ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
王女様から、王都へ来いという手紙が届いた。
最初の一行を読んで紙を少し遠ざけたが、続きには芝居の話が書いてあった。新しく作っていた龍がようやく出来上がったらしい。前に金獅子の仕掛けを見たがっていたのだから、今度は自分の目で見に来るがよい、とのことだった。
龍の名は、鋼龍クシャルダオラ。
遠ざけた紙が戻ってきた。
それは見たい。あの翼をどうやって広げるのか気になるし、身体を金属みたいに見せるところも難しそうだ。絵なら光るところを白く残せばよいけれど、立体をそのとおりに塗ってしまったら、横を向いても同じところが光っていることになる。
そもそも、どのくらい大きいのだろう。
「どうした」
返事を待っていたニャンターに声をかけられ、僕は紙から顔を上げた。
「芝居を観に来ませんかって」
「その先も読め。もう一枚ある」
重なっていたほうには日時や泊まる場所が書かれていた。こちらの字はきれいに揃っていて、王女様の手紙にあった、余白へ追い出された追伸もない。書いた人は紙の終わりを見越して書けるらしい。見習いたい。僕の絵はだいたい尻尾のあたりで間に合わなくなる。
王家が用意する宿に三泊し、ニャンターも一緒に来てよいそうだ。劇場以外の予定は相談して決めるとあり、最後に、保護者と本部の了承を得たうえで返事をしてほしいと添えられていた。
僕はニャンターへ二枚目を渡し、王女様のほうを読み直した。鋼龍が出てくる場面は、前からある芝居に新しく付け足したものらしい。人が龍を見上げて逃げる場面しかなかったところへ、今度は龍のほうも出てくる。
今までは見えない古龍から逃げていたわけか。それなら霞龍のほうが得意そうだけれど、幕の中で皆が大声を出すだけでは、僕もちょっと物足りない。
「行きたいんですけど」
ニャンターが手紙の上からこちらを見た。
「芝居を観るだけなら、いいかなって」
「もう返事を書く顔だな」
僕が机の端へ寄せていた紙を取ると、ニャンターは鼻を鳴らして笑った。手紙を読み終えてから父へ連絡する段取りを話してくれたので、僕は空いた紙の上へ炭筆を置かずに待った。
「でも、門の前にいる人たちは?」
「だいぶ減った。今は新大陸の話でもちきりだ」
海へ出た第五期団の船や、積み込んだ荷物を描いた絵が広場に張り出されているらしい。本部へ来る配達の人も、最近は船が何日で向こうへ着くのか話していた。僕の顔を見て帰るより、そちらのほうが面白いのはよく分かる。船は大きいし、僕は十一歳である。
「残っている奴もいる。出る時刻は外へ話すなよ」
ニャンターは使う門と車の手配を確かめてから、父へ送る手紙を僕の前へ置いた。外へ出るために書く手紙が、いつもの手紙より少し弾んだ字になった。
返事が届くまでの間には、借りていた本を返し、ウロコウモリを預かってもらう人へ餌の場所を見せた。父からは、護衛の指示に従うことと、借りた物はその場で返すことが書かれていた。最後に、母が畳んで入れてくれた上着も着るように、とある。
芝居へ行く前に本を返せたので、そこは少し自慢できると思う。ただし返しに行った先で別の本を開いてしまい、ニャンターに迎えに来られたことは手紙に書かなかった。
招かれたお礼に出来ないかと、鋼龍の絵にも取りかかった。あの名前を聞いて思い出したのは、前世に見た生態ムービーだった。錆びた殻を脱いだ龍が白い翼を広げるところは、何度見直してもきれいだった。
ただ、白く残す身体の周りを描き込んでいたら、そちらにばかり時間がかかった。出発の日にはまだ雲の半分が真っ白で、龍が空へ溶けかけている。続きを宿で描こうと、二枚の板の間へ挟んで荷物へ入れた。
