ハンターにはなりません。理由は怖いから   作:ゴミミゴミ

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第16話 背中が騒がしい

 

 手を伸ばした先にあった桶は、僕と一緒に滑っていった。

 

 掴むまでは、そこに手をつけば何とかなると思っていた。ところが桶のほうには僕を支える気がなく、右足より先に洗い場を走っていく。慌てて左足を踏ん張ったせいで身体が変な向きへ回り、背中に硬いものが当たった。

 

 息が詰まった直後、桶だけがやたら元気な音を立てた。

 

「おい!」

 

 ニャンターが戸を開いた時、僕は浅い段の縁へ背中を載せ、両脚を投げ出していた。肩の下からじんじんと痛みが広がっている。起きなきゃと思うのに、お腹へ力を入れると背中まで引っ張られ、変な声しか出なかった。

 

 ニャンターは僕の顔を覗き込むと、持っていた布を腰へ掛けた。

 

「頭は打ったか」

 

「せな、背中です。ここ……」

 

「動くな。そのままでいい」

 

 低い声のすぐ後で、廊下へ人を呼ぶ声が響いた。大声を出しても声が裏返らないのはすごいと思う。僕のほうは息を吸うたび鼻の奥がつんとしていて、そんなところで感心している場合ではなかった。

 

 本部の宿舎へ来てから、風呂には何度も入っている。

 

 今日も身体を洗い、髪の泡を流し、あと少し湯に浸かって出るつもりだった。立ち上がった時に右足が滑り、近くにあった桶へ手が出た。湯を汲む道具に、身体を支える仕事まで頼んでしまったのである。

 

 足音が近づき、宿舎の世話係の人が顔を出した。寝具を替える日によく会う人だ。今日は袖をまくり、脇へ乾いた布を抱えていた。

 

「先生を呼んできたよ。寒くないかい」

 

 首を振ると頬の水が落ちた。湯なのか涙なのか、できれば確かめずにいてほしい。

 

 続いて入ってきた医務室の先生は僕の話を聞き、頭や首を確かめた。それからニャンターと二人で身体を起こしてくれる。自分で動かすよりずっと楽だったが、布で背中の水を押さえられると、やっぱり声が出た。

 

「ここに当たったんだね」

 

「はい」

 

 目の前の段を見せられると、痛い場所が急にはっきりした。丸く削ってある縁でこれなのだから、角だったらと思うと、今度は膝まで落ち着かなくなる。

 

 ニャンターの手が僕の腕を支えていた。いつもの硬い手甲ではなく、指の間に少し毛が見える。濡らしてしまって申し訳なかったが、まだ離してほしくはなかった。

 

 背中を見てもらい、手足を動かしているうちに、ようやく普通に息を吸えるようになった。ひどく傷めた様子はないと言われたところで、肩に入っていた力が抜ける。すると今度は、風呂場へ大人を三人も集めたことが恥ずかしくなってきた。

 

 誰も桶を見ないでほしい。あれはもう関係ない。

 

 そう願った直後、世話係の人が桶を拾って壁際へ戻した。

 

「割れてはいないね。あとで片づけておくから、君は着替えよう」

 

「すみません」

 

「いいよ。服は脱衣所の籠かな」

 

 僕が頷くと、その人は濡れた布を持って出ていった。桶を掴んだところを見られていなかったのは救いだった。最初から見られていたら、たぶん説明するほうがもっとつらい。

 

 風呂から出る時はニャンターの腕を借りた。脱衣所までの数歩が妙に遠く、敷いてある布へ足を載せた途端、ようやく床を信用できる気がした。

 

「自分で着られるか」

 

「着られます」

 

 答えてから腕を上げると背中が引っ張られたので、途中で止まった。

 

「そっちは、ちょっとお願いします」

 

 ニャンターは黙って上着を広げた。袖へ腕を通す間、世話係の人が裾を押さえていてくれる。他人に着せてもらうのは何歳ぶりだろう。服を着ただけなのに、ひと仕事終えたような気分になった。

 

 部屋へ戻る前にもう一度背中を見てもらい、先生から当分強く擦らないよう言われた。痛み方が変わったらすぐ呼ぶことも約束する。風呂へ入る前より注意されることが増えていた。

 

 鏡の中の髪だけは綺麗だった。せめて洗い終えてから転んだことは喜んでいいと思う。

 

 世話係の人は僕の部屋まで着替えの籠を運んでくれた。

 

