ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
昨日の鋼龍は、今朝は顎の下に棒をつっかえられていた。
口を半分開いたまま首を伸ばし、お腹の横には梯子まで掛かっている。その上に立った人が背中へ腕を突っ込んでいたので僕は入口で足を止めた。舞台の上ならあの人はもう助からない場面だ。
今は、あそこまで上がったら翼の裏も見えるのかなと思っている。
「梯子には上がるなよ」
隣から声がして、僕はニャンターを見た。
「まだ何も頼んでません」
ニャンターは返事の代わりに僕の帳面を指で軽く叩いた。今日はそれで我慢しろということらしい。下からでも首が痛くなる高さなので、言われなくても上るかどうかは随分迷ったと思う。
劇場へ入る前に、この人は迎えの衛兵から一通の封書を受け取っていた。ギルドから預かったものだそうで、その場で目を通してから懐へ入れている。何が書いてあるのかは教えてくれなかったが、僕が入ってよい扉は昨日より厳しく選ばれている気がした。
通されたのは舞台の脇にある広い作業場だった。鋼龍は昨日の山から下り、身体を支える台ごと幕の後ろへ引き込まれている。客席からは見えなかった綱が梁へ伸びている。その下に並ぶ仕事台には張り替え用の布や塗料の壺が載っていた。
床の綱を跨ごうとしたところで、王女様の声がした。
「そちらではない。こっちから通れるぞ」
顔を上げると王女様は通路の向こうで待っていた。腕には僕のものより一回り大きな帳面を抱えている。隣の従者が持とうとしても渡さず、僕のところまで来てから表紙を開いてみせた。
「これなら翼も収まるじゃろう」
「大きいですね」
羨ましくなって近づいたが、開いた帳面は王女様の腕から左右へはみ出していた。真ん中を支えると端が下がり、端を持つと今度は真ん中が落ち込む。しばらく格闘した末に王女様は従者へ片側を差し出した。
「少し持っておれ」
僕も自分の帳面を開いてみた。小さいけれど一人で持てるので、さっきほど羨ましくなくなった。
職人の人が手を洗ってくる間、王女様は帳面を閉じて僕へ顔を寄せた。
「昨日の絵じゃが、学術院の者が写したいと申しておる。よいか?」
「いいですよ。あの人も絵を描くんですね」
「自分で写したいそうじゃ。原本はわらわのところへ置くと約束させたぞ」
僕は頷いた。好きな絵を自分でも描いてみたいという気持ちならよく分かる。前の人生ではそうやって何冊も帳面を埋めたし、今も本部の本を読んでいると文章の続きを忘れて挿絵を写してしまうことがある。
「出来たら、僕も見たいです」
「伝えておこう」
王女様は従者に返事を頼んだ。昨日の学者は今日は学術院へ戻っているそうで、代わりに鋼龍を作った人が案内してくれることになっている。
その人は袖を肘までまくり、爪の際に残った灰色を拭きながら戻ってきた。
「お待たせしました。どこから御覧になりますか」
「翼を。あと、どうやって鉄みたいに塗ったのかも知りたいです」
言い終わる前に鋼龍を見てしまった僕へ、職人の人は笑って仕事台を示した。塗った板を近くで見せてくれるらしい。
台の上にあったのは鋼龍の身体から一枚だけ剥がしたような板だった。裏へ返してもらうと木目が見える。表側にはそれがなく、薄い縁をつまんで持ち上げた時にさえ金属に見えた。
触ってよいと言われて指を当ててみても、鉄のようにひんやりとはしなかった。
「全部、同じ色じゃないんですね」
「ここを見てごらん」
職人の指が板の端をなぞった。暗い色の上へ明るい色が細く重ねられ、へこんだところには黒が残されている。顔を寄せると筆の跡が分かるのに、少し離れれば固そうな表面へ戻ってしまった。
僕が一歩下がってはまた近づく間も、職人の人は板の向きを変えずに待ってくれた。
