劇団ララライのメインスタジオは、都内でも有数の広さを誇る。
壁一面に張られた巨大な鏡、磨き上げられたリノリウムの床、そして吹き抜けのように高い天井。数十人の劇団員が同時に発声練習を行っても音が濁らないように設計されたその空間の中央で、今はたった二人の息遣いだけが響いていた。
「違う。そこは足から入るんじゃない」
神鬼マヤの声が、静かなスタジオに響く。
彼は星野アイの背後に立ち、その姿勢を直すために手を伸ばした。
「足を動かす前に、ここの筋肉から連動させるんだ」
マヤの大きな手が、アイの太ももに触れる。
布越しであっても、その接触はひどく生々しい。だがマヤの指先には一切の邪心や躊躇いがなく、ただ「身体の重心」を教えるためだけの、極めて正確で事務的な動きだった。
さらにマヤの手は、アイの太ももから腰、そして肋骨のあたりへと無造作に滑り上がる。
アイドルの、それもうら若き少女の身体に対する接触としては、明らかに常軌を逸している。周囲で見学している劇団員たちが「えっ」と息を呑み、目を逸らすべきか迷うほどの、際どいスキンシップ。セクハラだと騒がれてもおかしくない距離感だ。
だが、触れられているアイ自身に、拒絶の気配は微塵もなかった。
「……こう?」
「そう。そのまま、俺の手を押し返すように力を入れてみろ」
「ん……っ、こう、だね」
アイは、マヤの手に自分の体重を預けるようにして身体を傾けた。
その瞳は熱を帯び、どこか心地よさそうに目を細めている。ビクッと身体を強張らせることもなく、マヤの体温と手のひらの感触を、まるで自分の身体の一部であるかのように自然に受け入れている。
言葉は交わされていない。
しかし、その圧倒的な身体の委ね方、互いの存在を当然のものとして前提に置いている空気感は、彼らが空白の数日間に『どのような段階』まで関係を深めたのかを、雄弁に物語っていた。
カミキヒカルは、スタジオの隅でその光景を凝視していた。
胃の腑が、粟立つような感覚に支配されている。
(……近い)
単なる物理的な距離の話ではない。
アイの、あの目だ。
かつて自分と接していた時の、常に相手の裏を探り、嘘の仮面を被り、ヒリヒリとした緊張感を孕んでいた目とは全く違う。
ただ、目の前の男の熱に溶かされ、無防備に身体を預ける女の目。
あんな表情を、カミキは一度も引き出せたことがない。どれだけ緻密に言葉を重ね、心理的な罠を張り巡らせても、アイの心の奥底にある氷を溶かすことはできなかった。
それが今、何の手品も使わない、ただそこに立っているだけの男によって、いとも簡単に溶かされ、明け渡されている。
「よし、いいぞ。その感覚だ」
マヤが手を離すと、アイはふわりと軽いステップを踏んでみせた。
先ほどまでブレていた軸がぴたりと定まり、無駄のない美しい動きが完成している。
「……できた」
「だろ? やっぱお前、すげぇわ」
マヤは自分のことのように顔を綻ばせ、アイの頭をポンと撫でた。
アイは嬉しそうに目を細め、マヤを見上げる。
「Thank you, アイ」
ふと、マヤが英語でそう呟いた。
そして、ごく自然な動作で身を屈め、アイの頬に軽く唇を落とした。
チュッ、という小さな音が、静寂に包まれたスタジオに響く。
凍りついたような空気が、稽古場に落ちた。
劇団員たちが、文字通り石像のように固まっている。アイドルの頬へのフランクすぎるキス。それが意味するものを、どう消化していいか分からずに全員の思考が停止した。
カミキの頭の中で、何かがぶつんと千切れる音がした。
その異様な空気を切り裂いたのは、パンッ、という甲高い柏手の音だった。
「ちょっとマヤくん! アメリカ帰りだからって、いくらなんでもスキンシップ激しすぎよ!」
姫川愛梨が、呆れたような、しかしどこかおどけた明るい声でスタジオの中央へと歩み寄ってきた。
その一言で、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
「あー、もう! びっくりするじゃない。日本ではそういう挨拶、まだ早いの! 変な勘違いされちゃうでしょ?」
「おっと」
マヤは頭を掻きながら、あっけらかんと笑った。
「悪い悪い。向こうの現場のノリが抜けなくてさ。つい、な」
「気をつけてよね、もう」
