ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
街道が一本、僕の絵を見た後で止まったらしい。
市場へ出た翌朝、父に言われたとおり、商人へ渡した絵がどうなったのかニャンターに尋ねた。その返事が通行止めである。確かめたかったのは紙一枚の行方であって、道一本の行方ではなかった。
僕は机の上に残った紙を並べ、念のため二度数えた。
六枚。こちらは昨日から増えていない。
困るのは、紙の向こうで増えているかもしれない損のほうだった。街道を使えなければ荷車は遠回りをする。日数が延びれば御者や護衛へ払う金も増え、宿代と食費がかかる。雨に降られれば布や穀物は傷み、肉や魚は晴れていても待ってくれない。売り時を逃す品もあれば、次の仕入れへ回すはずの荷車が戻らず、その次の商いまで遅れる。
父の店では、荷が一日遅れただけで帳面を何冊も開くことがある。今回は一台ではないらしい。
紙六枚を売っても、たぶん宿一泊分にもならない。
「僕の小遣いで払えますか」
「何をだ」
窓際で剣を手入れしていたニャンターが、研ぎ布を持ったままこちらを見た。
「街道を止めた分です」
「なぜお前が払う」
「僕の絵が届いてから閉じたんですよね」
「子供の絵一枚で道を閉じるギルドがあったら、俺が先に潰している」
頼もしい言葉のはずなのに、ギルドを潰せそうな声で言われると安心してよいのか迷う。
ニャンターは剣を鞘へ納め、普通の椅子から軽く飛び降りた。身体に合わないので座布団を二枚重ねているのだが、僕がそちらを見ると、足で椅子の下へ押し込んでしまう。別に見なかったことにしてもよいのに、自分から証拠を隠すせいで毎回よく見える。
「以前から妙な鳴き声の報告があった。火竜を見た者はいないのに声だけ聞いたという話が二つ。別々の大型種が同じ谷へ集まったという話が一つ。そこへ嘴の長い鳥竜種と火打石の情報が届き、入口でも似た足跡が見つかった。確認が済むまで止めたのはギルドの判断だ」
ニャンターはそこまで言うと、机から落ちかけていた一枚を肉球の先で押し戻した。
「でも、最後の一押しにはなったんですよね」
返事の代わりに低い息が聞こえた。怒った様子はなく、剣の留め金を確かめながら言葉を選んでいる。
「絵がなくとも、次の報告が来れば止まっていた。ただし少し早まった可能性はある。だから現地で照合し、判断した者が責任を持つ。十一歳の財布を当てにする話ではない」
「本当に?」
「本当だ」
僕は紙を揃えて綴じ本へ戻した。ニャンターは手入れを再開し、もうこちらを見ない。
「紙代は返ってきますか」
研ぎ布だけが動いた。
そこは自分で商人の人に聞けということらしい。
父は朝から書士隊の人と話しており、部屋にはいなかった。店を空けた間に溜まった商談や荷の行き先を整理しているらしく、滞在中に増えた書類も紐の色を変えて分けている。僕の綴じ本は返してもらえたが、黒い龍の絵だけは本部の奥に預けたままで、古い記録との照合も終わっていない。
あの絵が戻るより先に、今度はクルペッコの絵まで遠くへ運ばれていった。
僕の描いたものばかり旅慣れていく。描いた本人は本部と市場を往復しただけである。
「実物と違っていたら、調べる人が困りませんか」
「見たものではないと、商人も書き添えていた。書士隊が資料と照らし合わせた上で写しを送っている。お前の絵を、そのまま討伐依頼の目印にしたわけじゃない」
商人の人が説明を省かなかったと知り、少しだけ肩の力が抜けた。昨日の僕は、絵があったほうが話を伝えやすいだろうと考えたところまでは覚えている。その先で誰が写しを作り、何人が見て、街道を閉じる材料の一つになるかまでは考えなかった。
