ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
僕の護衛が決まったらしい。
その話を聞いたのは、回復薬を飲んだまま寝てしまってから二週間余りが過ぎた朝だった。頬を腫らしたG級ハンターはあの日のうちに本部を発ち、入れ替わるようにギルドから正式な書状が届いたという。
なぜあの人の頬が腫れていたのか父に尋ねたところ、「本人に聞きなさい」と言われた。もう街にいない人へ聞く方法までは教えてくれなかった。
僕が眠っている間に何を話したのかも思い出せない。父は回復薬が身体に合わなかったのだろうと言うだけで、あの日から薬瓶を見るたびに封と中身を別々に確かめるようになった。
たぶん、あまり愉快な別れ方ではなかったのだと思う。
「帰るまでの間だけですよね」
「今のところはな」
父の返事には、帰れる日が延びたぶんだけ護衛の任期も伸びる余地があった。
長耳の竜人族の書士官によれば、僕たちの帰宅が延期された頃から王家、ギルド、王立古生物書士隊がそれぞれ護衛の候補を出していたという。決まりもしない話で不安にさせないため伏せていたそうだが、自分の知らないところで自分を守る人が選ばれていたと後から聞くのも、なかなか落ち着かない。
ただ、護衛そのものが要らないとは言えなかった。本部の正門には今も僕を見たい人や話を聞きたい人が集まり、宿舎の窓へ近づくだけでも父に止められる。安全だから帰れず、帰れないから護衛が要る。順番は変な気がするが、どこから直せばよいのか僕には分からない。
候補には王都の近衛、商隊を長く守ってきたハンター、書士隊付きの警備役がいた。そこへ先日のG級ハンターが推薦状を送り、経歴や実力を調べた末に一人へ絞られたという。
候補のいた土地へ照会を出し、返事を待つ間も父は契約の条件を詰めていた。宿舎には本部の守衛が交代で立ち、僕が書庫へ行く時も付き添ってくれていた
「どんな人?」
「腕は確かだそうだ」
「ほかには」
「大型種を相手にした経験が多い。単独での追跡、野営、潜入にも慣れていると書かれている」
聞くほど会いたくなくなった。
最初に浮かんだのは、腕が僕の胴ほどある大男である。背中には大剣か、もう丸太を背負わせてもよい。次に現れたのは黒い布で顔を隠し、天井から音もなく降りてくる細身の人だった。追跡と潜入を重く見るなら、こちらも捨てきれない。
僕は人を描くことまで禁じられたわけではないが、念のため父へ尋ねた。
「護衛の予想図を描いてもいい?」
「その帳面から出さず、本人へ見せないならな」
許可をもらったので、想像上の護衛を一頁に並べてみた。
G級ハンターの推薦という情報を足すと、二人ともさらに強くなった。大男は赤い鉢巻を締めて道着の袖を引きちぎり、細身の人は片目に黒い布を巻き始める。大男の掌から青く光る何かが飛び出したところで、すでに別のゲームになっていることに気づいた。
「お前は、自分で描いた絵を見てなぜ怯えているんだ」
「思っていたより強そうになった」
父は頁を覗き込み、壁を素手で壊している大男の横へ指を置いた。
「この方が来たとしても、壁を壊す仕事ではない」
「武器を隠しているかもしれないよ」
「想像で護衛の罪を増やすのはやめなさい」
まだ会ってもいない人を、器物破損の犯人にしていた。僕は大人しく帳面を閉じた。
顔合わせは昼前、本部の応接室で行われた。黒い龍を描いた部屋でも、G級ハンターから回復薬を渡された部屋でもない。壁際に長椅子があり、卓上には空の水差しと杯が置かれているだけで、紙も炭筆も用意されていなかった。
僕は父の隣へ座り、扉を見つめた。
「護衛は武器を持って入ってくる?」
「持っているだろうな」
「窓から挨拶するのでは駄目かな」
「駄目だ。中で会いなさい」
顔さえ分かれば十分だと思ったが、父には認めてもらえなかった。
廊下では長耳の書士官と何人かが話している。書状や武器の持ち込みを確かめているらしく、厚い扉に遮られて言葉までは聞き取れない。
やがて、一人分だけ妙によく通る声が響いた。
「事情は聞いた。護衛対象は、この中にいるんだな」
低く、わずかに掠れているのに耳へ残る声だった。