愛梨はため息をつくように言いながら、劇団員たちに向けて「ほらほら、休憩終わり! 次のシーンの立ち位置確認するわよ!」とパンパンと手を叩いて指示を出した。
その見事な手腕に、マヤは目を丸くした。
(……すげぇな、この人)
マヤは、愛梨の背中を見つめながら内心で感心していた。
自分が海外の現場のノリで突っ走ってしまったせいで、一瞬だけ稽古場に生まれた『アイドルのスキャンダル』的な不穏な空気を、愛梨は瞬時に「アメリカ帰りのノリ」という枠組みに収め、笑い話として消化してしまった。
世界的なスターとして、自分が動けば周囲の空気がどう歪むか、マヤは嫌というほど知っている。だからこそ、その空気を瞬時に読み取り、タレントを守るための適切なフォローを入れられる『有能な裏方』の価値を、誰よりも理解していた。
マヤの中で、一つの明確な結論が下された。
*
その日の夕刻。
ワークショップの全日程が終了し、劇団員たちが三々五々、帰路につき始めていた。
アイもまた、荷物をショルダーバッグに詰め込み、スタジオの扉へと向かって歩き出していた。
「……アイ」
扉の前に、カミキヒカルが立ち塞がった。
その顔には、いつものような余裕に満ちた笑みはない。焦燥と、得体の知れない苛立ちが、甘いマスクの奥から透けて見えていた。
「帰るの?」
「うん。お疲れ様」
アイの返事は、ひどく淡白だった。
カミキは、アイの瞳の奥を覗き込もうとした。自分に対する執着、あるいは自分への警戒、嘘をついているという罪悪感。何でもいい。何か一つでも、自分に繋がる感情の糸を見つけたかった。
「……ねえ、アイ。本当に、あんな男でいいの?」
カミキは、声を極限まで低くし、同情を誘うような響きを作った。
「彼は君を利用しているだけかもしれない。言葉にしなくても繋がっているなんて、ただの幻想だ。人間は、嘘をつかなければ生きていけない。君だって、それを分かっているはずだ」
カミキが放った、最後のアプローチ。
かつてのアイなら、この言葉に揺さぶられ、「この人は私の嘘を見抜こうとしている」と身構え、ゲームに乗ってきたはずだ。
しかし、アイの足は止まらなかった。
「……ごめん。ちょっとどいてくれる?」
アイは、カミキの言葉の裏を読むことすらしなかった。
そこにあったのは、圧倒的な『無関心』だった。
カミキが何を企んでいようと、何を言おうと、今のアイにとってはどうでもいいことだった。マヤがくれた、嘘をつかなくてもいい居心地の良い空間。ただ彼がいなくなるのが嫌だという、根っこの感情。それだけがあれば、もう嘘で武装して相手と探り合う必要などないのだ。
アイは、カミキの横をすり抜け、一度も振り返ることなくスタジオを出て行った。
清々しいほどに迷いのないその背中を見送りながら、カミキは自分が完全にピエロになったことを悟った。
箱庭は、完全に壊れた。
自分が手懐け、支配していたはずの少女は、もう二度と自分の手の届かない場所へ飛び去ってしまった。
*
そのアイの清々しい背中を見送った後、カミキがスタジオの空気に取り残されている中、マヤはパイプ椅子の近くで片付けをしていた姫川愛梨に声をかけた。
「愛理」
マヤは、親しみを込めて真っ直ぐに彼女の名前を呼んだ。
「さっきのフォロー、マジで助かったわ」
「もう、本当にヒヤヒヤしたんだからね。日本ではああいうの、すぐゴシップになるんだから」
「だよな。アイのアイドルスキャンダルも相当ヤバいだろうけど、今の俺が変な書かれ方したら、冗談抜きで世界的なニュースになっちまう。海外のメディアまで巻き込んだらララライにも迷惑かかるしな」
マヤは、自分が背負っている「世界的スーパースター」という看板の重さと、それが引き起こす被害の規模を誰よりも正確に把握していた。だからこそ、自分の突発的な行動や、海外のノリで生じる摩擦を瞬時に察知し、「アメリカ帰りのフランクな挨拶」という枠組みに収めてみせた愛理の手腕を、高く評価していた。
「愛理みたいにとっさに空気を読んで間に入ってくれる人がいると、すげぇ助かる。……だから俺、日本の活動拠点はここ、ララライにするわ」
「……え?」
愛理は、台本を片付けていた手を止め、大きく目を見開いた。
「マ、マヤくん……それって、うちの劇団に所属してくれるってこと!?」
「おう。面倒な手続きとかは任せるけど」
愛理の顔が、みるみるうちに紅潮していく。
