ハンターにはなりません。理由は怖いから 作:ゴミミゴミ
僕の護衛が決まったらしい。
その話を聞いたのは回復薬を飲んで寝てしまった数日後の朝だった。頬を腫らしたG級ハンターはその日のうちに本部を発ち、その後入れ替わるようにギルドから正式な書状が届いたという。僕が眠っている間に何を話したのかは相変わらず思い出せなかったが、父の機嫌を見る限りでは別れ際に何かあったことだけは分かる。
できれば護衛が必要になった理由から説明してほしかった。
「帰るまでの間だけですよね」
「今のところはな」
父の返事には今後延びる可能性が十分に残されていた。
長耳の書士官によれば、僕たちの帰還が延期された頃から王家、ギルド、書士隊がそれぞれ候補を出していたらしい。護衛される本人に知らせなかったのは決まりもしない話で不安にさせないためだったというが、僕としては知らないところで自分を守る人間が選ばれていた事実のほうが不安になる。
候補には王都の近衛、商隊の護衛経験が長いハンター、書士隊付きの警備役などがいた。そこへ先日のG級ハンターが推薦状を出し、経歴や実力を比べた結果、一人に絞られたという。
「どんな人ですか」
「腕は確かだそうだ」
「ほかには」
「大型種を相手にした経験が多い。単独での追跡、野営、潜入にも慣れていると聞いている」
父は書状から読み取れた内容を教えてくれたが、聞くほどに会いたくなくなった。
僕の頭に最初に浮かんだのは腕が僕の胴ほどもある大男だった。背負う武器は大剣か、いっそ丸太でもよい。次に浮かんだのは細身で黒い布をまとい、天井から音もなく降りてくる人である。追跡と潜入へ重点を置くならこちらの可能性も捨てきれない。
G級ハンターがわざわざ推薦したという情報まで加わると、想像の中の護衛はさらに強くなった。赤い鉢巻を締め、道着の袖を引きちぎり、素手から青く光る何かを飛ばし始めたあたりで、もうモンスターハンターの人物ではなくなっていることに気づいた。
「お前は何を描いている」
父に尋ねられ、僕は卓上の紙を裏返した。
「護衛の予想図」
「なぜ全員、武器を持たずに壁を壊せそうなんだ」
「武器を隠しているかもしれないから」
「想像で自分を怖がらせるのはやめなさい」
もっともな忠告だったので炭筆を置いた。
護衛との顔合わせは昼前に本部の応接室で行われると決まった。黒い龍を描いた部屋でもG級ハンターから回復薬を渡された部屋でもない。壁際に長椅子があり、卓上には空の水差しと杯が置かれているだけで、何かを描かされる様子はなかった。
僕は父の隣へ座り、扉を見つめた。
「護衛は武器を持って入ってきますか」
「持っているだろうな」
「ここで待つ必要はありますか。窓から見れば顔は分かります」
「窓の外に立たせて挨拶を済ませるつもりか」
それで十分だと思ったが、父は認めてくれなかった。
廊下では長耳の書士官と何人かの声がしている。書状の確認や武器を持ち込む際の規則について話しているらしく、扉が厚いため言葉までは聞き取れなかった。
やがて一人分だけ妙によく通る声が響いた。
「事情は聞いた。護衛対象は、この中にいるんだな」
低く少し掠れているのに耳へ残る声だった。
僕は背筋を伸ばした。想像は当たっていたのかもしれない。
あの声の持ち主なら密林で何日も獲物を追い、崖から落ちても片手で戻り、火竜と睨み合いながら携帯食料を齧っているだろう。顔には傷があり余計なことは喋らず、夜になると一人で武器の手入れをする。頼りにはなるだろうが、同じ部屋で過ごせば僕まで呼吸の音に気をつける生活になりそうである。
「父さん」
「帰らないぞ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出ている」
逃げる相談をする前に扉が開いた。
最初に見えたのは金属で補強された兜だった。