「昨日あんなに光っていたのは、これですか」
「舞台の灯りも使うよ。ここで綺麗でも、席から見えなければ塗り直しだ」
「これ、帳面に描いてもいいですか」
職人は頷いて板を立てかけ直してくれた。ニャンターも仕事台の端へ僕の荷物を置いてくれたので炭筆を取り出す。
白く光る縁を残して周りへ色を入れる。紙の上なら何度もやったことなのに、厚みのある板へ塗られるとどこまでが本当の影なのか分からなくなる。顔を横へ動かして確かめていると王女様も隣から同じところを覗いてきた。
「わらわの部屋へ置くものにも、この塗り方は使えるのか」
「置かれる場所の明るさに合わせれば」
「ふむ。金獅子も作れそうじゃな」
僕の炭筆が止まった。
金獅子、ラージャン。王女様が好きな芝居に出てきたあの大きな獣である。外套の毛皮まで欲しがったことを思い出して、僕は板から王女様へ顔を向けた。
「部屋に置くんですか」
「このくらいなら邪魔にならぬじゃろう。顔も、もう少し優しく作らせればよい」
両手で示した幅は僕が思っていたより大きかった。あれを机へ置いたら僕の帳面は膝へ追い出される。もっとも王女様の机を心配する必要はなさそうだった。今日の帳面だけでも僕のものよりずっと広い。
心配すべきは毛のほうである。
どうかまたラージャンの素材を集める話になりませんように。模型が小さくなったからといって、素材を持っているほうまで小さくなるわけではない。
「小さい金獅子も、本物の毛を使わずに作れるんですか」
職人へ尋ねると木へ細かく彫り目を入れて色を塗るのだと教えてくれた。舞台の大きな獣なら布なども使うが、手に取る大きさのものは別の職人が得意にしているらしい。
「では、いつもの職人に聞いてみようかのう。腕も動くように出来ればよいが」
王女様は従者を見た。すぐに注文を出すつもりかと思ったが、従者から先に部屋の棚を確かめようと勧められて考え込んでいる。
毛皮が要らないと分かって満足した僕は、その間に板の絵へ戻った。模型一つでこんなにほっとするとは思わなかった。
「それをお返しするなら、こちらへ置いてください」
仕事台の向こうで声がした。見本の板ではなく、職人が脇へ寄せた布の束へ向けた言葉だった。
入口寄りの台には帳面を広げた男の人が立っていた。そばの若い職人が量った布の長さを書き留めている。初めからいたのだろうが、僕は鋼龍の腹ばかり見ていたので気づかなかった。
案内してくれていた職人が、王女様へその人の仕事を説明した。
「今回使った布や塗料は、こちらの商隊に揃えてもらいました。今日は残りを引き取ってもらう日でして」
商隊の名も続けて教えられたが、父の店で聞いたことがあるかまでは思い出せなかった。ニャンターはそちらを見ると仕事台の角から僕の隣へ移ってきた。
男の人は筆を置いて王女様へ礼をした。袖口は擦れていたが汚れてはおらず、指にはインクの染みがあった。
「昨日の芝居は、お楽しみいただけましたか」
「よい出来であったぞ。こやつなど、龍が幕へ戻るのを惜しんでおった」
王女様に示され、僕も慌てて頷いた。
「すごかったです。身体も鉄だと思っていました」
男の人は職人へ顔を向けて、あの塗り直しが報われましたねと言った。職人は肩をすくめたが、仕事台へ戻す板を少し丁寧に持ち直している。
父の店でも荷を運んできた人と父がこんな話をすることがあった。売ったものがどう使われたか聞けると次に仕入れる品も考えやすいらしい。
「翼も気に入られましたか」
男の人に尋ねられて僕は帳面を閉じた。
「はい。今から動かすところを見せてもらいます」
「それでしたら、こちらを片づけましょう」
男の人が布の束を抱えて通り道を空けてくれた。ニャンターが先に進み、王女様と僕は職人の後について鋼龍の脇へ回った。
男の人は入口寄りへ戻り、残りの品を確かめる若い職人を待っていた。
