ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
骨は襲ってこない。
標本室へ向かう朝、僕はその当たり前の事実を、心の中で何度も確かめていた。
昨日、想像の龍を一頭描いただけで扉を閉められ、古い記録と似ているという理由で滞在まで延びた。これから何を聞かれるのかは分からないが、少なくとも、標本室にあるものはすでに死んでいる。爪が鋭くても、牙が僕の腕より長くても、硝子箱や台座から飛び出してくることはない。
生きている竜より、死んでいる骨のほうが安全である。
こう書くと、ずいぶんひどいことを言っているようだが、竜が死んでいて嬉しいわけではない。生き物の姿や生態を知るのは好きである。僕と相手の間に、丈夫な壁か十分な距離さえあればよい。
理想を言えば、分厚い本越しなら更に良い。
宿舎の前で、昨日、指先に黒い絵具をつけていた女の人から見学の注意を聞き終えたところへ、僕の絵を止めた長耳の竜人族が現れた。
女の人だけが案内するものと思っていたので、僕は少し身構えた。
父も同じだったらしい。僕より半歩先へ出て、二人に朝の挨拶を返した。
「本日の見学には、ワシも同行する」
長耳の竜人族が言った。
昨日より声は穏やかだったが、僕の黒い龍について考えることを一晩中やめていなかったような顔をしている。女の人から、この人は本部の古い記録を預かる書士官なのだと紹介された。
標本には触れず、案内から離れないことをもう一度約束し、僕は帳面と炭筆を持ち直した。
父は、僕が何か余計なものを描き始めないよう見張るためか、空いた手をこちらへ差し出した。十一歳にもなって手を繋ぐ必要はないと思ったが、拒める状況でもない。僕はおとなしく父の手を取った。
宿舎から標本室までの廊下では、昨日より多くの人とすれ違う。そのうち何人かが、遠巻きに僕を見ていた。
最初は、客用宿舎から出てきた子供が珍しいのだろうと思った。二人目までは気にしなかった。三人目が僕を見るなり抱えていた紙束を落とし、四人目が道を譲るというより壁へ張りつくように退いたところで、さすがに何かがおかしいと気づいた。
「僕の顔に炭がついてる?」
父に聞くと、額から頬まで確かめられた。
「ついていない」
「じゃあ、どうして見られるんだろう」
「昨日の絵が、もう噂になっているのかもしれない」
父の声は低くなった。
先を歩いていた女の人の肩が、わずかに動いた。振り返らなかったので顔は見えない。
書士官は立ち止まり、廊下にいた人たちを見渡した。それだけで、こちらを窺っていた視線は一斉に紙や床へ戻った。
「外へ漏らすなとは命じた」
「本部の外には、という意味でしょうか」
父が尋ねた。
書士官はすぐに答えなかった。
僕は、黒い龍の絵を見た人たちが、変わった絵を描く子供が来たと誰かへ話したのだろうと考えた。絵が褒められるのは嬉しいが、描きかけの状態で知られるのは少し困る。せめて翼膜まで仕上げた後にしてほしかった。
それ以上は話さないまま、僕たちは階段を下り、石造りの渡り廊下を通った。窓の外には、中庭へ運び込まれる木箱と、大きな布に包まれた何かが見える。風向きが変わるたび、薬品と乾いた皮の匂いが流れてきた。
標本室の扉は、宿舎のものよりずっと大きかった。
書士官が金属の札を見せると、扉の横にいた管理役が二本の閂を外した。重い扉が内側へ開き、冷えた空気と、木と薬品の匂いが押し寄せてくる。
僕は、父の手を離しかけた。
父は離さなかった。
室内は、標本室という言葉から想像していたより広かった。天井は二階分ほども高く、梁から大小の骨格が吊られている。壁際の棚には頭骨や角、爪、鱗が並び、中央の作業台では白い外套を着た人たちが、小さな骨片へ番号札をつけていた。
鳥竜種らしき細い脚。飛竜種の翼を支える長い骨。人の背丈より大きな牙獣の頭骨。奥には硝子の筒が並び、液体の中へ何かの臓器らしきものが沈んでいる。
見たいものが多すぎて、目が足りなかった。
「走らない」
父が先に言った。
「走らないよ」
「勝手に触らない」
「触らない」
「案内から離れない」
「分かってる」
母から聞いた注意より一つ増えていたが、今は反論している時間さえ惜しかった。
「昨日見た骨は、どこですか」
僕が尋ねると、指に絵具のついた女の人が、さらに奥の扉を示した。