ずいぶん低い位置にある。兜の両側には小さな耳を覆う部品があり、その下には何枚もの装甲を重ねた胴当て、厚い籠手、脚甲が続いていた。背中には短い剣と、折り畳まれた円形の道具が括りつけられ、腰の袋は本人の身体に対して不釣り合いなほど大きい。
全身を隙間なく装備で覆っていても、歩くたびに毛の生えた尻尾が後ろで揺れていた。
小柄なアイルーだった。
アイルーは部屋へ入り、父と僕の前で止まった。続いて長耳の書士官が入ってきたが、その後ろには誰もいない。
僕はしばらく扉を見た。
廊下は空である。
「あれ。オトモしかいない」
アイルーの尻尾が止まった。
言ってから別の可能性を考えた。護衛はすでに室内へ潜んでいるのかもしれない。古龍の素材を使った装備の中には風景へ紛れるのが得意そうなものもあった。とくに霞を操るあの舌の長い古龍を思い出したが、ここで名前を口にすれば護衛どころではない騒ぎになりかねない。
僕は黙って部屋の隅や天井に目を配る。
「隠れている奴はいない」
廊下で聞いたものと同じ低く渋い声だった。
声の出た方向へ目を戻す。兜の奥から青みがかった二つの目がこちらを見上げていた。
「ここにいるのが、今日からお前につく護衛だ」
「あなたがですか」
「ほかに誰がいる」
「オトモの方では」
兜の下で眉間に皺が寄ったように見えた。尻尾の先が一度だけ床を叩く。
「俺はオトモじゃない。ニャンターだ」
怒鳴ったわけではないのに、声がさらに低くなった。
「ニャンター」
「そうだ」
「一人で狩りに行くほうの」
「護衛もする」
知っている。前世のゲームにはアイルーを自分で動かして狩りへ出られる作品もあった。ハンターより小さな身体で走り回り、ブーメランや爆弾を使い、危なくなれば地面へ潜る。僕自身が操作すると地上にいても危ない場面で潜るため、狩りの半分くらいを土の中で過ごしたこともある。
目の前にいるのが護衛本人だと理解しても、声と外見がまだ結びつかなかった。
「……声が渋すぎる」
「何か問題か?」
「その、なんていうか……伝説の傭兵って感じです」
額へバンダナを巻けばもっと完璧になる。武器を現地で調達し、一人で敵地へ潜り、通信相手から無茶な指示を受けても低い声で応じる人物が頭へ浮かんだ。ただし目の前のニャンターへバンダナを勧める勇気はなかった。
ニャンターはしばらく僕を見た後で顎を少し上げた。
「伝説かどうかは知らんが、傭兵に間違われるなら悪くない」
褒め言葉として受け取ってくれたらしい。
長耳の書士官が席を勧めるとニャンターは長椅子ではなく、卓を挟んだ一人掛けの椅子へ向かった。座面が高いため前脚を掛けて軽く跳び乗る必要があったが、その動きには無駄がなく、装備もほとんど音を立てなかった。
最後に尻尾だけが椅子の脇から出てきた。
あの低い声を聞かなければかなり可愛い。
護衛についての説明は父と長耳の書士官を中心に進んだ。移動するときは必ず同行すること。本部内でも立ち入りの多い場所では離れないこと。夜間は宿舎の隣室に控えること。王都やギルドから新たな要請が届いても父か書士官の許可がなければ僕を外へ連れ出さないこと。
ニャンターは短く返事をし、必要な部分だけ質問した。
父が最も時間をかけたのは誰の命令を優先するかという点だった。ギルドから来た以上は僕たちの知らない指示を受ける可能性がある。王家から直接の命令が届けば断れる立場なのかも分からない。父は契約書を一行ずつ確かめ、曖昧な箇所が見つかるたびに筆を止めさせた。
「護衛中、ギルドから別の任務を命じられた場合は」
「断る。この任務を終えるまでは、ほかの依頼を受けん」
「王家から、息子を王都へ連れてくるよう求められた場合は」
「俺が受けたのは護衛の依頼だ。運搬の依頼じゃない」
「報酬を支払う者と、意見が分かれた場合は」
「金を受け取る前なら断る。受け取った後なら、依頼の条件を守る」
