ハンターにはなりません。理由は怖いから   作:ゴミミゴミ

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第11話 帰るのは父だけです

 

 父が荷造りを始めたので、僕も荷造りを始めた。

 

 旅に使った鞄は寝台の下に置いてある。持ってきた着替えを畳み、炭筆を布で包み、綴じ本の角が曲がらないよう服の間へ挟む。市場で買った紙は残り六枚。これは父の鞄へ入れると荷物を開けるたびに折られそうなので、自分で持つことにした。

 

 本部に着いてから、もう一か月近くになる。長くても数日のつもりで来たので、持ち物が増えるたびに帰りの鞄が狭くなることまでは考えていなかった。書士隊から借りた帳面、標本室で写した骨格図、食堂のアイルーからもらった木の匙。最後のものは返すべきか迷ったが、向こうから使えと言われたので持って帰ってよいのだと思う。

 

 問題は、鞄の口が閉まらないことだった。

 

 上から押しても閉まらず、膝で押さえると匙の柄が脇から飛び出した。僕が三度目の挑戦をしているところへ、ニャンターが入ってきた。

 

 今日も頭から脚まで武具で覆っている。眠る時は別室なので、その間まで兜をかぶっているのかは知らない。

 

 ニャンターは床の鞄と僕を見比べた。

 

「何をしている」

 

「見れば分かると思います」

 

「鞄を壊しているように見える」

 

「帰る支度です」

 

 僕はもう一度蓋を押した。今度は留め具が嫌な音を立てたので手を離す。

 

「父さんが荷物をまとめ始めました。街道の調査も進んだみたいですし、そろそろ帰れるんですよね」

 

 ニャンターはすぐに答えなかった。

 

 その沈黙が気になったものの、廊下から近づいてきた足音に意識を向ける。旅に同行した書士隊の人が薄い木箱を抱えて現れ、扉の前で僕の鞄を見た。

 

「ちょうどよかった。現地のギルドから追加の報告が届いた」

 

「街道のことですか」

 

 報告は街道の話だった。

 

 彩鳥は谷の外れで確認され、すでに別の地域へ移った可能性が高い。ただし周辺ではそれとは異なる大型種の足跡も見つかったという。調査が終わるまで街道の封鎖は続くものの、父が使う道には直接の影響がないらしい。

 

 書士隊の人は木箱を卓へ置き、蓋を開けた。中には足跡の形を写した紙と現地で拾われた黒ずんだ石が入っている。紙の端には比較用の目盛りがあり、足跡の幅は僕の肩幅より広かった。

 

 指は太く、爪の跡が深い。二本の脚で歩く大型種らしい。土の沈み方から相当な重さがあり、谷の斜面を横切った後に彩鳥の痕跡を追うように北へ向かっていた。

 

 僕の頭には、緑色の巨体と大きな顎が浮かんだ。

 

 恐暴竜イビルジョー。

 

 ゲームの中では生息地を選ばず、別の大型モンスターと戦っている最中でも平然と現れた。僕にとっては討伐対象というより、姿を見たら別の場所へ逃げる理由である。あれが本当に街道の近くへ来ていたのなら通行止めを決めた人へ文句を言ってはいけない。

 

 けれど、現実の足跡は画面と違い、横に名前を表示してくれない。僕は口を開く前に、昨日決めた帳面の印を思い出した。

 

 実物は見ておらず、本部の書庫でも恐暴竜の記録を読んだ覚えがない。知っているのは前世のゲームと資料集からで、今ここで根拠を求められても、前の人生で見ましたとは言えなかった。

 

 書士隊の人が足跡から僕の顔へ目を移した。

 

「何か気づいたことがあるのか」

 

 尋ねられてもすぐには答えず、僕は報告を挟んだ薄板を指した。

 

「僕が答えたらどこまで伝わりますか」

 

「現地のギルドへ返す。写しは本部の調査記録にも残る」

 

「この足跡を実際に見たわけじゃないことも、一緒に書いてもらえますか」

 

「もちろんだ。断定を求めているわけではない」

 

 そこまで確かめれば、候補の名前くらいは出してよいように思えた。恐暴竜はゲームでも隠された存在ではなかったし、ニャンターや書士隊がすでに候補へ挙げている可能性もある。

 

「では、候補としてなら。たぶん恐――」

 

 最後まで言う前に、横から伸びた手が僕の口を塞いだ。柔らかい肉球なのに、後ろへ引いてもびくともしない。

 

