ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
王女様と一緒に本を読むのは、思っていたより忙しかった。
運ばれてきた調査の記録には、峠から見える山々が見開きいっぱいに描かれていた。遠くの峰には雪が残り、手前の斜面には細い道が続いている。王女様はその道を目で追い、僕は木の影をどう描いているのか確かめたくて本へ顔を寄せたので、途中から金色の髪が視界の半分に入ってきた。
「こちらが峠じゃな。向こうに見えるのは湖か?」
「待ってください。今、字を読んでます」
余白の字が小さいうえに、書いた人も急いでいたらしい。山の名前を読もうとしたのに、途中から明日の食糧の話になった。たぶん、別の行へ移ってしまったのだ。
僕が指で辿り直している横から、ニャンターが地名を読んでくれた。王女様は頷いて次の頁へ手をかける。
「あ、まだ!」
僕の声に、細い指が止まった。
影のついた斜面へ目を戻す。近くで見ると木はほとんど線で、一本ずつ葉を描いているわけではなかった。それなのに少し離せば森に見える。こういうものを真似しようとして、僕は何度も山を黒く塗り潰している。
「何を見つけたのじゃ?」
「木の描き方が気になって」
王女様も顔を近づけたが、すぐに身体を起こした。
「わらわには、普通の木に見えるが」
「木なんですけど」
説明しようとして、うまく言えなかった。僕はまだ線の一本一本を見たかったが、王女様が目指しているのは山の向こうの景色らしい。同じ本を見ていても、行きたい場所が違う。
その頁には紙を一枚挟んで、先へ進むことにした。
山道や岩場の絵に続き、野営地へ入り込んだ生き物の写生が載っていた。食糧袋に顔を突っ込んだ姿が、見つかったところまで描かれている。次の頁で追い払われていたので、王女様は声を立てて笑った。
「食べられておるぞ。描いている場合か!」
僕は少しだけ、その書士の味方をしたくなった。こんな顔をしていたのかと分かった時には、もう描き始めていることがある。袋の持ち主には申し訳ないけれど、後から聞いてもこの姿にはならない。
王女様は絵の背中を指し、毛の膨らみ方が好きだと言った。牙を剝いた頭より、逃げ出す時に丸くなった後ろ姿を何度も見ている。
僕は向かいに座っていた時には聞けなかったことを尋ねた。
「金獅子も、こういうところが好きなんですか」
「こういうところ?」
「毛とか。形とか」
「金獅子はもっと立派じゃぞ」
笑いながら、王女様は肩のあたりへ両手を広げた。大きさを表しているらしい。あの腕を思い出した僕には、王女様が示した幅ではまだ足りない気がした。
毛皮が欲しくなるほど好きだというのは、どんな感じなのだろう。僕もラージャンの姿は格好いいと思うけれど、それを取ってきてもらうとなると、先に狩人の無事が気になる。
「ほかの毛皮では駄目だったんですか」
王女様はすぐに答えず、背後の従者をちらりと見た。その人が本の頁を押さえ直している間に、こちらへ顔を寄せてくる。
「王都の劇場で、金獅子の出る芝居を見たのじゃ」
小声に合わせて僕も身を寄せた。従者にはたぶん全部聞こえているが、黙っていてくれるらしい。
舞台に出てくる少女は、遠い国へ嫁ぐため城を出る。途中で一行が金獅子に襲われ、少女だけが山へ連れ去られてしまう。初めは逃げようとするのだが、金獅子は少女を食べず、夜には洞窟の入口に座ってほかの獣を追い払うのだという。
僕だったら、その背中を見ている間に食欲のほうがなくなる。朝まで無事でも、夕方の空腹を考えると油断できない。