後から順番に並べるのは簡単なのに、商人の前では紙一枚の先が見えていなかった。頭が悪いと言われるより、そちらのほうが直し方に困る。
扉が二度叩かれた。
ニャンターが返事をすると、廊下から旅に同行した書士隊の人の声がした。扉を開けたあの人は薄い板に挟んだ紙を抱え、後ろには父もいる。父の手にも紐で束ねた書類があり、ここへ来てから絵より紙を増やしているのは父のほうだった。
「街道の件を聞いたそうだな」
「はい。僕が払う話ではないとも聞きました」
父はニャンターへ目を向けた。ニャンターが頷くと、それ以上は何も言わず僕の向かいへ座る。
「現地のギルドから、絵について確認が届いた。分かる範囲で答えてほしい」
「分からないところは、分からないでいいですか」
「もちろんだ」
書士隊の人が先に答え、薄い板から一枚を外した。商人へ渡したクルペッコの絵の写しである。急いで描いた線の掠れや、紙の端についた黒い指跡まで残っていた。もう少しきれいな手で渡せばよかった、と考えてから、問題はそこではない気もした。
「喉に描いた袋と、翼の先にある石は、『鳥竜種分類八』の記述をもとにしたのか」
「はい。袋を膨らませて声を響かせることと、翼の石を打ち合わせて火を起こすことは本にありました」
「嘴と脚の形は」
「嘴は挿絵を参考にしました。脚は横から見やすいよう少し向きを変えています。羽の色は、古い絵だったので本物と同じか分かりません」
答えるたび、書士隊の人が絵の脇へ小さな記号を書き込んでいく。僕の線より細く、迷いがない。
「資料は分類八で間違いないな」
「最初は六だと思ってました」
「八だ」
扉の横から低い声が届いた。
「だそうです」
書士隊の人は口元をわずかに緩め、八と書いた。ニャンターは何も言わなかったが、尻尾の先が一度だけ床を打った。
「もう一つ。絵を渡す前に、長年生きた個体は厄介なものを呼ぶことがあると話したのは誰だ」
「俺だ」
今度はニャンターがすぐ答えた。
「駆け出しを脅すための昔話ではない。俺も別の大型種が寄ってきた痕跡を見たことがある。ただし、何を呼ぶかは土地と時期で変わる」
書士隊の人はその言葉も書き留めた後、僕へ視線を戻した。
「その話を聞いて、なぜ絵を渡そうと思った」
「商人の人が、違う大型種の声を同じ谷で聞いたと言っていたからです。クルペッコかもしれないなら、姿が分かったほうが報告しやすいと思いました」
「呼ばれて来るものに、心当たりはあるか」
頭の中へ、いくつかの大きな影が浮かんだ。
ゲームではクルペッコの声に呼ばれ、別のモンスターが乱入してくる。何が来るかは作品や場所やクエストで違い、画面の外から突然現れる相手に何度も慌てた。けれど、ここは僕が遊んだクエストの地図ではない。鳴き声の種類も、谷の広さも、季節も知らない。
炭筆を握り直しかけて、机に置いた。
「この谷については分かりません。どの鳴き声だったのかも聞いていないので、名前は決められないです」
僕が答えると、書士隊の人は次の質問へ進まず、今の言葉をそのまま書いた。
「では、『本人より、呼ばれて来たほうが怖い』という言葉は」
「僕の感想です。クルペッコだけ逃げて、呼ばれたものが残ったら困るなと思って」
「誰が困る」
「ハンターです。あと、急に知らない場所へ呼ばれたほうも、たぶん」
ニャンターが兜の上から額を押さえた。
「順番がおかしい」
「ハンターもちゃんと入れました」
父は口を挟まず、僕の前にずれてきた炭筆だけを元の位置へ戻した。書士隊の人も、それ以上どちらを先に心配すべきかは尋ねなかった。
「分かった。現地を知らず、特定の大型種を示したものではないと返答する」