 僕の顔を片手で固定したニャンターは、先ほどまでと変わらない低い声で言った。

 

「お前の考えなしも大概だ」

 

「ちゃんと先に聞きました」

 

 肉球に押されているので、実際にはうまく発音できなかった。

 

 ニャンターは問題の名前が出なかったことを確かめると、ようやく手を離した。

 

「聞いたのは言葉の行き先だけだ。その名をどこで知った」

 

「……説明できません」

 

 書士隊の人は僕ではなく、ニャンターを見た。

 

「何か心当たりがあるのか」

 

「こいつにはあるらしい。だが、あんたへ渡せる根拠がない」

 

 書士隊の人は追及せず、足跡を挟んだ薄板を伏せた。ニャンターの視線だけが僕へ戻ってくる。

 

「それでも記録へ入れようとしたのはなぜだ」

 

「候補があったほうが調べやすいと思ったからです」

 

「お前が口にすれば、ただの候補では済まん。名を一つ挙げれば、それを確かめるために人が動く。根拠も出せんうちから、調べる順番まで決めるな」

 

「でも、有名な種類だと思ったんです」

 

 ニャンターの耳が兜の下でわずかに動いた。その反応には覚えがあった。

 

「幻獣チーズと黄金芋酒を、そこらの食卓に並ぶような顔で口にした奴の『有名』を、俺が信用すると思うか」

 

 口を閉じた。出所を分け、返事の行き先も確かめた後で、候補と断れば言葉を軽くできると思っていた。ところが僕の物差しは、食材の時点ですでに壊れていたらしい。

 

「何も話すなとは言わん。分からん時は、まず俺か父親に回せ」

 

「それでいいんですか」

 

「自分で決められるようになるまではな」

 

 僕はうなずいた。話の中身は理解できるが、納得した顔を作るのは少し難しい。頬にはまだ肉球の形が残っている気がした。

 

「今の言葉は記録しない。種類についても、こちらで調査を続ける」

 

「ありがとうございます」

 

 書士隊の人は足跡の報告を木箱へ戻した。

 

「もういいだろう」

 

 扉の外から父の声がした。

 

 いつからいたのか分からない。父は旅支度を済ませた服装で、片手に書類の束を持っていた。僕が見つめても、ニャンターは知らない顔で髭を撫でている。

 

「父さん、見てたの?」

 

「途中からだがな」

 

「助けてくれてもよかったのに」

 

「止める必要があるとは思わなかった」

 

 どちらの意味なのか尋ねる前に、父はニャンターへ頭を下げた。

 

「これからも、今のようにお願いします」

 

「契約の範囲だ」

 

 僕だけ話についていけなかった。

 

 父の荷造りが終わっていることには気づいていた。僕の鞄も、閉まりさえすれば準備は終わる。だから二人の会話は帰り道の護衛についてだと思ったが、それなら「これからも」という言い方は変だった。

 

「帰る時も、ニャンターが一緒なの?」

 

 父は僕の鞄を見た後、部屋へ入り扉を閉めた。書士隊の人は木箱を持って外へ出る。残ったのは父と僕とニャンターだけになった。

 

 嫌な予感がした。

 

 モンスターハンターの世界で嫌な予感がした時は、だいたい予感のほうが正しい。

 

「家へ戻るのは私だけだ」

 

 父は遠回しに言わなかった。

 

 僕は閉まらない鞄へ目を落とした。

 

「僕は?」

 

「しばらく本部に残る」

 

「しばらくって、何日?」

 

「日数はまだ決められない。お前の絵と知識について、本部で確認することが残っている。王家や学術院との話も終わっていない」

 

「父さんは帰れるのに?」

 

「私は聞き取りの対象ではない。それに店をこれ以上空けておけない」

 

父の話は、嫌になるくらい筋が通っていた。

 

 店には母が残っているものの、大きな仕入れや遠方との取引は父が決める。父が留守の間にも品物は動き、代金の支払いは待ってくれない。父まで本部に残り続ければ、僕が帰る家のほうが困る。

 

 事情が分かったせいで、帰ると駄々をこねる逃げ道までなくなった。

 

「母さんは知ってる?」

 

「今の状況までは手紙で知らせてある。お前を残すことについても返事を待ちたかったが、次の便まで待てば店へ戻るのがさらに遅れる。私から直接説明する」

 

「どこで寝るの?」

 

