ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
ウロコウモリの新しい寝床には、僕の描いた窓がある。
本人はその窓へ尻尾を向け、布の陰へ頭を突っ込んで寝ていた。せっかく描いたのにと思わなくもないが、寝床は気に入ってくれたらしい。ただ、隣に置いた借り物の籠を片づけようとするとそちらへ移るので、部屋が広くなる日はまだ先だった。
「餌は入れたか」
「はい。水も替えました」
ニャンターに返事をして、画板を抱える。今日は長耳の書士官に会う約束があった。
昨日のうちに、昔からの知り合いが本部へ来るので少し話をしてみないかと聞かれていた。各地を旅している人で、珍しい景色の話も聞けるらしい。僕の絵について問い詰めるための面会ではないと確かめ、ニャンターも一緒ならと頷いた。
それでも、部屋の前に着くと画板を持つ指に力が入る。王様の使いだろうと立派な学者だろうと、最初から怒った顔で来るとは限らない。扉の向こうから豪快な笑い声が聞こえ、僕はニャンターの兜を見下ろした。
「元気な人ですね」
「お前も挨拶くらいは聞こえる声でしろよ」
背中を押される前に扉が開き、長耳の書士官が顔を出した。
「来たか。さあ、入っておいで」
部屋へ入った僕は、用意していた挨拶を半分ほど忘れた。
窓を背にして座る男の人は、つばの広い帽子を被っていた。赤い上着には旅の埃がうっすら残り、椅子の横には大きな荷物がある。日に焼けた顔がこちらを向くと、帽子の上にいた白い鳥も首を傾げた。
知っている。
いや、まだ分からない。似た服の人くらいいるし、白い鳥を連れている人も、この世界にはいるのだろう。でも、あの帽子と上着と顔をまとめて見せられると、僕の頭の中ではもう聞き覚えのある音楽が流れ始めていた。
「おお、お前さんが絵描きの坊主か!」
「こっ、こんにちは!」
声が大きすぎた。鳥が羽を一度広げ、僕は慌てて口を閉じる。ニャンターは横を向いていたが、兜の隙間から見える口元が少し動いた気がする。
「はっは、元気があっていい。俺はキャラバンを率いて旅をしてる。我らの団、ってな。団長とでも呼んでくれ」
本人だった。
モンハン4の団長だ。画面で何度も見た顔が目の前にあって、僕へ椅子を勧めている。座ろうとして画板を椅子の縁にぶつけたが、団長は気にした様子もなく荷物を脇へ寄せてくれた。
知らないはずの人なのに、声を聞くたび懐かしくなる。向こうからすれば初対面の子供がにやにやしているわけで、ちょっと落ち着け、僕。
「絵を持ってきてくれたのか。見せてもらってもいいかい」
僕はニャンターを見た。頷くのを確かめてから、持ってきた帳面を開く。部屋の留まり台と、布から尻尾を出したウロコウモリ、それに水差しが何枚か。このところ描いていたものばかりなので、どの頁を開かれても困らない。
団長は一枚ずつ眺め、留まり台の絵で手を止めた。
「こりゃ立派な住まいだ。俺の荷車にも窓をつけてもらいたいな」
「描いた窓でよければ」
「風が通らんか。そいつは困った」
笑いながら次の頁へ進む。僕はまだほとんど何も話していないのに、団長はもううちの飛竜がどんな顔で寝るかを知っていた。本人がここにいたら帳面の上へ座るところまで見せられたが、今日は留守番でよかったかもしれない。相手の帽子には先客がいる。
長耳の書士官が卓の空いた場所へ茶器を置いた。僕の前には薄めたお茶、団長には大きめの器が渡る。
「すまんな。呼びつけたうえに待たせて」
「いや、退屈はしてませんよ。まだ用が残ってるんでしょう」
「隣で書類を渡してくる。少し頼むぞ」