「娘が歌うと、あれほど猛っておった金獅子が静かになるのじゃ。岩の上へ座ってな、首を少し傾ける」
王女様がその仕草を真似た。縦に巻かれた髪まで揺れたので、僕の頭に浮かんでいたラージャンも妙に可愛くなった。まずい。あの腕力を忘れそうになる。
少女と金獅子は山で暮らすうちに心を通わせるが、やがて追ってきた兵に見つかってしまう。金獅子は少女を抱えて逃げ、古い塔へ追い詰められる。最後には少女を安全な場所へ下ろし、自分だけが狩人たちの前へ出るらしかった。
ほぼキングコングだこれ。
途中までは違う話として聞いていたのに、塔が出たあたりで前世の映画が頭を出した。この世界にも、あの大きな手の上へ女の子を載せたい人がいたのか。
王女様は結末を語る時だけ声を落とした。最後に少女が同じ歌を歌っても、もう金獅子は振り返らないという。
僕が黙っていると、王女様は本の角を撫でながら付け足した。
「山へ連れていかれた後の娘は、よく笑うのじゃ。城におった時よりも」
それまでと少し違う声だった。
金獅子の手に載せられて、少女は城から一度も見えなかった谷を見下ろす。王女様はその場面をもう一度話し、どこまで遠くが見えたのかというところでは両手を広げた。
「わらわも、あの高さから山を見てみたい」
僕はつい、金獅子が途中で腕を振った場合を考えてしまった。振り落とされなくても、指へしがみついたまま帰ってくることになる。景色を楽しむ余裕はたぶんない。
「僕は、塔の窓からでいいです」
「おぬし、せっかくなら動くほうがよかろう」
「動くと困ります」
王女様は笑ったが、僕はかなり真剣だった。ラージャンに安全帯をお願いする度胸まで要るのだから、乗る前から難しい。
話を聞いているうちに、どうしても気になることが出てきた。
「舞台の金獅子って、どうなってるんですか」
王女様が目を丸くした。
「どう、とは」
「本物じゃありませんよね。少女を持ち上げる手とか、大きさとか」
「本物を連れてきたら、芝居にならぬわ!」
王女様が笑うと、後ろの従者も口元を緩めた。よかった。そこは王家でも同じだった。
舞台の金獅子は大きな作り物で、中と後ろに人が入るらしい。腕を上げる時には天井から吊った綱も使い、少女を載せる手は別に作ってあるという。王女様は一度見ただけでは満足できず、舞台裏まで案内してもらったそうだ。
「腕を動かす者は、汗だくになっておった。あれを着たまま歌うのかと聞いたら、歌う者はほかにおった」
それはちょっと見たい。
金獅子に襲われるのは御免だけれど、金獅子を作っているところなら話が違う。大きな頭へ角をつけ、黒い毛を貼り、動いた時に口が開く仕組みまで考えるのだ。僕が紙へ描いたものも、そうやって形にできるのだろうか。
「あの毛皮にくるまってみたかったのじゃ。娘がしがみついておった背中と、同じであろう?」
王女様は自分の肩を軽く抱いた。
僕はそこでようやく頷いた。暖かい服なら何でもよかったわけではない。好きな話の中にあったものを、自分の手で触ってみたかったのだ。
家に置いてきた、竜に見える石もそうだった。拾って帰った時に父から何へ使うのか聞かれても、うまく説明できなかった。頭なのだから置いておけばいいと思っていた。
王女様のほうは、その置いておけばいいものを着られるらしい。規模が違う。
「おぬし、金獅子も描けるのか?」
「本を見ながらなら。腕のところが難しいですけど」
そう答えると、王女様は身を乗り出した。
「おぬしでも難しいのか?」
「だいぶ。大きく描こうとすると、肩から拳が生えてるみたいになるので」
