ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
恐暴竜が見つかった日の朝、僕は飛竜の糞を拾っていた。
昨日は自分の部屋に飛竜がいるのが嬉しくて、何度も梁を見上げていた。その飛竜と暮らす最初の朝に、僕は机の下へ這いつくばっている。できれば感動をもう一日くらい長持ちさせてほしかった。
窓掛けの下と椅子の脚元には鱗が落ち、机の下には一つ置き土産がある。飼育記録には毎朝掃除するよう書いてあった。王女から届いたものの中で、これだけは返礼の必要がなさそうだった。
「そこを踏むな」
ニャンターに言われ、上げかけた足を戻す。灰を入れた小さな箱と布を使い、教わったとおりに片づけた。頭上では当の本人が翼に顔を埋めている。そこから一度、下を見てもらいたい。
「机の下にしなくてもいいのに」
僕がぼやくと、ニャンターは椅子を引き、奥へ手が届くようにしてくれた。文句を聞いてもらったところで掃除の担当は変わらないので、袖をまくり直す。
手を洗って餌の袋へ触れると、頭上の翼がほどけた。ウロコウモリは革紐から舞い降りて、僕が皿を置く前に机の端へ留まる。袋の口を開けるのが遅い、と言いたそうに白い頭が傾いた。
昨日の書士を真似して掌へ餌を載せると、前脚の爪が僕の指をつかんだ。人から餌をもらうのには慣れているらしく、あっさり食べ始める。小さな顎が動くのを見ているうちに、掃除の文句はどこかへ行ってしまった。
食べ終えた後もすぐには離れず、空になった掌へ鼻先を押しつけてくる。
「もうないよ」
指を開いて見せると、今度は袖口へ頭を突っ込もうとした。そこにも隠していない。餌の袋はすぐ隣にあるのに、どうして僕の服を調べるのだろう。
ニャンターは口元を少し緩め、餌の袋を棚へ戻した。僕は前脚が離れるまで手を下ろせずにいたが、こちらから振りほどく気にはなれなかった。
そうしているうちに扉が叩かれた。廊下には若い書士が立っており、長耳の書士官がすぐ来るようにと言っている。声を落としてはいたが、手には北の街道を示す印のついた書類を抱えていた。
僕が上着を取る間に、ニャンターは窓の網が緩んでいないか確かめる。革紐へ戻ったウロコウモリは翼へ顔を埋めていた。餌と水を残し、扉の隙間へ飛んでこないことを確かめてから部屋を出た。
本部の小会議室には長耳の竜人族の書士官と、ギルドの紋章をつけた人が待っていた。卓上へ広げられた地図では、王都から本部へ続く街道の北側が赤い線で囲まれている。第三王女が通った道とは離れていたものの、安心できるほど遠くもなかった。
「おぬしが市場で描いた絵の件じゃ。調べていた大型種が見つかったぞ」
長耳の書士官は僕が座るのを待ち、封を切った報告書をこちらへ向けた。
「北の谷から山裾へ移っておる。恐暴竜で間違いないそうじゃ」
その三文字を読んだ時、頭に浮かんだ名前は一つしかなかった。
イビルジョー。
前世で自力討伐まで辿り着いた相手ではない。それでも設定資料の見開きや、上手な人の狩猟動画なら何度も見た。大きな顎と太い尾を持ち、腹が減れば相手を選ばず襲う獣竜種。画面の向こうでは、その太くて長い身体から食べ物の名前で呼ばれることもあったが、街道の近くに現れた実物へ漬物の親しみやすさを求めるのは無理がある。
名前が喉まで来たところで口を閉じた。知っている名前でも、ここで普通に使われているかは別だった。
「恐暴竜の名前って、普通の図鑑にも載っていますか」
「地方ごとに違う呼び方はあるが、ギルドが記録する種名は決まっておる。隠している名ではない。知っているなら言ってよいぞ」
「イビルジョー、ですよね」
長耳の書士官は頷いた。ギルドの人も驚きはしたが、僕の顔より先に手元の記録へ視線を落とした。
隣の椅子へ座ったニャンターが、報告書を見たまま呟く。
「今のは悪くなかった」
ニャンターへ向けて膝の上で親指を立て、すぐに引っ込めた。喜んでいる場合ではなかった。地図の赤い線は、さっきから少しも街から離れてくれない。
ギルドの人は恐暴竜の名を書き足し、僕へ尋ねた。
