劇団『ララライ』のワークショップが始まって数日が過ぎた頃。
広々とした稽古場の入り口で、神鬼マヤはスポーツバッグを肩に担ぎ、劇団員たちに向けて軽く手を上げていた。
「じゃあ、ちょっとアメリカの撮影に戻ってくるわ。三日くらいで帰ってくるから、またな」
ハリウッドでのスケジュールと並行して日本のワークショップに参加しているマヤにとって、太平洋を跨いだ移動は、まるで隣町へ買い物に行くような手軽さだった。
稽古場にいた劇団員たちが、「いってらっしゃい」「気をつけて」と口々に声をかける。
パイプ椅子に座っていた星野アイも、台本から顔を上げ、小さく手を振った。
も
「うん。またね」
アイの言葉は、何の気負いもない、ごく自然な響きを持っていた。
そこにいた、姫川愛理も、「いってらっしゃい!」
マヤも「おう」とだけ返し、そのまま扉の向こうへと消えていく。世界的スターの出国という仰々しさは微塵もなく、ただ「仕事に行ってくる」というだけの、あっさりとした別れだった。
その光景を、少し離れた場所からカミキヒカルは静かに観察していた。
マヤがこの劇団にやって来てから、カミキの胸の奥には常に微かな苛立ちが燻っている。姫川愛梨のあの異様なスクラップ帳を見た日から、カミキの中で「マヤと愛梨は昔から繋がっていたのではないか」という黒い疑念が晴れることはない。
だが、今はマヤが不在だ。
目障りな太陽が隠れている間に、カミキは再びアイの心を自らの箱庭に縛り付けようと動き出した。
「マヤさん、忙しそうだね」
カミキはアイの隣のパイプ椅子に腰を下ろし、甘く、理解者のような声で話しかけた。
アイは台本に目を落としたまま、「そうだね」と短く応じた。
「あんな風に誰とでも気さくに話せるのって、すごいよね。僕たちみたいに、嘘をついて自分を隠す必要がないからなのかな」
カミキは、アイの心にある「嘘つきの共犯者」というスイッチを押そうとした。
これまでのアイなら、この言葉に反応して自嘲気味な笑みを浮かべるか、「私たちは嘘つきだからね」と同意を示し、互いの腹を探り合うようなヒリヒリとした緊張感が生まれていたはずだった。
だが、アイの反応はカミキの予想とは違った。
「……んー、そうかもね」
アイは、ふらりと視線を台本から逸らし、空調の吹き出し口をぼんやりと見つめたまま、生返事をしたのだ。
その横顔には、自分の嘘を見透かされることへの警戒も、共犯者に対する暗い親愛もなかった。ただ、意識がここではないどこか――カミキの言葉の届かない場所へ向かっているような、静かな空虚があった。
「……アイちゃん?」
「あ、ごめん。台詞のタイミング、ちょっと考えてた」
アイはへらっとアイドルの笑顔を作って見せたが、それはカミキに向けられた「お互い様」の嘘ではなく、単なる「その場をやり過ごすための処世術」としての笑顔だった。
アイが、相手の嘘の裏を読もうとするゲームから降り始めている。
カミキは、自分の放った言葉がアイの心の表面を滑り落ち、どこにも引っかからなかったことに、微かな、しかし決定的な手応えのなさを感じていた。
――なんだ?