「今までと同じ宿舎だ。食事も本部が用意する」

 

「お金は?」

 

「私と書士隊で話をつけた。お前が帳面用の紙を買いすぎなければ足りる」

 

「標本室は?」

 

「案内がいる時だけ入れる。書庫も同じだ」

 

「帰れる条件は?」

 

 父はそこで少し黙った。

 

「お前を外へ出しても、勝手に連れ去られたり利用されたりしないと判断できること。街道そのものは通れても、今はお前を家まで安全に帰すための備えが足りない」

 

 街道にモンスターがいるからではなかった。

 

 龍の御子という噂を聞き、僕を見ようとする人がいる。王家の使者が来て、ギルドのG級ハンターまで割り込んだ。正面には今も人が集まり、誰の使いか分からない者も混じっていると聞いている。

 

 帰りたいと言えば帰れると思っていた。

 

 僕が残りたいと言った数日前とは、もう状況が違っていた。

 

「僕が標本を見たいって言ったから?」

 

「それは関係ない」

 

「黒い龍を描いたから?」

 

「きっかけではある」

 

「ラギアクルスの名前を言ったから?」

 

「それも増えた」

 

「彩鳥の絵を渡したから?」

 

「そこまでだ」

 

 父が僕の話を止めた。

 

「原因を数えて、自分を責める必要はない。今後どうするかを決めるために話している」

 

 僕は口を閉じた。

 

 つい先ほどもニャンターに塞がれたばかりなので、今日は口を閉じる回数が多い。

 

「書士官殿とは条件を書面にした。ニャンターとの契約も続く」

 

「あの人、僕を龍の御子だと思ってるんじゃないの?」

 

「そう扱わないよう努めていると、本人は言っている」

 

 完全には否定しなかった。

 

 そこは少し不安だったが、長耳の竜人族は僕を閉じ込めず、標本室へ入る許可を出してくれた。黒い龍の絵について質問した時も怒鳴ったり脅したりはしていない。僕の絵を怖がってはいるようだが、僕まで怖いものとして扱ってはいなかった。

 

「次に家から誰か来るのは?」

 

「店の都合を見て決める。私か母さんが必ず来る。手紙は定期便へ乗せるし、急ぎなら書士隊の便も使える」

 

「店の商品も送れる?」

 

「必要なものならな」

 

 僕は帳面を開いた。

 

「炭筆と紙と、家で使ってた枕と、母さんの焼き菓子と、店の裏にある――」

 

「紙一枚に収めなさい」

 

「小さい字で書けば入るよ」

 

「品数を減らせと言っている」

 

 父はため息をついたが、僕から帳面を取り上げなかった。

 

「出発の時刻を決めてくるから、欲しいものはそれまでに絞りなさい」

 

 父は書類を持ち、長耳の書士官と話すため部屋を出た。ニャンターは扉の脇に残った。

 

 僕は注文を書きながら、炭筆を持つ手が思ったほど震えていないことに気づいた。怖くないわけではなく、父だけが門を出ていくところを考えると胸の奥が落ち着かない。それでも、母へ送る手紙も次に来る約束もあるし、僕の口を実力で止められる護衛まで残る。

 

 家がなくなるのではない。しばらく帰れないだけだと、書きかけの注文を見ながら何度か頭の中で言い直した。

 

 それから帳面の表紙裏を開き、昨日つけた印を眺めた。先ほどの僕は、実物を見ていないと気づき、答えの行き先を尋ね、但し書きまで頼んでいる。自分で採点するなら、かなり慎重にできたつもりだった。

 

 採点したのが僕なので、当然ながら点は甘かった。

 

 病室で覚えたモンスターの名は、口にしても誰かを谷へ向かわせなかった。ゲームなら名前は画面の端へ勝手に出るし、間違えても読み込み直せば済む。残念ながら、現実の泥には字幕もやり直しもなかった。

 

 商家で十一年暮らし、品物の名一つで仕入れ先も値段も変わることは知っている。それなのにモンスターの名前だけは、まだ本や画面の中と同じつもりで扱っていたらしい。

 

 僕は帳面を閉じ、ニャンターを見た。

 

「さっきは、何が足りなかったんですか」

 

「先にお前が答えろ。あの書士は何を欲しがっていた」

 

「足跡の正体に近づく手がかりを……たぶん」

 

「お前が名を出せば、現地の連中はどう調べる」

 

