ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
母と姉が来るので、僕は朝から真面目な本を机に並べていた。
つばの広い帽子の団長と会ってから、ひと月ほどが経っている。その間にも家とは手紙を交わし、二人がこちらへ来る日も前もって知らされていたのに、部屋の片づけを始めたのは昨日の夕方だった。絵なら何日もかけて描けるのに、服を畳む用事は明日でも間に合う気がしてしまう。今朝の僕は、昨日の僕に少し言いたいことがあった。
机の端へ分類の本を置き、隣へ勉強用の帳面を重ねる。開いたままの絵ばかり並べると遊んでいるように見えるが、本があれば多少は違うはずだ。
ニャンターが水差しを運んできて、僕の積んだ本を横へずらした。
「ここは空けとけ。茶を置く場所がなくなる」
「あと一冊なんですけど」
「読みかけの分は、そこに置いとけ」
そう言って、机から落ちかけていた栞を頁の間へ挟んでくれた。僕は開いてもいない二冊を抱え、棚へ戻った。
姉が袖口を直してくれた上着へ着替え、ウロコウモリを乗せるための布を肩へ掛けた。寝床の隣には、もう借りたままでよいと言われた籠がある。今朝はそちらで寝ているので、母たちの椅子は少し離して置くことにした。新しい寝床の窓も見えるし、籠から鼻を出せば本人にも会える。
母たちが本部へ着いたのは、昼を少し回った頃だった。
知らせを受けて宿舎の階段を下りたところで、姉の声が聞こえた。知らない人へ挨拶している時の声だ。家の店でも使っていた丁寧な言い方を聞くと、曲がり角の向こうに商品棚があるような気がした。
ニャンターを追い越しかけて歩幅を緩め、廊下の端から顔を出す。
母は旅用の外套を腕へ掛け、姉と並んで腰を下ろしていた。足元には布で包んだ荷物がある。母がこちらを見つけるより早く姉が手を上げ、僕も片手を上げたが、途中から振るほうが忙しくなった。
「来た!」
「来たわよ。元気にしてた?」
母は立ち上がって僕の肩へ手を置いた。顔を左右から眺め、前髪を少しよけて額まで見ている。僕はもう十一歳なのだが、母の手が頭へ来る時には大抵、そのことを忘れられている。
「ご飯も食べてるって書いたでしょ」
「読んだわ。お代わりの数も」
頬へ当たった指が冷たかったので、僕は母の外套を受け取った。思ったより重い。これを着て十日近く旅をしてきたのなら、部屋の棚を見せる前に座ってもらったほうがよさそうだった。
姉は僕の顔を見たまま、首を少し横へ傾けていた。
「やっぱり、いつもの顔ね」
「何が?」
「手紙の絵。あれ、鼻を高く描いたでしょう」
「ちょっと横を向いてただけだよ」
姉は返事をせず、僕へ荷物の小さいほうを渡した。納得したのではなく、後でまた言う顔だった。
僕の隣へ進んだニャンターに、母が向き直った。
「いつも息子がお世話になっております。夫から伺っています」
「無事に着いて何よりだ。荷はこれで全部か」
姉の手が包みの紐から離れた。
ニャンターを見て、それから僕を見る。僕は頷いた。そういう声です。手紙へ書こうにも、低くて格好いいとしか説明できなかった。
姉は荷物を持ち直す時までニャンターを見ていた。手紙に絵は描けても、声までつけては送れない。
母たちの荷物は隣の客室へ置き、まず僕の部屋で休んでもらうことになった。宿舎の人が茶器を用意してくれたので、朝から机を空けておいた甲斐がある。本は二冊減ったが、焼き菓子の皿が一枚増えた。これは悪くない交換だった。
父は家で店を開けている。
母と姉が二人とも出てきて大丈夫なのか聞くと、忙しい時間だけ手伝いを頼んだのだと教えられた。それでも帰りの道を考えれば長居はできず、泊まるのは今夜と明日の二晩だという。
