国内最大手の実力派劇団『ララライ』が誇る専用稽古場は、都心の喧騒を忘れさせるほどの静寂と、圧倒的な空間の広がりを持っていた。
高い天井には均一な光を投げかける最新の調光照明が整然と並び、床一面には激しい殺陣や複雑なステップの衝撃を吸収する上質な無垢材が敷き詰められている。正面の壁一面を覆う巨大な鏡は磨き抜かれ、埃一つ付着していない。
そこにあるのは、日本最高峰の演劇を作り出す者たちだけが纏う、澄み切った空気だった。
殺伐とした潰し合いはない。張り詰めた緊張感の中にも、互いの技術と表現力を認め合い、高め合おうとする実力派集団特有の風通しの良さがある。休憩時間になれば、若手もベテランも分け隔てなく車座になり、即興劇(エチュード)のアイデアを出し合ったり、台本の行間についてストイックな議論を交わす。ここは、演劇を愛するプロフェッショナルのための神聖なアトリエだった。
その広大なスタジオの片隅で、星野アイとカミキヒカルはパイプ椅子を並べて座っていた。
「ねえ、カミキくん。やっぱりこの三場、相手の台詞を待ってから動くとワンテンポ遅れちゃう気がするんだよね」
「それは、相手の言葉の意味を頭で理解してから動こうとしているからじゃないかな。言葉そのものじゃなくて、相手の息遣いとか、重心の移動に反応するイメージでやってみたらどう?」
「重心かあ……。アイドルやってると、どうしてもカウントで身体を動かす癖がついちゃっててさ」
「ふふ、でもアイちゃんはリズム感が抜群だから、コツさえ掴めば誰よりも綺麗に動けるようになるよ」
アイが台本の余白にペンを走らせる横で、カミキは穏やかな微笑みを絶やさずに寄り添っていた。
二人のやり取りは、傍目には実力派劇団の若きホープが、演技に不慣れなアイドルの少女を甲斐甲斐しく手引きしている、極めて微笑ましい光景に見えた。
だが、カミキの内側で蠢いているものは、そんな善良な温もりとは無縁だった。
――順調だ。
カミキは、伏せられたアイの長い睫毛を横目で見つめながら、冷たい確信を深めていた。
アイは、カミキの笑顔が偽物であると見抜いている。そしてカミキもまた、アイの笑顔が張りぼての嘘であることを知っている。
互いに嘘つきであるという事実を共有し、「ここでは無理に飾る必要がない」という逃げ道を与えること。大人の役者たちに囲まれて孤立しがちなアイにとって、自分を唯一の共犯者、唯一の理解者として深く刻み込むこと。
昨日交わしたあの会話によって、アイの無防備な内面へと続く扉の鍵は、すでにカミキの掌の中にあった。
この少女を、自分の思い通りに染め上げ、壊していく。その過程を想像するだけで、カミキの心の奥底にある暗い渇きが甘やかに満たされていくようだった。
その時だった。
スタジオの重厚な防音扉が開き、一人の女性が足を踏み入れた。
その瞬間、スタジオ内の空気がわずかにざらついた。
自主練に励んでいた劇団員たちが、次々と手を止め、怪訝な目を入り口へと向ける。
入ってきたのは、劇団の看板女優である姫川愛梨だった。
しかし、その姿は普段の稽古場にはあまりにもそぐわないものだった。
普段なら誰もが動きやすいジャージや稽古着を身につけているこの場所に、愛梨は舞台初日のレセプションパーティーにでも出席するかのような、豪奢な装いで現れたのだ。
身体の曲線を露骨に強調した、深くスリットの入ったタイトな黒のドレス。丁寧にセットされた巻き髪からは、高価なパルファムの濃厚で甘ったるい香りが立ち上り、スタジオの澄んだ空気を塗りつぶしていく。完璧に施されたメイクの下で、彼女の双眸は獲物を狙う肉食獣のように爛々と輝いていた。
「……」
鏡の前で発声のフォームを確認していたカミキは、振り返ることなく、鏡越しに愛梨の姿を凝視した。
わずかに眉根が寄る。
――なんだ、あの格好は。
愛梨という大人の女の生態なら、カミキは骨の髄まで知悉しているはずだった。
虚栄心が強く、老いを恐れ、他者からの崇拝と支配に飢えた女。あの息の詰まる楽屋の密室で、彼女の情欲と孤独を観察し、操る術を学んできた。
だが、今日の愛梨が発している熱量は、カミキの知る彼女のルーティンから完全に逸脱していた。
稽古場にドレスを着てくるなど、いくら看板女優とはいえ奇行に等しい。誰に向けて着飾っているのか。何を誇示しようとしているのか。
カミキの胸の内に、小さな、しかし無視できない不協和音が生まれた。
愛梨は劇団員たちの戸惑いの視線を意に介する様子もなく、スタジオの中央へと堂々と進み出た。