あの腕を思い出して少し手を動かしたが、空中では見せられなかった。部屋には図鑑から写している途中の絵がある。ちゃんと形になったものも、肩と拳が仲良くなりすぎたものも。
王女様はそれを見たいと言った。
「描きかけですよ」
「出来上がった絵はもう見た。描いているところも見たいのじゃ」
僕はニャンターを見た。相談したかったのだが、あちらはすぐに返事をくれず、机の本へ目を落としている。
部屋へ王女様を連れていく。
父が聞いたら、最初に椅子の数を心配して、その後で別のことを山ほど心配しそうだ。そもそも僕の部屋は客間ではない。机の上には使った物が置いてあるし、寝台の端には畳みかけの服がある。
「帳面なら、ここへ持ってきます」
「道具も見せてほしいのじゃが。あの細い耳を何で描いたのか、気になっておる」
王女様は従者に預けた絵へ目をやった。ウロコウモリの耳の線だろう。あそこは先を細く削った炭筆で、何度も紙の端へ試し描きをしてから引いた。
そんなところまで見ていたのか。
線の話なら、僕にもいくらかできる。部屋へ持ってきてもらった厚い板があれば、紙を立てたまま二人で見られるし、毛を白く残すために使った端紙も見せられる。
「散らかってるところは、見ないでもらえますか」
「構わぬ。絵を見に行くのじゃから」
あまりに早い返事で、逆に少し不安になった。ニャンターが椅子から下り、僕の顔を確かめる。
「お前が見せたいものを出せばいい。あとは、しまっておけ」
長耳の書士官にも許しをもらうと、帰る刻限までならと従者が頷いた。書士官は途中まで一緒に歩き、王女様へ「続きの写生は取っておきますよ」と声をかけて仕事へ戻っていった。
僕は部屋へ入るなり、机に残していた家族への手紙を畳んで引き出しへ入れた。王女様がまだ敷居を跨いでいる間に、寝台の服も端へ寄せる。母が来た時より急いでいるのは、母ならもう知っているからだ。
「ここで描いておるのか」
王女様は机より先に、壁へ立てかけた大きな板を見た。描きかけの絵を留めてあるのに気づいたらしい。
「それは、まだ触らないでください。炭が落ちるので」
王女様の手が途中で止まった。代わりに少し離れて眺めてくれたので、僕は板を窓からの光が当たるほうへ動かした。
描いてあるのはイャンクックの頭だった。図鑑と、本部に置いてある嘴の標本を見比べて描いている。大きくしたかったのは耳のあたりなのに、調子に乗って嘴まで伸ばしたせいで、紙の端が足りなくなっていた。
「ここから先は」
「まだないです」
王女様は嘴の途切れたところを見て、それから僕を見た。
「可哀想ではないか」
「紙を足すつもりです!」
笑われたので、僕も少し笑った。持ち帰ったものを机に置くたび、イャンクックと目が合って気になっていたのだ。明日には直そう。
机の端で白い頭が動いたが、ウロコウモリは翼の内側へ鼻を戻してしまった。王女様も起こそうとはせず、小さく手を振ると僕の用意した帳面へ向き直った。
見せてよい模写の頁を開き、作業板の前へ置く。金獅子の腕を何度も描いたうち、指まで収まっているものを選んだつもりだったが、王女様はすぐ隣の失敗した絵も見つけた。
「こちらはずいぶん丸いの」
「それは見なくてもいいです」
王女様はその拳を眺めたまま、肩を揺らしていた。僕も人の帳面にこんな絵を見つけたら笑ってしまいそうなので、本を閉じるほど怒れない。
ひとまず、ちゃんと描けたほうの線を指して説明する。肩を大きくするだけではうまくいかず、肘を曲げた時に毛がどちらへ流れるかも気になるのだと話すと、王女様は自分の袖を捲りかけ、護衛の人に咳払いをされた。