父の返事を見た長耳の書士官も、楽しんでおいでと送り出してくれた。出発の日に着てみた上着は、襟のあたりがいつもの服より落ち着かない。母がいたら、触るから余計に曲がるのだと言われそうだった。
王都までの道は護衛のいる車で進み、着いた晩は案内された宿で休んだ。明日の芝居を楽しみにしていたはずなのに、僕が最初に感動したのは寝台の広さだった。端へ帳面を置いても、まだ寝返りが打てる。
「広いですね」
「紙で埋める前に寝ろよ」
ニャンターは窓の留め具を確かめながら答えた。帳面は一冊しか出していなかったが、少し見透かされた気がして、枕のほうへ寄せておいた。
寝る前に、絵の続きだけ描かせてもらった。残っていた雲へ陰を入れると、龍の翼がようやく空から離れて見えた。下に伏せた抜け殻をもう少し濃くし、紙を離して眺めてからニャンターを呼ぶ。
「これ、明日持っていってもいいかな。王女様へのお礼にしようと思うんだけど」
脱皮する習性は本部の本にも載っていたが、この絵を人へ見せてよいかまでは分からない。ニャンターは机へ寄ると、白い龍より先に、その下へ伏せた黒い殻を見た。
「鋼龍の抜け殻か。俺も一度だけだが、見たことがある」
「本物を?」
「頭の形がそのまま残っていた。お前の絵みたいにな」
ニャンターは殻の角へ指を寄せ、頭から背へ続く線を辿った。
「滅多に見られるもんじゃないが、鋼龍を追ってる龍歴院の連中になら珍しいものでもないだろう。殿下が気に入れば、贈ってやれ」
よかった。薄紙を重ねながら、僕は少し気になっていたことを聞いた。
「見つけた時は、どうしたの?」
「長居せずに離れた。近くに持ち主がいたら、面倒だからな」
僕も賛成である。実物を見て描く練習は、持ち主が帰ってこない標本室でやりたい。板を戻して留め紐を結ぶと、今度はニャンターに呼ばれる前に寝台へ入った。
翌日、劇場へ着いた僕は、入口を間違えたのかと思った。
外からは柱の並んだ立派な正面が見えたのに、車は脇へ回って止まった。そこで待っていた人に案内され、二階への階段を上がっていく。列に並ぶどころか、ほかの客と擦れ違いもしなかった。
分厚い扉の前にいた護衛が頭を下げ、内側へ声をかける。
「殿下、お着きになりました」
「入るがよい!」
聞き覚えのある声が返った。扉が開くと、窓のように大きく片側の壁が抜けた部屋に王女様がいた。向こうに見えるのは外の景色ではなく、何列も並んだ椅子と、その先の赤い幕だった。
ここが王族用の観覧席らしい。
座るところなのに部屋になっている。椅子へ行く前に絨毯を何歩も踏めるし、脇にはお茶の用意まであった。僕の知っている椅子の周りは、もう少し狭く使うものだったはずだ。
「よく来たのう。そこなら翼までよく見えるぞ」
王女様は隣の席を指した。僕は考えてきた挨拶を済ませ、勧められた椅子へ座りかけてから、下の客席をもう一度見た。
「ほかの人は、まだ来てないんですか」
「今日は入れぬ。出来上がってから、わらわも初めて見るのじゃ」
「今日は、僕たちだけ?」
「関係する者は来ておるぞ。あそこにも」
示された先では、帳面を持つ人が中央の通路を歩いていた。前の列に二人座っているが、どちらも舞台へ向かって手を上げ、幕の脇から出てきた人へ何かを伝えている。
ほかの観客を待っているのではなかった。待たれていたのは僕である。
手紙に、芝居を観るだけと書いて返したのを思い出した。王女様と僕とでは、そこの「だけ」に入っている人数がずいぶん違う。
「貸切なんですね」
声が少し小さくなると、王女様は不思議そうに首を傾げた。
「人が多いところは、嫌なのではなかったか?」
それもそうだ。誰かに囲まれるより、隣にニャンターがいるほうがよい。僕が振り向くと、あちらは既に椅子を一つ手前へ寄せ、扉と僕の両方が見えるところへ腰を下ろしていた。