「この個体がどこへ向かうか、心当たりはあるか」
「ありません」
答えはすぐに出た。
「僕が知っているのは姿と、いつも飢えていて、ほかの大型種まで襲うことくらいです。実物を見たこともありません。この個体が今どこにいて、次にどちらへ行くかは分かりません」
前世の地図を思い出せたとしても、ここが同じ形をしている保証はない。ゲームでは決まった区域に現れたモンスターも、現実なら境界線のところで見えない壁へぶつかってはくれない。
長耳の書士官は頷き、それ以上を求めずに現地から届いた別の紙を広げた。
最初の手掛かりは、市場で話を聞いた商人の報告だった。彩鳥らしき声の後に複数の大型種の咆哮がしたことと、僕が描いたクルペッコの簡単な図がギルドへ持ち込まれた。もちろん、それで恐暴竜と決まったわけではない。
報告を受けた調査員が谷へ入り、残された足跡の大きさ、食い荒らされた草食種、地面へ落ちた唾液を調べた。彩鳥が別の大型種を呼んだ可能性を考えて捜索範囲を広げた結果、山裾へ続く新しい痕跡が見つかったという。
「僕の絵がなくても、見つかっていましたか」
ギルドの人は地図から顔を上げた。
「いずれはな。ただ、最初の報告を別々の大型種が通った話として処理していれば、調べる方向は変わっていた。早まったのは確かだ」
役に立ったと言われても、胸を張る気にはなれなかった。紙一枚が調査員を恐暴竜のいる谷へ向かわせたと思うと、使った炭筆まで急に物騒な品へ見えてくる。
「調査した人は、戻ったんですか」
「二人とも戻っている。対象を遠くから確かめ、信号を上げて退いた。追跡もされていない」
そこでようやく、僕は椅子の背へ身体を預けた。
恐暴竜は谷から南へ向きを変えており、このままなら数日のうちに街道へ近づく。ギルドは北側の道を閉じ、狩猟隊を出すことにした。一度追い払っても餌を求めて戻る恐れがあり、周辺では草食種の群れが次々と襲われているため、討伐が許可されたという。
「討伐へ行くのは、どんな人たちですか」
「上位の狩猟資格を持つ四人だ。この地方で大型の獣竜種を何度も狩っている。案内には痕跡を追った調査員が付くが、対象の近くまでは入らん」
地図には出発地点と待避場所、戻らなかった場合に次の隊が動く時刻まで書き込まれていた。僕の知っているクエストなら、支給品を受け取った後は画面の隅に残り時間が出る。こちらには時計より先に救助の手順があり、三回倒れても荷車が都合よく送り返してくれる決まりはない。
「本部からは、何かするんですか」
長耳の書士官は地図から顔を上げた。
「古い記録と地形図を渡してある。狩りが済んだら調査に向かう者もおるが、おぬしはいつもどおり勉強をしておればよい」
「見学も行きませんからね」
「分かっておる」
念のため言っておいた。書士隊にいると、見学という言葉に安心してはいけない。僕なら分厚い壁を挟みたいものまで、近くで見たがる人がいる。
会議室を出た後、僕は二階の渡り廊下から出発する狩猟隊を見た。庭には四人分の武器と荷が並び、ギルドの係が薬や罠の数を一つずつ読み上げている。大剣、槍、弓、片手剣。どれも工房の飾りではなく、使った跡が残っていた。
「あの人たちで大丈夫ですか」
「任せられる連中だ」
ニャンターは手すりの隙間から庭を見下ろしていた。兜の下の耳は、四人の動きに合わせて別々の方向を向いている。
「知ってる人ですか」
「大剣を背負っているのが隊長だ。二度組んだことがある」
「強い?」
「後ろであいつが大剣を振っていても、俺はいちいち振り返らずに済む」
僕なら相手が誰でも振り返る。信用の問題というより、そもそも僕の後ろでそんなものを振らないでほしい。
四人は騒がず、見送りへ手を振ることもなく門を出ていった。僕が想像していたハンターはもっと豪快に笑い、巨大な武器を肩へ担いで出発するものだったが、本当に危険な相手へ向かう時まで元気よく演出する必要はないらしい。
その日、僕は目録を十二頁まで進めた。