そこでやめるのかと思ったら、今度は服の上から肘を曲げている。
「こうか?」
「そうです。そのまま少し待ってください」
丸い肩を描いた横へ、小さな線を足した。王女様の腕を金獅子にするわけではないけれど、曲がる向きが見えると、間違えた場所が分かりやすい。
炭筆を置くと王女様が腕を下ろし、直す前の絵と見比べた。
「おお。さっきより、持ち上げられそうじゃ」
「何をですか」
「娘をじゃ」
まだ芝居の中にいた。
僕は金獅子の手を見た。指を少し曲げ、掌を上に向ければ、人形くらいなら載せられそうだった。
王女様が隣から覗き込む。
「描けるか?」
僕は炭筆を削り直しながら、今度はすぐに頷いた。
* * *
机を挟んでいた椅子は、いつの間にか並んでいた。
金獅子の掌へ小さな人影が描き込まれると、王女がそこへ髪を足してほしいと言う。坊主は一度炭筆を止め、これ以上増やすと頭が重くなると答えたが、結局は細い線を二本ほど加えていた。
俺は扉脇の椅子に腰を下ろし、机より高くなった二人の肩を眺めていた。王女の護衛は反対側に立っている。初めは紙へ向かって身を乗り出すたびに口を開きかけていたが、今は時折、壁の時計を見るくらいだった。
あの護衛も、こうして座っている間は心配が少ないのだろう。少女は誰かに獲物を取りに行かせる話をせず、坊主も見知らぬ龍の名を口にしない。少し前まで王族の挨拶に悩んでいたのが嘘のように、同じ紙を見て笑っている。
王女と御子が会うと聞いた時には、部屋の広さより出入口の数が気になったものだ。実際に必要になったのは、肘がぶつからずに済むだけの机の幅だった。
坊主が消し損ねた線を指で擦り、王女が真似をしかけた。俺が声を出す前に、あいつは別の紙を渡してやっている。王女はそちらで試し、指についた炭を見て少し困った顔をした。
王宮の机では、あまりやらせてもらえない遊びらしい。
「袖へつけるなよ」
俺が布を差し出すと、王女は素直に受け取った。あいつも指を黒くしていたが、慣れたもので、布の汚れていない端を探してから拭いている。
しばらくして、坊主が椅子の上でもぞもぞし始めた。話の途中で一度立ちかけ、また座る。俺が見ると気まずそうに目を寄越した。
「どうした」
「ちょっと、厠へ」
朝から水を飲み、応接室でも茶を飲んでいた。俺が頷くと足早に立ち上がり、王女の「戻ったら続きじゃぞ」に返事をしながら扉へ向かった。
俺は開けた扉から廊下を確かめた。同じ階の突き当たりまで、出入りする部屋はない。角に立つ本部の守衛は顔を知っている男で、こちらの合図に頷いた。
「あそこまで見ていてくれ。戻る時も頼む」
坊主を見送って部屋へ向き直ると、王女の手はもう帳面の端にあった。
残って正解だった。
「本人に聞いてからだ」
王女は指を止めたまま、俺を見た。
「少し前の頁じゃ」
護衛も殿下と声をかけた。二人に言われると渋々手を引き、王女は膝の上へ両手を戻したが、目はまだ帳面に残っていた。戻るまで、ここは俺が預かっておく。
俺が椅子へ戻る前に、王女は袖から出ている指を擦り合わせた。
「この部屋は、応接室より冷えるの」
窓側の机に寄っているためもある。炉へ目をやると、今朝の残り火だけではもう足りない時刻だった。
「火を入れておくか」
俺は暖炉脇の焚き付けの箱を引いた。王女も椅子を離れ、部屋を見回しながらこちらへ来る。護衛が上着をお持ちしますと申し出たが、王女はそこまでではないと答え、小さな炉の扉へ手を伸ばした。
「熱いかもしれん。取っ手だけにしろ」
言い終わる前に扉は開いた。王女が身を屈め、中を覗く。炭の表面は白く、奥へ崩れた灰の上に何かが引っかかっていた。