鋼龍の横腹は一部分だけ外してあった。
中には木が斜めに組まれ、その隙間を綱が通っている。昨日見ていた銀色の身体の中にこれだけ人の仕事が隠れていたのかと思うと、外側を眺めていた時より顔が近づいてしまった。
「ここまでなら触っていいよ。綱と車には指を入れないで」
職人が示した木へ触れてみると表面は滑らかだった。綱に擦れるところが削れないよう別の部品を当ててあるのだという。頷きながら聞いたものの、次に示された綱を目で追ったら途中で見失った。
図面も見せてもらったが、開けば急に分かるというものでもなかった。重なる線のあちこちに小さな印がついている。翼の形なら描けそうなのに、動かすための線になると一本目からよく分からない。
「そなた、分かったか?」
王女様に小声で聞かれ、僕も声を落とした。
「今どの線を見ているか分からなくなりました」
「わらわもじゃ」
職人には聞こえていたらしく図面を脇へよけてくれた。上で働いていた人が下りて梯子を外すと、鋼龍の周りへ何人か集まってくる。
顎を支えていた棒が抜かれ、首がゆっくり持ち上がった。
僕は木から手を離した。中身を見たばかりなのに顔が動くと少し怖い。今日は裏側を知ったので平気になる予定だったのだが、鋼龍の顔は僕の予定を待ってくれなかった。
「少し動かしてみるかい」
職人に聞かれて綱を見た後、僕はニャンターを振り返った。
ニャンターは職人へ何か確かめてから僕を床の白い線の手前へ連れてきた。ここから先へ足を出さないよう言われ、ようやく綱を持たせてもらえる。
太くて少しざらざらしていた。これを引けばあの翼が動くのだ。
僕が持ったところのすぐ上を職人も握り、反対側にいる人へ声をかける。首を動かすほうを見ていた王女様も、僕が綱を持つと自分もやりたいと申し出た。
「まだ引かないで。向こうで緩めてからだよ」
言われて鋼龍の身体の向こうを見ると、別の人も綱を持ってこちらの合図を待っていた。
「翼が閉じていく時に、こっちの綱を引っ張ったらどうなるんですか」
「継ぎ目を傷めるね。無理に引けば、あっちで持っている奴も足を取られる」
「えっ。あの人も?」
向こうの人が笑って片手を上げた。手を振り返しかけたが、今は綱を持っていることを思い出して頷く。
龍を動かすつもりでおじさんを転ばせるところだった。仕掛けの向こうにいる人まで僕には見えていなかったので、先に聞いてよかった。
「じゃあ、合図があるまで待ちます」
「うん。合図したら、ゆっくりこっちへ引こう」
職人の手に合わせて綱を引くと、畳まれていた翼が持ち上がった。
思っていたほど重くない。職人の手や上へ吊った重りも助けてくれているのだろう。それでも手元を少し動かすたびにあの大きな翼が開いていくのは面白かった。
途中で止めてもらって広がった膜を見上げた。昨日は暗がりへ消えていた翼の端まで見える。あそこに細い骨が入っているから布が全部同じように垂れないのか。
今すぐ描きたいのに、僕の両手は使用中だった。
「こちらへ顔を向けるのか?」
王女様が別の職人へ尋ねる声がした。
次の瞬間、翼を広げた鋼龍がこちらへ深々と頭を下げた。
僕は口を閉じた。閉じたのに、少し息が漏れた。
とても礼儀正しいクシャルダオラだった。
「笑うでない。今のは、どこまで下がるか確かめたのじゃ」
王女様はそう言いながら職人の手元をもう一度見ている。僕も綱を戻す合図を待たなければならず、いつまでも笑ってはいられなかった。
二度目は首が上がるのに合わせて翼を広げた。目の前で大きな影が伸び、僕が手を止めると職人もそこで支えてくれる。
「出来たぞ」
王女様の声に頷いたところで、背中のほうから控えめな拍手が聞こえた。布を量っていた若い職人だった。僕は少し恥ずかしくなって頭を下げたが、王女様は嬉しそうに鋼龍を見上げていた。