普段なら七頁で止まるのだから成果は出ている。ただし内容はほとんど頭へ残らなかった。廊下で早足が聞こえるたび顔を上げ、遠くで鳥が鳴くたび窓を見た。昼を過ぎても連絡はなく、夕方になっても北門から信号は上がらない。
ウロコウモリは僕の落ち着かなさに付き合わず、薄暗くした部屋で昼過ぎまで眠り続けた。紙へ描こうとしても耳の向きしか変わらず、同じ姿が三枚できた。
夕方が近づき、廊下の足音へまた顔を上げた時、椅子の背に小さな重みが掛かった。ウロコウモリが僕の袖へ爪を掛け、縫い目を辿って上がってくる。腕を少し持ち上げると肩まで進み、襟と首の間へ鼻先を入れて翼を畳んだ。
「今は餌、持ってないよ」
白い頭へ言ってみても、大きな耳が一度動いたきりだった。頬へ翼の端が当たり、くすぐったくて首をすくめる。昨日みたいに捕まるのを嫌がって飛んできたのでもなく、棚には休める場所もあるのに、なぜか僕の肩で落ち着いてしまった。
ニャンターへ見せようと顔を向けかけると、鼻先が僕の耳を押した。
「向きを変えるならゆっくりだ。お前のほうがでかいんだからな」
「分かってます」
声だけは小さくした。できれば少し長くここにいてほしかったので、次の頁は左手でめくった。字を追っている途中にも頬が緩み、肩の上を確かめたくなる。そのたびに首を戻すので、さっきより勉強が進まなくなった。
日が落ちて餌を用意すると、ウロコウモリはあっさり机へ降りた。ちょっと寂しかったが、さすがにご飯には勝てない。
夜になっても狩猟隊は戻らず、翌朝も連絡はなかった。
翌日まで掛かることもあると聞いていたはずなのに、朝食の後には窓へ三度も行ってしまった。ニャンターに椅子を引かれ、ようやく目録へ戻る。開きっぱなしの頁には、昨夜こぼしたパン屑が一つ挟まっていた。
二日目の午後、水皿を洗って席へ戻ると、ウロコウモリが革紐から飛んできた。昨日と同じ肩へ留まり、僕が袖を引いて爪を外しやすくしてやる間も逃げずに待っている。昨夜は少し動くにも緊張していたのに、今日は肩を揺らさず頁をめくるこつが、何となく分かってきた。
北門の鐘が鳴ったのは、その頁を半分ほど読んだ時だった。
勢いよく立ちかけて、肩の爪に上着を引かれた。腰を戻すとウロコウモリも翼を畳んだので、今度は机へ手をついてゆっくり立つ。
「帰ってきたんですか」
ニャンターは廊下へ出て、駆けてきた書士と言葉を交わした。戻ってきた時には、扉を開けたまま僕へ頷く。
「北門に着いたそうだ」
「上から見てもいいですか。昨日、見送ったところから」
「もう少し門の見える場所がある。ついてこい」
肩のウロコウモリを留まり木へ移そうと腕を伸ばしたが、襟元へ潜り込まれてしまった。無理に引き剥がさず上着の合わせを直すと、白い頭だけが首の横へ出る。
ニャンターに付き添ってもらい、本部棟の二階へ向かった。中庭に面した回廊の先が小さなテラスになっており、小型生物の観察にも使うそうで、手すりから軒下まで細かな網が張られていた。網越しでも北門はよく見える。一階では担架や水桶を運ぶ人が行き交っていた。あそこへ入ったら僕が運ばれる側と間違えられそうなので、手すりから少し下がったところへ立つ。
開いた門から、荷車を伴った人たちが入ってきた。先頭は大剣の人で、その後ろに槍と弓。鎧についた黒っぽい汚れを見て、僕は武器ではなく顔を探した。
三人はいる。でも、片手剣の若い人が見えない。
隣でニャンターが片手を上げると、隊長がこちらを見上げた。僕は胸元の鍵を握ったまま声を張った。
「四人とも戻ったんですか」
「ああ。もう一人はそこだ」
隊長が荷車を示した。荷物の陰から若いハンターが顔を出し、片手を上げる。反対の腕は布で吊られていたが、歩けるのに乗せられたんです、と上へ向かって言った声は元気だった。
息を吐くと、鍵を握っていた指もほどけた。二階から顔が見える距離にいる人を数えるのに、こんなに疲れるとは思わなかった。
四人が揃っても下へ行く気にはなれなかった。首筋や鎧の隙間から覗く赤いものが全部モンスターの血だとは思えず、近くで確かめたいとも思わない。僕はここから頭を下げた。