「落ち着いて観ろ。客の分まで働くな」
貸切の分だけ大きく拍手しなければと思ったところだったので、僕は膝の上で両手をほどいた。
王女様が教えてくれた芝居は、山へ薬草を採りに行った妹を兄が捜しに行く話だった。嵐で道が崩れ、途中から狩人も出てくるらしい。王女様は好きな場面でどんな歌が入るのかまで覚えていた。
「金獅子の時みたいな、悲しい話ですか」
「終わりを聞いてから観るつもりか」
「心の準備を」
王女様は口元へ手をやり、笑いを隠すのを諦めてから、今日は手拭いを出さずに済むはずだと言った。それならよかった。幕の前で既に緊張したので、終わりまで悲しいと帰り道で疲れきってしまう。
鐘が鳴り、幕の下から細い光がこぼれた。
客席が空いているぶん、楽器の音がよく響く。朝の山を背に、籠を背負った少女が石の間を跳ねていった。岩は描かれた板なのだろうが、重ねて置いてあるので、道が向こうへ続いているように見える。
兄が妹を呼ぶ歌を聞くうちに、僕も書き割りの継ぎ目を探すのをやめた。上の席まで届く声が舞台の妹には聞こえない。帰ればいいのにと思った頃、灰色の雲が山を横切り、籠を落とした少女の背後で何か大きなものが動いた。
先に見えたのは頭だった。
細く伸びた顔が暗がりから出て、角の縁に白い光が当たる。そのまま首が下がると、肩まで並んだ硬そうな外殻が順に浮かんだ。全部同じ銀色ではない。光の当たらないところは黒に近く、下を向いていた顔が少し持ち上がるだけで、頬のあたりが鈍く光った。
クシャルダオラだ。
紙の上へ何度も描いてきた姿が、目の前で動いている。もっと頭を丸くしたり、脚を短くしたりしてあると思っていたのに、鋼龍は細い首を曲げて少女を見下ろし、その背中から翼を持ち上げた。
畳まれていたものが広がっていく。薄い面に影が渡り、左右へ伸びた先が岩の上を覆ったところで、僕は椅子の肘掛けを握っていることに気づいた。
ちょっと待ってほしい。よく出来ているのと、安心して見ていられるのは別の話だ。
下の少女が逃げ出す。大きな口が開いた時には僕も背を引いたが、鋼龍の頭は舞台の縁へ来る前に止まった。ここまでは来ない。綱がついているし、人も動かしている。まず、その二つをちゃんと思い出したい。
「どうじゃ」
王女様がこちらへ顔を寄せてきた。
「すごいです。あの、思っていたより、ずっと」
ほかの言い方を探したけれど見つからず、僕はもう一度翼を見た。先のほうまでぴんと張りきらず、首が動いた後からわずかに揺れている。あれが全部鉄で出来ているなら、動かしている人の腕が先に取れそうだ。
「学術院の者が見ておるそうじゃ。初めに作った首は、今より太かったらしい」
「そこまで直したんですか」
「絵を持ってきて、何度も話しておったと聞いたぞ」
王女様は得意そうだった。僕も父にこれを見せられたら、出てくる前から隣で待ち構えてしまうと思う。
首を動かすたび、重なった外殻の縁へ細い影が入る。僕が紙へ描いていた線の下には、ちゃんと隙間があるらしい。怖さより、あの下へ手を入れて繋ぎ目を確かめたい気持ちが勝ってきた。
「幕の中、見せてもらえるかな」
思わず言ってからニャンターを見ると、あちらは僕の肩から手を離した。いつから添えられていたのか分からなかった。
「終わってから頼んでみろ。今は座ってろ」
言われる前に立ちかけていたらしい。腰を戻したところへ、舞台の横から狩人が飛び出してきた。
大きな盾を構え、少女と鋼龍の間へ入る。風に押し返されながら一歩ずつ進み、少女へ逃げるよう叫ぶ声はとても格好よかった。
ただ、そこへ立たれると翼の付け根が見えない。
僕が少し横へ傾くと、王女様が肘でこちらをつついた。