昨日の舞台では綱を持つ人は一人も見えなかった。狩人の役の人が立つ場所まで決まっているそうで、龍の顔を向けるための合図も台詞の途中にあるのだという。
昨日は翼を隠すところへ立つなと思ってしまったので、少し申し訳なかった。
綱を返した後、仕事台へ戻って帳面を開いた。
描きたかったのは翼の裏だったが、下で綱を持つ人も描き入れたくなった。こちらに見えない場所で手を上げていた人と、僕の上から綱を握ってくれた人。その間を綱で繋ぐと鋼龍のお腹の下がずいぶん賑やかになる。
ニャンターが隣から覗いて帳面の端を押さえてくれた。空いた手で紙を平らにしながら暗いところへ線を足していく。
「翼の図は描けたか」
「まだ。こっちの人の手が分からなくなっちゃった」
顔を上げると向こうでその人が道具を片づけていた。手を描こうとして眺めていることに気づかれ、綱を持っていた格好をしてくれる。僕は慌てて礼を言って姿勢が変わらないうちに描き足した。
「わらわも入れておくがよい。首を動かしたのじゃぞ」
王女様が帳面を覗き込んで空いたところを指さした。自分の帳面は仕事台の端で従者に支えられている。そちらにも鋼龍の顔を描いていたが、また角が少し紙から出そうになっていた。
今は指摘しないでおこう。紙のほうを増やされても、僕には持てない。
王女様の立っていた場所を描き入れると、横から見た職人が自分の背中はそんなに曲がっていたかと笑った。直そうとしたが綱を持つ時はそうなるらしく、そのままにしておくよう言われた。
笑った職人の目が細くなったので、そちらも描き足した。王女様は少し顎を上げた顔になったが、翼が動いた時の得意そうな顔を思い出すとちょうどよかった。
龍の下にいる人たちが妙に楽しそうな絵になった。昨日見た芝居では皆が逃げていたのに、今日は誰も逃げる気がない。
紙へ陰を足していると、さっきの男の人が職人へ帰りの挨拶をしていた。こちらにも何か言いかけて口を閉じ、なぜか最初よりずっと深く頭を下げる。王女様への挨拶だと思った僕は邪魔にならないよう横へよけた。
ところが顔を上げた男の人はこっちを見ていた。僕にも挨拶してくれていたらしい。慌てて頭を下げると、あちらはまた丁寧に礼をして帰っていった。
最後に見せてもらったのは塗り直す前の鋼龍を描いた絵だった。首が少し太くて翼も今より小さい。その脇に何本も線が足され、別の色で書き込みがしてある。
僕にはこちらのほうが図面より分かりやすかった。作る人が見ては隣へ書き足した跡があり、最初の絵からどう変わったのかも追える。
「これも、少し写していいですか」
頼むと職人は椅子を一つ寄せてくれた。王女様も隣へ座ると、金獅子ならどんな顔がよいかと自分の帳面を開いた。
しばらくして従者が近づいてきた時、王女様は何か言われる前に窓を見た。
「もう、そんな時刻か」
午後には稽古がある。少し口を尖らせてから帳面を閉じ、僕へ明日も見せるよう言った。金獅子の顔はまだ決まらなかったらしく、次に会う時には芝居のどの場面がよかったかも教えてくれるそうだ。
職人たちへ礼を言って作業場を出る前に、僕はもう一度鋼龍を振り返った。
首はまた支えに載せられていた。それでも翼の下に誰が立つのか知っていると、昨日より少し親しみが持てる。
「楽しかったです」
隣のニャンターへ言うと僕の手を見下ろされた。いつの間にか炭の粉が指から袖へ移っていたらしく、渡された布で拭いたら灰色の筋が増えた。
「絵もいっぱい描けたし」
「袖は宿で洗うぞ」
僕は頷いて帳面を抱え直した。帰ったら父へ龍の翼を動かしたと書こう。驚くだろうから、木で出来た龍だということは同じ行へ入れておこうと思った。
* * *
劇場を出てからも綱を持つ少年の手が目に残っていた。