「お疲れさまでした」
隊長は軽く手を上げて応じ、そのまま迎えに出たギルドの職員へ顔を向けた。恐暴竜を討ち取ったとの声が届くと、庭にいた人たちが顔を見合わせ、誰かが大きく息を吐いた。
肩の上でも翼が少し浮く。僕が襟元へ手を添えると、ウロコウモリは指へ顎を預け、また身体を畳んだ。
「よかったね」
小声で話しかけると、鼻先が指を押した。
下で隊長が何かを渡している。受け取った職員が布をめくり、隣の人を呼んだ。
「妙な狩りだった。見つけた時には、もうひどく傷を負っていたんだ」
その先は荷車の音に重なって聞き取れなかった。けれど、恐暴竜へそんな傷をつけられるものが近くにいたことは分かる。
「別のモンスターですかね」
「部屋に戻るぞ。俺はその後で話を聞いてくる」
ニャンターは庭を見下ろしたまま答えた。隊長へ一度顎を引き、荷車が中庭を抜けると僕を促す。
僕は二階の廊下を引き返した。恐暴竜がいなくなったことには安心したが、その恐暴竜を傷だらけにした何かまで見に行きたいとは思わない。図鑑なら次の頁にも喜んで進めたのに、こちらでは名前を教えてもらうので精いっぱいだ。
部屋へ着いてから、肩の小さな飛竜にもう少しだけ手を添えた。こちらの飛竜なら近くてもいい。できれば、これ以上大きくならないでほしいけれど。
* * *
恐暴竜の狩猟許可を受けた時、俺は市場の商人が持ち込んだという紙を見せられた。
横向きの彩鳥と、膨らんだ喉袋、翼の先にある火打石が描かれている。描いたのは龍の御子と呼ばれる子供だと聞いたが、依頼を受ける上では誰の絵でも構わない。必要なのは、商人がどこで何を聞いたか、現地の調査員が何を見つけたかである。
彩鳥が大型種を呼んだ可能性を考えた調査員は、谷の奥だけでなく鳴き声が途切れた先まで捜索した。そこで見つかった足跡は、成体の恐暴竜としても大きい。食い残されたアプトノスは骨ごと砕かれ、草の葉を変色させた唾液が残っていた。
対象は南へ向かっている。街道へ出る前に止める。それが依頼のすべてだった。
俺たち四人は朝のうちに北門を発ち、調査員の案内で最初の痕跡まで進んだ。そこで調査員は引き返した。大剣を使う俺が合図を出し、槍使いが正面を受け持つ。弓手は高所と周囲を見て、片手剣の若い者が罠と道具を運ぶ。
谷へ入って半日ほどで、食い荒らされた跡は急に増えた。小型種は姿を消し、木々の根元には尾で払われた傷が続く。足跡の間隔は広く、歩調を見る限り弱っているとは思えなかった。
おかしいのは、街道へ近づいていたはずの足跡が、岩場の手前で北西へ折れていたことだ。
餌を追った跡ではない。獲物の足跡はなく、恐暴竜自身の血が点々と落ちている。何かと争ったなら相手の爪痕や足跡が残るものだが、地面は大きな脚に踏み荒らされ、判別できるものは見つからなかった。
俺たちは血の新しさを確かめ、岩場の出口へ罠を回した。傷を負った大型種が人の都合どおり弱るとは限らない。追い詰められた個体ほど、逃げ道を塞ぐ者へ真っすぐ向かってくる。
恐暴竜を見つけるより先に、肉の腐った臭いが来た。
岩の向こうでアプトノスの胴が持ち上がり、次の瞬間には腹から二つに裂けた。血に濡れた顎が肉を噛み直し、その後ろから太い首と背が現れる。全身には古い傷が走り、左の腿から新しい血が流れていた。下顎にも裂け目がある。それでもこちらを向いた時の速さは、瀕死という言葉から考える動きではなかった。
俺たちは散った。
恐暴竜は食いかけの獲物を投げ、最も近かった槍使いへ頭から突っ込む。盾が受けた音は岩場の外まで響き、踏ん張った両脚が土を削った。弓手が片目を狙って射線を取り、若い者が恐暴竜の鼻先へこやし玉を叩きつける。悪臭に巨体が頭を振った一瞬を使い、俺は首の外側へ大剣を入れたが、硬い筋肉に押され、刃は狙った深さまで届かなかった。
怒りに身体を強張らせた恐暴竜の古傷が開き、黒ずんだ血が腹を伝う。太い尾が横薙ぎに走り、避けきれなかった若い者を盾ごと岩へ飛ばした。