書士官が出ていくと、団長は自分の荷物から革で包んだ綴じ本を取り出した。僕のものよりずっと分厚く、背の紐を二か所も結び直してある。挟まった紙の端がそれぞれ違う方向へはみ出しており、閉じているのか開いているのか分からない。
「絵の礼に、こっちも見せよう。気になるものがあったら聞いてくれ」
開いた頁には山並みと細い道が描かれ、その下に小さな字がびっしり詰まっていた。水で滲んだ部分もある。読めそうなところから目を近づけていると、団長が本を僕の側へ回してくれた。
道の脇には川があり、その向こうに家らしい四角が三つ並ぶ。橋を渡った先の印が気になって指を止めると、団長はそこが宿だと教えてくれた。
「飯がいいんだ。朝から大鍋に煮込みがあってな。鍋の底が見える頃には、もう次を仕込んでる」
「何が入ってるんですか」
「肉と豆と、その日に採れたもの。誰が食うのかと思ってたら、村中から椀を持って集まってきた」
おいしそうだと思いながら読み直すと、道順よりも鍋のことのほうが詳しく書かれていた。橋の長さは棒二本で済んでいるのに、料理に使う香草には別の紙まで挟んである。
団長は頁をめくり、今度は崖の上に並ぶ家を見せてくれた。風が強いため入口が谷と反対側にあり、洗濯物を飛ばした日は村の子供に探してもらうのだという。
「俺も一枚やられた。よく見つけたもんだよ。あんな下の枝へ引っ掛かってたのに」
団長が窓の外へ指を向ける。ここから見える庭よりも、ずっと低いところの話らしい。僕は家の並びから崖の線へ目を移し、絵の外まで続きを描きたくなった。
設定資料の背景にも人の暮らす場所はあった。でも、そこへパンを運ぶ道や、風に飛ばされた洗濯物まで考えたことはなかった。遠くに見えていた小さな家にも、朝起きて窓を開ける人がいる。窓を開けた途端に何か飛んでいくのは困るだろうけれど、どんな音がするのかは聞いてみたかった。
「家の壁も、この色ですか」
茶色く擦れた部分を示すと、団長は一瞬眺めてから笑った。
「そりゃ夕飯をこぼした跡だな。壁はもっと白い」
危ない。いい色だと思っていた。僕はその辺りを触っていなかったか指先を見た。
砂漠の頁には、地平線から顔を出した太陽と、下のほうに細長いものが描かれていた。まだ朝なのに砂が赤く染まるのだそうだ。遠くの砂丘も赤くなりますかと聞いたところから話が広がり、気づけば僕は自分の帳面へ砂丘の線を引いていた。
手前に何か入れたくなって団長の絵を見直し、細長いものの先へ炭筆を向ける。
「これは、魚ですか」
「船だよ。帆が畳んである」
言われれば船に見えた。僕が魚の目だと思った丸は荷物で、背びれに見えたものは畳んだ帆らしい。砂漠で魚が日干しになっている絵でなくてよかった。朝日に照らされて、ずいぶん立派な干物ができるところだった。
団長は笑って余白へ線を足し、帆柱が立つ位置を教えてくれた。見栄えより道具や荷物の位置を残すための図だったのだと分かり、僕も教わった形を砂丘の手前へ描き込む。どこへ立てば景色が見えるかを考えているうち、船首へ人を一人乗せてしまった。
ちょっと格好いい。
これなら何度でも描ける。部屋にいれば砂は目に入らないし、落ちても紙の上だ。
団長の鳥が本の端をつついたのは、その時だった。
白い羽が日の光を透かし、首の下に淡い影ができている。僕が炭筆を持ち上げると、その動きを追うように小さな頭が傾いた。
「この子も描いていいですか」
「もちろん。おい、男前に描いてもらえよ」
団長は本を閉じ、白い鳥を指に乗せてこちらへ向けた。僕は新しい頁へ大きさの目安をつけ、頭と胴の位置を取る。ウロコウモリと違って羽毛の膨らみがあるので、見えない首を太く描きすぎないようにした。
頭の輪郭ができたところで、鳥は後ろを向いた。
