ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
父が荷造りを始めたので、僕も荷造りを始めた。
旅に使った鞄は寝台の下に置いてある。持ってきた着替えを畳み、炭筆を布で包み、綴じ本の角が曲がらないよう服の間へ挟む。市場で買った紙は残り六枚。これは父の鞄へ入れると荷物を開けるたびに折られそうなので、自分で持つことにした。
本部に着いてから、もう一か月近くになる。長くても数日のつもりで来たので、持ち物が増えるたびに帰りの鞄が狭くなることまでは考えていなかった。書士隊から借りた帳面、標本室で写した骨格図、食堂のアイルーからもらった木の匙。最後のものは返すべきか迷ったが、向こうから使えと言われたので持って帰ってよいのだと思う。
問題は、鞄の口が閉まらないことだった。
上から押しても閉まらず、膝で押さえると匙の柄が脇から飛び出した。僕が三度目の挑戦をしているところへ、ニャンターが入ってきた。
今日も頭から脚まで武具で覆っている。護衛になってからも装備を外した姿は見ていない。眠る時は別室なので、本当に兜を脱いでいるのかも分からなかった。
ニャンターは床の鞄と僕を見比べた。
「何をしている」
「見れば分かると思います」
「鞄を壊しているように見える」
「帰る支度です」
僕はもう一度蓋を押した。今度は留め具が嫌な音を立てたので手を離す。
「父さんが荷物をまとめ始めました。街道の調査も進んだみたいですし、そろそろ帰れるんですよね」
ニャンターはすぐに答えなかった。
その沈黙が気になったものの、廊下から近づいてきた足音に意識を向ける。旅に同行した書士隊の人が薄い木箱を抱えて現れ、扉の前で僕の鞄を見た。
「ちょうどよかった。現地のギルドから追加の報告が届いた」
「鞄についてですか」
「なぜそうなる」
報告は街道の話だった。
彩鳥は谷の外れで確認され、すでに別の地域へ移った可能性が高い。ただし周辺ではそれとは異なる大型種の足跡も見つかったという。調査が終わるまで街道の封鎖は続くものの、父が使う道には直接の影響がないらしい。
書士隊の人は木箱を卓へ置き、蓋を開けた。中には足跡の形を写した紙と現地で拾われた黒ずんだ石が入っている。紙の端には比較用の目盛りがあり、足跡の幅は僕の肩幅より広かった。
指は太く、爪の跡が深い。二本の脚で歩く大型種らしい。土の沈み方から相当な重さがあり、谷の斜面を横切った後に彩鳥の痕跡を追うように北へ向かっていた。
僕の頭には、緑色の巨体と大きな顎が浮かんだ。
恐暴竜イビルジョー。
ゲームの中では生息地を選ばず、別の大型モンスターと戦っている最中でも平然と現れた。僕にとっては討伐対象というより、姿を見たら別の場所へ逃げる理由である。あれが本当に街道の近くへ来ていたのなら通行止めを決めた人へ文句を言ってはいけない。
ただし、今度はすぐに口を開かなかった。
昨日、帳面の表紙裏へ決めた印を思い出したからである。僕は実物を見ておらず、本部の書庫でも恐暴竜の項目はまだ読んでいない。知っているのは前世のゲームと資料集からであり、今ここで根拠を求められても示しようがなかった。
書士隊の人が足跡から僕の顔へ目を移した。
「何か気づいたことがあるのか」
尋ねられてもすぐには答えず、僕は報告を挟んだ薄板を指した。
「僕が答えたらどこまで伝わりますか」
「現地のギルドへ返す。写しは本部の調査記録にも残る」
「この足跡を実際に見たわけじゃないことも、一緒に書いてもらえますか」
「もちろんだ。断定を求めているわけではない」
そこまで確かめれば、候補の名前くらいは出してよいように思えた。恐暴竜はゲームの中でも別に隠された存在ではなく、ニャンターや書士隊がすでに候補へ挙げている可能性もある。
「では、候補としてなら。たぶん恐――」
最後まで言う前に、横から伸びた手が僕の口を塞いだ。
柔らかい。
だが、動かない。
僕の顔を片手で固定したニャンターは、先ほどまでと変わらない低い声で言った。
「お前の考えなしも大概だ」
「ちゃんと先に聞きました」
肉球に押されているので、実際にはうまく発音できなかった。
