ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
父が本部を発った翌日、僕の前からモンスターの本が消えた。
書庫からなくなったわけではない。見上げれば棚には飛竜も獣竜も詰まっているし、少し離れた机では書士が甲殻の断面図を広げている。ただし、今日の僕へ渡されたのは図鑑ではなく、本の名前と置き場所と、誰が読んでよいかを記した目録だった。
一般の書士が読める本、担当者の許可が要る本、存在だけ記されているのに保管場所が空欄の本。最初の一冊を半分も進まないうちに、僕は分類の仕方より先に眠気の呼び方を覚えかけていた。
窓際ではニャンターが剣の柄に巻かれた革紐を締め直している。護衛の仕事に勉強の見張りまで含まれているのかは知らないが、僕が同じ行を三度なぞったところで肉球のついた手が止まった。
「進んでいないな」
「七頁は読みました」
ニャンターは返事をせず、僕が三度読んだ行を爪の先で叩いた。
「ここは、少し読みにくくて」
「二度目まではそうだったんだろうな」
革紐を締める音がまた始まる。たぶん三度目は認めてもらえなかった。
昨日までなら、七頁の途中で面白そうな題名を見つけ、その本を探しに立っていたと思う。それをせず椅子へ座っているのだから、僕としてはかなり真面目だった。真面目さが頁数に反映されないのは、目録を作った人の責任である。
「せめて挿絵があれば、もう少し早く読めるんですけど」
ニャンターの手が止まりかけたので、僕は目録の余白から炭筆を離した。まだ何も描いていない。怖い顔をした番人を、閲覧禁止の印にしようと思っただけである。
「描きませんよ」
「聞いていない」
聞かれる前に答えられたので、今日は一歩早かった。
父が残してくれた家の鍵は、綴じ本から外して首紐へ結び直してある。寝返りを打つと身体へ当たるため眠る間だけ卓へ置くが、それ以外は服の下へ入れていた。書庫へ来る前にも触ったし、今も胸元を押さえれば硬い形が指に当たる。
朝食の席が一つ空き、宿舎へ戻っても商談用の紙を広げている人はいない。父がいなくなっただけで本部の廊下は少し長くなったように感じられた。代わりにニャンターが僕の部屋へ来る回数は増えたものの、帳面を買いすぎるなとも、母へ送る菓子を減らせとも言わない。
気楽な部分がないとは言わない。そこだけは、母への手紙には書かないつもりだった。
僕は目録へ視線を戻した。次の項目は古龍観測に関する報告書で、担当部署の許可がなければ閲覧できない。題名に龍の名はなく、保管棚も記号でしか示されていなかった。
指が止まる。
何の龍だろうと思ったが、題名だけから中身を決めるなと昨日言われたばかりである。僕は頁の端を折りそうになった指を戻し、次の項目へ進んだ。
窓際から革の擦れる音が聞こえた。ニャンターは何も言わない。こちらも聞かなかったので、それでよいらしい。
本部の廊下が騒がしくなったのは、その直後だった。
走る足音はしない。それでも複数の靴音がこちらへ近づき、途中で誰かが押しとどめようとする声が混じった。書庫にいた書士たちは順に顔を上げ、入口に近い者から椅子を引く。
ニャンターは剣へ触れずに立ち上がり、僕と扉の間へ移った。
「ここにいろ」
僕は頷いて帳面に両手を置いた。廊下を覗きに行く代わりに、背表紙の文字を一つずつ数える。今日は椅子の脚が床へ根を張っていても困らなかった。
長耳の竜人族の書士官が書庫の前を通り過ぎる。いつもより歩幅が広く、その後ろを二人の書士が追っていた。廊下の奥で足を止めると、見えない相手へ丁寧な声を向ける。
「本日は、王宮より訪問の知らせを受けておりませぬ」
「今知らせたではないか」
返ってきたのは若い女の子の声だった。
「先触れは、訪問される方より先に着くものでございます」
「わらわより遅い者が悪いのじゃ。後から来るゆえ、待たずともよい」
声は少しずつ近づいてくる。長耳の書士官は本人と護衛の了承がなければ会わせられないと説明していたが、相手は王家の者が王立の組織へ入るのに、なぜ許しが要るのかと譲らない。
どちらが正しいのかは分からない。ただ、普段は何を見ても慌てない長耳の書士官が、今日は会話をしながら後ろへ押されているらしかった。
「窓へ寄るなよ」