私は荷車へ乗る前に帳面を開いて受領の印を確かめ直した。用事は滞りなく済んでいる。少年へ差し出そうと考えた誘いの言葉だけが使われずに残った。
商隊がこの劇場へ布や塗料を納めるようになったのは、私が御子の噂を追い始めるより前だった。今回は仕入れの用事に合わせて余った布を引き取る約束になっていた。王女が誰を招いたのかまでは聞かされておらず、今朝も帳面を持って受け取りに来たにすぎない。
入口では顔見知りの職人がいても用件を確かめられ、荷運びの者は外で待つよう命じられた。私が作業場へ通されたのは返す品の数をその場で確認する必要があったからである。
その仕事台から武装したアイルーを伴う少年が入ってくるのを見た。
本部からの便りにあった護衛の姿に、王女と過ごすという噂が重なった。少年が炭筆を取り出した時にはもう別人を考える余地はなかった。
ようやく会えたと思った私をよそに、あの子は塗った板へ顔を近づけたり遠ざけたりしていた。紹介されれば礼儀正しく頭を下げたが、話が翼の仕掛けへ移るとそちらへ行ってもよいかと護衛を見上げる。会うまでに幾つも考えていた問いを私は一つも使わずに済ませた。
絵師の仕事場を紹介すれば喜ばれるだろう。商いを通じて頼める相手はいる。ああいう顔をしてくれるものを少しずつ知っていけば、次は私と会うことも楽しみにしてもらえるかもしれなかった。
ただ、隣へ移ったニャンターは私の動きも見ていた。布の束をよけて通路へ出ると戸口の衛兵が半歩こちらへ寄り、仕事台へ戻れば衛兵も足を止める。品の受け取りを済ませるまではここに置いて目を離さぬつもりなのだろう。
ニャンターが位置を変えたのは職人が商隊の名を告げた直後で、こちらの挨拶を聞くより早かった。王都へ入る手前の荷溜まりでも本部の街にいた荷運びの男に似た者を見かけている。若い者の持ち損ねた箱へ肩を入れて積み直すよう声をかけていたが、あれほど働ける男の行く先が続けて私と重なることは気にかかった。
あの男が私を見ているなら今日の訪問も知られているだろう。取引の帳面を調べられて困ることはないが、こちらから少年のそばへ行くのは控えたほうがよさそうだった。
少年へ近づくためには護衛からの信用も要る。今日の対面で急ぐ必要はなかった。
そう考えて布を畳み直していたところへ、綱を持った少年の声が届いた。
「翼が閉じていく時に、こっちの綱を引っ張ったらどうなるんですか」
職人の答えを聞くうちに手にしていた布の端が床へ落ちた。継ぎ目を傷め、反対側で支える者まで足を取られるという説明は、初めて綱を持つ者へするものとして何もおかしくない。少年も驚いた顔で鋼龍の身体の向こうを見ていた。
私は布を拾い上げたが、今度は端が揃わなくなった。
御子を迎えれば龍の意志を知る道が開ける。教団でそう語る者は多い。私もあの子が我らのもとで安心して暮らせるなら、それが最もよいと考えていた。
本人が望む暮らしを整え、家族の商いを助ける。無理に連れ出そうとする者は諫めてきたが、私が差し出そうとしていたものも最後にはこちらへ来てもらうためのものだった。
あの手をこちらへ引けば龍もついてくると思ってはいなかったか。
少年は職人の合図を待ってから綱を引き、広がる翼の端を見上げた。横では王女も別の綱を操り、やがて鋼龍が深々と頭を下げた。
二人が笑っている間も私は帳面に挟んだ絵師の名を思い出していた。少年を誘う口実にしようと大切に書き留めたものだった。
耳にはその少し前の少年の声が残っていた。継ぎ目が壊れると聞いた時よりも、向こう側の者まで足を取られると聞いた時にあの子は強く反応していた。
「えっ。あの人も?」
その声を思い返すうちに、あの彩鳥の絵と今日の問いが繋がる気がした。
街道で救われた者の中には私もいる。あの絵を端緒に危険が知られて人が通る道を変えた。御子が怪物を退けたわけでも、我々の荷だけを守ったわけでもない。竜の行く手から人が退くよう知らせが届いたのである。