ハイヒールの硬い音が、無垢材の床に規則正しく響き渡る。
中央に立ち止まると、愛梨はパンパンと高く手を打ち鳴らし、鈴を転がすような、よく通る声をスタジオ全体に響かせた。
「みんな、ちょっと稽古の手を止めてちょうだい!」
スタジオが静まり返る。
殺陣の竹光を握っていた若手も、台本を抱えた中堅も、愛梨の周りに集まり始めた。
アイも台本を閉じ、パイプ椅子から身を起こしてその輪を見つめている。カミキは愛梨の視界からわずかに外れた位置、巨大な鏡の前に立ち、無表情のまま事の推移を見守った。
愛梨は満足そうに口元を歪め、たっぷりと間を取ってから、劇団員たちを見渡した。
「今日から二週間、このララライのワークショップに、特別なゲストが参加することになったわ」
愛梨の声には、抑えきれない興奮と、自らの手腕を誇示する強烈な陶酔が混ざり合っていた。
「日本を代表するこの劇団に相応しい、最高の表現者よ。……さあ、入ってきてちょうだい!」
愛梨がスタジオの入り口に向けて、華奢な手を優雅に差し伸べた。
劇団員たちの視線が一斉に入り口の扉へと集中する。大御所のベテラン俳優か、あるいは海外の名門劇団からの招聘講師か。誰もが息を詰めてその登場を待った。
カチャリ、と静かにラッチが外れる音がして、防音扉が押し開かれた。
姿を現したのは、一人の青年だった。
履き古して膝の抜けたヴィンテージのブルージーンズに、何の変哲もない無地の白いTシャツ。その上に、前ボタンを外した赤と黒のチェックのネルシャツを無造作に羽織っている。
燃えるような赤髪はサイドを短く刈り上げたツーブロックで、セットされた形跡もなく自然に遊んでいた。
肩の力を完全に抜いたその立ち姿は、まるで近所のコンビニへふらりと買い物にでも出かけるような、ひどく気安く、ひどくラフなものだった。
「……?」
集まっていた劇団員たちの間に、微妙な沈黙が広がった。
誰もが顔を見合わせ、眉をひそめる。
愛梨が勿体ぶって呼び込んだにしては、あまりにも場違いで、あまりにも普通すぎる。どこかの事務所の新入り研究生か、あるいは機材の搬入に来たアルバイトのスタッフにしか見えなかった。
実力派としてのプライドを持つ役者たちにとって、その青年から発せられる気配は、名優が纏うような研ぎ澄まされた重圧とは対極の、ただの「純朴な青年」そのものだった。
だが、愛梨だけは違った。
彼女はまるで世界最高の宝物を手に入れた少女のように相好を崩し、ハイヒールを鳴らしてその青年の隣へと駆け寄った。
「紹介するわ! ハリウッドから一時帰国中の、神鬼マヤさんよ!」
その瞬間、スタジオ内の空気が爆発したように吹き飛んだ。
「――っ!?」
「神鬼……マヤ!?」
「うそだろ、あの『流星忍者』の……!?」
「本物かよ!? なんでこんなところに……!」
プロとして普段は感情を表に出さない役者たちが、一斉に狼狽し、ざわめきが怒濤となって広がっていく。
世界中で興行収入記録を塗り替え、日本はおろか全米を熱狂の渦に巻き込んでいる超大作アクション映画の主演俳優。スクリーンの向こう側、雲の上の存在としてしか認識していなかった生きた伝説が、目の前に立っているのだ。
その劇団員たちの狂乱を、愛梨は自らの栄光であるかのように浴びながら、胸を反らせて言葉を続けた。
「驚くのも無理はないわね。でもね、実は私、彼がデビューした十歳の頃から、ずーっと個人的にオファーを出し続けていたのよ」
愛梨の放った言葉が、カミキの鼓膜に鋭く突き刺さった。
「彼のアクション、彼の才能を、誰よりも早く見抜いていたのは私よ。何年もコンタクトを取り続けて、ようやく私の情熱が彼のエージェントに届いたの。そして今回、念願叶って……マヤさんが日本での活動拠点として、このララライを選んでくれたのよ!」
スタジオ内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「愛梨さん、すげえ……!」「十歳から目を付けてたなんて、さすがの先見の明だ!」「ララライが世界の拠点になるのか!?」
役者たちは興奮のあまり我を忘れ、愛梨を賞賛し、マヤを凝視した。
愛梨にとっては、劇団内での権力を不動のものにし、自らのプロデューサーとしての価値を決定づけるための完璧な営業トークだった。まだ何一つ具体的な契約など結んでいない、ただの既成事実に過ぎないとしても、この場を支配するには十分すぎる劇薬だった。
だが。
その熱狂の渦から切り離された鏡の前で、カミキヒカルの全身の血が、急速に凍りついていた。
――十歳の頃から?