 僕は足跡の紙を思い出した。

 

「その種類がいるつもりで、似た跡や生息記録を探すと思います」

 

「違う跡まで、そう見えるかもしれん。行き先を聞いたのは悪くなかった。次は、受け取った奴がどう使うかまで考えろ」

 

「いつか自分で決めるには?」

 

「周りが何を知っているかを覚えろ。本にあることと、町で知られていることは同じじゃない」

 

「では、そこから勉強します」

 

「なら、まずは書庫の目録からだ。閲覧区分の書かれたものを借りろ」

 

「モンスターの本からじゃないんですか」

 

「誰でも読める本と、奥へしまわれた記録を分けて覚えろ。その違いも知らず、中身だけ覚えてどうする」

 

 最初に覚えるのはモンスターではなく、本の置かれた場所らしい。先は長そうだった。

 

「ところで、そろそろ僕の鞄を閉めるのを手伝ってもらえませんか」

 

「残るなら閉める必要はない」

 

 もっともだった。

 

 僕は鞄に詰めたものを、また一つずつ元の場所へ戻した。

 

* * *

 

 息子を置いて帰ると決めるまで、私は長耳の竜人族の書士官と三度話した。最初は息子を帰せない理由を聞き、次には残す場合の条件を詰めた。最後の話し合いでは、それらが口約束で終わらぬよう一つずつ書面へ残させた。

 

 書士官は嫌な顔をしなかった。こちらが求める前に、聞き取りには保護者か護衛を同席させると申し出た。本部が照合のために預かる絵は原本を持ち出さず、外へ写しを出す場合も用途を記録する。王家や学術院から身柄を求められても、父親の同意なく引き渡さない。本人が望まぬ限り危険な場所へ連れていかない。

 

 最後の条件は、私が言う前に向こうから加えたものだった。

 

「あの子は前線へ出さん」

 

 長耳の書士官は、その一点だけは交渉の初めから変えなかった。

 

「たとえ絵が現地の調査に役立つとしても、本人を連れていく必要はない。書士隊には、記録を持ち帰る者と読み解く者がいる。十一歳の子供へ両方をさせるほど人手には困っておらぬ」

 

 その言葉を聞き、私はようやく話を続ける気になった。

 

 書士隊が息子の知識を欲しがっていることは分かっている。黒い龍の絵を見た者たちは、あれを子供の空想として片づけられなくなった。王家が使者を寄越し、ギルドまでG級の狩人を向かわせた以上、このまま家へ連れ帰っても以前の生活へは戻れない。

 

 自宅へ戻れば安全とも限らなかった。店の場所は多くの取引先が知っている。表で客を装い、裏で息子を探る者が来ても、私たちだけでは見分けられない。護衛を雇い続ければ商売にならず、店を閉めれば家族ごと孤立する。

 

 本部へ残す判断に、納得しきれたわけではない。

 

 ただ、自宅へ連れ帰るよりは危険を減らせる。今の私には、それを選ぶしかなかった。

 

 それでも最後まで迷っていた私の背を押したのは、息子の口を片手で塞いだニャンターだった。

 

 私は廊下で一部始終を見ていた。息子は足跡を見てもすぐには名を口にせず、答えがどこへ届くかを尋ね、実物を見ていないことまで記録へ加えさせた。それでも候補なら構わないと先へ進みかけたところで、ニャンターの手が伸びた。

 

 息子が黙った後も、ニャンターはそこで話を切らなかった。何を確かめ、どこから先を飛ばしたのかを問い直し、次に迷った時の渡し先まで示した。

 

息子はまた判断を誤るだろう。私がそばにいても、すべてを防げるわけではない。店先で絵を描いていた息子を本部へ連れてきたのも私だった。ならば私の見ていない時にも止め、止めた理由を教える者が要る。

 

 あのニャンターなら、息子が何者と呼ばれようと態度を変えない。龍の御子に頭を下げる気はなく、守る相手が愚かなことをすれば愚かだと言う。その点では私より容赦がなかった。

 

 長耳の書士官も同じ場面を、少し離れた廊下から見ていた。

 

「安心した顔をしておるな」

 

「そう見えますか」

 

「先ほどまでよりは」

 

 私は否定しなかった。

 

「息子を預けるのであって、差し出すのではありません」

 

「承知しておる」

 

「あの子が嫌だと言えば、絵を描かせないでください。知っていることを話さないからと疑うのもやめていただきたい」

 

