か規則を破ったのでしょうか」
「いいえ。そのような話ではありません」
私は即座に否定した。
「では、なぜそこまで?」
「この絵が、正確だからです」
「絵が上手いということなら、私たちも知っています」
「技術だけを申し上げているのではありません」
言葉を選ぶ必要があった。
十一歳の少年を疑っているわけではない。まして、家族から引き離したいわけでもなかった。しかし書士隊員として、この絵を見なかったことにはできない。
「火竜の身体を詳しく知る者が描いた絵です。少なくとも私には、そう見えます」
両親は顔を見合わせた。
少年だけは、話が大げさになるにつれて居心地が悪そうに身を縮めていた。褒められて嬉しそうにしていた先ほどまでとは違い、今は紙を返してほしそうに見える。
「ほかにも描いていると伺いました」
私が尋ねると、父親が二階から何冊かの綴じ本を持ってきた。
子供の成長の記録として、捨てずに保管していたらしい。古いものは紙質も大きさもばらばらで、糸でまとめただけだった。表紙には、母親の字で少年の年齢が記されている。
最初の一冊を開き、私は息を止めた。
幼い線で描かれた生物の多くは、確かに子供の空想に見えた。丸い身体に翼をつけたもの。角ばかりが大きい竜。
だが、頁を進めるにつれて、笑って済ませられないものが増えた。
長い身体と大きな胸びれを持つ海竜。雷光をまとった牙獣。頭部を覆う硬質な殻と、刃のように発達した尾を持つ獣竜。既存の報告に似た生物もいれば、私の知識にまったくないものもいた。
想像の産物なら、それでいい。
問題は、想像にしては一貫しすぎていることだった。
脚のつき方、関節の向き、重心の位置。生息地らしき背景が描かれた頁では、身体の形が地形に適応している。砂地の生物には砂中を進むための構造があり、寒冷地の生物には熱を逃がさない特徴があった。幼い頃の絵ほど不正確ではあるが、成長につれて同じ生物が描き直され、細部が整理されている。
子供が思いつきで怪物を増やした記録ではない。
何かを忘れないために、繰り返し確かめた記録に見えた。
「君」
私は一枚の絵を示した。
大きな扇状の耳と、嘴を持つ怪鳥だった。翼をばたつかせ、どこか滑稽な姿勢で走っている。
「これは何という生き物だろう」
少年の唇が動きかけた。
しかし、すぐに閉じた。
「名前までは考えてません」
嘘だ、と私は思った。
少年はこの生物の名を知っている。答えかけて、意識的に止めた。その事実を責める気にはなれなかった。大人たちが自分の絵を囲み、理解できない質問を続けているのだ。警戒して当然だった。
「では、こちらは?」
次に示したのは、深い森らしき場所に立つ黒い生物だった。翼に見える器官で全身を包み、頭部から後方へ角を伸ばしている。輪郭だけなら古龍種に近い。しかし、周囲に描かれた黒い粉のようなものが何を示すのか、私には見当もつかなかった。
「それも、想像です」
少年は今度こそ迷わず答えた。
それ以上の問いは控えた。
少年は怯え始めている。ここで無理に聞き出せば、今後二度と絵を見せてくれなくなるだろう。それ以前に、子供を尋問することは私の役目ではない。
私がするべきなのは、見つけた事実を正確に報告することだった。
「この綴じ本を、お借りすることはできますか」
父親の表情が険しくなった。
「理由を明かさずに、息子の物を持っていかせるわけにはいきません」
「ごもっともです」
私は本を閉じ、両手で卓上へ戻した。
「では、王立古生物書士隊の本部で、専門の者に見てもらう機会をいただけないでしょうか。ご家族にも同行していただきます。絵をお預かりするのではなく、息子さん自身から、描いた経緯を話してもらいたいのです」
「本部ですか」
母親が不安そうに息子を見た。
「息子を隊へ入れたい、という話ではありません」
その言葉に、少年が目に見えて安堵した。
私は不思議に思った。書士隊員になることを嫌がる子供は珍しくないが、少年の場合は、自分が危険な場所へ連れていかれないと知った瞬間、肩から力が抜けたように見えた。
「本部で絵を見せるだけですか」
少年が念を押した。
「少なくとも、私がお頼みしているのはそれだけだ」
「外へ調査に行ったりは?」
「しない」
私が答えると、少年はしばらく両親の顔を見比べた。家族とともに行き、絵を見せ、質問に答えるだけ。それなら危険はないと判断したらしい。
「僕は、行ってもいいよ」
両親はすぐには返事をしなかった。
結局、その日は正式な承諾を得られなかった。家族で話し合う時間が必要だという。当然の判断だった。私は滞在している宿と、都市にあるギルド窓口の連絡先を伝え、店を辞した。
外へ出る頃には、陽が西へ傾いていた。
市場の喧騒は変わらない。香辛料を売る声が響き、荷車が行き交い、通りの向こうでは吟遊詩人がまだ火竜の歌をうたっている。作り話の中で、若い騎士はたった一人で竜の巣へ踏み込み、炎をかいくぐって剣を突き立てた。
私は足を止めず、宿へ向かった。
部屋へ戻ると、荷解きより先に携帯用の筆記板を出した。紙を固定し、日付と場所を書く。何を見たのか。少年が何と答えたのか。推測と事実が混ざらないよう、一つずつ文章にする。
十一歳。中央都市生まれ。遠方への旅行歴なし。ハンターおよび書士隊関係者との継続的な接触は確認できず。
火竜の全身図。脚部の毒性器官を示唆する描写あり。
複数の未確認生物と思われる図画。既知の分類群との比較が必要。
私は筆を止めた。
報告書に「天才」と書くべきではない。感嘆も恐怖も、記録には不要である。必要なのは、別の者が同じ資料を見たとき、検証できる事実だけだ。
それでも最後に、所見を一行加えた。
対象の図画は、空想画として処理するには生物学的整合性が高すぎる。
封をした報告は、翌朝一番の便で本部へ送ることにした。
その後、私は記憶を頼りに、店で見た火竜の絵を自分の帳面へ描き写した。絵には自信があった。調査中に見た足跡や外傷を記録するため、必要に迫られて身につけた技術である。
描き終えてから、本部より持参していた火竜の生態記録を開いた。
公式の記録画と、少年の絵をもとにした粗い写しを並べる。
細部の正確さでは、当然ながら記録画が勝っていた。複数の標本と観察報告をもとに、専門の絵師が仕上げたものだ。
しかし、生きて見えたのは少年の火竜だった。
次に私は、記憶に残る黒い生物を描こうとした。
筆先が、紙の上で止まった。
形を思い出せないのではない。輪郭も角の向きも覚えている。だが、それらを線としてつなげようとすると、どこかが必ず不自然になった。翼に見えた器官が、どの骨から伸びていたのか分からない。二本脚で立つのか、四肢を使って歩くのかさえ、あの一枚からは読み切れなかった。
十一歳の少年は、それを迷いなく描いていた。
私は筆を置き、閉じた綴じ本を思い出した。
少年は火竜を見たことがないと言った。
その言葉が真実ならば、虚言であった場合よりも、はるかに恐ろしい。