 扉を開けると、棚で眠っていたウロコウモリが首を持ち上げる。僕が腕を出す前に机へ降りたので、いつものように肩へ来るつもりらしい。慌てて手のひらを向けると、その指先へ鼻を押しつけてきた。

 

「今日は肩、お休みね」

 

 通じたのかは分からない。ただ、伸ばした腕へ乗ってきたところまでは普段どおりだった。肘から上へ進もうとするのを机へ戻すと、今度は胸元を見上げている。

 

 そこにも入口はないよ。

 

 世話係の人は籠を置き、しばらく僕らを眺めていた。

 

「よく慣れてるね」

 

「ご飯の時間だと思ってるんです。まだ少し早いんですけど」

 

「お前が戻ると餌を出していたからだろう」

 

 ニャンターに言われて思い返すと、確かに風呂の後は水皿を替え、餌の残りも確かめていた。今日はいつもより早く帰ってきたので、向こうからすれば時間が変わったのだろう。

 

 僕が転んだ事情までは、白い頭へ説明できそうにない。

 

 餌を出す前に濡れた物を片づけようとしたら、ニャンターに座っていろと言われた。素直に椅子へ腰を下ろし、つい背もたれへ寄りかかってしまう。

 

「あっ、痛っ」

 

 自分でもびっくりするくらい、忘れるのが早かった。

 

 世話係の人は僕を笑わず、籠に残っていた乾いた布を取り出した。薄く畳んで椅子へ当て、どこが痛むか聞きながら位置をずらしてくれる。

 

「ここならどうかな」

 

「あ、そこなら大丈夫です」

 

「じゃあ、しばらくこれを使って。返すのは洗濯の日でいいから」

 

 礼を言うと、その人は濡れた敷物を持って出ていった。ニャンターは僕の髪を拭き直してから、先生にもらった物を棚へしまう。

 

「父さんにも知らせますか」

 

「報告へ書いておく。診てもらったこともな」

 

「桶のところは、そんなに詳しくなくても」

 

 ニャンターは畳んだ布を僕の頭へ載せ、先に髪を乾かせと言った。採用されたのかどうか分からない。

 

 家へは、この間ちゃんと暮らしていますと書いたばかりだった。ちゃんと風呂へ入った結果なので、嘘にはなっていないはずである。ただ、姉が読んだらしばらく桶を見るたび思い出しそうだ。あの人はそういうことをよく覚えている。

 

 僕は卓上の画板へ手を伸ばしかけ、その日は本を読むことにした。身体を丸めずに頁をめくれる位置へ置くと、ニャンターが灯りを少し近づけてくれた。

 

 夕飯の魚は食べられたし、パンも残さず済んだ。腕が動くのはありがたい。風呂場で負けたうえ、晩ご飯まで諦めることにならなくてよかった。

 

 翌朝は寝返りの途中で目が覚めた。

 

 痛いところが背中にあると、寝るだけでも少し工夫が要る。横を向いて眠ればよいと聞いたのに、起きた時には仰向けになっていた。眠っている僕にも伝えておいてほしかった。

 

 それでも歩くのには困らず、朝の餌も自分で用意できた。机の下の箱を片づける時だけニャンターに手伝ってもらうと、ウロコウモリは僕の手元より動いている塵取りのほうへ興味を向けた。床に降りてついていこうとするので、そちらは僕が引き留める。

 

「お前のだぞ。自分で散らすな」

 

 ニャンターの声が低くなったところで、ウロコウモリは僕の腕へ戻った。ちゃんと分かったような顔をしているが、たぶん餌皿が見えたからだと思う。

 

 朝食を済ませて本を読んでいる間は、昨日のことを忘れていられた。困るのは棚の上へ手を伸ばす時や、椅子から降りる時である。いつもなら一度で終わる動きの途中へ、背中から待ったがかかる。

 

 そういう時に限って、小さな竜は軽々と机から棚へ飛んでいった。

 

 あの足は細いのに、着地を間違えない。僕の足は二本とも床についていたのだから、もう少し頑張ってほしかった。

 

 二日目には服を着るのが楽になり、僕は机へ戻って窓辺の水差しを描いた。光の当たる側だけでなく、取っ手の穴を通って向こうに見える壁の色まで入れてみる。水差しは動かないので描きやすい。ウロコウモリには見習ってほしいところだが、机へ来て水差しに鼻を入れようとしたため、モデルごと少し遠ざけた。