「運び込まれた骨は、まだ洗浄と確認の途中です。いきなり作業中のものを見るより、先に比較用の標本を見てもらいます」
「同じ種類ですか」
「その可能性が高いと考えられています」
可能性が高い。
つまり、本部へ着いた日に見た骨はまだ種類まで確定していないのだろう。書士隊の人たちが何を比べ、どこから同じ種類だと判断するのかを見られるなら、完成した標本を見るだけより面白い。
僕は自然に歩く速度を上げ、父に腕を引かれて元へ戻された。
標本室の奥は、巨大な骨格を立てたまま保管する場所になっていた。
最初の区画には、大きな飛竜の骨格が翼を半ば広げて立っている。骨だけになっても、翼の端は僕が両腕を広げた幅よりはるかに長い。頭骨の上には突起があり、顎には大小の牙が並んでいた。
僕は足を止めずに通り過ぎた。
見覚えがなかったからである。
次は、太い四肢と大きな牙を持つ獣の骨だった。さらに奥には、翼の代わりに発達した前脚を持つものがいる。どれも、前世の設定資料に載っていた何かと似ているようで、はっきりとは分からなかった。
似ているだけなら、いくらでも説明できる。
大きな生物の身体には、支えるための太い骨が必要になる。飛ぶなら翼が要る。肉を食べるなら牙が鋭くなる。別の世界であっても、同じような環境に同じような生物が現れることはあるのかもしれない。
昨日までなら、僕もそれで納得していた。
書士官が、突き当たりの区画で足を止めた。
「これが、到着した日に見た骨と比較している海竜種だ」
僕は、その骨格を見上げた。
そして、動けなくなった。
最初に思ったのは、長い、ということだった。頭から尾の先まで、標本室の一区画をほとんど占めており、荷を運ぶ箱車を何台並べても収まりそうにない。胴体は低く、四本の脚は横へ張り出すようについている。水中を進むための長い尾と、大きな頭骨の口元に並ぶ鋭い歯、その後方へ伸びる突起まで、骨だけになっても見間違えようがなかった。
背骨の上には、等間隔ではない、特徴的な骨の張り出しが続いていた。生きていた頃には、その周囲を厚い組織と青い鱗が覆い、背に並ぶ器官が淡く光ったはずだ。
骨だから色はない。
肉も、鱗も、眼もない。
それでも僕には分かった。骨だけで分かった自分が、一番恐ろしかった。
書士官が、僕の様子に気づいた。
「恐れる必要はない。これは海に棲む大型の海竜種で、生きていたのは――」
「ラギアクルス……」
名前が口から落ち、僕は慌てて口を押さえたが、もちろん遅かった。
標本室の音が消えていた。正確には、遠くで骨札を置く音も、筆が紙を擦る音も続いていたのだろうが、僕の耳には届かなかった。
書士官が僕を見ている。
指に絵具のついた女の人も、父も、少し離れた作業台の人たちまでこちらを見ていた。
僕はもう一度、骨格を見上げた。
火竜。牙竜種。海竜種。二本脚で歩き、人の言葉を話す猫に似た種族。王立古生物書士隊。黒い龍。そして、ラギアクルス。
一つずつなら偶然で済ませられたし、知らない世界を前世の記憶へ重ねているのだとも考えられた。けれど、骨格も分類も名前も同じものが、一頭分きれいに揃って目の前へ立っている。そこまで都合のよい偶然はない。
画面の向こうにしかなかったはずの世界。
病室で、資料集を抱えて眺めていた世界。
僕が何度も怪鳥に追い回され、回復薬を飲む場所を間違え、危険な怪物の前まで自力では進めなかった世界。
ここ、モンハンですやん。
頭の中だけで浮かんだ言葉は、ひどく場違いに軽かった。
ほかに今の気持ちを表せる言葉が見つからなかった。
身体の奥から、今までとは種類の違う寒気が上がってきた。それと同時に、昨日、自分が何を描いたのかも、嫌になるほど鮮明に理解してしまった。
僕が本部へ着いて早々、専門家たちの前で得意げに描いた黒い龍は、ミラボレアスである。
そう、よりにもよって、ミラボレアスだった。
前世の僕は、ゲームの中でさえそこまで辿り着けなかった。何度も怪鳥に追い回され、回復薬を飲む場所を間違え、資料集の後ろのほうに載っている強大な怪物たちは、ほとんど読むことでしか知らなかった。それなのに、この世界で最初に専門家へ披露した想像上の龍が、自分では一度も会えなかった禁忌の黒龍なのである。
どうして僕は、もう少し穏当なものを選ばなかったのだろう。草食種でも、小さな鳥竜種でも、せめて見た者が扉を閉めずに済む相手はいくらでもいたはずだ。それを、最強の龍を描いて驚かせようなどと余計なことを考え、翼を広げ、角を伸ばし、鱗の形まで思い出せる限り丁寧に描いてしまった。