カミキは笑顔を保ちながら、内心で舌打ちをした。
アイの態度は冷たくなったわけではない。拒絶されているわけでもない。ただ、カミキが提示する「嘘の共有」というルールに、興味を失っている。
その無関心の理由が分からないまま、カミキはただ静かに、胃の底に泥が溜まるような焦燥感を抱え込んでいた。
```
*
```
その頃、太平洋を隔てたアメリカ合衆国。カリフォルニア州の広大な映画スタジオ。
乾燥した空気と強烈な日差しを遮断した巨大なサウンドステージの中には、グリーンバックに囲まれた岩山のセットが組まれていた。
無数の照明と高価なカメラが向けられる中、神鬼マヤはワイヤーもなしに高さ五メートルのセットから跳躍し、空中で捻りを加えながら、襲い来るスタントマンたちの木っ端を次々と蹴り飛ばしていた。
重力を完全に無視した、人間離れした滞空時間。着地と同時に低く身を沈め、最後の一人の胸ぐらを掴み上げる。
完璧なアクションだった。スタジオの隅でモニターを見ていたスタッフたちからも、感嘆の吐息が漏れる。
スタントマンたちを流れるような蹴りで次々と倒していった。
最後の一人を地面にねじ伏せ、マヤはカメラへ鋭い視線を向ける。
「愛してるんだ!」
バシッとポーズを決めるマヤ。
「カット! そうじゃない!」
メガホンを構えた監督の声が響く。
マヤは構えを解き、首を傾げた。
「?」
```
*
```
それから三日後。
日本のララライ稽古場に、マヤがふらりと姿を現した。
「おう、ただいま!」
「あ、マヤさん。おかえりなさい」
姫川愛理も劇団員もが声をかけ、アイもパイプ椅子から立ち上がって「おかえり」と普通の距離感で微笑んだ。
マヤはスポーツドリンクのペットボトルを片手に、アイが座っているパイプ椅子の隣へどさりと腰を下ろした。少し離れた鏡の前では、カミキがその様子をじっと監視している。
「向こうの撮影、どうだった?」
アイが尋ねると、マヤはペットボトルのキャップを開けながら、深々とため息をついた。
「いやー、ダメだった。監督にすげえ怒られたわ」
「怒られた? アクションで?」
「いや、アクションは一発OKなんだけどさ。その後の台詞がダメだって。……そういや、昨日も姫川さんにちょっと演技見てもらったんだけどさ」
マヤは、ペットボトルを弄りながら、とんでもないことを平然と言ってのけた。
「色々言われたけど、むずかしいから『いいや』ってなったわ」
「……え?」
アイは目を瞬かせた。
姫川愛梨といえば、このララライの看板女優であり、演劇界でも名の通った実力者だ。その彼女からの演技指導を「難しいからいいや」で投げ出したというのだ。
「いいの? それ」
「だって、分かんねえもんは分かんねえし。それに俺、演技はダメだけど、動きはばっちりだからさ。アクションだけなら誰にも負けねえし、いっこ出来ればいいんじゃね?って思って」
マヤはあっけらかんと笑う。
さらに、彼はとどめとばかりに口を動かした。
「だいたい、場面場面で監督の言うことも違うし。そもそも、俺の映画、台本あんまないんだよね」
「……それ、言っていいの?」
アイは思わず吹き出しそうになりながら突っ込んだ。
世界中で大ヒットし、何億ドルという興行収入を叩き出している『流星忍者』シリーズ。その主演俳優が「台本があんまりない」と暴露しているのだ。世間の映画ファンが聞いたら卒倒しかねない事実である。
「なんで? 本当のことだし、別にいいじゃん」
マヤは不思議そうに小首を傾げた。
「……あははっ! そっか、本当のことだもんね」
アイは、堪えきれずに声を上げて笑った。
完璧なアイドルとしての計算された笑顔ではない。少し変なことを言う同世代の少年に対する、等身大の素の笑い。
自分の弱点を隠そうともせず、世界的な大作の裏側をあっさりと暴露し、「本当のことだから」で済ませてしまう。嘘で塗り固めなくても、ただ自分ができることをやるだけで、この人は世界で成立してしまっている。
アイにとって、マヤのその在り方は、窮屈な箱の中から連れ出してくれるような不思議な爽快感があった。
だが、その会話を数メートル離れた場所で聞いていたカミキヒカルの背筋には、氷のような悪寒が走っていた。
――むずかしいから、いいや?
――台本があんまりない?