まあ、それくらいはいい。さっきの顔を思い出して目を入れる。次に胸を描こうとすると、今度は羽を膨らませて丸くなった。さっきまで細長かったのに、急に冬が来たみたいになっている。
僕が手を止めると団長の指から卓へ降り、本の陰で羽繕いを始めた。顔も胸も見えない。画板を少し横へ動かすと、ニャンターがずれかけた紙の上端を押さえてくれた。
「同じ格好で、ちょっとだけいてほしいんですけど」
鳥へ頼んでみたが、僕の言葉が届く前に片脚まで上がった。
資料集に載っている生き物は本当に親切だった。こちらが描き終わるまで、羽を一枚も動かさない。今度から模写する時はもう少し感謝しようと思う。
団長はしばらく鳥をあやしていたものの、諦めて椅子へもたれた。その拍子に白い翼が開き、帽子の上へふわりと降りる。鳥は足の置き場を確かめるように二度踏み、それきり落ち着いた。
「そこです!」
団長の顔がこちらを向く。
「あ、そのまま。そのままでお願いします」
つい大きな声が出てしまったが、団長はおとなしく顎を止めてくれた。急いで鳥の輪郭を取り、足を描き、それを支える帽子のつばへ線を伸ばす。帽子だけ宙に浮かせるのも変なので、下に額を少し足した。
少しのつもりだった。
眉を入れると目も描きたくなり、目を描いたら鼻が必要になる。途中で団長が口を開きかけたが、僕の手元を見て閉じたので、その口元も描かせてもらった。
ニャンターが茶器を団長の手の届く位置へ寄せる。団長は口元まで器を運んだものの、顎を上げかけたところで鳥の足が動き、そっと卓へ戻した。
「鳥を描く話じゃなかったかい」
「もう少しです」
鳥はとてもいい子にしていた。人のほうが先に動きそうだったので、上着の細かいところは線を減らす。最後に頬の影を薄く擦り、画板を持ち上げた。
団長は首を回してから絵を見た。帽子の鳥も一緒に揺れたが、足を踏み替えただけで飛んではいかなかった。
「おお、こりゃ俺だ。ずいぶん澄ました顔をしてるじゃないか」
「動かないようにしてもらったので」
僕が答えると団長は声を上げて笑い、紙の上へ影が落ちた。描いている間はすぐそこにいた眉や鼻が、笑うだけで別の形になる。もう一枚描きたいと思ったけれど、先にお茶を飲ませてあげたほうがよさそうだった。
「お前さんがいれば、旅の帳面も賑やかになるなあ」
団長は湯気の消えたお茶を飲み、僕の描いた砂丘と船へ目をやった。
「どうだ。うちの旅について来るか?」
「え…、行きません!」
ほんの少しだけ心が揺らぎ、紙を落としそうになった。ニャンターが下から画板を支えてくれたので助かったが、団長は茶器を持ったまま目を丸くしている。
「返事が早いな」
「だって、大型のモンスターが出ますよね」
「出る時は出るなあ」
そんな、雨が降るみたいに。
僕は砂丘の船首に立たせた小さな人を見た。こんなところへ出ていれば、何か来た時に最初に見つかる。描いた時は風を受けて格好いいと思ったのに、今は早く中へ入りなさいと言いたくなった。
団長は僕を追い立てず、卓へ落ちかけていた帳面の紐を拾った。
「そりゃ残念だ。また寄った時に話すとするか」
「それは、聞きたいです」
すぐ答えてから、僕は炭筆を筆入れへ戻した。続きを聞きたいのは本当だ。でも、楽しそうな顔をしすぎると荷車の席を用意されかねない。旅へ出る気はありません、という顔を作っておく必要がある。
団長が綴じ本を包み始めたので、紐の下へ消えていく砂漠の頁を見送った。夜の砂が何色になるかを聞き忘れたのが、少しだけ心残りだった。
長耳の書士官が戻ったところで、僕らの面会は終わりになった。鳥と団長の絵を帳面から慎重に外し、ニャンターへ一度見せてから渡す。
「これ、どうぞ」
「いいのか。大事に持って帰るよ」