聞き取りはそこで終わった。
書士隊の人は父へ向き直り、長耳の竜人族の書士官との確認も、あと少しで済むと伝えた。何の確認か尋ねようとしたところで、父が街道の封鎖について先に口を開く。
「こちらから出す荷や手紙の便にも影響しますか」
「使う道は別です。ただ、荷の流れが変われば宿や荷車の手配にも響きます。日取りは次の報告を待って決めたほうがよいでしょう」
父は僕の顔を見てから、分かりましたと答えた。
店へ送る荷なら、父が仕入れた品かもしれない。最近は僕が標本室へ行っている間にも話し合いをしており、父の持つ書類ばかり増えている。何を相談しているのか聞いても、決まったら話すと返される。気にはなったが、父の書類を勝手に覗くわけにもいかないので、今は待つしかなかった。
書士隊の人たちが出た後、ニャンターは扉を閉め、僕が机へ戻るまで何も言わなかった。
「さっき、名前を出さなかったな」
「場所も声も分からないからです。知ってる名前を並べても、当たるとは限らないし」
「それでいい」
褒められたのかと思って振り返った時には、ニャンターは窓の留め具を調べていた。もう一度言ってくれそうにはない。
僕は前日に控えた商人と街道名の下へ、絵がギルドへ渡り、書士隊の照合を経て調査に使われたことを書き足した。それから帳面の表紙裏に小さな印を三つ決める。自分の目で見たもの、本で確かめたもの、形を分かりやすくするため僕が補ったもの。それぞれを絵の脇で区別する印である。
書き終えたところで、横から肉球が帳面の端を押さえた。
「一つ抜けている」
僕は印を見直した。三つしか決めていないのだから三つともある。
「誰に渡したか、ですか」
「それと、その後だ。渡した先だけ書いても、そこで切れたら追えん」
商人へ渡したこと、街道名、写しが送られたこと、道が一時閉じられたことを順に追記した。父は戻り際に帳面を読み、最後の行へ指を置いた後、何も直さず手を離した。
絵を描いたこと自体は後悔していない。現地で確かめるきっかけにはなったらしい。ただ、僕には簡単な説明のつもりでも、紙は手を離れた後に勝手な軽さではいてくれない。
次に何か描く時は、まず帳面を開く。そう決めて、新しい紙は綴じ本の一番下へ戻した。
「使わないのか」
父に聞かれたので、僕は残りを指で押さえた。
「今は帳面で足りるよ。六枚しかないし」
「そこへ戻るのか」
「紙は高いから」
父は笑わなかったが、束の角を揃えてくれた。
その時の僕は、街道へ向かった調査隊が何を見つけたのか知らなかった。まして迂回路を進む荷車の中に、僕を探す者が紛れていることなど、考えるための材料さえ持っていなかった。
* * *
街道が閉じられたと聞いた時、私はギルドの判断を疑った。
十数台の荷車を山沿いの道から外し、半日余計にかかる南の迂回路へ回すという。理由は大型種の生息調査だったが、街道に残されていたのは鳥竜種らしき足跡と、正体の定かでない鳴き声だけである。荷主たちは当然のように抗議し、御者は今夜泊まるはずだった宿の名を並べて顔をしかめた。
私は商隊の帳場係として不満を聞き、荷が遅れた理由と追加の食料、野営に要る飼料を帳面へ書き込んだ。傷みやすい品を積んだ荷車から迂回路へ入れる順も決める。それが表向きの役目であり、実際に何年も続けてきた仕事だった。
この商隊へ加わった目的は別にあり、行き先の街には龍の姿を知る少年がいた。
最初にその話を持ち込んだ者は、酒場で拾った噂を三つ重ねていた。少年は見たことのない火竜を描き、海の底に棲む竜の名を呼び、古い城を焼いた黒い龍まで紙の上へ現した。王家が使者を送り、書士隊が本部へ迎え、ギルドもG級の狩人を差し向けたらしい。