あの子が教えるのは龍を従わせる術ではなく、人が手を離すべき時なのかもしれない。そう考えると先ほど職人の口から聞いた言葉まで、こちらへ向けられたもののように残った。御子を求めて無理に綱を引けば私には見えていない者まで巻き込むことになる。
綱の向こう側に立つ職人はもう仕事へ戻っていた。
「こちらもお願いします」
差し出された帳面の数を確かめて印をつけると、若い職人は布を抱えて外へ運んでいった。通り道を空けるために顔を上げたところで仕事台へ戻った少年が見えた。
少年の前には帳面が開かれ、綱を持っていた男が先ほどと同じ格好をしていた。こちらから絵は見えないが、少年が男の手と紙を交互に見ていることは分かる。ニャンターも帳面の端を押さえて描き終えるのを待っていた。
「わらわも入れておくがよい。首を動かしたのじゃぞ」
王女がそう言って指を差すと、少年は先ほどまで彼女が立っていたほうへ顔を向けた。
私の頭には綱を持つ手が龍の下へ並んだ絵が浮かんでいた。王族の手もそこにある。舞台では隠されていたものを御子は一枚の紙へ表そうとしているのではないか。見えない紙へ目を凝らすうちに、自分の手までそこへ描かれるような気がしてきた。
職人が紹介したのは商隊の名だけで、少年が教団の動きを知る証拠などない。それでも私が何を求めて近づこうとしているかは見抜かれたように思えた。あの問いは答えを知らぬから出たのではなく、私にも分かる形で職人に語らせるためだったのではないか。
背の翼も私が願って見せられたものではなかった。医務室へ用のあった者が目にして便りで知らせてきた。今朝の対面もこちらで整えたものではない。
聞くべき場所へ導かれた者が聞きたいことだけを選んで帰ってよいはずがなかった。
少年は何か描き直しているらしく紙へ顔を寄せていた。私は絵師の名を口にする機会をうかがうのをやめた。誘いを告げる前から、なぜ応じられないかを聞かされたような気がしていた。
職人へ挨拶を済ませてから少年へ向き直った。思わず御子と呼びかけそうになったが、言葉を飲み込んで頭を下げる。
顔を上げると少年は半歩横へ移っていた。遅れて返された会釈へもう一度礼をし、仕事台を離れた。
荷車が動き出しても絵師の工房の場所を書いた紙を捨てる気にはなれなかった。本人が行きたいと言う日が来れば役に立つ。私がその案内役になりたいという望みもまだ消えてはいなかった。
ただ、それを差し出せば次は我らの願いを聞いてくれると思ってはならないのだろう。
宿へ戻ると教団へ送る報告に今日の対面を加えた。少年が何を問い、職人が何と答えたかを記してから、私の受け取り方を所見へ分けた。あの子が口にしなかった言葉を託宣として伝えることは出来ない。
それでも記し終えたものは当初送るつもりだった便りとは違っていた。
『御子を迎えることと、龍の意志を我らの側へ招くことを同じにしてはならない。私は今日その誤りを示されたと受け止めている』
少年が職人の手元を写していたことと、王女が自分も描くよう求めたことを記した。絵そのものは見ていない。その断りを添えても私の受け取った戒めは変わらなかった。
会えたのになぜ誘わなかったのかと返事には問われるだろう。ここで迎えの支度を急がせれば、私の報告こそあの子が危ぶんだ手の一つになってしまう。
『こちらの望みは既に御子へ伝わっていると考える。迎えの支度を進めず、私からの次の知らせを待ってほしい』
そこまで書いてからもう一度初めの行へ目を戻した。
少年に尋ねられたことは一つもない。それでも私はあの子へ何かを答えた後のような疲れを覚えていた。
次に会う時は絵の話をしたい。そのために、今日示されたことを取り違えずに伝えなければならなかった。