炭が擦れないよう紙を一枚重ねると、団長は自分の覚え書きの間へ挟んでくれた。あの膨れた本の仲間に入ると思うと嬉しい。ただ、次に会うまでに煮込みの色がついていないことを祈る。
「また来たら、続きを聞かせてください。船の絵も」
「ああ。もっと分かりやすく描いとこう」
そこまでしなくても、隣で説明してもらえれば大丈夫だった。魚が船になるところも面白かったのだから。
部屋を出てから、僕はニャンターへ少し身を寄せた。
「うちの飛竜も、兜の上ならじっとしますかね」
ニャンターは歩いたまま僕を見上げた。
「まずは自分の頭で試せ」
僕には帽子がない。帰ったら紙で作れないかと一瞬考えたが、頭の上へ爪を立てられるところまで想像できたので、黙って画板を抱え直した。
* * *
坊主を見送った後、俺は帽子の上から鳥を下ろし、肩へ移して立ち上がった。
団長と呼ばれるようになってから、人の話を聞くより聞かせるほうが増えた気がする。だが、こんなに細かく壁の色を聞かれたのは久しぶりだった。次にあの村へ行く時は、宿の鍋ばかり覗いてもいられない。
書士官の後について廊下を進むと、すれ違った若い書士が俺を見て立ち止まった。手の書類とこちらの顔を見比べ、何か言おうとして上役へ目を向ける。今度こそ戻ってきたのかとでも聞きたかったのだろう。片手を上げて挨拶すると、頭を下げたまま道を空けてくれた。
案内された執務室には、相変わらず机より高く本が積まれていた。長耳の書士官は俺のために椅子の上を空け、積んであった本を自分の椅子へ移した後で、置く場所を探して辺りを見回した。
俺が二冊ほど受け取って棚へ戻す。旅へ出るたび荷を減らせと言われる身だが、この部屋を見ると、まだ多少は増やしてもよい気がしてくる。
「王都のほうには戻られないんですか。学術院じゃ、席を空けて待ってるそうだが」
「椅子ならここにもある。今しがた空けたところじゃ」
書士官はようやく自分の椅子へ座り、机の端から書類を引き寄せた。上に載っていたのはどこかの村から届いた生物の報告で、泥のついた足形が添えられている。
「あちらの会議では、報告の中身より持ち込んだ者の家柄が先に話題になる。古龍の話をしておったはずが、いつの間にか誰を会議の上座へ座らせるかで揉めておる。あの空気はどうも好かん」
昔から、興味のない会議では耳だけがよく動く人だった。廊下を通る者を聞き分け、急ぎの報告が来ると誰より先に席を立ったものだ。
「本部に届く記録を預かり、次に必要とする者へ渡す。それがワシの役目じゃ。ここで読まれるのを待っておる紙を置いてまで、戻る気にはならん」
「じゃあ、そう伝えておきますよ」
「おぬしこそ少しは顔を出さんか。弟子の居場所を聞かれるたび、ワシが知らぬと言わされておる」
俺は片手を上げて降参した。学術院に籍は残っているし、手紙へ書いた町を返事の届く前に出てしまうこともあるので、言い分はよく分かる。
「分かりました、先生。次は発つ前に寄りますよ」
「先に行き先を書いておけ。返事を受け取る場所もじゃ」
つい昔の呼び方が出たが、向こうは気にも留めなかった。行き先を伏せるような用事でもないので、渡された紙へドンドルマと書いておいた。
「面白い少年だな」
腰を下ろして言うと、書士官は机へ寄せた書類から顔を上げた。
「楽しんでおったようじゃ。おぬしの話を聞かせてよかった」
「うちのハンターと似た目をしていたよ。遠くの、まだ見たことのないものを見たがる目だ」
鳥を窓際の椅子の背へ移し、革包みの紐を結び直す。あの坊主は船の話になると身体を乗り出し、俺が砂丘を指すより先に次の山の形を尋ねた。ところが旅へ誘った途端、帳面を抱え込んでしまった。
「少し違うのは、それを隠そうとするところか。行かないと言った後も、絵から目が離れなくてな」