声を掛けるより早く、若い者は無事な手を上げた。槍使いが前へ出て視線を引きつけ、弓手は若い者を追おうとした頭へ矢を集める。その隙に若い者は片腕を庇いながら岩陰へ退いた。
槍使いと弓手はまだ動ける。俺は若い者が身を寄せた岩陰へ目をやり、這ってでも退けることを確かめてから、残った三人で罠へ向けて下がった。
恐暴竜は逃げなかった。頭を振り終えると、こやし玉を投げた若い者ではなく、目の前に残った三人へ怒りを向ける。俺たちが後退すると、そのまま罠まで追ってきた。地面が抜け、巨体の半分が落とし穴へ沈む。仕掛けが耐えたのはわずかな時間だったが、それで足りた。槍が喉元を押さえ、矢が開いた口へ続けて入る。俺は岩を蹴って大剣を振り下ろした。
一撃で終わりはしなかった。
落とし穴を壊した恐暴竜は血と土を撒き、左脚を引きずりながら立ち上がった。口から溢れる唾液が岩の表面を濡らす。顎を開くたび下側の傷が広がり、噛みつこうとした頭がわずかに遅れる。その遅れがなければ、槍使いの盾ごと腕を持っていかれていた。
傷は俺たちがつけたものではない。
疑問を抱く暇はなかった。槍使いが頭を右へ流し、弓手の矢が左の視界を塞ぐ。俺は恐暴竜が踏み直せない側へ回り、首の付け根へ刃を打ち込んだ。倒れた巨体が地面を揺らし、尾が二度、土を叩いた。
誰も武器を下ろさない。槍の穂先で反応を確かめ、弓手が離れた場所から目と胸の動きを見る。若い者が合流し、完全に息が止まったと判断するまで、俺たちは円を崩さなかった。
俺は血のついた大剣を下ろし、若い者の腕を調べた。折れているが指は動き、血の巡りも悪くない。添え木を当てている間、仲間たちは死骸の顎と脚を交互に見ていた。あの傷がなければ、この程度で済んだかは分からなかった。
若い者の腕を固定し、谷の入口で待つ回収班へ信号を上げた後、俺は槍使いと周囲を調べた。別の大型種が争った痕跡なら、危険がもう一頭残っている。縄張りを持つ相手なら、恐暴竜が倒れた後に戻ることもある。
血の跡を来た方向へ辿ると、岩場を抜けた先に細い獣道があった。恐暴竜の足跡に混じり、ひと組の靴底跡が残っている。踏み込みは深いが乱れておらず、逃げた者の歩幅ではない。途中で罠を置いた形も、荷を下ろして休んだ形もなかった。
先を見ようとして、槍使いが顔の高さに伸びた枝へ手を掛けた。
枝は抵抗もなく地面へ落ちた。
「どうした」
「手を添えただけだ」
拾い上げると、親指より太い枝の断面は平らだった。折れた繊維も裂けた皮もなく、切り口を合わせれば表皮の筋まで繋がる。周囲の小枝に支えられ、完全に断たれたまま元の位置に残っていたのだ。槍使いも切り口へ指を滑らせ、枝のあった場所を見直していた。
同じ高さを探すと、少し先の若木にも細い切れ目が入っていた。そちらは倒れていない。幹を挟むように押すと切れ目が開き、内側の白い木肌が現れた。
二つの切り口は一筋に繋がり、その間の草には恐暴竜の血がついていた。あの身体にも、同じように見落とした切り口があるのではないか。俺は枝を布で包み、槍使いへ死骸を調べ直すと伝えた。
俺たちは死骸へ戻り、泥と固まった血を水で流した。先ほどは鱗の境目に見えた線へ刃の先を入れると、左腿の皮が開く。切り口は奥まで続き、脚を支える太い腱に達していた。顎の付け根にも似た傷があり、胸の脇には肋骨の間を深く通った跡が残っている。
弓手が水を足し、槍使いが新しく見つけた線を数えた。三つ目で手が止まる。外から見えた傷だけなら、これほど早く倒れる理由が分からなかったが、内側はすでにひどく損なわれていた。
俺たちが追いついた時には、すでに死にかけていたのだろう。顎と脚の傷に助けられたことは戦っていて分かったが、その奥にこれほど深い刃が通っていたとは思わなかった。あの枝を調べていなければ、先客の腕を見誤ったまま帰るところだった。
街道へ向いていた足跡は、血の溜まった場所で不自然に踏み直されている。その先でも同じ跡が二度あり、進路は北西へ逸れていた。偶然とは思いにくい。先に戦った何者かは、少なくとも街道の側へは通していなかった。
「何人だと思う」
槍使いが尋ねた。