 

 三日目の朝はニャンターと医務室へ行った。もう一度診てもらう約束で、歩いて行けるならおいでと言われていたのだ。部屋を出る時にウロコウモリまでついてきそうになったので、餌を少し置いて留守番を頼んだ。まだ通っていない廊下へ行くのが楽しいらしいが、今日は僕が診てもらう日である。

 

 医務室の前まで来ると、薬草を干した匂いがした。扉の横に並んだ椅子には誰もおらず、先生はすぐ僕らを中へ招いてくれた。

 

「おはよう。今日は自分で着替えられたかい」

 

「はい。ゆっくりなら」

 

「よかった。じゃあ、少し見せてもらおうかな」

 

 袖を通したことで褒められるのは久しぶりだった。嬉しくないはずなのに、ちょっと嬉しいのが困る。先生が出してくれた丸椅子へ座り、背を向けた。自分で上着を上げると、ニャンターが後ろから襟を持ってくれる。腕を上げても初日ほど痛くはなかった。

 

 背中を診てもらっている途中で扉が叩かれた。入ってきたのは書類を抱えた書士の人で、先生に呼ばれると机へ向かった。廊下で何度か見かけているけれど、話したことはほとんどない。

 

「受領の印をお願いします。包みは戸口へ置いても?」

 

「ええ。あとで数を確かめるから、書類もそこへ」

 

 紙を置く音がした後で、しばらく何も聞こえなくなった。僕は先生が指を離したので終わったと思い、上着へ手を伸ばしかけた。

 

「もう少し。そのまま待っていてね」

 

 言われたとおり手を膝へ戻す。机の脇にいる書士の人は僕の背中を見ていたが、先生に呼ばれると、持ったままだったもう一枚の紙を慌てて差し出した。

 

 そんなにひどくなっているのだろうか。背中が見えないと、見た人の顔まで気になってくる。

 

 書士の人は僕と目が合うと軽く会釈して、受け取った書類を鞄へしまった。ニャンターが戸口の包みを少し寄せると、礼を言って出ていく。僕は扉が閉まるのを待ち、先生へ聞いてみた。

 

「変になってますか。後ろ」

 

「色がはっきりしてきたね。痛みはどうかな」

 

「昨日より楽です。腕も上がります」

 

「それならよかった。ここはまだ触ると嫌かい」

 

 そこはちょっと、と答えると先生の手が離れた。しばらく色は残るだろうけれど、今のところ順調らしい。僕が触れられた場所を肩越しに見ようとすると、ニャンターが上着を持ち直した。

 

「首まで痛めるぞ」

 

「さっきの人、びっくりしてたから」

 

「広がり方が変わってる。翼みたいにな」

 

 僕は振り向くのをやめた。どうしてそんな形になったのか聞いても、ニャンターは知らんと答え、先生に鏡を借りられないか尋ねてくれた。

 

 僕の知らないところに翼がついたらしい。痣が勝手にそんな模様になられても困る。風呂場であれだけ腕を振り回した時には何の役にも立たなかったくせに。

 

 手当てが終わってから鏡を二つ使わせてもらった。片方を顔の前へ置き、もう片方はニャンターが背中の側へ持つ。最初は鏡の中に鏡しか映らず、やっと合ったと思うと自分の肘が邪魔をした。

 

「そのままだ。こっちで動かす」

 

 低い声に従ってじっとしていると、ようやく肩の下が見えた。

 

 思ったより色がついていた。青紫の濃いところが左右に分かれ、その周りへ薄い色がまだらに広がっている。真ん中は細く色が残り、確かに両側へ何かを広げたような形だった。左のほうが短く、端も欠けている。

 

 見方によっては落ち葉のようにも見えるが、翼と言われたので翼に見える。ただ、これで飛ぶところを描けと言われたら、僕は左側を描き直すと思う。片方だけ畳み忘れたみたいだ。

 

「うわあ。こんなになってたんだ」

 

 見えなかった間は、もっと小さなものを想像していた。昨日、椅子へ勢いよく座らなくてよかった。部屋の椅子に当ててもらった布が、急に薄く思えてきた。

 

 ニャンターは鏡の角度を戻し、上着を下ろしてくれた。先生に礼を言って部屋へ戻ると、留守番をしていたウロコウモリが机へ降りてくる。僕は肩ではなく前腕を差し出した。乗ってきた腹が手首へ当たり、そこだけ少し温かくなった。

 