「明後日の朝には出るの?」
「ええ。帰ってから仕立屋さんへ届ける布もあるから」
母は湯の入った器を両手で包み、指先を温めた。僕は机へ出しておいた帳面を一冊減らした。今日と明日で全部見せようとすると、お茶を飲む時間までなくなりそうだった。
「父さんは元気?」
「元気よ。出てくる朝も、こっちへ持っていく封筒を二度確かめてた」
渡された包みには短い手紙と、頼んでいた細い筆が二本入っていた。手紙には母たちとよく話すこと、本部で世話になっている人へ改めて礼を伝えることとある。それから、筆は使った後に洗うこと。
最後だけ少し字が大きかった。前に一本固くしてしまった件は、まだ覚えているらしい。
「それ、私が選んだの。細いほうがいいんでしょう」
「うん。ありがとう。これなら羽のところも描ける」
包みを机へ置いた途端、籠の中から翼が持ち上がった。
母が椅子の背へ手を掛け、姉も口を閉じる。ウロコウモリは籠の縁から二人を眺めていたが、僕が腕を差し出すと肩まで登ってきた。
「この子。手紙に描いたの」
「本当にその大きさなのね」
母は少し身を乗り出しかけ、爪のある脚を見て止まった。
肩の布を広げて見せると、母は少し安心したようだった。家から送ってもらった布のおかげで爪は痛くない。ただし、足場を探してもぞもぞ動かれるとくすぐったい。
姉は椅子を少し寄せ、布の端を眺めた。
「ここの縫い目、引っ張られてる」
「昨日、降りたくないって言われて」
「言ったの?」
僕が肩を示すと、ウロコウモリが姉の指へ鼻先を向けた。姉はすぐ手を引き、その隙に僕の背中へ回り込もうとする爪が布を引っ張った。
「ほら」
「分かった。そこ、じっとしてて」
姉が布を押さえてくれている間に、ニャンターが椅子の後ろへ籠を寄せた。知らない二人がいる机には下りなかったくせに、そちらへはすぐ移ってくれる。ようやく肩が軽くなると、母も息を吐いた。
「あまり急に触らないほうがいいのね」
「うん。最初は僕のことも見てるだけだったから」
今では僕の頭を足場にしようとする。慣れてもらえたのは嬉しいが、そこまで仲良くなる予定ではなかった。
お茶を飲み終えた頃、母が荷物からもう一つ包みを出した。
家で使っている布巾だった。洗って日に干した匂いがする。つい顔を近づけると、母は笑って、まだ何も拭いていないわよと言った。
「それと、これも。前のはもう食べたでしょう」
焼き菓子の包みまで出てきた。僕が端を開こうとすると姉も手を伸ばし、二人で同じ紐を引っ張ってしまった。母が笑いながら結び目を解いてくれる。来たばかりなのに、もううちのお茶の時間になっていた。
扉が叩かれ、ニャンターが席を立った。廊下には掛布を抱えた書士の人がいる。母たちの客室へ足す分だというので、ニャンターが隣の部屋を示した。
姉は僕が焼き菓子をしまうのを待ってから、棚を見上げた。
「本が増えたね。家の机も片づけておいたけど、こっちのは触らないほうがよさそう」
「机の石は?」
「あの変な石?」
「違うよ! 竜の石だよ」
姉が眉を上げたので、少し声が大きかったと気づいた。隣の部屋ではニャンターが何かを話している。僕は椅子へ座り直し、今度は姉にだけ聞こえる声にした。
「ドラゴンストーン。そう呼ぶことにしたの」
変な石では、いつ捨てられてもおかしくない。ドラゴンストーンなら、少なくとも僕が拾って持ち帰った時の格好よさが伝わる。できれば、口を開けたほうを前にして呼んでほしい。
もちろん、中から竜が出てきては困る。置いて眺めるところまでで十分だ。
「はいはい。そのドラゴンストーンは窓のところにあるわよ。捨ててないって書いたでしょう」
「向きは?」
「ちゃんと、口がこっちを向くようにしてある」