ニャンターが扉を見たまま言った。
二階の窓から逃げるほどのことが、これから入ってくるのだろうか。聞けば答えを知ってしまいそうなので、僕は椅子に座ったまま家の鍵を服の上から押さえた。
書庫の扉が開く。
最初に入ってきたのは長耳の書士官だった。止めるのを諦めた顔で扉を押さえ、その脇を王家の紋章を胸につけた護衛が二人通る。二人とも姿勢は崩していないが、一人は目の下に隈があり、もう一人は扉をくぐる前から帰りたそうだった。
最後に、僕より一つほど年上に見える女の子が姿を現した。
金色の髪が縦に巻かれている。
前世でも今世でも、あの形は絵の中でしか見たことがない。お姫様を描いてくださいと言われた人が、王冠や宝石と一緒に選ぶ髪型である。左右の巻きは同じ太さで、歩いても形が崩れず、先のほうまできれいに揃っていた。毎朝作るのなら、僕が炭筆を削るよりずっと時間がかかると思う。
青を基調にした衣装は動きやすそうだが、細い金糸の模様と胸元の石が、どう見ても普通の外出着ではない。顔立ちまで絵本のお姫様らしく整い、背筋を伸ばして立つ姿には年上らしい落ち着きがあった。
その印象は、口を開くまでのものだった。
「おぬしが龍の御子か」
女の子は書庫へ入るなり、僕を指さした。
「違います」
そこだけは考えるまでもない。長耳の書士官が片手で額を押さえ、ニャンターは僕の前へ半歩出た。
「面会の許可は出ていない。質問を続けるな」
「王族が誰と話すかを、おぬしが決めるのか」
ニャンターは返事をせず、僕の前から退かなかった。女の子も引き下がらず、肩越しに僕を見ると、少し角度を変えて尋ねてくる。
「黒い龍を描いた子供を知っておるか」
「さあ。ここには絵を描く人がたくさんいますから」
「海に棲む竜の名を知っていた子供は」
「書庫を使っている人じゃないですか」
知らないと言い切らず、僕だとも認めない。相手が誰なのか分からない時は、勝手に話さず父かニャンターへ回せと言われている。質問への答えとしては少し曲がっているが、今度こそ余計な名前は一つも出していない。
女の子は僕ではなく、長耳の書士官とニャンターを順に見た。二人とも口を挟まない。
「答えを作るのは早いが、知らぬふりは下手じゃな」
僕は返事をせず、帳面の角へ指を揃えた。
「本当に知らぬ者なら、まず何の絵かと聞く。海の竜についても同じじゃ。それに、わらわが最初の問いを言い終える前から否定しておった」
言われてみれば、そのとおりだった。黙っている間にも、女の子の視線が僕の顔から胸元の鍵へ移り、それから前に立つニャンターへ向かう。
「そこの二人も、おぬしを隠すように動いた。黒い龍を描いたのも、海の竜の名を口にしたのも、おぬしであろう」
助けを求めてニャンターを見るのは、今の話を自分から証明するような気がした。僕は目録へ視線を落としたまま、言える部分だけを選ぶ。
「龍の御子ではありません」
「そこは妙に強く申すのじゃな」
女の子は追及せず、僕を上から下まで眺めた。値踏みされているようで落ち着かなかったが、僕も髪ばかり見ていたので文句は言えない。
「わらわは、この国の第三王女じゃ」
堂々と名乗られた。
第三王女。その呼び方には、前世のどこかで見た覚えがある。モンスターハンターのクエスト依頼文に、わがままな第三王女とだけ書かれた依頼主が何度かいたはずだった。前世の僕は文章を読み、画面の向こうで依頼を受けるハンターへ同情した気がする。
依頼文には肖像が載っていない。設定資料にも王族の顔まではなかったので、同じ人物なのか確かめようがない。仮に同じだとしても、僕にとっては今日初めて会う、名前も知らない女の子である。
そして現実に現れた第三王女は、金髪縦巻きのお姫様だった。
「先ほどから、どこを見ておる」
「髪です」
第三王女は片側の巻きを指へ掛け、当然のように顎を上げた。
「似合うであろう」
「はい。絵本と同じです」
褒め方として正しかったかは分からない。怒鳴られなかったので、今回は正解だったことにした。絵本のお姫様は、登場してすぐ人を指さしたりしないけれど、そこまで口へ出す必要はない。
「王女殿下」
長耳の書士官が二人の間へ入った。
「この子は昨日、父親を見送ったばかりにございます。面会を続けるのであれば、まず目的をお聞かせくだされ」