 このくらい小さな爪でも、さっきの紫色のところに当たったら嫌だな。

 

「肩は、まだお休みね」

 

 腕へ顎を載せたまま目を細められた。聞いているのか怪しいけれど、しばらく動かないでいてくれるのなら助かる。

 

 机へ向かおうとしたら、背もたれへ掛けた布がまた座面へ落ちていた。立つたびこうなるので、座る前に直さなければならない。ウロコウモリを乗せたまま拾おうとすると、袖を伝って下りてきそうになり、僕は慌てて腕を水平へ戻した。

 

「そこでじっとしてて」

 

 ニャンターは布を拾い、棚から細い紐を取り出した。端を背もたれの横木へ結び、もう一方も同じように留めていく。僕が腰を下ろしても、布はちゃんと背中のところに残ってくれた。

 

「ありがとう。これ、立つたびに落ちるんです」

 

「ああ。お前もそのたび拾おうとする」

 

 留まっているウロコウモリごと、僕の腕がそっと持ち上げられた。棚へ届いたところで小さな爪が袖から離れる。下りた本人は大仕事をしたみたいに身体を伸ばし、さっさと寝る場所を探し始めた。

 

 僕は画板を膝へ載せ、昨日から描いている水差しへ向き直った。立っても座っても布が落ちなくなり、少しだけ寄りかかれる場所も見つかる。紙の上の取っ手を描き直そうとしたところで、椅子の後ろから声がした。

 

「具合はどうだ」

 

「描けます。これなら」

 

 ニャンターは椅子へ手を伸ばしかけたが、僕がそのまま筆を動かすと引っ込めた。

 

 水差しの丸い腹を見直していると、机の脇に青い桶が見えた。初日に世話係の人が置いていったもので、使った布が入っている。つい底がちゃんと床についているか確かめてしまった。

 

 今度は桶に助けを求めるつもりはない。

 

* * *

 

 帳簿にある三泊分の宿代へ線を引き、二泊へ直した。

 

 御者は領収の木札を並べてみせたが、そのうち一枚は飼料の代金だった。もう一度日付を追わせると、首を傾げて札を拾い直す。悪意があってもなくても、支払う前に見つけなければ荷主の損になる。私は木札を返し、計算を終えるまでそこに座っているよう伝えた。

 

 書士隊本部のある街へ着いてから、私は商会の荷受け場に机を借りていた。

 

 帰りの荷を揃えるまで帳場を手伝う約束だったが、街道の再開に伴って商いが増え、そのまま次の便の手配も任されている。調べ物をするには都合がよく、仕事を疎かにすれば居場所を失う程度には忙しい。

 

 御者を送り出した時、荷受け場から大きな笑い声が聞こえた。袖をまくった男が空箱へ腰を下ろし、店番の女から水をもらっている。色の褪せた上着に革の前掛けという身なりで、壁には細長い布包みが立て掛けられていた。

 

「本部へ運ぶ方も人が要るなら、明日も来るぜ」

 

「助かるよ。ただ、向こうじゃ門まで運んでもらうだけだからね」

 

「中までは入れんのか。あんな建物、一度見ておきたかったんだがなあ」

 

 男は残念そうに笑い、空になった杯を返した。女の説明では荷を受け取る本部の職員が別にいるらしい。話が途切れたところで男は前掛けの紐を結び直し、荷台に残っている包みを眺めた。

 

「受け取りに来るのは、いつも同じ人かい。顔を覚えておきゃ、次から話が早い」

 

「日によるね。待たされることもあるから、急ぎの仕事がある日はやめときな」

 

「分かった。じゃあ、朝のうちに顔を出す」

 

 女に呼ばれたので、私は翌日の荷の数を伝えた。男はこちらへも気安く頷いたが、名を尋ねる前に、荷台の向こうで箱の角が擦れる音がした。

 

「慌てるな。俺が持つ」

 

 男は立ち上がると傾いた箱へ肩を入れ、下敷きになった縄を抜かせた。積み直す手伝いをしながら若い者へ何か言い、また笑い声が上がる。女に聞くと、昼から荷下ろしを手伝ってもらっているという。

 

 私は帳場へ戻りかけ、その背をもう一度見た。人手を求めている倉庫の話も出ていたが、男が受け渡しの相手まで尋ねたのは本部への便だった。荷運びの手間を知りたいのか、それとも出入りする者を知りたいのか。今の話からは決められなかった。

 