僕は背筋を伸ばした。あの声の持ち主なら、密林で何日も獲物を追い、崖から落ちても片手で戻り、火竜と睨み合いながら携帯食料を齧っていそうである。顔には傷があり、夜になると焚き火の前で黙々と武器を磨く。頼りにはなるだろうが、同じ部屋にいるだけで僕まで呼吸を小さくする生活になりそうだった。
「父さん」
「帰らないぞ」
「まだ何も言ってないよ」
「帳面を鞄へ戻した時から分かっている」
逃げる時に忘れないよう片づけたことまで見抜かれていた。
相談を始める前に扉が開く。
最初に見えたのは、金属で補強された兜だった。
ただし、想像よりずいぶん低い場所にある。兜の両側には小さな耳を覆う部品がつき、その下へ何枚もの装甲を重ねた胴当て、厚い籠手、脚甲が続いていた。背中には短い剣と折り畳まれた円形の道具が括りつけられ、腰の袋は本人の身体に対して不釣り合いなほど大きい。
全身を隙間なく装備で覆っていても、歩くたびに毛の生えた尻尾が後ろで揺れていた。
小柄なアイルーだった。
アイルーは父と僕の前で止まった。続いて長耳の書士官が入ってきたものの、その後ろには誰もいない。
僕は扉の向こうを見た。
空だった。
「あれ。オトモしかいない」
尻尾の動きが止まった。
口に出してから、護衛は先に部屋へ潜んでいるのかもしれないと思った。前世で見た防具の中には、景色へ溶け込めそうなものもある。霞を操る舌の長い古龍の名まで浮かんだが、僕は唇を結んで天井だけ見た。
今ここで名前を言う必要はない。
「隠れている奴はいない」
廊下で聞いたものと同じ声がした。
そちらへ顔を戻すと、兜の奥から青みがかった二つの目が僕を見上げていた。
「ここにいるのが、今日からお前につく護衛だ」
「あなたが?」
「そうだ」
「……オトモじゃなくて?」
尻尾の先が一度だけ床を打った。
「俺はオトモじゃない。ニャンターだ」
怒鳴られてはいない。声が一段低くなっただけなのに、僕は椅子の上で姿勢を直した。
「ニャンター」
「一人で狩りにも行く。護衛もする」
知っている。前世のゲームにはアイルーを自分で動かして狩りへ出られる作品があった。小さな身体で走り回り、ブーメランや爆弾を使い、危なくなれば地面へ潜る。僕が操作すると危なくない時まで潜るので、狩りの半分ほどを土の中で過ごしたこともある。
護衛本人だと分かっても、外見と声がまだ一つにならなかった。
「……声が渋すぎる」
「何か問題か?」
「その、なんていうか……伝説の傭兵って感じです」
額へバンダナを巻けば完璧だった。武器は現地で調達し、一人で敵地へ潜り、通信相手から無茶な指示を出されても低い声で応じる。頭の中ではもう赤い記号まで頭上に浮かびかけていたが、バンダナを勧める勇気はない。
ニャンターは僕を眺めた後、顎をわずかに上げた。
「伝説かは知らん。傭兵に間違われるなら悪くない」
少なくとも、怒ってはいないようだった。
長耳の書士官が席を勧めると、ニャンターは卓を挟んだ一人掛けの椅子へ向かった。座面へ片手を掛けて軽く跳び乗る。鎧はほとんど鳴らず、最後に尻尾だけが椅子の脇から出てきた。
あの声を聞かなければ、かなり可愛い。
顔に出すと怒られそうなので、僕は水差しを見た。
護衛の説明は父と長耳の書士官を中心に進んだ。移動には必ず同行する。本部内でも人の出入りが多い場所では離れない。夜は宿舎の隣室に控える。王都やギルドから要請が届いても、父か書士官の許可なく僕を外へ連れ出さない。
ニャンターは短く返し、必要な箇所だけ聞き直した。
父が時間をかけたのは、命令が食い違った時に誰を優先するかという点である。ギルドから来た以上、僕たちの知らない指示を受けるかもしれない。王家から直接命じられた場合に断れる立場なのかも確かめる必要があった。
「護衛中、ギルドから別の任務を命じられた場合は」
「断る。この仕事が終わるまで、ほかの依頼は受けん」
「王家から、息子を王都へ連れてくるよう求められた場合は」
「俺が受けたのは護衛の依頼だ。運搬の依頼じゃない」
「報酬を支払う者と意見が分かれた場合は」
「金を受け取る前なら断る。受け取った後なら契約を守る」
返事はどれも早かった。父も内容には納得したらしく、止めていた筆を次の行へ進める。
「本人が勝手に動いた場合は」
「外へは行かないよ」