「今、ここの台詞がよいのじゃ」
僕は身体を戻して狩人を見た。彼は傷ついた脚で踏みとどまり、山を下りる道を少女へ教えていた。残って戦うと言うかと思ったら、少女が走り出したのを見届けてから自分も後を追う。
それなら僕も応援できる。盾は大きかったけれど、龍の前ではずいぶん小さく見えた。
鋼龍が翼を閉じながら山の奥へ退いていった。僕は幕の陰に角が消えるまで見送り、王女様のほうへ身体を寄せた。
「また出てきますか」
「後にも出る。そんなに気に入ったか」
「はい。翼の動くところを、もう一回見たくて」
王女様は頷き、前へ向き直った。そこからは僕が少し動いても、肘でつつかなかった。
机の上で翼を開くものなら、僕にも作れるだろうか。部屋には既に勝手に翼を開く住人がいるけれど、置く場所は後で考えることにした。
舞台では兄が妹の落とした籠を拾っていた。二人が逃げたほうへ向かい始め、僕もようやく話に追いついたところで幕が下りた。
まだ途中なのに。
「休みじゃ。菓子もあるぞ」
王女様が後ろへ声をかけると、小さな皿が運ばれてきた。僕は幕を見ながら受け取り、口へ入れてからようやく、甘いものを食べていると気づいた。
王都へ来る前には、失礼がないように座っていることを心配していた。今は座って待つのが難しい。
龍を動かす人にも休みは要るのだろう。出来れば、その休んでいるところも見たかった。
* * *
幕間の観覧席で、第三王女殿下が少年へ菓子を勧めていた。少年は一つ食べ、礼を言ってからまた幕を見る。殿下もつられて振り返り、もう少し待つのじゃと笑われた。
王宮で催しの手配を預かる私には、ここまででも陛下へよい報告が出来そうに思えた。殿下は機嫌よく、客人も帰りたがってはいない。何より少年が本部を出る時、車を追う見物人はいなかったと聞いている。
本部の見物人を新大陸の話へ向けたのは、王家の手配だった。招待を相談した折、門前に居座る者たちのことを申し上げると、陛下は少し考えてから仰った。
「第五期団の出航は、もっと広く知らせるべきであろうな」
命を受けた私は、港で確認された船団の様子を絵に起こさせ、公開できる航路や調査の目的を添えて配らせた。版元への費用は王家が持った。大きな船や長い航海が酒場でも話題になり、ほどなく本部から門前の人数が減ったと報せが届いた。
居残った者への警戒は続けている。少年の出発時刻も伏せたまま、迎えの車を出すことになった。
観劇の支度についても、陛下からは指示を受けていた。
「今回は娘の客だ。芝居を観ると聞いて来た者を、余の前へ立たせる必要はない」
私が伺いかけていた謁見の日取りは、その一言でなくなった。王都へ来る理由がようやく出来たからこそ、こちらの都合で埋めてはならぬということだろう。
「娘がまた来いと申した時、あの子が頷けるようにしておけ」
陛下は殿下の手紙へ目を落とされた。新しい龍を見せたいという言葉の脇に、書き足したらしい小さな字が並んでいる。それを読まれた時の口元は、政務の席ではあまり見ないものだった。
その意向に沿い、公開前の上演確認へ二人を招いた。一般の入場は行わず、階下にいるのも劇場の者と監修に携わった学者だけである。劇場側には、招待客の名を表へ掲げることも控えてもらった。
「終わったら、近くで見られますか」
当の少年に尋ねられ、私は舞台の支度を確かめると答えた。ニャンターもこちらを見ていたので、今は綱や重りが出ていることを伝える。
「明日の午前なら、職人の話も聞けるように手配いたしましょう」
「作った時の絵も、見せてもらえますか」
図面のことだろう。私が頷くと少年は殿下へ顔を向けたが、二人が話し出す前に開幕の鐘が鳴った。