――ずーっとオファーを出し続けていた?
――念願叶って、選んでくれた?
愛梨の言葉の断片が、鋭利なガラスの破片となってカミキの脳髄を乱雑に掻き回す。
自分が愛梨に拾われ、あの楽屋で抱きしめられたのは、十一歳の時だ。
愛梨はカミキの肌に触れながら、何度も囁いた。「あなたは特別」「あなただけが私の理解者」。
カミキはその言葉を真に受けたわけではなかったが、大人の女の欲望を手玉に取り、自分が彼女を支配し、飼い慣らしているという絶対的な全能感を持っていた。
だが、現実はどうだ。
愛梨がドレスを着て、化粧を塗りたくり、浮き足立っていた理由。
それは、カミキのためなどでは断じてなかった。
自分が愛梨の玩具になるよりも前から、彼女の視線の先には、海の向こうで世界を熱狂させていた「十歳の少年」がいたのだ。
カミキの指先が、微かに震えた。
ポケットの中で握りしめた拳に爪が食い込み、痛みが走る。
まだ分からない。これは愛梨のただのビジネス上の吹聴かもしれない。
だが、愛梨がマヤを見つめるあの眼差し。あれは、劇団員を見る目でも、仕事仲間を見る目でもない。もっと浅ましく、もっと貪欲な、本物の光に焦がれる女の目だった。
その時、歓声の中心にいたマヤが、ふと愛梨の方へと視線を向けた。
マヤは劇団員たちの熱狂に圧倒される風でもなく、ただ愛梨の演説の中にあった一つの単語に引っかかったように、わずかに首を傾げた。
そして、マヤは躊躇うことなく愛梨の元へと一歩踏み込み、彼女の耳元へと顔を寄せた。
スタジオに満ちる歓声のせいで、周囲には二人の声は届かない。
マヤは至って自然な、独り言のような低いトーンで口を開いた。
「……ん? 拠点? 愛梨さん、俺、まだそんなこと決めてないぞ」
愛梨の身体が、ピシリと凍りついた。
マヤの顔には怒りも棘もなく、ただ純粋な事実の確認だけがあった。
「まあ、ワークショップの様子とか、仕事のスケジュール見てから、後で詰めようぜ」
大勢の前で愛梨の嘘を暴き立てて恥をかかせるような無粋な真似はしない。しかし、受け入れてもいない既成事実をそのまま呑み込むほど愚かでもない。さらりと事実を告げ、大人の落とし所を残す。
そしてマヤは、少し困惑したように目を丸くしている愛梨の顔を見下ろすと、相手の面子を立てるための礼儀として、屈託のない笑みを浮かべて小声で付け足した。
「……それにしても、そのドレス、すごく綺麗ですね。よく似合ってます」
その瞬間。
愛梨の表情が、劇的に崩れた。
自分の勝手な営業トークを窘められた焦燥と恥じらい。そして、何年も焦がれ続けた本物の世界的スターから、至近距離で囁かれた無邪気な賛辞。
それらが一瞬にして混ざり合い、愛梨の白粉を塗った頬が、耳の付け根までカッと朱に染まった。
「え、ええ……ありがとう……っ」
愛梨の声は微かに上擦り、彼女は動揺を隠すように、少女のように視線を泳がせて俯いた。
看板女優としての傲慢な仮面が完全に剥がれ落ち、ただの一人の女としての生々しい感情が露出した瞬間だった。
その一部始終を、離れた鏡の前から、カミキヒカルは網膜に焼き付けていた。
声は聞こえない。二人が何を話したのかは分からない。
だが、カミキの目に見えたのは――。
マヤが親しげに愛梨の耳元に顔を寄せ、何かを囁いた途端、あの傲慢で冷酷なはずの愛梨が、見たこともないような熱を帯びた顔で赤面し、恥じらいの笑みを浮かべたという、動かしがたい現実だった。
――なんだ、あの顔は。
カミキの胃の奥から、黒く濁った汚泥のような感情がせり上がってきた。
自分と肌を重ねている時ですら、愛梨は常にカミキを支配しているという優越感に浸り、冷たく歪んだ笑みを浮かべていた。カミキに対して、あんな無防備で、あんな熱に浮かされた女の顔を見せたことなど、一度たりともなかった。