僕が先に答えると、兜がこちらを向いた。二つの目がしばらく僕の顔を確かめる。
「その点は楽そうだ」
少なくとも、逃げた僕を追うため壁を壊す人ではなさそうだった。
父が契約書を読み返す間、僕は向かいのニャンターを観察した。鎧の表面には細かな傷が走り、左肩の板だけ色が違う。修理したのか、別の防具から移したのだろう。腰袋には罠の部品らしき金具が覗き、背中の円形の道具は投げて使う武器に見えた。
「さっきから何を見ている」
気づかれていた。
「描いてもいいですか」
「俺をか」
「本物のニャンターを見るのは初めてなので。父さん、見たままならいい?」
父は帳面とニャンターを順に見た。
「鎧と本人だけにしなさい。戦っているところを想像で足さないこと」
「分かってる。壁は描かない」
父は返事の代わりに契約書へ目を戻した。先ほどの大男は、帳面の中へ封印しておくことにする。
許可を得てから綴じ本を開き、炭筆を走らせた。
まず兜の輪郭を取り、肩から胸へ重なる装甲を描く。人間用の防具とは関節の位置が違い、胴が短いぶん腕や脚を守る板が大きく見えた。顔の下半分を覆う布の上には、左右へ伸びる髭がある。
「兜を外したところも描いていいですか」
「護衛の顔なら見えているだろう」
「耳が半分しか見えません」
耳が必要な理由は分からないという顔をされたが、ニャンターは留め具を外して兜を卓へ置いた。
押さえられていた耳がゆっくり起き上がる。片方の先には小さな切れ目があり、額から右目の上へ古い傷が走っていた。丸い顔と髭だけなら愛嬌があるのに、傷と目つきがそれを半分ほど追い払っている。
「格好よく描きます」
「余計なものは足すな」
足す必要はなかった。ニャンターが顔をわずかに横へ向けると髭の流れまで変わったので、僕はそこも描き直した。
次の頁には立ち姿を描いた。鎧を省かず、背中の剣や腰袋まで線を入れる。小柄でも弱そうにはならない。むしろ道具が身体へ近くまとまり、どれにもすぐ手が届く形になっていた。
本人が紙を覗き込む。
「脚を長くしていないだろうな」
「見たままです」
「ならいい」
それでも紙からは離れない。気にしているのが脚なのか絵全体なのかは聞かず、僕は剣の柄へ模様を足した。
「完成したら渡しましょうか」
「護衛の任期が終わるまで失くさず持っていろ。その後でいい」
遠回しだが、断られてはいない。
何枚か描くうち、父と長耳の書士官は契約へ加える条件を相談し始めた。扉を開けたまま隣室へ移り、僕とニャンターだけが卓の前に残る。
人間のハンターと二人にされた時ほど怖くなかった。見た目がアイルーだからという理由だけではない。こちらが何をするにも父へ確認し、ニャンターもそれを急かさず待っていたからだ。
僕が耳の毛を細い線で重ねていると、紙を覗き込んだニャンターが片方の籠手を外した。
「よく、そんな細かく描けるな」
「慣れればできますよ」
「俺には無理だ。ほら、こんな手だからな。繊細な絵には向いていない」
差し出された右手には短い指と硬そうな爪があり、掌には黒い肉球が並んでいた。中心の大きな肉球を細い傷が横切り、表面は硬くなっている。
武器を握り、地面を走り、何度も怪我をした手なのだろう。
それでも肉球は肉球だった。
「触ってもいいですか」
ニャンターの目が細くなった。
「……線の濃さを決めたいので」
返事はなかったが、手も引かれなかった。僕は指先で肉球へ触れた。見た目より硬く、革を重ねたような感触がある。街で働くアイルーたちの手を触ったことはないが、少なくとも荷物を運ぶだけでできた傷ではなさそうだった。
少し押す。
内側は柔らかかった。
「どうだ」
「思っていたより硬いです」
内側は柔らかかったことは黙って、肉球の形を綴じ本へ描き加えた。
* * *
俺は右の籠手を外し、坊主へ掌を見せた。爪は武器の邪魔にならない長さへ揃え、肉球は長い移動で硬くなっている。中央の傷は若い頃、鉤爪を受け止め損ねた名残だ。剣を抜くにも、ブーメランを放るにも、罠の留め金を外すにもこの手を使ってきた。
絵筆より武器に馴染んだ手だと見せたつもりだったのだが、坊主は目を輝かせ、触ってもいいかと聞いた。
本当にこいつが龍の御子なのか。