カミキは、自分の耳を疑った。
カミキや愛梨にとって、「演じる」ということは人間の本質そのものだ。台本の行間を読み解き、計算し尽くして嘘を構築し、他者の感情を操作する。そのために血の滲むような努力をしている。
しかし、目の前にいる世界的スターは、「演技は苦手」とあっさり認め、それを克服しようとするどころか「アクションができるからそれでいい」と開き直っている。
自分の弱点を隠さない。
自分を大きく見せようとする嘘をつかない。
カミキの世界観において、「人間は嘘をつき、演じるもの」という絶対のルールがある。だからこそ、相手の嘘の裏を読むことで優位に立てるのだ。
しかし、マヤはどうだ。
こいつは、自分が演技できないことを隠そうともしないのか?
できないものを、できるように見せるという発想自体がないのか?
――嘘をつかない人間なんて、本当にいるのか?
カミキの脳内で、危険信号がけたたましく鳴り響いていた。
マヤの存在は、カミキが立っている土俵そのものを根底から否定するバグだった。
「いやあ、でもさ」
マヤは、アイの笑い声につられるようにして笑いながら、ふと視線を宙に浮かせた。
アメリカの撮影現場で監督から浴びせられた怒声が、頭の片隅を掠めていた。
「愛って言うのは、難しいな」
その唐突な言葉に、アイの笑い声がピタリと止まった。
カミキもまた、鏡越しにマヤを鋭く睨みつけた。
アイにとって、「愛」とは永遠の命題だ。
ファンに対して「愛してる」と嘘をつき続け、いつかその嘘が本当になることを願っている。言葉にすればするほど空虚になっていくその感情の正体が分からず、アイはずっと苦しんできた。
マヤは、アイやカミキの視線が自分に突き刺さっていることなど露知らず、手元のペットボトルを軽く振りながら言葉を続けた。
「言葉で言うのはあんなに難しいのに、行動するのは簡単なのにな」
静かな、しかし確かな重みを持った言葉だった。
アイの瞳が、わずかに見開かれる。
――行動するのは、簡単。
マヤは「愛とは何か」という答えを出したわけではない。ただ、言葉で表現することの難しさと、相手のために身体を動かすことの容易さを対比させただけだ。
だが、その言葉はアイの胸の奥にある冷たい結び目を、少しだけ解いた。
(……そっか。無理に言葉で言わなくても、行動で大事にすれば、それは愛になるのかな)
言葉という嘘に縛られなくてもいい。ただ、相手のために行動すれば、裏表のない真実に近づけるのかもしれない。
アイは、マヤの横顔を見つめながら、自分がずっと背負っていた重い鎧が少しだけ軽くなるのを感じていた。
一方、カミキは全く別の次元で戦慄していた。
――行動?
カミキは、他人の言葉や表情の裏側――つまり「嘘」を読むことで世界を支配してきた。
しかし、マヤは「言葉は難しい」と言い捨て、「行動」を重視するという。
行動には、言葉のような裏表がない。行動は、事実としてただそこに存在するだけだ。そこに読み取るべき「嘘」は存在しない。
言葉の裏を隠そうともせず、ただ行動という事実だけで世界と対峙する生き物。
カミキにとって、それは自分が干渉する隙を持たない、絶対的な異物だった。
――こいつは、計算して誠実なふりをしているのか?
カミキは、マヤの無防備な背中を睨みつけた。
計算ではない。もし計算なら、どこかに必ず綻びがある。
だが、マヤには嘘がない。嘘がないから、読むことができない。
――なぜだ? なぜ隠さない? こいつは本当に誠実なのか?
カミキの思考が、出口のない迷路の中で空回りし始める。
アイは「嘘をつかなくても人と一緒にいられる」という光を見出し、カミキは「嘘が存在しない世界」の理不尽さに苛立っている。
だが、当の神鬼マヤ本人はといえば。
「あー、腹減った。今日の弁当なんだろ?」
自分が放った言葉が、二人の同世代の心にどれほどの嵐を巻き起こしているかなど微塵も気づかないまま、ただ無邪気にケータリングの弁当箱の方へと視線を向けていた。
三人の間に横たわる、決して交わることのない温度差。
カミキが作り上げた「嘘の箱庭」は、マヤが放つ無自覚な熱によって、確実に、そして静かに溶け始めていた。