「決まっておろう。龍の御子とやらが本物か、わらわが確かめに来たのじゃ」
「どうやって確かめるんですか」
「それは、これから考える」
先に来てから方法を考えるらしい。さすが王族である。順番まで人の決めたとおりには動かない。
何をしに来たんだ、とは口にしなかった。閉じた目録の表紙へ指を置くと、ニャンターの耳が兜の下でこちらを向き、すぐに戻った。
第三王女は僕の前にある目録を覗き込み、こんなものを読んで何をしていたのかと尋ねた。
「誰でも読める本と、勝手に開いてはいけない本を覚えてます」
「本の中身より、置き場所を先に覚えるのか」
「先に知らないと、開いた後で困るので」
第三王女は目録へ手を伸ばしたが、頁に触れる前に長耳の書士官が表紙を閉じた。
「こちらにも閲覧の区分がございます」
「王立の書士隊であろう。父上が見せよと命じても、同じことを申すのか」
「何を、何のために御覧になるのかは伺います。王家へ仕えることと、記録を無条件で開くことは同じではありませぬ」
長耳の書士官は一歩も退かなかった。第三王女は腹を立てるどころか、閉じられた目録より書士官の顔を面白そうに眺めている。自分の手を止める人が珍しいのかもしれない。
僕はその間に椅子を引こうとしたが、ニャンターが踵で扉の前を塞いだ。窓から逃げるなと言われ、扉も使えない。護衛は、逃げ道をなくす仕事まで契約に入っているらしい。
「おぬし、明日もここにおるな」
「たぶん」
「ならばよい。今日は顔を見に来ただけじゃ」
確かめる方法を考えてから来れば、一度で済んだのではないだろうか。僕が黙っていると、ニャンターの踵が扉から離れた。
遠くで大きな扉の開く音がした。
続いて「殿下」と呼ぶ声が廊下の向こうから届くと、第三王女の肩が跳ねる。先ほどまで人の嘘を見抜いていた顔から、絵本らしい威厳が半分ほど消えた。
「もう追いついたのか」
連れてきた護衛二人は顔を見合わせ、何も言わずに視線を逸らした。止めようとはしたのだろう。目の下の隈を見るかぎり、今日に限った話でもなさそうだった。
「王女殿下、こちらへ――」
「静かにせよ」
長耳の書士官が言い終える前に、第三王女は書庫を見回した。本棚の陰は狭く、書見台の下では衣装が汚れる。資料を運ぶ台車にも入れそうにないと見たのか、最後には壁へ掛けられた大きな地図の後ろへ身体を滑り込ませた。
縦巻きが片方だけ、地図の端から出ている。
僕の視線に気づいた第三王女は、それを両手で押し込んだ。
「見えておらぬ。よいな。わらわはここにおらぬ」
小声でも命令は命令らしい。
廊下から複数の足音が近づき、年配の従者が書庫へ入ってきた。衣服は乱れていないが、額には汗が浮かび、靴の縁には乾いていない泥がついている。その後ろには王宮の者らしい男女と、本部の守衛が並んでいた。
「突然の立ち入り、申し訳ございません。第三王女殿下は、どちらへお隠れになりましたか」
長耳の書士官が僕たちを見る。
僕はニャンターを見た。ニャンターもこちらを見上げ、何も言わない。
地図の後ろからは、衣擦れの音さえ聞こえなかった。王女の命令を破れば怒られる。けれど目の前の従者はここまで走ってきたような顔をしており、入口の護衛二人は助けを求めるようにこちらを見ている。隠した後でどうなるかを考えるまでもなく、僕には手伝わないほうが安全に思えた。
僕とニャンターは同時に、壁の地図を指さした。
「おぬしら!」
地図の後ろから第三王女が飛び出す。従者たちの動きは早く、左右から腕を取り、逃げる向きまで塞いだ。王族を何だと思っているのかと抗議する第三王女へ、年配の従者は王宮でいくらでも伺うと告げる。
「離すのじゃ! わらわはまだ何も確かめておらぬ!」
「本日はもう十分でございます」
「十分ではない! おぬしら、覚えておれ! コンナハズでは――」
僕は挨拶をしていなかったことを思い出し、遅れて頭を下げた。第三王女は今さら遅いと叫び、両脇を抱えられたまま廊下へ運ばれていく。靴の先が床を擦り、曲がり角へ近づくにつれて声も遠くなった。
「次は必ず正体を――オヌシラ、ゼッタイ――ゼッタイウラギリヌルヌル……!」
最後のほうは半分も聞き取れなかった。聞き取れなくてよかった言葉も、世の中にはあると思う。