後半の芝居では、兄が妹と狩人に追いつく。鋼龍の向かう尾根を避け、三人が古い水路を辿って町へ戻るまで、少年は殿下の隣を動かなかった。龍が姿を現すたびに身を起こすものの、最後には帰ってきた兄妹にも惜しまず拍手を送っていた。
「あの兄、ずいぶん遠くまで捜しに行きましたね」
「行くじゃろう。妹が帰ってこぬのじゃぞ」
「僕だったら、姉のほうが先に見つけに来そうです」
殿下は声を立てて笑われた。明日の見学にも同行したいと仰ったが、午後へ変えたいというお望みだけは、稽古があると従者に止められている。
その後、監修を務めた学者が挨拶に来た。少年がまず尋ねたのは龍の材質で、骨組みは木であると知ると、もう一度舞台を見下ろした。
「金属じゃなかったんだ。近くで見ても、あんなふうに光るんですか」
「塗り方に工夫があります。明日は塗った者にも来てもらいましょう」
学者も少年の反応に顔をほころばせた。実際の姿と舞台の仕掛けを折り合わせるまで、職人とは何度も話し合ったと聞いている。そちらへの関心は喜ばしかったのだろう。
「あの、王女様に絵を描いてきたんです」
少年がニャンターを見ると、護衛は荷物から二枚の板に挟んだ紙を出した。それを少年へ渡しながら、私に声をかける。
「殿下への贈り物だ。開く間、人の出入りを止めてもらえるか」
従者を下がらせて扉を閉めると、学者は勧められた椅子へ腰を下ろした。殿下の護衛は入口に残り、少年が薄い板を卓へ置くのを見ていた。
「わらわにか?」
殿下の声が明るくなった。少年は頷いて上の板と薄紙を外し、殿下へ向けて絵を広げた。学者も隣から、その手元を見ていた。
手前の岩場には、黒い龍が伏せていた。
見覚えのある頭と角は鋼龍のものだろう。動きを失った身体の背が大きく裂け、その奥から、もう一頭の龍が空へ首を伸ばしていた。こちらは白く、広げた両翼が紙の左右へ届くほど大きい。膜を走る細い皺にだけ陰が入り、翼の縁は雲の暗がりを切り裂くように浮かび上がっている。
黒い身体は濃く描き込まれているのに、白い龍には紙の地が残されていた。二つが重なるあたりを見つめていると、色を塗られていないほうから光が出ているように思えた。
鋼龍の身体から魂が抜け出す場面だろうか。劇中の死者を白い衣で表す演出が頭をよぎった時、学者の唇が動いた。
「これ……」
続きは聞こえなかった。学者は少年へ一度目を向けて口を閉じ、絵の裂け目をじっと見ていた。殿下もすぐには感想を仰らず、少し顔を近づけて絵を見ておられた。
「白いところには、何も塗っておらぬのか」
「はい。周りを暗くすると、こっちが明るく見えるので」
少年の指が紙の上を通り、翼の縁で止まった。殿下はそこから雲へ目を移し、ふむと頷かれる。
「わらわがやると、全体が灰色になるのじゃが」
「白いところを、先に決めておくと描きやすいです」
王女様は途中で翼を大きくするから、と少年が付け足した。殿下は少し口を尖らせたものの、描いていると大きくしたくなるのだから仕方あるまい、と返された。
「今日は誘ってくれて、ありがとうございます」
「うむ。わらわの部屋へ飾ろう」
殿下は板ごと絵を受け取られた。少年が嬉しそうに頷く隣で、ニャンターも留め紐を畳んで卓へ置く。
私は菓子の皿を卓の端へよけた。まだ菓子の残っている皿まで遠ざけたのは、あの白い翼の前へ食べかすを置きたくなかったからだ。
「傷めないよう、包んでお持ち帰りいただきます」
私が申し出ると、殿下は頷かれた。絵は手元へ置いたまま、少年へ明日の話をされる。
「翼の仕掛けは、わらわにも教えてくれ。綱の図だけ見せられても、さっぱりなのじゃ」
「途中で分からなくなったら、一緒に聞きましょう。僕も、動くところを見ないと分からないと思います」
「うむ。それなら途中で置いてゆかれる心配はないな」