「危ないものは苦手な子じゃからのう」
書士官は机の端へ二つの茶器を置き、俺のほうへ一つ押した。気軽に話すには、少々疲れた顔をしている。坊主の呼び名は道中でも聞いたが、この男がそれに浮かれている様子はなかった。
「それで、おぬしのところの若いのはどうしておる。今日は連れて来なんだのか」
「今はドンドルマにいます。もうじきG級昇格の審査が終わる」
長い耳がわずかに動き、注ぎかけた湯が止まった。
「もうそこまで行ったか。おぬしが拾ったのは、三年前であろう」
「そうさ。肌着姿で豪山龍の背に乗ってた頃から数えて、三年だ」
口にすると、あの日の砂がまた歯の間へ入り込むようだった。船の縁から見上げた巨体と、その上で動く場違いな人影。見間違いであってほしいと思ったことまで覚えている。
剣も鎧も揃えてから無茶をするなら、まだ話の順序がある。あいつはその辺りを全部飛ばして龍の背へ上がった。こちらが手を貸そうにも、まずどこまでやるつもりなのかを見極める必要があった。初対面の若者に、あれほど肝を冷やされたことはない。
「あの話は、まだ少し盛っておると思っておったが」
「俺だって、見てなきゃ信じないね」
書士官は茶器へ湯を注ぎ終え、首を振りながら湯の器を脇へ置いた。
今でも初対面の者に話すと、団長の大袈裟な昔話として笑われる。そのほうがあいつのためにはいいのかもしれない。だが、遠くを見たがるあの目は旅を重ねても変わらなかった。谷の向こうで何かが鳴けば振り返り、地図の端に知らない道があれば先を聞く。帰ってきて装備を手入れしている時には、もう次に使う道具のことを考えている。
もちろん三年間、同じ無茶をしていたわけではない。俺が景色を眺めている間に退く道を確かめ、話が長引くと天候を見て出発を促すようにもなった。一緒に危険な場所を歩いてみれば、何が変わったかは分かる。先に進みたがる若者へ、こちらが命を預けられるようになったのだ。
「三年でG級か。近頃では聞かぬ速さじゃ」
「向こうも人が欲しいんだろう。第五期団が出れば、こちらに残るG級はまた減る」
審査の順番が早まったのか、実績を見る者が増えたのか。ドンドルマの内輪の事情までは聞いていない。ただ、海を渡る連中を見送った後も、この大陸の古龍が遠慮してくれるわけではなかった。今ある仕事を引き受けられる若者は、どこでも欲しいはずだ。
書士官は茶を一口飲み、器の縁越しに俺を見た。
「その穴を埋めさせるには、若すぎぬか」
「年を食うまで待ってたら、俺のほうが先に歩けなくなる。腕は確かだよ。あいつになら背中を任せられる」
初めて会った日の話には笑いが混じったが、これを言う時には笑わなかった。書士官も頷くだけで、茶器を静かに置いた。
「腕の立つ者が要るのは、こちらも同じじゃ。恐暴竜の一件は聞いておるか」
「街道が開いたって話なら。来る途中で、御者にずいぶん喜ばれたよ」
書士官が机の脇から取り出した布には、枝が一本包まれていた。折れ口かと思った端を灯りへ向けると、切断面は平らで、断たれた繊維が揃っている。その隣に置かれたのは恐暴竜の身体を横から写した図だった。傷の位置を示す線のうち、いくつかは別の筆で書き足されていた。
俺は図の下にある討伐者四人の名を読み、報告を前へ戻した。
「この四人がつけた傷じゃないのか」
「見つけた時には、すでに深手を負っておったそうじゃ。枝も斬られたまま周りの小枝に支えられておってな。手を添えて落ちるまで気づかなんだ。それで死骸も調べ直した」
左腿の腱と顎の付け根、肋骨の間。図を追ううちに、書き足された線の意味が分かってきた。細い線が届いているのは、脚を踏み出すにも顎を開くにも欠かせない場所だった。あの脚を鈍らせた者がいなければ、帰ってきた四人の怪我も違っていただろう。