出来がよすぎる話だった。人は大きな災いの前に、兆しがあったと思いたがる。誰かが警告していた。奇妙な夢を見た者がいた。鳥がいつもと違う方角へ飛んだ。災いの後から拾い集めれば、どの話もそれらしく繋がる。
私はこれまで、そのようにして生まれた龍の使いを何人も調べた。
古龍が近づく日を言い当てた女は、港の記録係から船の帰着を聞いていた。噴火を予告した老人は山を下りる獣を見ていた。夢で龍の声を聞くという子供は、親に教えられた文句を順に唱えた。
教団の中には、彼らを偽物と記しただけで怒る者もいる。私を信心の薄い人間と呼ぶ者もいたが、構わなかった。人の都合で作った言葉を龍の意思と称するほうが、よほど不敬だと思っている。
私に与えられた役目は、少年を拝みに行くことではない。存在と絵を見た者の証言を集め、王家、書士隊、ギルドが何を目的に少年を囲っているのか確かめる。本人へ近づく価値があるかを判断し、無理なら顔を見ずに戻る。
危害は加えるなと命じられている。ただし、記録にある龍を本当に知るなら、次に派遣される者が同じ命令を受けるとは限らない。その一行は、口頭で指示を受けた時にだけ付け足された。
服の下には、輪の形に並べた鱗と中央へ黒い石を嵌めた、小さな護符がある。街へ着くまでは取り出さないつもりだった。
「帳場さん、どの荷から回す」
御者に呼ばれ、私は迂回路の幅を確かめた。二台が並べる道ではない。車輪の傷んだ荷車を前へ出せば、途中で止まった時に後ろまでつかえる。生鮮品を積んだ二台を先頭に置き、その次へ護衛のいる荷車を挟んだ。
「今夜の宿には入れない。街道脇の野営地を使う。水は足りるが、草食種の飼料は買い足したほうがいい」
「彩鳥一頭に、えらい騒ぎだな」
「決めたのはギルドだ。文句は赤い札へ言ってくれ」
御者は柵へ下げられた札を睨んだものの、手綱を引いて列へ戻った。運ぶ品を傷めず、遅れを一日で収めることに比べれば、納得してもらう必要まではない。
商隊が動き始めると、閉鎖された街道の入口に三人のハンターが見えた。一人は谷へ向かい、二人は柵の前へ残っている。赤い布とギルドの札の横に、薄い板で挟まれた紙が置かれていた。
風にめくられた一瞬、鳥竜種の絵が見えた。
長い嘴と大きく膨らんだ喉、翼の先にある石。私はその生物を見たことがなかったが、線を引いた者の手は確かだった。旅の途中で見かける依頼書の挿絵より形を追いやすく、何を目印に探せばよいかが離れた場所からでも分かる。
あれが噂の少年の絵だと知ったのは、その日の夜だった。
迂回路の野営地は低い丘と林に挟まれていた。街道から離れているものの、丘へ上がれば谷の方角を見渡せる。火を増やすと大型種を寄せるため、荷車ごとに灯していた焚き火を三つへ減らし、護衛のハンターが交代で外周へ立った。
私は荷主へ追加費用を説明した後、護衛たちの火へ酒を一瓶持っていった。金の話で機嫌を損ねた相手から情報を得るには、酒か食べ物を間に置くのが早い。
「昼間の絵は、どこから届いたものです」
「本部の書士隊だ。商人が持ち込んだものを資料と照らして、写しを寄越したらしい」
年かさのハンターは酒を受け取り、私へ栓を返した。街道を守る仕事が長いのか、武具は使い込まれているが、飾りにするため残した傷は一つもない。
「書士隊が彩鳥の絵を?」
「描いたのは子供だとよ。黒い龍を描いたのと同じ子らしい」
隣にいた若いハンターが、焚き火へ身を寄せて声を落とした。
「龍の御子か」
「その呼び名を依頼中に使うな。噂を追っても足跡は残らん」
年かさの者は若者を見ずに言い、酒を一口飲んだ。
私は驚いた顔を作った。続きを促す言葉は、少し待てば向こうから出てくる。