途中で止められたことだけが救いだったが、考えてみれば、古い記録と一致する絵は未完成でも十分にまずい。むしろ、続きを描けると思われている分だけ悪いのではないか。昨日の自分に会えるなら、炭筆を取り上げたうえで、調子に乗るなと両肩を揺さぶりたかった。
まさか絵を描いたことで本物が目を覚ましたりはしないだろう、と考えてから、僕は慌ててその想像を追い払った。そんなわけがない。ないはずである。この世界では、否定した直後に地面が揺れてもおかしくない気がするので、これ以上考えるのはやめた。
この世界に大型の竜がいることは知っていた。それでも、僕が暮らす中央都市から遠い場所の話だった。名前のない怪物であり、吟遊詩人の歌と、加工された鱗の向こう側にいるものだった。
モンスターハンターの世界だと分かった瞬間、名前のない危険は、知っている危険へ変わった。
空からは火竜が来るかもしれず、砂漠では砂の中から巨大なものが現れ、海にはこの骨の持ち主がいて、水辺へ近づいた人間を襲うこともある。山が動いたと思えば古龍で、天候がおかしくなれば、もっと悪い何かがいる可能性まで考えなければならない。
中央都市が安全なのも、街の造りや護衛が優れているからではなく、まだ何も来ていないだけかもしれない。
「どうして、その名を知っている」
書士官の声で、僕は骨格から目を離した。
「今のは」
何と言えばよい。
忘れてくださいでは、忘れてもらえない。適当に考えましたでは、ミラボレアスの絵と同じことになる。どこかで聞いたと言えば、どこで聞いたのか尋ねられる。
「たまたま、頭に浮かびました」
最も駄目そうな答えを選んでしまった。
書士官の目が細くなった。
「一字も違わぬ」
「似た名前を聞いたことがあったのかもしれません」
「どこで」
「覚えていません」
昨日までなら、これで押し通すしかなかった。
今は、自分でも分かっている。忘れたのではなく、前世のゲームで知ったのだ。書士官の尋ね方は正しく、僕の答えだけが明らかにおかしい。
父が、僕と書士官の間へ入った。
「息子は、今、ひどく怯えています」
その言葉で、自分が父の袖を強く掴んでいることに気づいた。
書士官も気づいたらしい。それ以上近づかず、声を少し落とした。
「骨格を見せるべきではなかったか」
「骨は平気です」
僕はすぐ答えた。
怖いのは骨ではない。
「生きているものには、会いません」
「何の話だ」
「この骨の持ち主にも、火竜にも、それ以外にもです。僕は見に行きません。調査にも行きません。絵は描きますけど、前線には絶対に出ません」
昨日までにも何度も決めていたことを、改めて口にした。
同じ決意でも、今度は相手の正体を知ったうえでのものだった。
単に、危険な大型生物へ近づきたくないという話ではない。僕は、この世界のハンターが、何を相手にしているのか知っている。画面の中なら失敗しても拠点へ運ばれるが、ここでは体力が尽きた人間が荷車で三度まで帰ってくる保証などない。それに、珍しい知識を持っていると知られた者が、現地で確かめてほしいと頼まれる展開には覚えがありすぎた。物語なら役目を引き受ける場面でも、現実の僕は断る側でいたい。
死を経験するのは、一度で十分だった。
「約束が違うと言うなら、今日帰ります」
父が続けた。
僕より強い声だった。
書士官は、僕と父を順に見た。それから、ラギアクルスの骨格を見上げた。
「約束は変わらぬ。生きた大型種へ近づけることも、調査地へ同行させることもない」
「本当に?」
「ワシの職にかけて」
昨日と同じ誓いだった。
僕は完全には安心できなかったが、父は一度だけ頷いた。
見学はそこで終わるかと思った。ところが、書士官は少し考えた後、僕へ尋ねた。
「到着した日に運び込まれた骨を、それでも見るか」
僕は迷った。
モンハン世界の標本である以上、非常に見たいとは思うものの、見ればまた何か分かってしまうかもしれず、分かったことが口から出れば、昨日と今日の繰り返しになる。
安全と好奇心を秤にかける。
標本は死んでいる。
骨は襲ってこない。
「見ます。でも、名前は聞かないでください」
僕が答えると、父は天井を見上げた。
書士官は、なぜか僕より困った顔をした。