「先にやり合った奴は?」
「名乗り出てはおらぬ。別の狩猟隊を出した記録もない。確かめられた足跡は一人分で、恐暴竜はその場所から街道と逆へ向かっておった」
傷だけなら凄腕の狩人が通り掛かったとも考えられる。だが、狩猟隊を出した記録はなく、恐暴竜を街道から退けた後も名乗り出ていない。名を出せない仕事の途中だったなら、この立ち去り方にも説明がつく。
「ギルドナイトが来てるのか」
「その可能性は高いと思うておる。もっとも、ギルドからこちらへ知らされたことではない」
俺は枝を布へ戻した。団の若いのなら恐暴竜へ勝てるか、と考えかけてやめる。勝つ腕に加え、どちらへ追い、どこで離れるかまで決めて動いている。ギルドナイトだとしても、相当に場数を踏んだ者だろう。
「そんな手練れが名を伏せて来たなら、仕事は恐暴竜だけじゃなさそうだな」
書士官は答えず、討伐の報告を畳んだ。あの坊主へつけた護衛とは別に、ギルドが動かしている者がいるのかもしれない。俺は膝へ置いていた覚え書きを開いた。
「そのことなら、こっちからも知らせておきたい話がある」
旅の途中で聞いた二つの町の名を挙げると、書士官は紙を一枚引き寄せた。
「龍を信仰している連中が、この街へ人を寄越し始めてる。昔、あの連中の古文書を見せてもらったことがあってな。その時に取り次いだ男から話を聞いた」
普段は集まりの場所さえ身内にしか教えない男が、今回は俺の行き先を聞いてから本部の子供の話を持ち出した。御子とはどんな子なのか、誰を通せば話ができるのか。俺がまだ会っていないと答えると、それなら本部にいる知り合いへ取り次いでほしいと頼んできた。
別の町では、長く世話になっている宿の親父から同じ街の話が出た。龍の祠へ金を納めている家の使いが、こちらで長く泊まれる宿と護衛の口を探していたという。商いの便に合わせて動くには、聞いていることが少し細かかった。
「同じ一団か」
「そこまでは分からん。俺に話した男は、先に調べに行った者がいると言ってた。それがいつ誰を送った話なのかは、教えてくれなかったが」
名のある商会が絵を欲しがるのとは違う。何を確かめれば満足して帰るのかさえ、まだ聞けていなかった。頼み込んできた男の口ぶりには、俺が会いに行くことを羨む響きもあった。
「紹介はしておらんよ。今日は坊主がどんな顔で暮らしてるか、自分でも見ておきたかった」
書士官の筆が止まった。さっき坊主を送り出した時の柔らかさは消え、長い耳の先がわずかに下がっていた。
「門へ来る者の用件は確かめておる。じゃが、来ない者まではな」
「手が要る時は声を掛けてください。知った顔になら、もう少し聞ける」
俺は覚え書きの端へ取次ぎ役の名と泊まっていた町を書き、書士官へ渡した。あの男が信じている龍と、ここで噂になっている子供とが、本人の中でどれほど近づいているのか。それを知るには、道端で交わした話だけでは足りなかった。
書士官は受け取った紙を伏せ、しばらく指を載せていた。
「噂を追う者は、こちらが確かめ終えるまで待ってはくれんか」
そう言って机の下へ手を伸ばす。
「おぬしらに頼みたいことがある」
机の下から浅い箱が出てきた。
俺は覚え書きを閉じ、机の中央を空けた。書士官が箱の鍵を外すと、中から封をした包みが現れる。封の印を見て、俺も帽子を脱いだ。
学術院で古い記録を扱っていた頃、その印のある包みを何度か開いたことがある。知らずに済めば幸運だったと思うものもあれば、知らなければ誰かを危険な場所へ送り出していたものもあった。いずれにしても、面白い土産話が入っていることは少ない。
「先にこれを見てくれ」