あのドレスは、マヤに見せるためのものだった。
あの香水も、あの高揚も、すべてマヤのためだった。
じゃあ、自分は何だったのか。
愛梨が十歳の頃から手を伸ばし、焦がれ続けていた本物の男。
その男が手に入らない間、彼女の飢えを紛らわせるために宛がわれた、ただの都合のいい代用品(レプリカ)だったのではないか。
カミキの全身の筋肉が強張り、呼吸が浅くなる。
自分が愛梨を転がしていたのではない。自分が愛梨の孤独を解剖していたのではない。最初から自分は、神鬼マヤという太陽の影で、ただの慰み者として消費されていただけだったのだ。
カミキがこれまでの人生で積み上げてきた「他者を操作する知性」というプライドが、根底から音を立てて軋み始めていた。
愛梨のフォローを終えたマヤは、何食わぬ顔で劇団員たちの方へと向き直った。
その表情には、先ほどまでの大人の気遣いから一変して、澄み切った秋空のような屈託のなさが戻っていた。
「どうも、神鬼マヤです」
飾り気のない、しかし驚くほどよく通る声がスタジオに響く。
ざわめいていた劇団員たちが、自然と口を閉じた。
「知ってる奴もいるかもしれないけど、俺はアクションが得意なんだ。だから、この二週間のワークショップでは、身体の動かし方とか、アクションの基礎は俺がみんなに教えられると思う。……でも」
マヤはそこで言葉を切り、劇団員たち一人ひとりの顔を真っ直ぐに見据えた。
そして、深々と、腰を折って頭を下げた。
「俺は演技の基礎が全然できてねえ。だからここでは、日本一の劇団にいるみんなから、演技をしっかり学ばせてもらうつもりだ。二週間、世話になる。よろしくな!」
スタジオ内を、再び静寂が支配した。
傲慢さの欠片もない。世界的スターの威光を傘に着る気配すら微塵もない。
自分ができることには絶対の責任を持ち、自分ができないことには素直に頭を下げて他者に教えを乞う。
その立ち振る舞いには、卑屈さも虚飾もない、ただの素朴な青年としての清々しい誠実さだけがあった。
そして、頭を上げたマヤの身体から立ち上る、圧倒的な説得力。
だらりと垂らされた腕、脱力した立ち姿でありながら、床を捉える足裏の吸い付き、重心の揺るぎなさ。服の上からでも分かる、極限まで磨き抜かれた筋肉のしなやかさ。
本物の肉体を知る実力派の役者たちだからこそ、彼が発する「本物」の気配を肌で理解してしまった。
「……ッ!」
「おい、マジだ……本物の龍星だ!」
「すげえ、あの脱力、見たかよ……!?」
「龍星! 龍星本人が、俺たちに教えてくれるってよ!!」
堰を切ったように、熱狂が爆発した。
先ほどの愛梨の営業トークに対する義務的な歓声とは違う。ストイックに身体と表現を磨き続けてきたプロの役者たちが、自分たちの領域の遥か頂点に立つ怪物に出会ってしまった時の、魂からの歓喜だった。
役者たちが我先にとマヤの周りに群がり、口々に「龍星!」「龍星!」と叫ぶ。
彼らにとって、マヤは単なる俳優の名前ではなかった。世界中のスクリーンを跳び回り、理不尽な悪を打ち砕いてきた、希望の象徴たるヒーローの概念そのものだった。
押し寄せる劇団員たちに揉まれながら、マヤは困ったように眉を下げ、ぽりぽりと頬を掻いた。
「ん? 龍星じゃなくて、マヤだけど?」
世界的な名声を浴びながら、どこまでも自分を自分としてしか捉えていない青年の言葉。
その光景を、輪の外側からじっと見つめていた星野アイが、ふらりと足を動かした。
アイは群がる劇団員たちの隙間をすり抜け、マヤの正面へと歩み出た。
その大きな瞳の奥には、これまでカミキに向けていたような「嘘の共犯者」に対する視線とは全く違う、未知の何かを解明しようとする強烈な光が宿っていた。
突然目の前に現れた少女に、マヤは「ん?」と視線を落とす。
