朝の匂いがする。
トントン、と小気味よく響く包丁の音。出汁と味噌が混ざり合う温かな香り。テレビから流れる、どこか気の抜けた朝のニュース番組の音声。
魔鬼マヤは、ふわりとしたタオルの感触に顔を埋めながら、洗面所の鏡を見た。
そこには、赤みがかった瞳と、燃えるような赤い髪をした少年が映っている。両サイドを短く刈り込んだツーブロックの髪から、微かに水滴が落ちた。
前世の記憶――血と泥に塗れ、九歳で暗部として生きることを強いられた忍の時代。
あの頃の朝は、いつ敵襲があっても動けるよう、常に浅い眠りの中で浅い呼吸を繰り返すだけのものだった。温かい朝食の匂いなど嗅いだこともなく、目を覚まして最初に触れるのは、冷たいクナイの柄だった。
だが、今は違う。
「マヤ、髪ちゃんと乾かした?」
キッチンから、エプロン姿の母親が顔を出して言った。呆れたような、けれど底抜けに優しい声色だ。
「乾いてるって」
「赤い髪が濡れてると余計目立つぞ」
新聞から顔を上げた父親が、コーヒーのマグカップを片手に笑う。
「いいじゃん別に」
マヤは適当にタオルを首にかけ、食卓の椅子に腰を下ろした。
赤い髪も、赤い目も、かつての里では忌み子として恐れられる理由にしかならなかった。だが、この両親はマヤが生まれたその日から、ただの一度もそんな目を向けたことがない。
「綺麗な赤だね」「マヤの目、宝石みたいでかっこいいぞ」と、ただ笑って撫でてくれた。
「お兄ちゃん、おはよ!」
パタパタと軽い足音を立てて、妹の舞がリビングに駆け込んでくる。
幼いながらも、その足運びには無駄がない。重心がぶれず、床に足音を響かせない独特の歩法。
それは、彼女が物心ついた時から、無意識のうちに兄であるマヤの日常的な動きを真似て育ってきたからだ。上忍としての洗練された身体操作を、舞は「お兄ちゃんの真似」という遊びの中で吸収し、やがて彼女自身の類稀なる身体表現や舞踏の才能へと繋がっていくことになる。
勢い余ってラグの縁に躓き、舞の小さな体が前へのめり込んだ。
マヤは座ったまま、朝食の箸を置くこともなく、空いた左手でスッと妹の体を抱き留めた。
「おっと。大丈夫か?」
「へへっ、お兄ちゃんすごい!」
「だろ?」
マヤは事もなげに笑い、妹の頭をくしゃくしゃと撫でた。
誰かを護衛するためでもなく、任務だからでもない。ただ目の前で転びそうになった妹を助け、笑い合う。
それが、今のマヤにとっての「当たり前」だった。
誰かのために命を張り、理不尽に耐え、悲劇を終わらせるために立ち回る必要はない。ただ朝起きて、ご飯を食べて、家族と笑う。自分が大切だと決めた人間たちが、目の前で笑って生きている。
マヤにとって、これほど満たされた世界は他に存在しなかった。
魔鬼家が初めての海外旅行へと出かけたのは、マヤがまだ十代前半の頃だった。
異国の風が吹く、賑やかな広場。大道芸人が火を吹き、観光客たちがカメラを片手に行き交う。マヤは両親と妹の少し後ろを歩きながら、平和な空気の匂いを嗅いでいた。
「お兄ちゃん、あっちに大きいお城みたいなのがある!」
「走ると迷子になるぞ、舞」
マヤがそう声をかけた、次の瞬間だった。
広場に面した歴史ある建物の外壁で、修繕工事のために組まれていた巨大な鉄骨の足場が、けたたましい金属音と共に崩落を始めたのだ。
悲鳴が上がる。
観光客たちが一斉に逃げ惑う中、足場の真下に、両親とはぐれたらしい一人の小さな異国の少女が腰を抜かして座り込んでいた。
数トンもの鉄パイプとジョイントの塊が、容赦なく少女の頭上へ降り注ぐ。
周囲の大人たちが絶望の声を上げたその時、マヤの体は、思考よりも先に動いていた。
地を蹴る音すらなかった。
マヤは広場の石畳を滑るように駆け抜け、手前にある街灯の柱を垂直に蹴り上がった。重力という概念を完全に無視した跳躍。