少年は笑い、明日持ってくる帳面の大きさをニャンターへ尋ねた。大きいものを開いて通路を塞ぐなと言われ、両手で幅を示しながら、それならいつものものにすると決めている。
少年は殿下へ礼を言い、学者にも明日を楽しみにしていると伝えた。車へ乗ってからも窓から手を振り、ニャンターに袖を引かれて中へ戻っていく。
見送りを終えた私が殿下と観覧席へ戻ると、学者はまだ絵の前にいた。二人を見るなり立ち上がり、殿下へ向き直る。
「殿下。先ほどの絵を、後日、写しに取らせていただけませんか」
舞台の塗装を説明していた時とは違い、一語ずつ選んでいるような声だった。
「あの絵をか。鋼龍の絵なら、学術院にもあるじゃろう」
「この姿は、ございません」
殿下は卓へ戻られた。私も包みの支度をしていた者をいったん下がらせ、学者の説明を聞いた。
黒い龍に見えたものは、脱ぎ捨てられた殻だった。
鋼龍が殻を脱ぐこと自体は、見つかった抜け殻から分かっている。しかし脱いだばかりの身体は身を守る硬さを備えておらず、その間は人里離れた場所へ籠ると考えられているという。脱皮の瞬間を捉えた確かな記録は、彼の知る限り残っていなかった。
「実際に見た者は、おらぬのか」
「近づけた者がいたとしても、眺めて帰れるとは思えません」
学者は殻の裂け目を示した。既に調べられた抜け殻と比べても、割れる場所や翼の収まり方に無理がない。それでも、この姿のすべてを正しいと保証することは出来ないと言った。
私は白い龍へ目を戻した。
こちらへ向けた威嚇の姿ではなかった。龍は割れた殻から身を起こし、新しい翼を空へ伸ばしている。絵を見る者は殻のすぐ手前に立ち、その柔らかな身体を下から見上げていた。
隠れて覗くには、近すぎる。
学者が口を開きかけてやめた理由を、私はそこでようやく察した。本人へ尋ねれば、この距離から龍を見られる理由まで聞くことになる。
人を寄せつけぬ龍も、あの子なら追い払わないのだろうか。
そう考え、すぐ、空想で描いた可能性もあると思い直した。だが、門前に人を集めた噂を、今までと同じ遠さから眺めることは出来そうになかった。人の入れぬ場所へ自分だけ通されたようで、紙に置かれた白さを見続けるのがためらわれた。
「どうして、あやつには聞かなかった」
殿下の問いに、学者は目を伏せた。
「殿下への贈り物です。ここで出所を問い始めれば、絵を持ってきたことまで後悔させるかもしれません」
まずは抜け殻の記録と照合したいという学者に、殿下は絵の載った板を少し引き寄せられた。
「写しならよいが、これはわらわがもらったものじゃぞ」
「原本は殿下のお手元に。写す間だけ、拝見させていただければ」
「では、描ける者を手配させよう」
「私に描かせてください」
返事は殿下が私へ顔を向けるより早かった。学者は一礼したものの、すぐに言葉を継いだ。
「この線を、自分の手で追いたいのです」
「そなたがか。分かった。あやつにも聞いておこう。写すのは返事をもらってからじゃ」
学者は深く頭を下げた。殿下は包みを整えるよう私へ頼まれた。
贈答の記録へ筆を下ろそうとして、何と書くべきか迷った。鋼龍の絵、と記して済むものだろうか。
殿下は筆が止まっているのに気づき、私を見られた。
「芝居に招いた礼じゃ。そう書けばよかろう」
「承知いたしました」
私は教えられたとおりに記した。学者も異を唱えず、絵の隅へ薄紙が掛かるまで見届けていた。
包みを抱えた殿下は、明日は自分の帳面も持ってこようと仰った。白く残すところを決めてから翼を描いてみるのだという。
「大きい帳面を用意させておけ。途中で翼を縮めるのは嫌じゃ」
先ほど少年に指摘されたことも、殿下の中では紙のほうを変えれば済むらしい。私は新しい帳面の手配だけは、迷わず引き受けた。