「紙が残っておるぞ」
俺にも見えた。拳より小さく丸められた紙が、炉の奥の段差へ乗り上げている。手前に火があっても、あそこまでは届かないことがある。
王女は脇に掛けた火ばさみを取り、紙を手前へ転がした。護衛が裾を引くよう声をかけているうちに、端の黒くなった紙玉が炉の縁へ出てくる。もう熱はなかったらしく、王女は火ばさみを置くとそれを拾った。
「捨ててある物だ。戻しておけ」
「何か書いてある」
俺が手を差し出すと、王女は紙を渡しかけて止まった。皺の伸びたところへ目を寄せ、少し首を傾ける。折れ目越しに見える文字は裏返っており、線のところどころが薄かった。
「字があべこべじゃな。暗号でも作っておったのか?」
俺は受け取ろうと一歩寄った。王女は顔を近づけたまま、文字の並びを小さく読み上げる。
「時が来るのを…、待っている…か」
すぐ脇にいる俺へ、ようやく届く声だった。続けて紙を裏返した王女の口元から笑いが消え、その顔を見て俺も手を止めた。
護衛がどうかなさいましたかと尋ねても、返事がない。俺からはまだ紙の面が見えなかったが、腹の底に嫌なものが沈むのを感じた。
ここで紙を奪えば、護衛も中身を確かめずにはいられまい。俺は開いた扉から廊下へ一度目をやり、坊主がまだ戻ってこないのを確かめた。
「少し、外で待っておれ」
王女の声は小さかったが、護衛は姿勢を正した。
「殿下」
「扉の前でよい。呼ぶまで入るでない」
護衛の視線が俺へ移った。俺は頷き、扉の側へ立つ。男は僅かに迷った後で部屋を出た。扉を閉めても、その向こうに人がいる気配は残っていた。
王女は紙を胸元へ寄せ、折れ目の下を指で支えた。声を張らなくなっただけで、急に年かさの相手と向き合っているように感じる。だが、焦げた端へ触れかけた指が一度滑るのを、俺は見逃さなかった。
「おぬしは黒龍を知っておるか?」
その呼び名を聞いた途端、あいつが本部で描いたという黒い龍の話を思い出した。
また描いたのか、あいつは。
人のいない時に何かを描き、火を使っているらしいことには気づいていた。紙を燃やす臭いがした日もある。だが、処分した物を掘り返してまで絵を調べるつもりはなかった。
絵を描いている間くらい、好きにさせてやりたかった。
「伝説ならな。大昔に、大陸へ広く領土を持っていた国を滅ぼした黒い龍だろう」
「おぬしは見たことがあるのか?」
「あるわけがない」
王女はその返事を聞き、僅かに息を吐いた。安堵したのか、当てが外れたのかまでは分からなかった。
「では、これを見てくれぬか」
紙が俺へ向けられた。
描かれていたのは、白い龍だった。
黒い炭で引かれた輪郭の内側に、紙の白さが残っている。角の根元から長い毛が流れ、首を辿った先で翼が開く。身体を包む影は薄く、焼けた縁と指の煤に囲まれたせいで、描かれた姿だけが汚れを免れているように見えた。
頭の角は四本。紙の端で折り返した長い尾の上から、こちらを振り返っている。
神聖と呼ぶべき姿なのかもしれない。だが、その顔を見上げて何かを願う気にはなれなかった。
俺は腰へ伸びかけた手を押さえた。炭の粉も紙の皺も見えているのに、描かれた目を追っていると首の後ろが冷えてくる。兜の下から汗が一筋伝ったところで、俺はようやく視線を外した。
あいつは、この姿を一人で描いたのか。
先ほどまで金獅子の腕を直していた顔が浮かぶ。王女が喜べば少し得意そうにして、失敗した絵はさりげなく帳面の下へ押しやっていた。その同じ手がこれを描き、丸めて炉へ投げた。
「おぬしも、知らぬのじゃな」
「ああ」