アイは、アイドルの完璧な笑顔を作ることも忘れ、思ったままの言葉を真っ直ぐに口にした。
「……世界的スターって、もっと偉そうなのかと思ってました」
周囲の役者たちが、ぎょっとして息を呑んだ。初対面のハリウッドスターに対して、あまりにも無礼で唐突な物言い。
だが、マヤは不快感を示すどころか、面白そうに目を細めてアイを見つめ返した。
「そうなのか? 俺、アクション以外はまだまだだし。できないことは教えてもらうのが普通だろ?」
「……普通?」
アイは小首を傾げた。
できないことを隠し、完璧な偶像を演じ、ファンに愛を囁き続けるのが、アイの知る芸能界の「普通」だった。欠落をさらけ出すことなど、アイにとっては弱点を晒すことと同義だった。
「アイも、なんでそんなこと聞くんだ?」
「え……?」
マヤの口から自分の名前が出た瞬間、アイはわずかに目を見開いた。
スクリーンの向こう側の人間が、自分の存在を当たり前のように認識していたことに対する、純粋な驚き。
「世界的スターだから偉そうにするって、誰が決めたんだ?」
マヤは、アイの瞳の奥にある空洞を覗き込むようにして、カラリと言い放った。
「俺は俺だぞ?」
――俺は、俺だ。
その言葉が、アイの胸の奥深くに重く、鋭く突き刺さった。
誰かにどう見られるか。どう振る舞えば愛されるか。どう嘘をつけば自分を守れるか。
他人の視線という鏡に依存してしか自己を保てない自分たちとは、あまりにも違いすぎる。
肩書きも、世間の評価も、他人の思惑も、何一つとして自分の中に侵入させない。ただ自分ができることとできないことを受け入れ、自分自身としてそこに立っている。
この人には、裏がない。
嘘をついて自分を大きく見せる必要も、嘘で他人を操る必要も、最初から持ち合わせていないのだ。
「……ふふっ」
アイの唇から、こぼれ落ちるように柔らかな笑い声が漏れた。
事務所の社長に見せる営業用の笑顔でも、カミキに見せていた影のある笑みでもない。
目の前の理屈を超えた存在に対する、純粋な好奇心と高揚感に満ちた、等身大の十五歳の少女の笑い声。
「じゃあ、マヤさん。お芝居のこと、私と一緒にいっぱい勉強しようね」
アイがそう言って微笑むと、マヤも「おう、頼むな!」と白い歯を見せて笑った。
二人の間に流れる、嘘のない透明な空気。
それを、数メートル離れた鏡の前から、カミキヒカルは氷のように冷徹な瞳で見つめていた。
アイの関心が、完全にマヤへと持っていかれたことは誰の目にも明らかだった。
自分が数日かけて、慎重に言葉を選び、アイの心の隙間を埋めるようにして築き上げた「嘘の箱庭」。
それを、マヤは何の悪意も計算もなく、ただそこに「自分」として立っているだけで、一瞬にして踏み越えてしまったのだ。
愛梨の醜い赤面。
マヤに向けられる劇団員たちの純粋な崇拝。
そして、アイがマヤに向けて零した、本物の笑い声。
カミキの胸の中で、黒い炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。
だが、カミキは顔を歪めることはしなかった。
深く、ゆっくりと息を吐き出すと、乱れかけた感情を心の底へと押し殺し、再び完璧な「無垢な少年の仮面」を顔の上に張り付け直した。
――まだ、挨拶が終わっただけだ。
カミキは奥歯を噛み締め、心の中で冷徹に呟いた。
アイがマヤに抱いたのは、ただの珍奇なものに対する一過性の興味に過ぎない。アイの根底にある愛への飢え、嘘の空洞を本当に理解し、埋めることができるのは、同じ闇を抱えた自分だけだ。
期間はまだ、二週間もある。
あの能天気な男も、自分を裏切った愛梨も、そして星野アイの心も。
最後にはすべて、自分が構築した支配の網の中に引きずり戻してやる。
カミキは口元にわずかな笑みを浮かべ、熱狂に沸く人々の輪に向かって、静かに足を踏み出した。