推薦状を押しつけてきた大男から話を聞いた時から疑っていた。黒い龍の姿を描き、海竜の骨を一目で見抜いた。その後にも本人が知るはずのない何かを口にしたというが、大男は内容を話さなかった。薬を盛った話へ移る前から、頬が腫れている理由だけはだいたい分かった。
大男とは何度か同じ依頼へ出ている。あいつが正面から大型種を引きつけ、俺が罠と投擲で動きを削る。細かな合図がなくても互いの間合いを邪魔せずに済む程度には、腕も癖も知っていた。だから推薦は無視しなかったが、その見立てまで丸呑みする気もなかった。
実際に会った坊主は俺を見て「オトモしかいない」と言い、部屋の隅から天井まで探して、本当の護衛が隠れていると考えたらしい。俺が名乗れば声が渋すぎるとこぼし、次には伝説の傭兵のようだと褒めた。今は俺の肉球を紙へ描いている。龍の御子らしいところを探すより、十一の子供らしくないところを探すほうが難しい。
「それで、食えないものはあるか」
契約には食事の管理も含まれる。書士隊の食堂を使えない時や急に場所を移す時は、俺が食料を用意することになる。毒がないだけでは足りない。護衛対象が口へ入れられなければ荷物を運んでいるのと同じだ。
坊主は紙から顔を上げた。
「特にはありません」
「好き嫌いもか」
「肉と魚なら魚です。野菜も食べます。食べないで病気になるほうが嫌なので」
商家の躾にしては妙な答えだが、体つきは同じ年頃の人間より一回り細い。食える時に食わせておいたほうがよさそうだった。
「チーズも好きです」
「この街でも何種類か手に入る。硬いのと柔らかいのは、どちらがいい」
坊主は答えかけて口を閉じた。炭筆の先が紙から離れ、俺の顔へ向く。
「食べ物の名前も、言う前に聞いたほうがいいですか」
俺は開けたままの扉へ目をやった。隣室にいるのは父親と書士官だけだ。
「ここなら構わん。見たことがあるのか、名前だけなのかを分けて話せ。それで判断する」
「名前だけです。実物は見たことがありません」
そこまで前置きしてから、坊主は声を落とした。
「幻獣チーズって、本当にあるんですか」
俺の返事が遅れた。幻獣チーズは食材屋の棚へ並ぶ品ではない。一度に入るのは数塊で、次がいつになるか売り手にも分からない。知らせを受け取れるのはギルドが認めた一部のG級ハンターだけだ。日時も品名も暗号に置き換えられ、注文には入荷のたび変わる合言葉が要る。王侯貴族でも入荷を知らされなければ、金を積む場所にすら辿り着けない代物だった。
「よく知っているな」
驚きを声へ出さなかったせいか、坊主は咎められなかったと思ったらしい。紙へ視線を戻し、止めていた炭筆を動かした。
「黄金芋酒と合わせるんですよね。たしか――」
炭筆がまた止まり、肉球の横へ黒い点が一つ落ちた。俺は何も言わず、その点を見た。
「……今のも、名前だけです」
坊主は点を指でこすり、余計に大きくした。
「二つとも、見たことは」
「ありません。味も作り方も、どこで買えるのかも知りません」
聞かれていないことまで一息に並べた後で、口を閉じる。さっきまで緩んでいた顔へ、遅れて警戒が戻った。
黄金芋酒も幻獣チーズと事情は似ている。王族の宴席へ一度並んだだけで記録に残るほど数が少なく、二つが同時に入ることはさらに珍しい。俺が最後に口にしたのは、推薦状を書いた大男と討伐依頼を終えた夜だった。暗号の知らせを持っていたのはあいつで、合言葉を覚えていたのは俺だ。普通の本へ並んで載る組み合わせではない。
「そんなに珍しいんですか」
「二つとも、王侯貴族でも好きな時には手に入らん」
坊主は広げてしまった黒い点を、肉球の傷へ描き替えた。
「じゃあ、普通のチーズでいいです」
「諦めが早いな」
「食べるために危ない場所へ行くくらいなら、普通ので十分です」
食い気より安全を選ぶ点では、筋が通っていた。
「入手できたら、味見くらいはさせてやる。黄金芋酒はなしだ」
「飲みませんよ」
坊主の炭筆がまた動き始め、今度は俺の籠手へ線を重ねていく。報告にあった、聞かれもしない名を口にする子供とはいくらか違う。幻獣チーズを口にする前には許可を求め、見たことがあるのか、名前だけなのかも分けた。黄金芋酒までこぼしたのは、俺が「ここなら構わん」と言ったせいもある。一つ目を咎められなかったことで、同じところで覚えた二つ目まで安全だと思ったのだろう。