声は低いままだったが答えはどれも早かった。父も少なくとも返事の内容には納得したようである。僕は卓を挟んで二人を見ながら、商談へ鎧と剣を持ち込めば話がこんなに短くなるのかと考えていた。
「本人が勝手に動いた場合は」
「動きません」
僕が答えると、兜がこちらを向いた。
「即答だな」
「外へ行きたくないので」
「助かる。護衛対象を追い回す趣味はない」
「僕も追い回される趣味はありません」
話が合いそうだった。
父が契約書へ目を通している間、僕は向かいのニャンターを眺めた。鎧の表面には細かな傷が走り、左肩の板だけ色がわずかに違う。修理したのか別の防具から移したのだろう。腰袋には罠の部品らしき金具が覗き、背中の円形の道具は投げて使う武器にも見える。
「さっきから何を見ている」
気づかれていた。
「描いてもいいですか」
「俺をか」
「本物のニャンターを見るのは初めてなので」
僕が父を見ると、すぐには頷いてくれなかった。黒い龍を一頭描いただけで本部中が動き、海竜の骨を見て名前を口にしただけで帰れなくなったのだから慎重になるのも当然である。
「見たものだけを描きなさい」
「分かってる」
「戦っているところを想像して足さない」
「分かってるよ」
念を押されて僕は綴じ本と炭筆を取り出した。
ニャンターは椅子の上で腕を組み、動かずにいてくれた。まず兜の輪郭を取って肩から胸へ重なる装甲を描く。人間用の防具とは関節の位置が違い、胴が短いぶん腕や脚を守る板が大きく見える。顔の下半分を覆う布の上には左右へ伸びる髭があった。
「兜を外したところも描いていいですか」
「護衛の顔なら、もう見えているだろう」
「耳が半分しか見えません」
ニャンターは何のために必要なのかと聞きたそうな顔をしたものの、留め具を外して兜を卓へ置いた。
押さえられていた耳がゆっくり起き上がる。片方の先には小さな切れ目があり、額から右目の上にかけて毛の流れを割る古い傷が走っていた。可愛いだけではない。長く戦ってきたことは僕にも分かった。
「格好よく描きます」
「見たままでいい」
「見たまま格好いいので大丈夫です」
ニャンターは答えず少しだけ顔を横へ向けた。
僕は顔の輪郭を描き終えると別の頁へ移った。次は椅子へ座る前の立ち姿である。鎧を省略せずに描けば小柄な身体でも十分に強そうに見えた。背中の剣や腰袋まで線を入れたところで本人が紙を覗き込む。
「脚を長く描いていないだろうな」
「見たままです」
「ならいい」
「長く描いてほしかったんですか」
「事実と違う絵を残されるのが嫌なだけだ」
そう言いながら紙に描かれた自分から目を離さない。気に入っているのか尋ねれば否定されそうなので、僕は黙って剣の柄へ細かな模様を足した。
「完成したら渡しましょうか」
「お前の記録だろう」
「同じものをもう一枚描けます」
「……護衛の任期が終わるまで、失くさずに持っていろ。その後でいい」
断られたわけではないらしい。渋い声で遠回しに言われると意味を考えるのに少し時間がかかった。
何枚か描くうちに父と長耳の書士官は隣室へ移った。契約書へ加える条件を相談するらしく扉は開けたままにされている。僕とニャンターだけが卓を挟んで残ったが、人間のハンターと二人にされたときほど怖くなかった。
僕が耳の毛を細い線で重ねていると、ニャンターが紙を覗き込んだ。
「よく、そんな繊細に絵が描けるな」
「慣れればできますよ」
「俺には無理だ。ほら、こんな手だからな。あまり繊細に絵を描くことには向いていない」
ニャンターは右手の籠手を外して掌を上へ向けた。確かに人間の指と比べると物を握って細かく動かすには工夫が必要なのかもしれない。
短い指の先には硬そうな爪があり、掌には黒い肉球が並んでいた。中心の大きな肉球には細い傷が入り、表面も少し硬くなっている。それでも、肉球は肉球だった。
「触ってもいいですか」