「聞いたのは言葉の行き先だ。お前がその名をどこで知ったのか、一つでも説明できるか」
僕は黙った。
書士隊の人は僕ではなく、ニャンターを見た。
「何か心当たりがあるのか」
「こいつにはあるらしい。あんたに伝えてよい心当たりかは、まだ分からん」
ニャンターは僕の口を塞いだまま、視線を下げた。
「根拠を示せん名をなぜ記録へ入れようとした」
「候補があったほうが調べやすいと思ったからです」
「お前が口にすればただの候補では済まん。名を一つ挙げれば、それを確かめるために人が動く。根拠も出せんうちから、調べる順番まで決めるな」
「でも、有名な種類だと思ったんです」
「何を基準に有名だと決めた」
答えられなかった。前世のゲームでよく知っていたから、とは言えない。この世界で誰が知っているかを確かめたわけでもなかった。
「幻獣チーズと黄金芋酒を、そこらの食卓に並ぶような顔で口にしたのは誰だ」
「僕です」
「王侯貴族でも滅多に手に入らん代物だったな」
「そう聞きました」
「なら、お前の有名は信用せん」
反論できなかった。出所を分け、返事の行き先も確かめた後で、候補と断れば言葉を軽くできると思っていた。
「何も話すなとは言わん。分からん時は、まず俺か父親に回せ」
「それでいいんですか」
「自分で決められるようになるまではな」
僕は口を塞がれたままうなずいた。話の中身は理解できるが、そろそろ手を離してほしかった。肉球は柔らかいのに、後ろへ逃げようとすると爪を使わず顔だけ元の位置へ戻される。武器を持つための手だと言っていた意味を、別の形で理解した。
書士隊の人は足跡の報告を木箱へ戻した。
「今の言葉は記録しない。種類についても、こちらで調査を続ける」
僕はニャンターの手の中で、ありがとうございますと答えた。
「もういいだろう」
扉の外から父の声がした。
いつからいたのか分からない。父は旅支度を済ませた服装で、片手に書類の束を持っていた。僕が見つめるとニャンターはようやく手を離した。
「父さん、見てたの?」
「途中からだがな」
「助けてくれてもよかったのに」
「止める必要があるとは思わなかった」
どちらの意味なのか尋ねる前に、父はニャンターへ頭を下げた。
「これからも、今のようにお願いします」
「契約の範囲だ」
僕だけ話についていけなかった。
父の荷造りが終わっていることには気づいていた。僕の鞄も、閉まりさえすれば準備は終わる。だから二人の会話は帰り道の護衛についてだと思ったが、それなら「これからも」という言い方は変だった。
「帰る時も、ニャンターが一緒なの?」
父は僕の鞄を見た後、部屋へ入り扉を閉めた。書士隊の人は木箱を持って外へ出る。残ったのは父と僕とニャンターだけになった。
嫌な予感がした。
モンスターハンターの世界で嫌な予感がした時は、だいたい予感のほうが正しい。
「家へ戻るのは私だけだ」
父は遠回しに言わなかった。
僕は閉まらない鞄へ目を落とした。
「僕は?」
「しばらく本部に残る」
「しばらくって、何日?」
「日数はまだ決められない。お前の絵と知識について、本部で確認することが残っている。王家や学術院との話も終わっていない」
「父さんは帰れるのに?」
「私は聞き取りの対象ではない。それに店をこれ以上閉めておけない」
父の説明は正しかった。
店には母が残っているものの、大きな仕入れや遠方との取引は父が決める。店を閉めている間にも品物は動き、代金の支払いは待ってくれない。父まで本部に残り続ければ、僕が帰る家のほうが困る。
理解できることと、納得できることは別だった。
「母さんは知ってる?」
「今の状況までは手紙で知らせてある。お前を残すことについても返事を待ちたかったが、次の便まで待てば店へ戻るのがさらに遅れる。私から直接説明する」
「どこで寝るの?」
「今までと同じ宿舎だ。食事も本部が用意する」
「お金は?」
「私と書士隊で話をつけた。お前が帳面用の紙を買いすぎなければ足りる」
「標本室は?」
「案内がいる時だけ入れる。書庫も同じだ」
「帰れる条件は?」
父はそこで少し黙った。