「見えた?」
「見えた。お母さんに呼ばれるまで眺めてた」
僕は姉の前へ帳面を引き寄せた。向きを変えると普通の石に戻ってしまうから、上からと横からの絵まで送ったのだ。同じ形に見えたのなら、光を当てると目になる窪みも教えてあげたい。
隣の戸が開いてニャンターが戻ってきた頃、僕は頁の隅へ石の輪郭を取っていた。母が扉の向こうへ礼を言い、書士の人の返事が遠ざかる。客室の支度ができたらしい。
記憶だけでは細かな形まで描けないけれど、紙を回すと姉はすぐ、ここが口ね、と指を置いた。そう、そこだ。さっきまで変な石と呼んでいたくせに、今は目の窪みまで探そうとして、なかなか帳面を返してくれない。
母にも別の帳面を開いて見せると、鳥を帽子に乗せた団長の絵が出てきた。渡した絵とは別に、後から思い出して描いたものだ。
どうしてこんなに窮屈そうに座っているのかと聞かれたので、鳥はじっとしていたけれど人はお茶を飲みたかったのだと話す。笑った姉がほかの絵も見たがり、僕は砂漠の船を描いた頁を探した。
椅子の背から母の外套の袖が垂れていたので、僕はそちらへ回って掛け直した。明日もいるのだと頭では分かっているのに、頁の端をつかむ手だけが忙しかった。
「今日はここまでにしましょうか」
母の言葉に顔を上げると、窓から入る光が机の端へ寄っていた。いつの間にかずいぶん話している。旅の途中で軽く食べてきたと聞いていたが、そろそろ二人ともお腹が空いているはずだった。
「食堂へ行く? 煮込みがおいしいんだよ」
「行く。案内して」
姉が立ち上がったので、僕は帳面を重ねた。母はまだ使っていない筆を包み直し、水差しから離れた所へ置いてくれる。
ニャンターが先に扉を開けた。僕は母たちと並んで廊下へ出かけ、すぐ部屋へ戻った。
「どうしたの」
「これも見せたかった」
食堂の人を描いた紙を持ち上げると、母が笑った。
「会えるんでしょう。ご本人に」
そうだった。
僕は紙を机へ戻した。絵で見せなくてもよいものが、今日はずいぶん多かった。
* * *
掛布を二枚届け、私は出納の帳面へ客室の番号を書き入れた。宿舎の担当から寝具を頼まれた時は来客が誰かまでは聞いていなかったが、到着した二人を案内する者が、少年の母親と姉だと紹介していた。
今夜から二泊。明後日の朝には発つ予定だという。
帳面を閉じても、隣室から届いた声が耳に残っていた。
「違うよ! りゅうのいしだよ」
護衛に掛布の置き場所を尋ねていた時、その一言だけが聞こえた。少年が何に答えたのかは分からず、後に続いた声も壁の向こうで低くなった。廊下へ出た時には姉へ帳面を向けており、私は母親へ挨拶を返して仕事へ戻った。
祖父から教わった言葉だった。人には及ばぬものを前に、己の都合だけで行く先を決めるなと諭された時のことを覚えている。祈りの中で口にする時も、私は普段の話より声を落としていた。
あの子は家族へ、何かを言い直していた。祖父に教わった祈りの中でも、あれほど強く言い切る声を私は聞いたことがない。
彼の背を医務室で見てから、一か月以上が過ぎている。左右へ広がったあざを描き残そうとした時は、線の置き方に迷って紙を何度も擦った。あの図では見たものを伝えきれていない。それでも、便りを受け取った人は心を動かされたと返事をくれた。
同じ信仰を持つ者と旅の無事を報せ合い、時には困った暮らしを助ける。祖父も父も続けてきた便りのやり取りだったが、少年のことを書き始めてから、返事を開く時の気持ちが変わった。私が仕事の途中で目にしたものに、意味を与える言葉が返ってくる。あの朝、医務室へ行き合わせたことにも導きがあったのではないかと思うようになった。