「……今の話を聞いていたか?」
「聞いてました」
「なら、どうしてそうなる」
「絵を描けるかどうかは、触らないと分からないので」
我ながら苦しい言い訳だった。
ニャンターはしばらく手を引かなかったので許可されたものと考え、指先で肉球へ触れた。見た目より硬く、革を何枚か重ねたような感触がある。街で見かけた普通のアイルーとも違う。武器を握って地面を走り、何度も怪我をした手なのだろう。
それでも、少し押すと柔らかかった。
「どうだ」
「描けると思います」
「そういう話だったか?」
僕は炭筆を持ち直して肉球の形も綴じ本へ描き加えた。
護衛に屈強な人間が来ると思っていたときの恐怖はいつの間にか消えていた。声は恐ろしく渋いが姿はアイルーである。大型モンスターの骨でも黒い龍の絵でもない。何を話しても別室の大人たちが筆を止めることはないだろうと思うと口も軽くなった。
* * *
「俺には無理だ。ほら、こんな手だからな。あまり繊細に絵を描くことには向いていない」
爪は折れない長さに整え、肉球は長い移動で硬くなっている。中央を横切る傷は若い頃に鉤爪を受け止め損ねた名残だ。剣を抜くにもブーメランを投げるにも、罠の留め金を外すにもこの手を使ってきた。この手は目の前の坊主のように、優しく世界を描いて切り取るものじゃない。目の前の敵を切り裂くために鍛えてきたものだ。
それを見た坊主は目を輝かせて触ってもいいかと聞いた。
本当にこいつが龍の御子なのか。
最初から疑ってはいた。推薦状を俺へ押しつけてきた大男は、黒い龍の姿を知って海竜の骨を一目で見抜いた子供だと話した。新大陸についても本人が知るはずのないことを眠りながら口にしたという。ただし薬を盛った件を詳しく聞く前に、あいつの頬がうっすらと腫れている理由は分かった。
大男とは何度か同じ依頼へ出たことがある。あいつが正面から大型種を引きつけ、俺が罠と投擲で動きを削る。細かな打ち合わせがなくても互いの間合いを邪魔せずに済む程度には相手の腕も癖も知っていた。だから推薦を無視はしなかったが、あいつの見立てまで丸ごと信じるつもりはなかった。
大男は嘘をつくのが得意ではないが、物事を大きく語る癖がある。話半分で聞くつもりだった。
実際に会った坊主は俺を見てオトモしかいないと言った。部屋の隅を探して天井まで見上げ、護衛が姿を隠していると本気で考えていたらしい。俺が名乗れば驚き、声が渋すぎると文句を言いながら次には伝説の傭兵のようだと褒めた。
そして今は俺の肉球を紙へ描いている。
「それで、食えないものはあるか」
契約には食事の管理も含まれていた。書士隊の食堂を使えない時や急に場所を移す時には俺が用意する。毒の有無だけ見ればよい話ではなく、護衛対象が食べられなければ意味がない。
坊主は紙から顔を上げた。
「特にはありません」
「好きなものは」
「肉と魚なら魚です。野菜も食べます。チーズも好きです」
「ずいぶん素直だな」
「病気になるよりいいので」
十一の子供にしては妙な答えだったが、商家の躾かもしれない。体つきは同じ年頃の人間より少し細く、食える時に食わせておいたほうがよさそうだった。
「チーズなら、この街でも何種類か手に入る。硬いのと柔らかいのは、どちらがいい」
「チーズ…、そういえば」
語りかけた途中で突然考え込むように言葉が止まり、そして何かを思い出したように再び口を開いた。
「幻獣チーズって、本当にあるんですか」
返事が一拍遅れた。
「よく知ってるな」
坊主の炭筆が止まる。
「名前だけです」
「どこで、その名前を聞いた」
「ずっと前に。詳しくは覚えていません」
先ほどまで肉球を触っていた子供の顔にわずかな警戒が戻った。黒い龍について尋ねられた時もおそらく同じ顔をしたのだろう。