これで予言の証明になるわけではない。それでも中央の商家で育った十一歳が知るはずのない名を二つ続けて口にした。偶然で片づけるには数が合わなかった。推薦状と一緒に渡された報告にある黒い龍も海竜も同じで、坊主は価値を知って披露したのではない。自分にとって見慣れたものへ名前をつけ、周囲が騒いでから黙るべき情報だったと知ったらしい。
味も作り方も入手先も知らず、覚えているのは名と組み合わせだけだった。古い記録を丸ごと読んだ者にしては、知識が歯抜けすぎる。夢見が拾うのは一体の古龍が見聞きした景色や衝動であり、食堂の献立まで拾うとは聞いたことがない。大男が夢見より厄介だと言った意味も、ようやく輪郭だけは見えた。こいつの中には、出所の異なる記憶が本人にも区別できぬ形で混じっているのかもしれない。
俺は籠手の留め具を締めた。想像だけで記録へ残せる話ではなかった。
隣室から父親と書士官が戻ってきた。書士官は契約を結ぶ前に確認しておくことがあると言い、開けたままの扉の向こうを示す。隣室には本部の書士が一人待っていた。
「僕が聞いてはいけない話ですか」
「お前について決める話ではない。すぐ呼ぶ」
父親に言われても、坊主は俺と隣室を見比べた。綴じ本の端を指で一度押してから椅子を降りる。横を通る時、俺の右手へ視線を寄こしたので、籠手を着けた手を膝の下へ隠した。
扉が閉じるまで父親は息子の背を追っていた。足音が離れると、契約書を俺へ向ける。
「あなたを推薦した方について伺います。あの方の推薦を理由に、あなたを信頼してよいのでしょうか」
「薬の件なら聞いている」
「本人の口からですか」
「そうだ」
父親は契約書の端を指で押さえた。紙がわずかに歪んだ。
「あれは決して許される行為ではない」
長耳の書士官が先に口を開いた。
「本部からギルドへは正式に抗議した。本人にも相応の責任を負わせる。何を得たとしても、子供へ無断で薬を使った事実は変わらぬ」
「それでも推薦状を受け取ったのですね」
「これまでの仕事まで偽りになったとは考えておらん」
書士官は封の切られた書状へ指を置いた。
「あの者は、ギルドが表へ出せぬ仕事も請け負ってきた。上と現場の間で判断してきた立場はワシも承知しておる。それだけじゃ」
「黙っていれば、私たちには分からなかったでしょう。都合の悪い部分まで話したことだけは認めます」
父親は紙から顔を上げた。
「ですが、息子を預ける相手の判断まで、あの方の名に任せるつもりはありません」
「だから俺が推薦された」
二人の視線が俺へ向く。
「あいつは、自分がもう信用されないと分かっている。俺なら、あいつ自身の頼みでも契約に反すれば断ることも知っている。推薦状には坊主を守れとしか書いてなかった」
「同じことを命じられたら、あなたは断れますか」
「断る。命じたのがギルドでも王家でも同じだ。俺が受けるのは護衛であって尋問じゃない」
父親は俺の顔を見たまま、脇に置いていた筆を取った。
「分かりました。息子をお願いします」
書士官が隣室の扉を開け、坊主を呼び戻した。何を話したのか聞きたそうだったが、父親が椅子を示すと綴じ本を抱えたまま座る。
追加された条件が読み上げられた。任期は本部を離れられる状況になるまで。外出には必ず同行する。本人と父親の同意なく王都やギルドへ移送しない。危険が迫った場合は討伐より避難を優先する。最後の一項は、大男からも念を押されていた。
「異論はありますか」
父親が俺へ尋ねた。
「ない。引き受ける」
父親が署名し、書士官が封を施す。坊主はそれが終わるまで待ってから頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「一つ、先に決めておく」
「何ですか」
「二度と俺をオトモと呼ぶな」
「はい。ニャンターさん」
「忘れるな」
坊主は頷き、一拍置いてから俺の籠手へ目を落とした。
「肉球は、また触ってもいいですか」
「駄目だ」
即答すると、綴じ本の中で肉球が一つ増えた。明日の朝は、街で買える普通のチーズを出すことにした。その前に、この坊主が食事の名前を言うたび俺の顔色を確かめるようにならなければいいが。