「そんな子供が本当にいるのですか」
「本部にいることは確かだ。今回の絵は書庫の本を見て描いたと注記がある。実物を見たとは言っていない」
「それで、なぜ街道まで閉じたのでしょう」
「絵だけで閉じたんじゃない。前からあった報告と、入口で見つかった痕跡が噛み合った」
返ってきた答えは、私が荷主へ説明した内容とよく似ていた。誰か一人へ責任を押しつければ話は早い。だが、それでは次も同じ判断をできない。
谷では火竜を見た者がいない。それにもかかわらず咆哮だけが聞かれ、別の日には牙獣種らしき声まで混じった。調査員が入口を探ると、嘴の長い鳥竜種の足跡、割れた石、草の焦げた跡が残っていたという。
少年の絵には、膨らむ喉と翼先の火打石が描かれていた。
「それなら、彩鳥を見つけて追い払えば終わりでは」
「見つける前に、谷へ何が寄っているかを調べる。長年生きた個体は厄介なやつを呼ぶこともあるそうだ」
「少年が、そう言ったのですか」
若いハンターが答えようとしたが、年かさの者が杯を置く音のほうが先だった。
「護衛についているニャンターの話だ。少年はそれを聞いて絵を渡した。何が来るかは分からんとも答えている」
「それでも、『本人より呼ばれて来たほうが怖い』と言ったんでしょう」
「子供の感想を予言に仕立てるな」
若い者は火へ視線を落とした。納得したというより、これ以上は話さない顔だった。
谷へ入った調査員は、まだ戻っていない。
私は礼を言い、それ以上尋ねず火を離れた。
少年は、呼ばれて来るものの名を挙げていない。経験のあるニャンターから聞いた危険を、書庫の資料に載る彩鳥の姿へ結びつけて絵にした。それだけなら、奇跡を持ち出す必要はなかった。
とはいえ、絵の技術まで噂が作り上げたわけでもない。あの一枚は商人の曖昧な話を、ギルドが調べられる形へ変えている。教団へ持ち帰る記録には、その点を分けて書く必要があった。
夜半を過ぎた頃、見張りの笛が短く二度鳴った。
眠っていた御者たちが身を起こし、護衛は焚き火へ砂をかけた。私は帳簿を閉じ、荷車の下へ固定した箱に収める。大型種が近い時、紙の束は盾にも武器にもならない。失くせば荷主に殺されかねないという点では、少しだけ武器より危険だった。
林の向こうから低い音が届いた。
最初は雷かと思った。空には雲がなく、地面へ伏せた手のひらに細かな震えが伝わってくる。次に響いた声はさらに近く、荷車につないだ草食種が一斉に首を振った。
護衛の顔から眠気が消えた。
「彩鳥ではないな」
「あんな声で鳴くものか」
丘へ出ていた見張りが、転がるように斜面を下りてきた。
「谷の出口に大きな影がいる。二本脚だ。尾が長い」
「色は」
「暗くて見えん。だが、木の高さほどのところに頭がある」
年かさのハンターは討伐を命じなかった。
荷車を林の奥へ寄せ、音を立てる金具を布で巻き、草食種の口を覆うよう指示する。若いハンターが谷へ確かめに行こうとした時だけ、その肩を掴んだ。
「調査隊が戻るまで動くな。あれが恐暴竜なら、見つかった時点で護衛の仕事は終わる」
戦って守れるという意味ではない。荷車を逃がす時間さえなくなるという意味だった。
その名を知る者から口を閉じた。知らない者も周りの顔を見れば尋ねられない。
私も恐暴竜を見たことはない。ただ、飢えに追われるように生物へ襲いかかり、現れた土地の食物連鎖を崩すほど食べるという記録は読んでいる。龍を世界の理として敬う教団でさえ、あれを神意の表れと書いた文献はない。飢えには教えも祈りも通じない。
遠くで硬いものが続けて打ち鳴らされた。
甲高い鳴き声が夜気を裂く。昼間の絵にあった火打石を思い出した。彩鳥が谷のどこかにいる。