俺は獣道をもう一度見た。大きな足跡の外に残る靴底は同じ形で、別の者が踏み込んだ跡も、アイルーの足跡もない。
「見つけられたのは一人分だ」
それ以上は推測になる。
出発前に確かめた範囲では、別の狩猟隊は出ていない。近隣の村にも、単独で恐暴竜へ挑む者がいるとは聞いていなかった。何より、これだけの傷をつけた者が名乗りもせず、俺たちの到着前に姿を消す理由が分からない。
素材も名誉も要らず、街道から遠ざけることだけが目的だったように見える。
日が落ちる頃、信号を受けた回収班が谷を上がってきた。死骸と周囲の警戒を任せ、俺たちは調査員の待避場所で夜を越した。翌朝、討伐を知らせる伝令を先に送り、傷を写した記録と布で包んだ枝を荷車へ積んだ。歩こうとする若い者もどうにか座らせてから、街へ戻った。
本部の中庭へ入ると、噂の子供は二階のテラスにいた。小さな身体の横で見知ったニャンターが手を上げ、その時ようやく、子供の肩に留まっているものが見えた。
ウロコウモリだった。野生のものなら何度も見たが、子供の肩で荷車の音を聞きながら翼を休めている姿は見慣れない。見上げた弓手が短く息を漏らした。
「四人とも戻ったんですか」
俺は荷車を示した。若い者が自分で顔を出すと、子供は手すりの向こうで頭を下げ、それ以上は呼び止めなかった。こちらの人数を見た後は、肩の飛竜へ手を添えている。
依頼主でもない子供が待っていたと知って、悪い気はしなかった。迎えに出た職員へ討伐を告げ、俺たちは手当てのために奥へ通された。
手当てを終えた後、長耳の竜人族の書士官とギルドの記録官へ枝を差し出した。傷の位置を写した紙と現場の略図をその隣へ広げると、記録官は略図で討伐した場所を確かめ、血の跡を指で辿った。
「先に戦った者に、心当たりはあるか」
長耳の書士官が聞いた。
「ない。斬り合った跡は街道側に偏っている。あの岩場へ追い返したんだろう。俺たちが罠を張ったのは、その先だ」
記録官の筆が止まり、机の上の切断面へ目を向けた。
「一人でか」
「足跡は一人分だ。傷はこの紙にあるより多いと思ってくれ。枝を調べるまで、俺たちも見落としていた」
報告の途中でニャンターが入ってきた。子供を部屋へ送り、代わりの見張りを頼んできたという。あれはこの地方で何年も狩りをしている。先客に心当たりがないか尋ねると、まず枝を見せろと手を伸ばした。
切り口へ親指を沿わせた動きが、一度止まった。
「どちらの手で斬ったか分かるか」
「俺には無理だ。足跡も潰されていた」
ニャンターはそれ以上尋ねず、枝を布の上へ戻した。書士官がこちらを見たので、俺はほかに確認できたことはないと告げた。先客についての記録には、見つけた傷と足跡、それから街道と逆へ進路を変えていたことを残す。人数と目的は、断言できなかった。
書士官は記録へ封を命じ、恐暴竜を倒した四人の名を別の紙で確かめた。
「助かった。まずは休んでおくれ。傷の詳しい調べが済んだら、また話を聞かせてほしい」
俺は了承して席を立った。戸口で振り返ると、ニャンターはまだ切られた枝を見ていた。
北の街道は明朝から開くという。宿へ戻る仲間たちと中庭を横切ると、荷車の轍を避けながら掃除をする書士がいた。二階のテラスにはもう誰もおらず、軒下の網が風に揺れている。
俺は歩きながら、そこに立っていた少年を思い出した。庭の者が怪我人へ駆け寄り、血のついた道具を運ぶ間も、あの子は手すりから少し離れてこちらを見ていた。肩の飛竜へ何かを話しかけたらしく、小さな頭が少年のほうを向いたのを覚えている。
こちらまで声は届かなかったが、差し出した指へ飛竜が顎を預けた仕草は見えた。二階へ向けて誰かが声を掛けても逃げず、少年の襟元へ収まっていた。あの騒がしい庭を見下ろす姿には、ひとまず無事に帰った俺たちとも違う静けさがあった。
龍の御子とは大げさな呼び名だと思っていた。今も何をもってそう呼ぶのかは知らないが、あの少年に何かを感じた者の気持ちは、少し分かるような気がした。
門を出る前にもう一度見上げると、空のテラスが妙にありふれた場所に見えた。