* * *
ワシは、少年が骨格の前で足を止めたとき、その大きさに圧倒されたのだと思った。
標本室を初めて訪れる者には、よくある反応である。生きた大型種を見た経験がなくとも、骨格を前にすれば、それが人よりはるかに大きな生物であったことは理解できる。牙の長さも、顎の幅も、物語の中に描かれた竜とは異なり、逃げ場のない現実として目の前に立つ。
少年は危険を嫌うと聞いていた。黒い龍を描いた子供と、骨格に怯える子供が、頭の中ではどうにも結びついていなかった。それでも、到着した日に運び込まれた骨を見る前に、復元の済んだ比較標本を見せるのが適切だと判断したのはワシ自身である。
あの海竜種の骨格は、本部でも保存状態のよい標本だった。十数年前、遠い海辺で死んだ個体が発見され、沿岸の書士と狩人たちが長い時間をかけて運び出した。欠けた末端部には複製を用いているが、頭骨、脊椎、胸郭、四肢の主要部は一個体から得られ、複数の記録をもとに生前の姿勢まで復元されている。
分類も名称も、すでに確定していた。
ラギアクルス。
海辺に暮らす者や海竜種を扱う者なら知る名であり、秘されているものではない。しかし、海から遠い中央都市では、単に海竜と呼ばれることが多く、吟遊詩人の歌にも正式な名はほとんど残らない。少年の家に沿岸地方の生物誌がないことは確認しており、家族にも使用人にも、海辺で暮らした経験を持つ者はいなかった。旅の途中で立ち寄った宿場も内陸ばかりで、あの名を耳にする機会はなかったはずである。
ワシはまず、骨格の特徴と、海中での暮らしに適応した身体の作りを説明するつもりだった。名を告げるのは、その後でよいと考えていた。
少年は、その一言目さえ待たなかった。
「ラギアクルス……」
呼びかけるような声ではない。初めて知った名を試しに口へ出したのでもなかった。忘れていた名を、目の前の姿によって思い出した者の声だった。
ワシは、前夜、自らの口から漏らした言葉を思い出した。
龍の御子。
あれは判断でも、まして正式な呼称でもない。焼け残った記録と少年の絵を見比べるうち、古い伝承の言葉が不意に口をついただけである。直後には、予兆とも託宣とも決まっておらぬと皆を戒めた。分からぬものを神秘へ押し込めれば、調べる者は自ら考えることをやめる。それを誰より知っているはずのワシが、最初に不用意な名を与えてしまった。
海竜の名が少年の口から落ちた瞬間、戒めたはずの言葉が再び胸の内へ浮かび上がった。
名を知っていたことだけが理由ではない。少年の視線は、最初に頭骨へ向かい、そこから背骨を追い、背の突起が並ぶ部分で止まった。標本札も、壁に掛けられた記録画も見ていない。骨格だけを見て、それが何であるかを確かめていた。
昨日、少年は黒い龍の名を問われても答えなかった。古い記録に通じた者なら、あの姿に該当する名を知っている。少年もまた同じ名を知りながら、意図して口にしなかった可能性がある。だが今日は、問われるより先に海竜の名を口にした。
その違いは、少年がその場で知識を作っているのではなく、すでに持っているものの中から、話してよいことと、話してはならぬことを選んでいるように思わせた。
そして少年は、急に怯え始めた。
骨格を恐れたのではない。名を口にしたことで、それまで否定していた何かを、自ら確かめてしまったように見えた。生きたものには会わない。火竜にも、それ以外にも近づかない。前線へは絶対に出ない。誰からも勧められていないことを、震える声で拒み続けたのである。
まるで、この先、我々が彼をどこへ連れていこうとするのかまで知っているようだった。
その考えが浮かんだとき、ワシは恐ろしいものを見ているのが少年だけではないと気づいた。周囲の書士たちもまた、少年を見ながら、その知識をどこで使えるかを考え始めていた。悪意があるわけではない。未知を明らかにし、危険から人を守ることは、我々の務めである。だが、正しい目的は、用いる手段まで正しいものにはしてくれぬ。
父親は即座に少年の前へ立った。
ワシは昨夜、自ら定めた方針を、今度こそ破ってはならぬと思った。この子が何を知っていようと、人から知識だけを抜き取ることはできない。怯えさせれば口を閉ざし、囲えば父親が連れ帰る。そのうえ、そのような扱いを一度でも許せば、王立古生物書士隊は記録を守る組織ではなく、子供から秘密を奪う組織になる。