護衛二人は長耳の書士官へ深く頭を下げ、今度こそ第三王女の後を追った。書庫に残った者たちは、頁をめくることも咳払いをすることも忘れている。
「今のは、王女の命令を破ったことになりますか」
ニャンターは椅子へ戻り、途中だった革紐を引いた。
「俺が受けたのは、お前を守る契約だ。王女を隠す仕事は入っていない」
「じゃあ、僕も同じでいいです」
「好きにしろ」
少なくとも、間違って地図を指したことにはならないらしい。胸元の鍵から手を離すと、長耳の書士官が扉の向こうを見たまま口を開いた。
「あの方は、また来られるぞ」
「今、連れていかれましたよ」
「それで諦める方なら、ワシもここまで疲れておらん」
書士官の長い耳は、普段より少しだけ下がっていた。
僕は開いたままの目録へ戻った。文字を追おうとしても、頁の端に金色の縦巻きが浮かんでくる。モンスターハンターの世界に生まれたと知った時ほどではないが、絵の中にしかいないと思っていたものが実在した衝撃は大きい。
この世界には火を吐く竜がいて、海を泳ぐ竜がいて、金髪縦巻きの第三王女もいる。最後の一つは、設定資料をいくら読んでも分からなかった。
僕は目録の余白へ巻き髪を一本描きかけ、炭筆を止めた。
閲覧規程に挿絵は要らない。
今日ばかりは、少し惜しかった。
* * *
第三王女殿下が、護衛二人だけを伴って王宮を出たとの報せを受けた時、私はまず北門の通行記録を開かせた。
王都から書士隊本部のある学術都市へは、竜車でも二刻ほどかかる。近いとはいえ城壁の外へ出る以上、本来なら行き先を告げ、近衛と街道の状況を確かめてから門を通るべきだった。殿下は日常の外出に付く護衛二人へ本部を視察すると命じ、王家の竜車を出させたという。護衛は殿下を一人にできず、王族の命令を路上で拒むこともできない。北門から報せが王宮へ戻った時には、竜車はすでに街道へ出ていた。
折の悪いことに、その街道の北では恐暴竜のものと疑われる痕跡が見つかっている。彩鳥は谷を離れたと見られていたが、鳴き声に呼び寄せられた大型種の所在は分からず、ギルドの調査隊が捜索を続けていた。痕跡の主を確かめて人の往来から遠ざけるまで、通行を絞る案さえ出ている。
殿下の竜車が使ったのは警戒区域の外側を通る道であり、ただちに襲われる場所ではない。対象が見つからない以上、安全と言い切れる者はいなかった。
本部へ追う道すがら、私は先日、王家の使者による聞き取りが中断された件を考えていた。ギルドのG級ハンターが割って入り、少年を王宮へ移す相談を遮ったのである。王家からは正式に抗議を入れたものの、書士隊もギルドも少年の身柄を王宮へ移すことには応じていない。
そこへ第三王女殿下まで独断で加われば、王家が一人の子供を奪いに動いたように見える。殿下にその意図はなくとも、噂を聞く者が同じように受け取るとは限らなかった。
知らされていないものほど知りたがり、止められた場所ほど入りたがる。幼い頃から変わらぬ気質である。今回は龍の御子という言葉が目に留まり、誰かが詳しい話を伏せたことで、興味へ油を注いだのだろう。
王立古生物書士隊本部へ着くと、正面の守衛はすでに事情を把握していた。殿下は王族の権限を示して内部へ入り、長耳の竜人族の書士官が応対している。連れて出た護衛二人も付き従っていると聞いたが、安心はできなかった。あの二人は忠実であっても、殿下の命令を退けられる立場にはない。
「殿下は、例の少年がいる書庫へ向かわれました」
案内の書士に言われ、私は足を速めた。
廊下には殿下が通った跡が残っている。書類を抱えたまま壁際へ避けた者、仕事へ戻れず入口を見ている若い書士、王宮への連絡文を書き始めた者。声を荒らげずとも、王族が先触れなしで現れれば組織の手は止まる。
龍の御子と呼ばれる少年が、この訪問をどう受け取るかも分からない。王家の庇護を欲しているなら、殿下を引き留める好機になる。反対に王家を避けているなら、殿下が一人で乗り込んだこと自体が新たな火種となる。
本来なら、十一歳の子供を相手に巡らせるような疑いではない。だが、古い記録にしか残らぬ黒い龍を描き、書士隊とギルドを動かしたとされる子供でもある。噂のどこまでが真実か分からぬ以上、年齢だけを見て扱うのも危険だった。