空中で迫り来る鉄骨の雨の軌道を見極めると、両手に医療忍術のチャクラを極限まで薄く纏わせた。破壊するためではなく、力を浸透させ、物理的な衝撃をいなすための絶対的な技術。
「――っ」
マヤの掌が、落下する最も巨大な鉄骨の側面に触れた瞬間、パァンッと乾いた音が響いた。
チャクラの流し込みによって見事に力のベクトルを逸らされた鉄骨は、少女の数十センチ横へと軌道を変えて地面に突き刺さる。
その隙間を縫うように落下したマヤは、少女の体をふわりと抱き上げ、降り注ぐ瓦礫の雨の中で一度も立ち止まることなく、崩落エリアの外側にある噴水の縁へと、羽のように着地した。
轟音と土煙が収まる。
静まり返った広場で、マヤは腕の中の少女をそっと下ろした。
「怪我はないか?」
呆然としていた少女が、マヤの赤い目を見て、わぁっと泣き出した。
マヤは少しだけ困ったように眉を下げると、優しくその頭を撫でる。
「大丈夫だ。もう痛いことは降ってこない。よかったな」
少女に笑いかけたその時。
人混みを掻き分けて、一人の大柄な外国人の男が目を血走らせて駆け寄ってきた。
「オーマイガー! なんだ今の動きは!? ワイヤーも見えなかったぞ!」
男は興奮しきった様子で、通訳らしき日本人スタッフを引っ張りながらマヤの肩を掴んだ。彼は、世界的に有名なアクション映画のプロデューサーだった。
「君、名前は!? 芸能界に来ないか! いや、私の映画に出てくれ! 世界中が君のその奇跡のアクションを待っている!!」
まくしたてる男を前に、マヤはぽかんと口を開けた。
「……げいのうかい? なんだそれ」
そこへ、血相を変えた両親と舞が駆けつけてくる。
マヤが無傷であることを確認し、少女が助かったことに胸を撫で下ろした両親は、プロデューサーの熱烈なスカウトの話を通訳から聞くと、顔を見合わせて少しだけ笑った。
「マヤがやってみたいなら、やってみたら?」
母が優しく言い、父が頷く。
舞が、尊敬の眼差しでマヤの服の裾をぎゅっと握りしめていた。
自分が誰かを守るための力が、家族以外の人間に、こんなにも純粋な驚きと笑顔を与えられるのか。
「……じゃあ、やってみる!」
マヤのその軽い一言が、やがて「世界的アクションスター・神鬼マヤ」という伝説を生み出す始まりだった。
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それから数年。
神鬼マヤの名は、国境を越えてエンターテインメントの頂点に轟いていた。
彼が出演する映画は記録的な大ヒットを飛ばし、その神がかったアクションと、時折見せる飾らない笑顔は、世界中のファンを熱狂させた。どんな大物監督にも媚びず、誰に対してもフラットに接するその人間性は、嘘と欲望が渦巻く芸能界において、異端でありながら確固たる地位を築いていた。
だが、どれほど世界が彼を祭り上げようとも、魔鬼家の日常は何も変わらない。
ある日の午後。
オフの日を利用して実家のリビングでくつろいでいた世界的スターの前に、仁王立ちになった妹が立ちはだかった。
「お兄ちゃん、プリン食べたでしょ」
「食べてない」
マヤはテレビのバラエティ番組を見ながら、即答した。
「嘘」
「……なんで分かった」
「冷蔵庫」
「…………」
開けっ放しにされた冷蔵庫のチルド室。そこには、綺麗に洗われたプリンの空き容器が、証拠品として無残に転がっていた。
「あれ舞が楽しみにしてたやつなのに! 信じられない!」
「悪かったって。後で買ってきてやるから。な? 怒んなよ」
世界中の女性を虜にする美貌と、修羅の如き強さを持つ鬼が、実の妹の前ではたった一個のプリンで平謝りしている。
舞はぷいっと顔を背けたが、マヤが「特大のやつ買ってやる」と付け加えると、すぐに「絶対だからね!」と嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、マヤもふっと息をついて笑う。