ただし、もう一度背を見ようとしてはならない。少年に尋ねることもせず、仕事の中で知ったことを報せてほしい。
その言葉は守っていた。廊下で少年を見かけても呼び止めず、黒い龍の絵を収めた部屋へ入ろうとしたこともない。今日も用があって掛布を運んだのであり、家族の話を聞こうと待っていたわけではなかった。
「受領をお願いします」
納品口から呼ばれ、私は机を離れた。
運び込まれた紙の束を帳面と照らし合わせると一つ足りず、荷運びの若者が隣の荷台から抱えてきた。揃った数を確かめて印を押し、夕刻に返す書類を革の袋へ入れる。いつもの帳場から届いた荷だ。そこへ便りを添えれば、返事をくれた人へ渡る。
袋を棚へ置いたところで、廊下から少年の声が聞こえた。
母親と姉を食堂へ案内していた。少し先へ歩きかけ、二人が遅れると戻ってくる。姉へ何かを話して笑い、母親を振り返る顔は、あの一言を聞かなければそのまま見送っていたはずのものだった。
私が壁際へ寄ると、母親が会釈した。
「先ほどはありがとうございました。部屋も暖かくしていただいて」
「どうぞ、ごゆっくりお休みください」
少年も礼を言ったが、すぐに姉へ向き直った。食堂の鍋の話をしているらしく、それは手紙で読んだと返されても、まだ話し足りない様子だった。
母親も姉も、先ほどの言葉に驚いた様子を見せてはいなかった。既に話が終わった後なのだから当然かもしれない。それでも私は、あの家では龍の意志について語ることが、初めてではないのだろうかと考えた。
家族の姿が見えなくなってから机へ戻り、紙を一枚出した。母親と姉の来訪を書き、二泊の予定だと続けたところで筆を止めた。
先ほどの母親は、息子の暮らす場所で世話を受けた礼を言ったのだ。二人の帰る日を外へ報せると知っても、同じように頭を下げてくれるだろうか。書きかけの紙へ手を載せ、指先でその行を隠した。
だが、便りを待つあの人からは、少年を無理に訪ねるなと言われている。今は見守るべきだという返事を信じている。家族を煩わせるつもりなら、あのようには書かないはずだ。
手を離し、明後日の朝に発つ予定だと書き足した。帰る先については記さなかった。商いをしている家だとは聞いていたが、どの街のどの店かまでは知らない。
少年の言葉を記すところで、また筆が遅くなった。何について話していたか尋ねておけばよかったと思いかけたが、それでは少年へ直接問うことになる。聞いた時の状況を添えるほかなかった。
『母親と姉がいる部屋から、少年が「違うよ、龍の意志だよ」と答える声を聞きました。私は隣室で寝具を整えており、質問や、その後の会話は聞いていません』
自分が祖父から聞いたように、あの子も家で教わったのだろうか。そう考えると、何も知らぬ家族を騒ぎへ巻き込んだのではないかと案じていたことまで、見当違いに思えてくる。
行を改め、所見を短く添えた。
『家族との間では、龍の意志について以前から話すことがあったのでしょうか。その言葉で何を言い直そうとしたのか、気に掛かります』
母親と姉の穏やかな様子も書きかけ、筆を置いた。あれは食堂へ向かう途中の姿であって、この言葉を聞いた時の反応ではない。私が見聞きしたことと、そこから考えたことは分けて伝えねばならなかった。
窓の外で荷車の音がし、私は便りを畳んだ。宛先はこれまでと同じ帳場の人にした。ほかの信徒へ広めず返事を待つよう言われたことは、今も守っているつもりだった。
革袋へ封書を添えて荷運びの者に渡した後、私は宿舎へ戻った。食堂の前を通ると、閉じた扉の向こうから母親と姉の笑い声がした。今度は足を止めず、灯りの残る備品室へ向かった。
龍の意志、と私は書いた。聞き取れなかった前後のことは気にしたが、その字を疑うことはなかった。