 顔を覚えておこうと思った。用事を探してこの街に留まっているのは、私一人とは限らない。

 

 店番の女は男たちに後を任せ、本部から戻った書類を私の机へ置いていった。

 

 寝具と灯油、それに修繕用の革紐。受領した数と品傷みの有無を確かめ、こちらの控えと合わせる。書類の間には私宛ての小さな封書が挟まっていた。

 

「返事があるなら、明日の荷に載せておくよ」

 

 女へ頷き、まず納品分の計算を済ませた。本部の備品を扱う書士から帳場へ書状が届くのは珍しくない。品数が違う時も、次の納品日を尋ねる時も、同じ道を通っている。今日の受領書には医務室へ納めた包みの分も加わっていた。

 

 夕刻の確認が終わると、私は封書を持って二階へ上がった。窓の下では荷車の車輪を洗っている。水の跳ねる音がして、働く者の声も聞こえた。昼間から物音のしない宿より、こうした場所のほうが私には馴染む。

 

 封を切って開いた紙に、まず小さな図が目に入った。

 

 人の背を描いたものだった。肩の下から左右へ線が広がり、端が細く途切れている。左は右より小さく、中央には縦に狭い部分が残されていた。私は図を置かず、その下へ続く文章を読んだ。

 

『あの少年の背に、翼の形をしたあざを見ました』

 

 読み終えてもすぐには次の行へ移れなかった。人の肩を表す輪郭と、その内側に収まった二つの翼へ視線が戻る。窓の下で誰かが笑ったが、何を言っていたのかは耳に入らなかった。

 

 私は椅子を引き、腰を下ろして紙を広げ直した。

 

 書士はその朝、医務室へ受領の印をもらいに行ったという。少年が来ていることは戸を開けるまで知らず、机へ書類を置く際に、診察を受けている背中が見えた。護衛のニャンターも同席していたが、特にあざを隠そうとする様子はなかったらしい。

 

 いつからあるものなのか、なぜあざができたのかは聞いていない。用事を済ませてすぐ退出したため、それ以上のことは分からないと書かれていた。添えた図も、後で思い出しながら描いたものだ。

 

 続きを読み終えてからも、私は紙から手を離せずにいた。

 

「翼の、徴か」

 

 声にすると喉が乾いていることに気づいた。卓の水へ手を伸ばしかけ、私は襟元に触れた。服の下には輪の形に並べた鱗と、中央へ黒い石を嵌めた護符がある。長く肌に当ててきた縁を指で辿ると、幼い頃から唱えていた祈りの続きを思い出した。

 

 龍が人に姿を見せる時、人の望む形を選ぶとは限らない。

 

 私は何度もそう教わり、他人へも説いてきた。それでも龍の導きを思い描く時には、空を覆う翼や山を震わせる声が浮かぶ。医務室で上着を上げている子供の背へ、目を向けたことなどなかった。

 

 書状の端には、普段の筆跡からはみ出すように一文が添えられていた。

 

『あれを見た時、翼がある、と思ったのです。うまく描けず申し訳ありません』

 

 私へ絵の巧拙を詫びる必要はない。むしろ細かな形を思い出せなくなる前に、どうにか残そうとした手つきが伝わってきた。片側の先は二度描き直され、最初の線を消そうとして紙が毛羽立っている。

 

 この書士から知らせを受け取るのは四度目だった。初めの三通は出入りした客や、廊下で見た少年の様子を記したものに過ぎない。長く備品の出納を受け持ち、古記録を収めた部屋には入れない。少年が描いたという黒い龍の原本も見ていなかった。私の望む答えを持たぬことに恐縮しながら、それを埋める話を作るような者ではなかった。

 

 帳場の用事で会った時も仕事の話がほとんどで、別れ際にようやく家族からの伝言を口にした。その家では祖父の代から、教団へ人知れず便りを寄せている。本人もそれを継いでいたが、職場で龍への信仰を説くことはない。普段は帳面と納品の数が合えば安心するような男だった。

 

 その者が、目の前の紙には驚きを隠せていない。

 

 私自身も同じだった。あざを見たのは彼であるのに、その朝たまたま医務室へ足を運んだことまでが、心に重く響いた。約束した面会でもなく、こちらから姿を確かめに行ったのでもない。見えた背に翼があり、それを見た者が私へ報せてきた。

 

「龍の導きか……」

 