ゆえにワシは、生きた大型種へ近づけることも、調査地へ同行させることもないと、改めて約束した。
少年の肩から、わずかに力が抜けた。
ところが、少年は見学をやめるとは言わなかった。到着した日に運び込まれた骨を見るかと尋ねると、しばらく迷った末に、名前を聞かなければ見ると答えたのである。
恐怖より好奇心が勝ったのか、好奇心を満たせる安全な線を彼なりに引いたのか。おそらく、その両方なのだろう。
ワシは作業室へ移る前に、管理役へ周囲の者を下がらせるよう命じた。しかし、少年が海竜の名を呼んだ声は、すでに何人もの耳へ届いていた。昨日の呟きさえ留められなかったものを、今さら命令だけで止められるはずもない。
黒い龍を描いた子供。
失われた龍の姿を知る子。
そこへ、中央都市で育ちながら、説明される前に海竜の名を言い当てたという話が加わる。龍の御子は、姿だけでなく、龍の真名を知る。その形に変わった噂が本部の中を巡り始めるまで、半日もかからなかった。
始まりがワシの一言であった以上、他人の口の軽さだけを責めることはできなかった。
午後、限られた者だけを集め、今後の扱いを決めることにした。
分類書士の一人は、少年の反応を確かめるため、本部近郊でも確認される小型の鳥竜種を見せてはどうかと提案した。現地へ連れ出さずとも、近隣の飼育施設なら安全を確保したうえで観察できるという。
「必要ない」
ワシは即座に退けた。
「しかし、骨格だけで名を判別したのであれば、生体を見たときの反応も記録する価値があります」
「価値があることと、許されることは同じではない。本人は生きたものへ近づかぬと明言し、父親も同意しておる。ワシも、近づけぬと約束した」
「危険のない小型種であってもですか」
「何を危険と感じるかを、我々が代わりに決めるな。あの子は、我々がまだ知らぬ危険を知っておる可能性があるのだろう。その知識を確かめるために、本人の警告だけは軽んじるというのでは筋が通らぬ」
分類書士はなお何か言おうとしたが、やがて口を閉じた。
代わりに決めたのは、少年へ本部内での立場を用意することだった。客人のままでは、資料の閲覧にも標本室への入室にも、その都度許可が要る。正式な書士隊員として迎えるには幼く、本人にもその意思はない。そこで当面の措置として、保護者の同伴を条件に、臨時の図画協力者に準じる立場を用意し、閲覧できる資料と立ち入れる場所を限定することにした。正式な登録については、本人と家族の意思を改めて確認してから決める。
少年を本部へ縛るためではなく、誰かがそうしようとしたとき、ワシが止められるようにするためでもあった。
無秩序に人が集まり、好き勝手に質問することを防ぎ、少年と接触できる者を管理する。父親にも、我々が何を求め、何を求めないのかを示す。今の本部でできる保護としては、これが最も穏当だった。もっとも、その決定が伝われば、龍の御子が本部へ迎え入れられたと受け取る者も現れるだろう。
ワシの呟きから生まれた波紋は、少年が何も知らないところで、すでに止められぬほど広がり始めていた。
夕方、ワシは当面の扱いについて確認する書類を持ち、自ら宿舎を訪れた。
少年は卓へ向かい、父親と相談しながら何かを紙へ書いていた。新しい怪物の絵ではない。今後、本部に滞在するうえでの条件らしい。
一、生きた大型生物を見に行かない。
二、前線へ行かない。
三、武器を持たない。
四、危険だと思ったらすぐ帰る。
五、標本と本は、可能な範囲で見せてもらう。
四つ目までを読んだ父親が、五つ目を見て長く息を吐いた。
ワシも、危うく笑いそうになった。
少年は真剣だった。前線へ出される可能性を心から恐れながら、骨と本を見る機会だけは手放すつもりがないらしい。
「この条件なら、残ってもいいです」
少年は、まるで本部に滞在させてもらう側ではなく、危険な依頼を受けるかどうか吟味する側のような顔で言った。
父親が額を押さえた。
ワシは笑わず、五つの条件を最初から読み直した。この世界が少年にとって何であるのか、我々はまだ知らない。なぜ龍の姿と名を知り、名を知った本人が誰よりもそれを恐れるのかも分からない。
ワシは、五つの条件が並んだ紙へもう一度目を落とした。
少年が最も強く望んでいるのは、龍のもとへ赴くことでも、その力を得ることでもなかった。
安全な部屋で、骨と本を見せてもらうことだった。