神鬼マヤが再びアメリカの撮影現場へ向かう日が来た。
ララライのスタジオの入り口で、マヤはいつもと変わらないラフな格好でスポーツバッグを肩にかけ、劇団員たちに手を振った。
「じゃあ、行ってくるな」
前回の出国時と同じ、まるでコンビニにでも行くような気軽な挨拶だった。
パイプ椅子に座っていた星野アイは、台本を膝に置いたままマヤの背中を見つめ、小さく唇を開いた。
「……うん」
そこで、アイの言葉がわずかに途切れた。
自分でも予期していなかった感情が、喉の奥につかえたのだ。
「……なんか、やだな」
ぽつりと、本当に何気なくこぼれ落ちたような声だった。
前回は「またね」と普通に見送れたはずなのに、今は、この底抜けに明るい青年が自分の視界からいなくなることに、微かな抵抗感があった。
アイの呟きを聞き逃さなかったマヤは、足を止め、振り返ってアイを見た。そして、大げさに心配するでもなく、ただ優しく歯を見せて笑った。
「すぐ戻るぞ」
その一言だけを残して、マヤはスタジオを出て行った。
扉が閉まった後も、アイはしばらくその扉を見つめていた。
そのアイの横顔を、カミキヒカルは冷ややかな目で観察していた。
マヤが不在となったこの数日間は、カミキにとってアイを再び自分の側に引き戻すための絶好の機会だった。「僕たちは互いに嘘をついている」という共犯関係。それこそが、カミキがアイの心に干渉するための唯一の絶対的なルールだった。
カミキは、アイの隣のパイプ椅子に静かに腰を下ろした。
「……また海外か」
同情を装った、甘く柔らかい声。アイは台本に視線を戻し、「うん。忙しいみたい」と短く返した。
カミキは、さらに一歩踏み込んだ言葉を投げる。
「寂しくない?」
これまでのアイであれば、この言葉の裏を必死に探っていたはずだ。
――寂しくないって言ったら嘘になる? 寂しいって言ったら、この人は私をどう扱う気?
そうやって相手の意図を推理し、互いの腹を探り合うのが、二人の間で行われていた「ゲーム」だった。カミキは、アイがどんな嘘の仮面を被って返してくるかを待ち構えていた。
だが、アイの口から出た言葉は、カミキの予想を完全に裏切るものだった。
「……うん」
「……本当に?」
「……なんか、やだな」
アイは、虚空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「マヤがいないの」
カミキの思考が、ピタリと停止した。
アイは、カミキに本音を見抜いてもらおうなどとは一切考えていなかった。ただ、自分の中に芽生えた一次感情を、そのまま口に出しただけだ。
常に「アイは何を隠している?」という前提で相手を観察しているカミキにとって、この無防備すぎる言葉は理解の範疇を超えていた。
(……え?)
(マヤのことを……? いや、でも、これは本心なのか?)
(それとも、僕にそう思わせようとしている嘘か?)
アイがとっくにゲームを降りていることに気づかず、カミキだけが一人で暗闇の中の推理を続けていた。カミキは焦りを隠すように、さらに問い詰める。
「……そんなに?」
「うん」
「マヤって、そんなに特別?」
カミキの問いに対し、アイは少しだけ首を傾げた。
「……知らない」
「知らない?」
「まだ、よく分かんない」
アイは、本当に分からないというように眉を寄せ、そして少しだけ考える素振りを見せてから、静かに言った。
「でも、いないと……なんか、やだ」
「好き」でも「愛している」でもない。ただ、「いないと嫌だ」という自分自身の感情を、アイは初めて明確に自覚していた。
そのアイの姿を見て、カミキは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
カミキの仕掛けた罠が、まったく機能していない。アイはもう、「相手が何を考えているか」を推理することに興味を失っている。「別に、相手の裏なんて分からなくてもいい」という世界へ、マヤの引力に引かれるようにして移動し始めている。
カミキの「君は本当は何を思っている?」という鋭い問いは、アイの「分かんない。でも寂しい」という圧倒的な事実の前に、ただ虚しく霧散するしかなかった。
```
*
```
その頃、アメリカの撮影スタジオ。
マヤは、周囲を取り囲むスタントマンたちを凄まじい速度の体術で次々となぎ倒していた。
流れるような身のこなしで最後の一人を地面に叩き伏せ、マヤはカメラに向かって感情を爆発させるように叫んだ。
「うおおおお!! 愛してるぞ!!!」
気迫に満ちた叫び声がスタジオに響き渡る。
数秒の静寂の後、監督のメガホンが鳴った。
「カット! 感情はすごく出てる! 迫力もある! ……でも、そこも違う!」
監督はマヤの演技を頭ごなしに否定するわけではない。、妥協せずに「その感情」を引き出そうとしていた。
マヤは構えを解き、頭を掻きながら天を仰いだ。
「?」
```
*
```
数日後。
ララライのスタジオの扉が開き、マヤが姿を現した。
「ただいまー!」
「おかえり」
パイプ椅子から立ち上がったアイの表情が、目に見えて明るくなった。
前回の帰国時よりも、ほんの少しだけ距離が近い。カミキは少し離れた場所から、その微かな、しかし決定的な変化をじっと見つめていた。
ストレッチを始めたマヤのそばで、アイがふと口を開いた。
「……ねえ、マヤ。なんでそんな動きができるの?」
アイは、マヤの常人離れした身体のバネや無駄のない動きの理由を、純粋な好奇心から尋ねた。