直後、低い咆哮がそれへ重なった。
呼んだのか、近くにいたものを刺激しただけなのかは分からない。どちらにせよ、元の街道を進んでいれば商隊は谷の中にいた。前方に彩鳥、後方にあの影が現れれば、十数台の荷車を反転させる場所はない。
追加の宿代を計算する者も残らなかったかもしれない。
夜明け前、谷へ入っていた調査員が迂回路の野営地へ戻った。一人は腕に布を巻き、もう一人は泥で顔色すら分からない。谷の外れで彩鳥を確認し、その近くに見慣れない巨大な足跡を見つけたため、追跡を中止したという。
影の主は、夜のうちに彩鳥を追って谷を離れたらしい。呼ばれて来たのかどうかまでは、足跡にも書かれていなかった。
街道の封鎖は続けられた。
商隊に負傷者はいない。傷んだ荷もなく、草食種が二頭、騒いだ拍子に脚を擦った程度で済んだ。
夜が明けてから、私は年かさのハンターへ尋ねた。
「あの少年は、恐暴竜が来ると知っていたのでしょうか」
「知らん。現地も鳴き声も分からないから、名前は決められないと答えている」
若いハンターが口を挟んだ。
「それでも、絵が来なければ彩鳥を見つけたところで封鎖を緩めていたかもしれません」
「判断したのはギルドだ。子供一人の手柄にも責任にもするな」
若い者は黙った。否定された言葉を捨てたのではなく、口の内側へしまっただけに見えた。次に酒場で話す時には、絵の前にあった報告も、ニャンターの助言も、書士隊の照合も抜け落ち、龍の御子が商隊を救ったという話だけが歩き始めるかもしれない。
幾つもの報告と判断が重なって、十数台の荷車は谷へ入らずに済んだ。
それを龍の御子が救ったと言い換えれば、覚えやすい話になる。
私は、そうした話を疑うために来た。
疑う理由は残っている。少年は未来を語らず、恐暴竜の名も出していない。龍が夢を通して教えた証拠など、どこにもない。
それでも帳簿には追加の宿代と飼料代だけが残り、死者の名を書く欄は空白のままだった。
私は服の上から護符へ触れた。
これを託した者へ、龍の御子が現れたと報告するつもりはない。まだ会ってもいない子供を、教団の期待へ合う形に削る気もなかった。
だが、作り話を暴いて帰るだけの仕事ではなくなった。少年が龍の声を聞いていないとしても、絵一枚で人を動かす技量があり、その周りでは既に王家と書士隊とギルドが動いている。教団が欲しがるのは奇跡だけではない。
翌日の夕方、商隊は書士隊本部のある街へ着いた。
門では荷主の名、積み荷、出発した街、途中で使った宿を尋ねられた。封鎖によって到着予定が変わったため、門番は通行証と帳簿を何度も見比べる。商隊そのものに不審な点はない。私は帳場係として数字の違いを説明し、追加された野営地と宿の証明書を渡した。
門番は最後に、街で妙な噂を聞いても書士隊本部の前へ集まらないよう注意した。
「龍の御子とやらですかい」
荷主が笑って尋ねると、門番はうんざりした顔を見せた。
「本物かどうかは知らん。正面で騒げば守衛につまみ出される。それだけ覚えておけ」
商隊の者たちは笑い、荷車を進めた。
私も一緒に門をくぐった。
通りの先には市場があり、その向こうへ書士隊本部の屋根が見える。正面から訪ねるつもりはない。少年の顔を知る者を探し、絵を見た者の話を聞き、家族と護衛の動きを確かめる。本人へ接触するかどうかは、その後に決めればよい。
市場へ曲がる前、通りの反対側に一人の男が立っていた。
武器も印もなく、旅装の上から見れば仕事を探している者にしか見えない。干した果実を売る店へ顔を向け、こちらを一度も見なかった。
見なかったからこそ、私は荷車の陰へ入るまで歩調を変えなかった。
この街へ招かれていない者が、自分一人とは限らない。