「お前を外へ出しても、勝手に連れ去られたり利用されたりしないと判断できること。街道そのものは通れても、今はお前を家まで安全に帰すための備えが足りない」
街道にモンスターがいるからではなかった。
龍の御子という噂を聞き、僕を見ようとする人がいる。王家の使者が来て、ギルドのG級ハンターまで割り込んだ。正面には今も人が集まり、誰の使いか分からない者も混じっていると聞いている。
帰りたいと言えば帰れると思っていた。
僕が残りたいと言った数日前とは、もう状況が違っていた。
「僕が標本を見たいって言ったから?」
「それは関係ない」
「黒い龍を描いたから?」
「きっかけではある」
「ラギアクルスの名前を言ったから?」
「それも増えた」
「彩鳥の絵を渡したから?」
「そこまでだ」
父が僕の話を止めた。
「原因を数えて、自分を責める必要はない。今後どうするかを決めるために話している」
僕は口を閉じた。
つい先ほどもニャンターに塞がれたばかりなので、今日は口を閉じる回数が多い。
「書士官殿とは何度も話した。お前を無理に書かせないこと、一人で聞き取りをしないこと、王家を含めて外へ連れ出す時は家へ知らせることを約束させた。ニャンターとの契約も続く」
「あの人、僕を龍の御子だと思ってるんじゃないの?」
「そう扱わないよう努めていると、本人は言っている」
完全には否定しなかった。
そこは少し不安だったが、長耳の竜人族は僕を閉じ込めず、標本室へ入る許可を出してくれた。黒い龍の絵について質問した時も怒鳴ったり脅したりはしていない。僕の絵を怖がってはいるようだが、僕まで怖いものとして扱ってはいなかった。
「次に家から誰か来るのは?」
「店の都合を見て決める。私か母さんが必ず来る。手紙は定期便へ乗せるし、急ぎなら書士隊の便も使える」
「店の商品も送れる?」
「必要なものならな」
僕は帳面を開いた。
「炭筆と紙と、家で使ってた枕と、母さんの焼き菓子と、店の裏にある――」
「紙一枚に収めなさい」
「小さい字で書けば入るよ」
「品数を減らせと言っている」
父はため息をついたが、僕から帳面を取り上げなかった。
「出発の時刻を決めてくるから、欲しいものはそれまでに絞りなさい」
父は書類を持ち、長耳の書士官と話すため部屋を出た。ニャンターは扉の脇に残った。
僕は注文を書きながら、自分の手があまり震えていないことに気づいた。怖くないわけではない。父が自分の近くから出ていく場面を想像すると、胸の奥が落ち着かなかった。けれど、母へ送る手紙があり、次に来る約束があり、僕の口を物理的に止める護衛もいる。
帰れないことと、帰る場所がなくなることは同じではない。
父は店へ戻り、母はそこにいる。次に来る約束まで聞けば、置いていかれるという言葉だけで怯え続ける必要はなかった。
それよりも気になったのは、先ほどニャンターに止められた理由だった。
何も考えなかったわけではない。実物を見たか、本部の本で読んだかを思い返し、答えがどこへ送られるのかも聞いた。そこで安心し、候補と断りさえすれば口にしてよいと自分で決めた。
これまでなら、足跡を見た瞬間にイビルジョーと言っていただろう。今回は一度止まったものの、確かめるべきことを一つ覚えただけで、話すには十分だと思ってしまった。
前の人生では病室で過ごす時間が長く、モンスターの名前や生態も本と画面から僕の中へ入ってくるばかりだった。それを誰かへ渡し、相手がどう受け取るかを考える機会は少なかった。
だからといって、こちらで過ごした十一年まで数から外すことはできない。父と母の店では、品物の名を一つ間違えれば仕入れ先も値段も変わる。僕はそれを聞きながら育った。
ここがモンスターハンターの世界だと知ってから、僕はまた周りとの間に一歩ぶんの距離を置いていたのかもしれない。僕にとってラギアクルスもクルペッコもイビルジョーも、先に画面の向こうにいた。けれど、僕の答えを現地へ送り返す書士隊の人は、今ここにいる。
僕は帳面を閉じ、ニャンターを見た。
「さっきは、ほかに何を聞けばよかったんですか」
「あの書士が欲しがっていたのが、候補の名なのか、お前の反応なのか。まずそこだ」
「現地へ返すとは聞きました」