最初に置かれたのは古びた記録の写しだった。欠けた線の脇に小さな注記があり、焼け損じた原本のどこを補ったかが分かる。筆写した者の癖を確かめ、端にある年を読んだところで、俺は次の紙へ伸ばしていた手を止めた。
長い首と後ろへ伸びる角。翼の一部。
シュレイドに関わる記録だった。
書士官はその隣へ、もう一枚の紙を置いた。こちらの線は明瞭で、低く構えた頭から首、胴へ流れる姿が一目で分かる。大きく広げた翼は片側が途中で切れ、顔にも描き残された部分があった。
「こちらは、あの子の絵を写したものじゃ。描いておる途中でワシが止めた」
俺は椅子の背から身を起こした。
この姿を昔の人間が災厄の印として使ったことは知っている。黒い龍の名を聞いたこともある。だが、並べられた二枚は同じものを別々に飾って描いたというには、生き物として繋がる部分が多かった。古い写しで意味の取れなかった線が、少年の絵を見ると翼の付け根だと分かる。
白い鳥を描いていた時、坊主は羽の膨らみ一つにも手を止めていた。その手が、この龍の首や翼をどこから拾ってきたのか。紙を傾けても、描きかけの身体に不自然な継ぎ目は見つからなかった。
「ミラボレアスか」
書士官は肯定し、俺の手元へ聞き取りの記録を寄せた。
城に棲むこと。崩れた塔と城壁。広い範囲を焼く炎。それぞれの答えの脇には、何を尋ねたかも残してある。城の話へ導いてから同意させたのであれば受け取り方も変わるが、最初に城を持ち出したのは少年の側だった。
「この古記録を見せる前の話ですね」
「うむ。あの子は今も見ておらぬ」
俺は二枚の紙を少し離し、古いほうをもう一度見た。隣に答えらしい形があると、欠けた線をこちらで繋いでしまう。それでも角の向きと首の長さは残り、離して眺めた程度では別のものにならなかった。
「各地への照会は?」
「集めておる。火災も大型種の目撃も、今のところ黒龍に結びつくとまでは言えん」
書士官は束ねた報告を示したが、俺へ一枚ずつ読ませようとはしなかった。必要な箇所には細い札が挟まれている。伝聞が重なって場所のずれた話、火竜の被害と見られるもの、日付さえ定かでない噂。何でも一つの龍へ結びつけるつもりはないらしい。
それより手が止まっているのは、古い記録の出所だった。
本部に残る写しの中には、別の写本をさらに写したものがある。途中の一冊が失われれば、残った記述が同じ話の繰り返しなのか、別の目撃に基づくのか分からなくなる。書士官は三つの目録を並べ、照会の返事がまだ得られない収蔵先を指した。
「文だけでは動かぬ相手がおる。誰の紹介で来たか、どの家に預けられた記録か。そこから探さねばならんものもある」
挙げられた土地の一つには、昔世話になった者がいた。もう本人が帳場へ座っている年ではないが、その家なら分かる。古い街道の通行記録が寺院へ移されたという話も、旅の途中で聞いた覚えがあった。
少年の絵がなければ、そのまま忘れていたかもしれない。俺は場所を覚え書きへ移し、誰へ先に手紙を出すか考えた。
「記録のある町までは行けます。その先は?」
「現地で確かめられることがあれば頼みたい。城跡へ踏み込めとは言わぬ。異変があれば、戻って報せてくれ」
「それで俺と、うちのハンターか」
「おぬしは話を聞く相手を知っておる。若いのは、危険な道からおぬしを連れ帰れる」
書士官はそこで一度言葉を切り、未完成の翼へ目を落とした。
「それでも足りぬかもしれん相手じゃ。だから、断られることも考えておる」
俺は返事を急がず、茶器を手に取った。
黒龍が今どこにいるか、この紙からは分からない。そもそも残された伝説のどこまでが事実なのか、俺たちはまだ掴めていない。古い蔵を巡るだけで終わるかもしれず、記録を頼りに進んだ先が死地かもしれなかった。資格証にG級の印が増えたところで、道の先が見えるわけではない。