「約束しよう。ただし、あの子が自ら話そうとした時まで耳を塞ぐつもりはない」

 

「それで構いません。止めるべき時は、あの方が止めるでしょう」

 

 部屋の中から、息子が「さっきは何が足りなかった」と尋ねる声がした。ニャンターはすぐに答えを与えず、先に息子へ考えさせている。やがて返ってきた答えを聞き、私は書士官との話へ戻った。

 

 出発は翌朝と決まった。

 

 私は息子へ家の鍵を一つ残した。ここで使えるものではないが、帰る場所があると形で示しておきたかった。息子は鍵を受け取り、綴じ本の紐へ結んだ。

 

「なくすなよ」

 

「紙より大事にする」

 

「比べるものが違う」

 

 書士隊本部の職員用門には、小さな荷車が待っていた。荷を引くのは太い角と短い脚を持つ草食種である。御者は私の荷物を載せ、出発の札を守衛へ見せた。

 

 息子は門の内側でニャンターの隣に立っていた。長耳の書士官も少し離れた場所にいる。大勢で見送れば目立つため、ほかの書士は来ていない。

 

「母さんに、ちゃんと説明して」

 

「分かっている」

 

「僕が残りたいと言ったから置いてきた、みたいに言わないで」

 

「言わない」

 

「焼き菓子を忘れないで」

 

「それが一番大事なのか」

 

「家の鍵の次には」

 

 息子は普段と変わらないように見えた。

 

 私はそれを、別れを受け入れた落ち着きだと考えかけた。しかし、息子の手は綴じ本に結んだ鍵を何度も確かめている。怖くないはずがなかった。

 

 だから、勇気があるとは言わなかった。

 

「必ず迎えに来る」

 

 息子は鍵から手を離し、頷いた。

 

「それまで、危ない場所には行かないよ」

 

「今まで一度も行っていないだろう」

 

「これからもってこと」

 

 御者が出発を告げた。

 

 荷車が動き、門との距離が開く。息子は追いかけてこなかった。ニャンターも何も言わず、その横に立っていた。

 

 角を曲がる直前、私は一度だけ振り返った。

 

 息子はまだそこにいた。

 

 その姿が見えなくなってから、私は前を向いた。

 

 本部へ息子を置いてきたことを、正しかったと言える日が来るかはわからない。だが、帰る家を守る仕事は私にしかできない。

 

 店へ戻り、妻と娘へ説明し、次に会うための支度を始める。

 

 私が戻るのは、そのためだった。

 

* * *

 

 わらわが龍の御子という言葉を耳にしたのは、王宮の廊下じゃった。

 

 父上へ報告を終えた使者が、二人の文官と話しておった。声を潜めた会話から、「あの龍」「海竜の名」「G級の狩人まで本部へ」という言葉が途切れ途切れに聞こえた。

 

 三人がわらわの姿に気づくと、会話はぴたりと止まった。壁際へ寄って頭を下げたので、聞かれて困る話なのだとすぐに分かった。

 

「今、龍の御子と言ったか?」

 

「姫様には関わりのないことでございます」

 

 先頭の文官は答えたつもりらしいが、わらわの欲しいことは何一つ分からなかった。

 

「わらわに関わりがあるかどうかは、聞いてから決めるのじゃ」

 

「王立古生物書士隊の内部で調査中の件にございます。確かなことは、まだ何一つ判明しておりません」

 

「何も分からぬのに、父上へ報告したのか?」

 

「王家から使者を送った件でもありますので」

 

「わらわは聞いておらぬぞ」

 

 三人は黙った。

 

 父上へ報告するほどの話だというのに、王家の第三王女をのけ者にするつもりらしい。

 

 龍の御子が何者なのかより、そちらのほうが問題だった。

 

「その者は、まだ本部におるのじゃな」

 

「姫様」

 

「おるのじゃな?」

 

 使者は返事をしなかった。

 

 返事をしない時は、たいてい肯定である。

 

 わらわは三人の前を通り過ぎた。背後で文官が誰かを呼ぶ声がしたが、立ち止まる理由などない。

 

 龍の御子。

 

 断片を拾い集めれば、隠された龍の姿を知り、海に棲む竜の名を言い当てた子供らしい。

 

 そして、わらわには知らせてはならないらしい相手。

 

 会ってみなければ、関わりがないかどうかなど分からぬではないか。ならば会いに行けばよい。

 

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