幻獣チーズは街の食材屋へ行けば棚に置いてある品ではない。入荷は一度に数塊しかなく、年に何度あるかも分からない。知らせを受け取れるのもギルドが認めた一部のG級ハンターに限られている。日時も品名も暗号へ置き換えられ、注文する際には入荷ごとに変わる合言葉が要る。王侯貴族であろうと入荷を知らされなければ金を積むことさえできない。名を知っているだけでは皿へ載るどころか、売り手まで辿り着けぬ品だった。
「食べたことはあるのか」
「ないです。たぶん」
「たぶん?」
「ありません」
言い直すのが早い。
俺が黙っていると坊主は自分から続きを喋った。
「黄金芋酒と一緒に食べるんですよね。僕はお酒を飲みませんけど」
今度こそ聞き間違いではなかった。
黄金芋酒も事情は似ている。王族の宴席に並んだという話だけで記録に残るほど数が少なく、幻獣チーズと同時に入ることはさらに珍しい。二つを揃えて頼める機会など、長くG級で働いていても滅多にない。俺が最後にその組み合わせを口にしたのは、推薦状を書いた大男と討伐依頼を終えた夜だった。暗号の知らせを持っていたのはあいつで、合言葉を覚えていたのは俺だった。
「なぜ、その組み合わせを知っている」
「前に、どこかで読んだ気がします」
「どこでだ」
「覚えていません」
坊主は視線を紙へ落とした。兜を脱いだ俺と差し出した手が描かれている。手の形は正確だった。傷の位置も爪の長さも、肉球の硬くなった部分まで線の濃さを変えて拾ってある。
観察したものを写す腕は本物だ。それだけに見ていないものまで知っているという話が厄介になる。
幻獣チーズの名を知るだけなら偶然で済む。黄金芋酒を知るだけでも商家の息子なら耳にするかもしれない。しかし二つを当然のように並べ、価値を誇るでもなく食べてみたいと騒ぎもしない。坊主にとってはどこかの食堂に置かれている普通の組み合わせらしい。
俺は推薦状と一緒に渡された報告を思い返した。
黒い龍についても海竜についても、坊主は知識を披露しようとしたのではない。絵を描いて骨を見て、その場では誰も答えを求めていないことを口にした。後から価値を知らされて慌てて黙った。
目の前でも同じことが起きたのだとすれば、間の抜けた態度まで芝居だと疑う必要はない。本人にとって当たり前すぎる知識が気を抜いた拍子にこぼれているのだろう。
「幻獣チーズは用意できませんか」
坊主が遠慮がちに尋ねた。
「簡単に言うな。入る時期すら読めん」
「そんなに珍しいんですか」
「幻とつく食材を、なぜ普通に食えると思った」
「料理の名前は、大げさなものが多いので」
追えば何か出るかもしれないが、ここで質問を重ねれば王都の使者や大男と同じになる。
俺は籠手を着け直した。
「入手できたら、少しは食わせてやる」
「本当ですか」
「護衛対象を飢えさせるわけにはいかん。ただし、黄金芋酒はなしだ」
「飲みませんよ」
「十一歳なら当然だ」
坊主は笑い、綴じ本へ戻った。
俺は契約を受けるかどうか、顔を見てから決めるつもりで来た。王家、書士隊、ギルドが取り合う子供の護衛など面倒の種にしか見えなかったからだ。予言者なら監視役まで背負わされ、詐欺師なら恨みを買い、何も知らない子供なら周囲の大人から引き離す必要がある。ところが目の前の坊主は何も企んでいない顔で、誰にも教えられるはずのない献立を口にした。
坊主は俺をオトモと間違えた。低い声を面白がって肉球に触れ、珍しいチーズが食べられると思っている。龍の御子と呼ばれる者らしい威厳は探しても見つからない。
それなのに遠い土地の龍や限られた食堂の献立を、昔から身近にあったもののように知っている。
大男が夢見より厄介だと言った意味が少し分かった。夢見が拾うのは一体の古龍が見聞きした景色や衝動だ。坊主の知識には黒い龍も、海の向こうの土地も、ギルドの奥で隠される献立も混じっている。一体の龍から流れ込んだものでは説明がつかない。