坊主の、旅へは行かないと答えた声を思い出した。
あの子には確かに憧れがあった。隠そうとしても、風景の話をするうちに目へ出るほどのものが。それを押さえつける恐れは、どこから来たのだろう。もしこんな龍の姿を、俺たちの知らないところで見せられていたのなら。
足元の包みには、帽子の上で鳥を休ませた俺の絵がある。さっきまで隣で炭筆を動かしていた子供へ、この問いを持って戻る気にはなれなかった。旅へ出ない坊主に代わって確かめられることは、まだこちらにある。
考えている俺を見て、書士官が小さく息を吐いた。
「仕方あるまい」
椅子の上で衣の前を緩め、懐から布包みを取り出す。書類にしては丸く、机へ置いた時に硬い音がした。幾重にも巻いた布が解かれるにつれ、俺は茶器を持つ手を止めた。
細い瓶の中に金色があった。
窓からの光は書士官の背で遮られている。それなのに瓶の底は暗くならず、液体そのものがほのかに光っていた。栓を覆う封は切られておらず、首に巻かれた紐も固く結ばれたままだった。
「まさか、その酒は」
「黄金芋酒じゃ」
飲んだことがあると自慢する者には何人も会った。本当に飲んだかどうかを尋ねると、その半分ほどは急に別の話を始める。王侯貴族が欲しがったところで、すぐに届けられる酒ではない。旅先で一度だけ、空になった瓶を大切に飾っている宿を見たことがあった。
それが、まだ一口も減っていない姿で目の前にある。
「よく今まで取っておけたな」
「飲む機会を選んでおったら、今日になってしもうた」
書士官は瓶をこちらへ滑らせた。倒れないよう支えた指が、最後まで離れない。俺はその手から受け取って重さを確かめ、もう一度、切れていない封を見た。
「戻ってから開けろってことかい」
「前払いじゃ。いつ飲むかは任せる」
瓶を持ち上げかけた手を止めた。
何年も棚の奥へ置いてあったはずの酒が、俺の手の中では妙に重かった。
それでも、瓶が出てきた途端に声を上げそうになった自分もいる。どうにも困ったものだった。俺は布を巻き直し、地図の上に置かないよう脇へよけた。
「あいつが審査から戻ったら話す。まずは記録を持つ家を訪ねよう。先へ進めるかは、その返事を持って決める」
「頼めるか」
「ああ。ただ、うちの連中には行き先と危険を話しておきます。俺一人で決めて、後からついて来いとは言えんからね」
「それでよい。必要な記録と紹介状は用意する。あの子の名と絵の写しは、こちらへ残してくれ」
俺たちは机の上を空け、持ち出す資料を選んだ。古い目録の所在と照会先を残し、少年の聞き取りを箱へ戻す。街道の分岐で筆が止まると書士官が別の地図を出し、俺は昔使った道が今も通れるかを尋ねた。
すぐに出発できる仕事ではなかった。返事を待つ間に会える相手を挙げ、仲間と落ち合う町を決める。街道へ印をつけ終える頃には、旅団へ送る知らせの内容も固まっていた。
帰り支度をする頃には、窓の明かりが棚の上まで移っていた。鳥を呼び戻し、包んだ酒瓶を荷物の奥へ収める。久しぶりに大きな宝を手に入れたというのに、門を出たらすぐ開けようという気にはならなかった。
用意してもらった紹介状を挟むために覚え書きを開くと、坊主が描いた俺と目が合った。帽子の鳥を動かさぬよう、妙に澄まして座っている。こんな顔をしていたのかとまた笑いそうになり、今度はその紙を食べ物の染みが届かない頁へ移した。
その次に新しい紙を一枚挟む。明日の朝、ドンドルマへ送る手紙に使うつもりだった。
若いハンターへの書き出しは、審査の具合を尋ねるところからでいい。その先に何を書くかを考えながら、俺は帽子を被り直した。
瓶の封は、まだ切らずにおいた。