俺の声は思ったより低くなった。王女はしばらくこちらを見ていたが、やがて紙を下ろし、絵を自分の側へ向けた。
あの薄い文字は、裏側にあった。
時が来るのを待っている。
あいつが待っているのは、この龍に関わる何かなのか。
あの騒ぎを知っていれば、絵を隠して焼きたくなるのも分かる。俺が確かめたいのは、この姿をどこで知ったのかということだった。
「この紙をどうするつもりだ」
俺が尋ねると、王女はすぐには答えなかった。胸の前にあった手を少し下げ、炉の縁に残る灰へ目を落とす。黒い欠片が一つ、靴のそばまで飛んでいた。
「燃えかすじゃ」
王女は欠片から目を離さずに言った。
「炉を開けたら、燃えかすがあった。それでよい。わらわも、おぬしも、何も見ておらぬ」
扉の向こうで護衛の足が動いた。坊主が戻ったのかと耳を向けたが、廊下を通る者へ道を空けただけらしい。
書士官へ渡すべきかは迷った。だが、わざわざ焼いた絵を突きつけて説明を求めれば、あいつはこの部屋でも落ち着いて描けなくなる。
俺は差し出された紙を受け取った。白い龍を内側にして折ると、かすれた文字が表へ出る。反転した文字の列は紙の縁で途切れ、文の頭に当たる部分が欠けていた。
「ここで見たものを王家に伝える気か?」
紙を持ったまま尋ねると、王女は背筋を伸ばした。
「王家はあやつをまだ御子とは認めておらぬ。であれば、これは御子の託宣ではない」
父王の前でも同じように言うつもりなのだろうか。どこまで通る理屈かは、俺には分からない。ただ、王女があの絵をくだらぬ落書きだと考えていないことは、その顔を見れば分かった。
俺は紙を持ち直し、王女へ向き直った。
「この先を探れば、あいつをどこへ置くか、誰に預けるかって話になる。俺たちの手では止められなくなるぞ」
王女は閉じた扉を見た。
「今日は、あやつと話をしに来たのじゃ」
机の上には、金獅子の掌へ娘を載せた絵が置かれている。炭筆はその横へ転がり、使っていた布が椅子の背に掛かっていた。
俺は折った紙を炉へ置いた。奥へ滑り込ませず、手前の焚き付けに挟む。王女が見ているところで火を起こすと、乾いた木の薄片から紙の端へ炎が移った。
熱で折れ目が開きかけたので、火ばさみで押さえた。白い部分が茶色く縮み、文字の残った面も裏へ巻き込まれる。最後の角が崩れるまで待ってから、細い薪を足した。
王女は自分の指についた煤を眺めていた。さっき炭で汚した時にはあれほど気にしたのに、今は拭こうともしない。俺が布を差し出すと、受け取って一本ずつ擦った。
「外の者を呼ぶぞ」
「うむ」
机へ戻ろうとした王女は、坊主の空いた椅子のそばで足を止めた。並んだ椅子を元の向きへ直すこともせず、背に手を置いている。
廊下の先から、守衛へ礼を言う声が聞こえた。
王女はその声のほうへ顔を向け、俺にだけ届くほどの声で呟いた。
「あやつも存外に自由とは言えぬのかもな」
俺が扉を開けると、坊主は「お待たせしました」と頭を下げ、机へ戻った。続いて王女の護衛も入り、元の場所へ立つ。王女は椅子の背に置いていた手を離し、隣の席へ腰を下ろした。
「わらわも描いてみたい。紙を一枚、もらえるか?」
「いいですよ。金獅子ですか?」
「うむ。あの娘を載せられるくらい、大きいのを描く」
坊主は端紙を一枚出し、短い炭筆を添えた。持つところを教えようとしたが、王女はもう大きな丸を描き始めている。
「腕は、もう少し太くしてもいいと思います」
「待て。今、顔を描いておる」
坊主は口を閉じた。王女は炭筆を持ったまま丸を眺め、そこへ目を二つ足してみたが、今度は自分で吹き出した。
「これは練習じゃ。もう一枚もらうぞ」