龍の御子という呼び名を、俺は大げさだと思っていた。だが、もしこいつが遠い土地や古い時代に残った記憶を自分の思い出と区別できないまま抱えているのなら、ほかに呼びようがないのかもしれない。
隣室から父親と書士官が戻った。書士官は契約を結ぶ前に護衛される本人を外して確かめておくことがあると言い、坊主には開けたままの扉から隣室を示した。向こうには本部の書士が一人待っている。
「僕が聞いてはいけない話ですか」
「お前について決める話ではない。すぐに呼ぶ」
父親にそう言われても坊主は俺と隣室を交互に見ていたが、やがて綴じ本を抱えて椅子を降りた。横を通る際にこちらの肉球へもう一度目を向けたので、俺は籠手を着けた手を膝の下へ隠した。
扉が閉じるまで父親は息子の背を見送っていた。足音が遠ざかると卓上の契約書をこちらへ向けたまま口を開く。
「あなたを推薦した方について伺います。あの方の推薦であるあなたを、本当に信頼してよいのでしょうか」
「聞いている」
「息子の薬にネムリ草を混ぜたこともですか」
「本人の口からな」
父親の目がわずかに細くなった。俺が大男を庇うかどうか見ているらしい。
「あれは決して許される行為ではない」
先に答えたのは書士官だった。
「子供へ無断で薬を使い、判断の鈍ったところから言葉を引き出した。得られたものが何であろうと手段の是非は変わらぬ。本部からギルドへ正式に抗議し、本人も相応の処分を受ける」
「それでも推薦を受け入れたのですね」
「彼のこれまでの仕事まで信用を失ったとは考えておらんからだ」
書士官は卓上の書状へ目を落とし、言葉を選ぶように続けた。
「あの者はギルドでも表へ出しにくい仕事も請け負ってきた。命令を下す者は確かな答えを求めるが、現場では答えを得るために傷つけてはならぬ者もいる。その間に立たされ、どちらにも背を向けられぬ立場だったことはワシも承知しておる。だからといって今回の行いが軽くなるわけではない」
「事情は理解します」
父親は契約書から目を上げなかった。
「息子が眠っている間に彼が何をしたのか、自分から話したことも聞きました。都合の悪い部分を嘘で隠さなかった。その点だけは理解できます。しかし事情があれば何をしてもよいとは思いません。超えてはいけない一線があります」
「だから俺が推薦された」
二人の視線がこちらへ向いた。
「あいつは自分が信用を失ったと分かっている。もう一度そばへ置けとも、自分の代わりに探れとも書いていない。坊主を守る者として俺を選び、本人や家族が望まぬ命令には従うなと念を押した」
「同じことを命じられたら、あなたは断れますか」
「断る。命じたのがギルドでも王家でも同じだ。俺が受けるのは護衛であって尋問じゃない」
父親はそこで初めて俺の目をまっすぐ見た。しばらく沈黙した後、脇に置かれていた筆を取る。
「分かりました。息子をお願いします」
書士官が隣室の扉を開けて坊主を呼び戻した。何を話したのか聞きたそうにしていたが、父親が何も言わないと察して元の椅子へ座った。
追加された契約の内容が改めて読み上げられた。任期は本部を離れられる状況になるまで。外出には必ず同行し、本人の同意なく王都やギルドへ移送しない。危険が迫った場合は討伐より避難を優先する。
最後の条件は大男からも念を押されていた。
「異論は」
父親が尋ねる。
「ない。引き受ける」
俺が答えると父親は契約書へ署名した。坊主が顔を上げる。
「よろしくお願いします」
「一つ、先に決めておく」
「何ですか」
「二度と俺をオトモと呼ぶな」
「はい、ニャンターさん」
「忘れるな」
「でも、肉球は触ってもいいですか」
「駄目だ」
即答すると坊主は残念そうに紙へ目を落とした。
その顔だけを見ればどこにでもいる子供だった。
明日の朝は街で買える普通のチーズを出すことにした。そこでまた聞いたこともない献立を当然のように足されたなら、その時に続きを考えればいい。