 机の隅には街道の一件をまとめた紙があった。彩鳥の絵が届く前の報告、護衛のニャンターの助言、書士隊の照合とギルドの判断。聞き取った順に記したもので、少年一人の働きへまとめてしまうには、関わった者があまりに多かった。

 

 あの夜の咆哮を思い出した。地面についた手のひらへ伝わる震えも、声を失った護衛たちの顔も覚えている。もしも元の道を進んでいれば、荷車を回す場所さえなかった。そこから生きて街へ入り、今は宿代の多い少ないを数えて暮らしている。

 

 その道を振り返ると、途中に少年の描いた絵があった。

 

 来る前から御子の話は聞いていた。調べるべき相手として名を挙げられ、いつものように出所を辿るつもりでいた。ところが会うより先に絵に関わる出来事を経験し、こうして翼の知らせまで受け取ったのである。

 

 これまで幾人もの龍の使いを調べてきた。信じたい者がいれば、期待に応えようとする者も現れる。仕組みが分かった後で、信徒から冷たい人間だと責められたこともあった。その度に、龍の御心へ人の都合を重ねてはならぬと答えた。

 

 それなのに今は、紙を前に祈りたいと思っている。

 

 戸が叩かれたので、私は図を伏せた。返事をすると店番の女が隙間から顔を出し、夕方の荷を下ろし終えたと告げた。差し出された受領の札を受け取り、卓の端へ寄せた。

 

「悪い知らせかい」

 

「いや。思いがけないものが届いてね」

 

 女は卓の封筒を一度見たが、それ以上は尋ねず、冷める前に飯を食べるよう言って階下へ戻った。私は札へ印を押し、乾くのを待つ間に返書を用意した。知らせへの礼に続き、自分も心を動かされたと記す。前の便では噂の出所を確かめるよう頼んでいた私から、そんな返事が届くとは思っていないだろう。

 

 ただし、少年に徴のことを尋ねるのは控えるよう書き添えた。もう一度背を見せてもらおうとする必要もない。これまでどおり仕事を続け、その中で知ったことを報せてほしいと結んだ。

 

 私は便りを畳みかけて手を止め、もう一文を足した。今日のことは他の信徒へも広めず、こちらからの返事を待つように。彼が私と同じ思いを抱いたなら、祈りを共にする誰かへ話したくなるはずだった。

 

 御子を迎える支度を始めたがる者はいるだろう。私がこの街へ向かう際にも、次の者が同じ命令を受けるとは限らぬと告げられている。まだ少年とひと言も交わしていないうちから、その手を引いて祭壇の前へ立たせることなど許したくなかった。人の手で先を急ぎ、せっかく示された導きを損なうことが恐ろしかった。

 

 封をした返書は本部へ戻す書類と一緒に預けた。女は宛先を確かめ、明日の納品分へ重ねる。私は下へ降りたついでに食事を取り、食後には翌朝発つ荷車の順を決めた。いつもどおりの仕事を済ませてから、もう一度二階へ戻った。

 

 今度は教団へ送る報告を開き、次の便で帰ると書いた一節へ線を引いた。商会にはまだ仕事があり、街に留まる理由には困らない。少年が本部から動かぬうちに、周囲の者が何を求めて集まっているのかも知っておきたかった。御子であるならば、その姿を望む者が皆、同じものを見ているとは限らぬ。

 

 書士隊にも王家にも、今の立場を明かすつもりはなかった。こちらの名を告げれば、少年に届く言葉も変わる。今は内部の便りを待ち、街で聞ける話を集める。この仕事を人に譲って帰る気には、もうなれなかった。

 

 私はあざを見た場所と目撃者の話を記し、その下へ所見を書いた。

 

『少年の背に翼の徴が見いだされた。私はこの巡り合わせを、龍の導きと受け止めている』

 

 筆を置くと、先ほどより静かに息ができた。書状の図を添え、自分が伝えるべき驚きが言葉になったか読み返す。以前ならまず疑うべき点を探していた紙に、今夜は翼の線ばかりが目に留まった。

 

 私は灯りの前で護符を取り出し、声を潜めて祈った。少年の背にあるものを、いつか自分の目でも確かめたい。その願いまで祈りへ混ざりかけたので、そこで一度口を閉じた。

 

 今は待とう。こちらから名乗る日を急ぐことはない。

 

 最後に薄紙を折る時、欠けた片翼へ折り目がかからぬよう、少し位置をずらした。封筒へ収まったところで、私はようやくその図から目を離した。

 

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