書庫へ入ると、少年は武装したニャンターの隣に立っていた。質素な服を着た小柄な子供で、首から下げた紐を片手で握っている。ニャンターは王家の紋章を見ても利き手を空けたまま、少年と私たちの間に残った。
私は書庫へ入った非礼を詫び、第三王女殿下の所在を尋ねた。少年とニャンターが互いを見る。
二人は一言も交わさず、同時に壁の地図を指さした。
あまりの迷いのなさに、私は二人が示した先を一拍遅れて見た。直後に地図の裏から殿下が飛び出し、二人を裏切り者と罵ったため、場所に間違いはなかった。
殿下に怪我はなく、拘束された形跡もない。私は同行者へ合図し、左右から腕を取らせた。殿下はまだ何も確かめていないと抗議したが、こちらにも聞くべきことがある。
「恐暴竜の痕跡が見つかり、北の街道では警戒が続いております。その日に、なぜ王都を出られたのです」
「書士隊の都市は警戒区域の外であろう。わらわ一人が動いた程度で何が変わる」
「殿下の居場所が分からなければ、王都も街道も護衛を余計に割くことになります。現に我々がここまで追っております」
殿下はようやく口を閉じた。反省したのではない。視線が窓の外へ向き、次の反論を探している時の顔だった。
少年が遅れて頭を下げると、殿下は今さら遅いと声を上げた。王家へ取り入るつもりなら、あれほど間の悪い挨拶はしないだろう。引き留める様子もなく、私たちが連れ出す間はニャンターの後ろへ半歩下がっていた。
私は殿下を同行者へ任せ、書庫へ残った。突然の訪問を正式に詫び、今日の出来事をどこまで記録へ残すか長耳の書士官と決めなければならない。
「あの少年は、殿下が来られることを知っていたのですか」
「知るはずもなかろう。ワシも顔を見る直前に知らされた」
書士官は閉じた目録を少年の席から回収し、抱えていた書類の下へ差し込んだ。
「殿下から隠すよう命じられても、迷わず居場所を示しました」
「逃亡の手助けをして後で責められるのが怖かっただけかもしれぬ。十一歳の子供じゃぞ」
「その護衛も、同じ時に指を上げています」
私は二人が視線を交わした瞬間を思い返した。相談する暇はなかったはずだ。単に面倒を避けただけかもしれぬが、第三王女へ恩を売る道は選ばなかった。
少年を守る契約の外では動かず、王家の肩書にもなびかない護衛。王宮から見れば、扱いやすい相手ではなかった。
「王宮へは、殿下と少年の間に事前の繋がりがなく、少年側から接触を求めた事実もないと報告します。護衛については、王家の命令より契約を優先したことも記します」
「そうしてくれ。できれば、これで終わりにしてほしいものじゃが」
長耳の書士官は本気で願っていた。私は返事を控えた。
王宮へ戻る竜車の中で、第三王女殿下は腕を組み、窓の外を睨んでいる。髪の片側が少し崩れており、侍女が直そうとするたび手で払った。
「あやつは、わらわが第三王女だと知っておったのか」
「殿下ご自身で名乗られたそうです」
「その後も、態度を変えなんだ」
「王族への礼を知らなかった可能性はございます」
「商家の子であろう。知らぬはずがない。それに、あやつは最初からわらわへ嘘をついた」
殿下は少年が何と答え、どこへ視線を動かしたかまで覚えていた。社交の席で大人の腹を探ることには慣れている。少年が余計なことを話さないよう努めていたことも、自分へ会いたくないから人違いを装ったことも、殿下には見えていたらしい。
怒っているはずなのに、言葉には書庫で聞いた時より軽い響きが混じっていた。相手が王女だと知れば、大人は笑い、同じ年頃の子供でさえ教えられた礼を先に置く。あれほど正面から迷惑そうな顔を向けた者は、王宮の中にはいない。
「次は、あやつが龍の御子ではないと申す理由を確かめてやる」
「再訪はお認めできません」
「では、正式に先触れを出せばよいのじゃな」
私は答えず、王宮へ戻り次第提出する外出制限の文案を頭の中で組み直した。書士隊本部を名指しし、王都の門にも通達を出す必要がある。
沈黙を拒絶と受け取らなかった殿下は、次は何を持っていけば相手の正体を確かめられるか、侍女へ相談し始めていた。侍女は髪を直す手を止めず、生返事だけを返している。
王都の城壁が見えるまで、殿下の指は膝の上で何度も金色の巻きをなぞっていた。
新しい企みを思いついた時の癖だった。