「行き先を知っても、誰がどう使うかが分からんなら足りん。そこまで聞いて、ようやく話すかどうかを考えろ」
「いつか自分で決めるには?」
「周りが何を知っているかを覚えろ。本にあることと、町で知られていることは同じではない」
「では、そこから勉強します」
「なら、まずは書庫の目録からだ。閲覧区分の書かれたものを借りろ」
「モンスターの本からじゃないんですか」
「誰でも読める本と、奥へしまわれた記録を分けて覚えろ。その違いも知らず、中身だけ覚えてどうする」
最初に覚えるのはモンスターではなく、本が置かれた場所らしい。先は長そうだった。
「ところで、そろそろ僕の鞄を閉めるのを手伝ってもらえませんか」
「残るなら閉める必要はない」
もっともだった。
僕は鞄に詰めたものを、また一つずつ元の場所へ戻した。
* * *
息子を置いて帰ると決めるまで、私は長耳の竜人族の書士官と三度話した。
一度目は、息子を帰せない理由を聞くためだった。
二度目は、残す場合の条件を決めるためだった。
三度目は、決めた条件が言葉だけで終わらないよう書面へ残すためだった。
書士官は嫌な顔をしなかった。こちらが求める前に、聞き取りには保護者か護衛を同席させると申し出た。息子の絵を外へ出す場合は用途を記録し、原本を持ち出さない。王家や学術院から身柄を求められても、父親の同意なく引き渡さない。本人が望まぬ限り危険な場所へ連れていかない。
最後の条件は、私が言う前に向こうから加えたものだった。
「あの子は前線へ出さん」
長耳の書士官は、その一点だけは交渉の初めから変えなかった。
「たとえ絵が現地の調査に役立つとしても、本人を連れていく必要はない。書士隊には、記録を持ち帰る者と読み解く者がいる。十一歳の子供へ両方をさせるほど人手には困っておらぬ」
その言葉を聞き、私はようやく話を続ける気になった。
書士隊が息子の知識を欲しがっていることは分かっている。黒い龍の絵を見た者たちは、あれを子供の空想として片づけられなくなった。王家が使者を寄越し、ギルドまでG級の狩人を向かわせた以上、このまま家へ連れ帰っても以前の生活へは戻れない。
自宅へ戻れば安全とも限らなかった。店の場所は多くの取引先が知っている。表で客を装い、裏で息子を探る者が来ても、私たちだけでは見分けられない。護衛を雇い続ければ商売にならず、店を閉めれば家族ごと孤立する。
本部へ残す判断に、納得しきれたわけではない。
ただ、自宅へ連れ帰るよりは危険を減らせる。今の私には、それを選ぶしかなかった。
それでも最後まで迷っていた私の背を押したのは、息子の口を片手で塞いだニャンターだった。
私は廊下で一部始終を見ていた。
息子は足跡を見てもすぐに名を口にせず、答えがどこへ届くかを尋ねた。さらに、実物を見ていないことも記録へ加えさせた。以前なら、思い当たった名をそのまま言っていただろう。
だが、慎重になれたのはそこまでだった。息子は一つ確かめたことで、その先まで自分で決めてよいと思った。ニャンターはそこで手を出し、黙らせるだけでなく、どこまで考え、どこから先を飛ばしたのかを言葉にさせた。
息子はこれからも判断を間違える。私がそばにいても、それは変わらない。店で絵を描いていた息子を本部へ連れてきたのは私であり、黒い龍を描かせる部屋まで入れたのも私だった。親ならば何もかも防げると考えるほうが思い上がりなのだろう。
私が見ていない時にも、ああして手を出す者が要る。しかもニャンターは、口を塞いで終わらせなかった。息子の理屈を聞き、間違えた箇所を返し、次から自分へ回せと言った。
あのニャンターなら、息子が何者と呼ばれようと態度を変えない。龍の御子に頭を下げる気はなく、守る相手が愚かなことをすれば愚かだと言う。その点では私より容赦がなかった。
長耳の書士官も同じ場面を、少し離れた廊下から見ていた。
「安心した顔をしておるな」
「そう見えますか」
「先ほどまでよりは」
私は否定しなかった。
「息子を預けるのであって、差し出すのではありません」
「承知しておる」
「あの子が嫌だと言えば、絵を描かせないでください。知っていることを話さないからと疑うのもやめていただきたい」