マヤはアイの問いを「才能だよ」や「感覚かな」といった曖昧な言葉でごまかすことはしなかった。マヤにとってアイは、庇護すべきか弱い少女などではなく、「歌や踊りという、自分にはない表現技術を持っている一人の対等な表現者」だったからだ。
「ん? まず重心だな」
マヤは真剣な顔つきになり、自分の身体を軽く叩きながら説明を始めた。
「足を動かす前に、身体の中心をどこに置くか決める。それから背中、腰、脚を一緒に連動させるんだ」
「……そんなこと考えてるの?」
「考えるぞ?」
マヤはあっさりと答え、「まあ、見てろ」と少し広い場所へ移動した。
そして、何の前触れもなく床を蹴った。
バク転、バク宙、そこから流れるように倒立へと移行し、音もなく着地したかと思えば、片足での見事なT字バランスで静止した。
一連の動きがあまりにも速く、滑らかすぎて、アイの目には途中経過がほとんど見えなかった。
「……はやすぎるよ……」
アイが呆然と呟くと、マヤは「ふむ」と顎に手を当てた。
「それ、姫川さんにも言われたわ」
その言葉には、世界的スターとしての驕りは一切なかった。
前回、「姫川さんに演技を見てもらったけど難しかった」と語っていたマヤは、今回もまた、自分より経験のある人間からの指摘を素直に受け入れていた。
相手が看板女優であろうと、アイドルの少女であろうと、マヤの態度は変わらない。「相手が分からないなら、分かるように説明する」。ただそれだけだ。
「もう一回教えて」
「いいぞ」
アイの言葉に、マヤは頷き、今度はゆっくりと身体の動かし方を分解して教え始めた。
アイが見よう見まねでやってみるが、重心がブレて体勢を崩してしまう。
マヤはそれを見て笑うことも、茶化すこともしなかった。
「そこじゃないな。足じゃなくて、先に腰を入れるんだ」
「腰……こう?」
「そうそう、そのまま」
マヤの的確な指導に従い、アイがもう一度動く。
今度は、先ほどよりもずっと綺麗に身体が連動し、アイはふわりと軽いステップを踏むことができた。
「……できた!」
アイが目を輝かせると、マヤは自分のことのように顔を綻ばせた。
「おお! すげーじゃん!」
心底からの賞賛だった。そこに「女の子だから褒めておく」といった打算や下心は一切ない。一人の表現者としての成果を、純粋に認めているのだ。
その光景を、カミキは鏡越しに凝視していた。
カミキはこれまで、人間とは演じるものであり、言葉には必ず裏があり、相手の本心は決して表面には出ないという世界で生きてきた。
しかし目の前のマヤは、「分からないなら教える」「できたなら褒める」「できないなら、できる方法を一緒に探す」ということを、何の疑いもなく、あまりにも自然に行っている。
そしてアイもまた、「この人は私を褒めて何を企んでいるんだろう?」と裏を読むのではなく、「どうやったらできる?」と真っ直ぐにマヤに問いかけている。
相手の裏を読み、嘘を暴き、本心を推理することで他者を支配してきたカミキ。
分からないことは本人に聞き、教え合い、一緒にできるようになることを喜ぶマヤ。
アイは今、完全に後者の世界へと足を踏み入れている。
それはカミキにとって、アイを奪われること以上の絶望だった。カミキの「やり方」そのものが、ここでは一切通用しないという現実を突きつけられているのだから。
マヤはカミキに対して「俺の方がアイを分かっている」と挑発するわけでもなく、アイに対して「俺だけを見ろ」と束縛するわけでもない。ただ「そこはこうやるぞ」と教えているだけだ。勝負すらしていないマヤに対して、カミキだけが勝手に比較し、勝手に敗北感を募らせていく。
「まぁーさ、お互い難しいことがあるってことだな」
マヤはペットボトルの水を飲みながら、ふはっと笑った。
「じゃーさ、俺がアイドルの格好してさ、歌って踊ってキレッキレだったとして、ひらひらがいっぱいついてる服を着てるの、想像してみな?」
「ぷっ……」
アイは想像したのか、思わず吹き出した。
「ちょっと動きが早すぎて、アイドルには見えないかも?」
「だろ? だから、ここ来てよかったかもな。姫川さんにも会えたし、演技の難しさもわかったし。……アイにも会えたし?」
「……私?」
アイが瞬きをすると、マヤは事も無げに頷いた。
「うん。面白いから。笑ったじゃん」
マヤは、自分の目の前に出会ったものを大切に拾い上げているだけだ。そのあまりにも自然な親愛の情に、アイの心に分厚く張られていた氷の壁が、また一つ音を立てて溶けていく。
「難しいことはよくわからないけどさ、笑顔にしたら勝ちじゃない?」
マヤは、スタジオの天井を見上げながら言った。
「つまりさ、俺、今ハリウッドで『愛してる~』って言わなきゃいけなくて、それ言うの難しいって話したろ? まさにさ」
「うん」
「アイは歌もうまい、演技もできる、踊れる。それで観客が喜んで笑顔になるなら、勝利? じゃね?」
「でも……」
遠くからその二人の姿を見つめていたカミキは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
自分がどれだけ頭を回し、計算を尽くしても決して得られなかったアイの心からの信頼を、マヤはただ普通に会話をしているだけで無造作に手に入れている。
(……僕には、あれができない)
カミキは、マヤの背中を睨みつけた。
なぜ、嘘をつかずにいられる? なぜ、あんなに無防備に人と関われる? あいつのこの異常な自然体の裏には、必ず何か隠された秘密があるはずだ。
マヤはただ誠実に、普通に生きているだけだ。しかし、カミキだけは「人間には必ず裏がある」という呪いから逃れられず、マヤの存在しない裏側を求めて、一人で果てのない深読みの闇へと沈んでいった。