「約束しよう。ただし、あの子が自ら話そうとした時まで耳を塞ぐつもりはない」
「それで構いません。止めるべき時は、あの方が止めるでしょう」
部屋の中から、息子が「さっきは何を聞けばよかった」と尋ねる声がした。ニャンターの答えが終わると、今度は「いつか自分で決めるには」と続いた。
息子は幼い頃から本を読むことを苦にしない。絵のためなら難しい分類書でも開く。しかし、今尋ねているのはモンスターの名ではなく、次に何を確かめるべきかだった。
どこまで身につくかは分からない。それでも、同じ足跡を前にしたら、次はほかの問いを挟むだろう。
出発は翌朝と決まった。
私は息子へ家の鍵を一つ残した。ここで使えるものではないが、帰る場所があると形で示しておきたかった。息子は鍵を受け取り、綴じ本の紐へ結んだ。
「なくすなよ」
「紙より大事にする」
「比べるものが違う」
書士隊本部の職員用門には、小さな荷車が待っていた。荷を引くのは太い角と短い脚を持つ草食種である。御者は私の荷物を載せ、出発の札を守衛へ見せた。
息子は門の内側でニャンターの隣に立っていた。長耳の書士官も少し離れた場所にいる。大勢で見送れば目立つため、ほかの書士は来ていない。
「母さんに、ちゃんと説明して」
「分かっている」
「僕が残りたいと言ったから置いてきた、みたいに言わないで」
「言わない」
「焼き菓子を忘れないで」
「それが一番大事なのか」
「家の鍵の次には」
息子は普段と変わらないように見えた。
私はそれを、別れを受け入れた落ち着きだと考えかけた。しかし、息子の手は綴じ本に結んだ鍵を何度も確かめている。怖くないはずがなかった。
だから、勇気があるとは言わなかった。
「必ず迎えに来る」
息子は鍵から手を離し、頷いた。
「それまで、危ない場所には行かないよ」
「今まで一度も行っていないだろう」
「これからもってこと」
御者が出発を告げた。
荷車が動き、門との距離が開く。息子は追いかけてこなかった。ニャンターも何も言わず、その横に立っていた。
角を曲がる直前、私は一度だけ振り返った。
息子はまだそこにいた。
その姿が見えなくなってから、私は前を向いた。
本部へ息子を置いてきたことを、正しかったと言える日が来るかはわからない。だが、帰る家を守る仕事は私にしかできない。
店を開け、妻と娘へ説明し、次に会うための支度を始める。
私が戻るのは、そのためだった。
* * *
わらわが龍の御子という言葉を耳にしたのは、王宮の廊下じゃった。
父上へ報告を終えた使者が、二人の文官と話しておった。声を潜めた会話から、「あの龍」「海竜の名」「G級の狩人まで本部へ」という言葉が途切れ途切れに聞こえた。
三人がわらわの姿に気づくと、会話はぴたりと止まった。壁際へ寄って頭を下げたので、聞かれて困る話なのだとすぐに分かった。
「今、龍の御子と言ったか?」
「姫様には関わりのないことでございます」
先頭の文官は、答えたつもりらしい。だがそれでは答えになっていない。
正確には、わらわの欲しい答えではなかった。
「わらわに関わりがあるかどうかは、聞いてから決めるのじゃ」
「王立古生物書士隊の内部で調査中の件にございます。確かなことは、まだ何一つ判明しておりません」
「何も分からぬのに、父上へ報告したのか?」
「王家から使者を送った件でもありますので」
「わらわは聞いておらぬぞ」
三人は黙った。
聞こえた断片は、父上への報告に値する話だった。それを、わらわだけ知らされていなかったらしい。
龍の御子が何者なのかより、そちらのほうが問題だった。
「その者は、まだ本部におるのじゃな」
「姫様」
「おるのじゃな?」
使者は返事をしなかった。
返事をしない時は、たいてい肯定である。
わらわは三人の前を通り過ぎた。背後で文官が誰かを呼ぶ声がしたが、立ち止まる理由などない。
龍の御子。
ほどなく知る事になったが、隠された龍の姿を知り、海に棲む竜の名を言い当てた子供。
そして、わらわには知らせてはならないらしい相手。
会ってみなければ、関わりがないかどうかなど分からぬではないか。ならば会いに行けばよい。