世界的メガヒットシリーズの主演俳優。その彼が、自分たちの劇団を日本での活動拠点にする。プロデューサーとしての野心と、長年彼を見つめ続けてきた愛理個人の情熱が、一気に沸点に達した。
「ちょっと待ってて! 今、見せたいものがあるの!」
愛理は弾かれたように駆け出し、劇団の事務所スペースへと消えた。
そして数分後、両手で抱えるほどの分厚いスクラップ帳を何冊も抱えて戻ってきた。
「これ……!」
ドンッ、とパイプ椅子の上に置かれたそれを見て、マヤは目を瞬かせた。
表紙は擦り切れ、幾重にも付箋が貼られている。マヤが何気なくそのページをめくると、そこには新聞の切り抜きや、海外のマイナーな演劇雑誌の記事、ネットの翻訳記事などが、年代順にびっしりとファイリングされていた。
「これ……俺?」
「そうよ! マヤくんが十歳の頃、初めてあのアクション映画でスタントなしの立ち回りを見せた時から、ずっと集めてたの!」
愛理は、早口で熱弁を振るう。
あのバネ、重心の移動、カメラの収まり方。絶対にこの子は世界を獲るって、ずっと前から確信していた。いつか絶対にうちの舞台に呼びたかったのだと。
「すげぇ……」
マヤの口から、感嘆の息が漏れた。
そこに込められたプロデューサーとしての打算など、マヤの目には入らない。ただ、「自分の軌跡をこれほどまでに熱心に追いかけ、評価してくれていた人間がいた」という事実だけを、純度百パーセントの喜びとして受け取った。
「愛理、俺のこと、こんなガキの頃から見ててくれたのか」
マヤは、感極まったようにスクラップ帳から顔を上げると、そのまま愛理の肩を抱き寄せ、ギュッと力強くハグをした。
「Thank you、愛理」
先ほどアイに向けたのと同じ、英語でのストレートな感謝。そして、ごく自然な動作でヨーロッパ風の親愛の挨拶――お互いの頬と頬を軽く合わせる動作を交わした。
「きゃっ……! ちょ、ちょっとマヤくん!」
突然の熱烈なスキンシップに、愛理の顔が林檎のように真っ赤に染まる。
「もう、そういうところよ! ここは日本です!」
「おっと、あ、やば。ごめんごめん!」
マヤは慌てて身体を離し、あっけらかんと笑って頭を掻いた。
「マジで嬉しくてさ、つい向こうのノリが出ちまった」
このマヤの無自覚な立ち振る舞いは、結果として完璧なカモフラージュとして機能していた。
彼がこうして誰に対してもグローバルでフランクな愛情表現をする人間だと周囲に印象づけたことで、先ほどのアイへのキスすらも「特別なものではなく、マヤのただの挨拶」として劇団員たちの記憶の中で上書きされていく。
照れ隠しのように怒ってみせた愛理だったが、その瞳はひどく優しく潤んでいた。
「……でも、それだけ喜んでくれるなら、ずっと追いかけた甲斐があったわ」
愛理は、ふわりと柔らかい、心からの笑顔をマヤに向けた。
その笑顔を。そして、パイプ椅子に置かれたスクラップ帳を。
少し離れた場所から見ていたカミキヒカルは、まるで足元から床が抜け落ちていくような錯覚に陥っていた。
「すげぇ! めっちゃ嬉しいっすわ。ちょっとこれ、みんなに見せてもいいっすか? 清十郎さんにも見せようぜ!」
マヤは無邪気な子供のように笑い、スクラップ帳の一冊を手に取って振り向いた。
その先で、カミキヒカルが、幽鬼のような目でこちらを立ち尽くして見ていた。
マヤは気にも留めず、カミキにスクラップ帳を突き出した。
「ほら見てみろよ、カミキ君! 愛梨さん、俺が十歳の頃からずっとこれ作ってくれてたんだぜ? すげぇよな!」
(……あのスクラップ帳)
カミキは、それを見たことがあった。愛理の部屋で、彼女が大切そうに保管していたあのノート。
あの時、カミキは自分が愛梨にとって特別な存在だと信じていた。だが、あのノートの日付は、カミキが愛梨に拾われるよりずっと前の『十歳』から始まっていた。
カミキの頭の中で、すべての情報が最悪の形で結びついていく。
愛理が見せた、カミキには一度も向けたことのない、女としての笑顔。
自分を拾い、才能を褒め、愛してくれた日々。それはすべて、この神鬼マヤという『本物』を手に入れるまでの、ただの暇つぶしだったのか。
自分が誇りにしていた才能も、居場所も、すべては最初からこの男の代用品に過ぎなかったのか。
カミキの視界が、どす黒い憎悪で真っ赤に染まった。
気づけば、彼は二人の間に向かって歩み寄っていた。
「ふざけるな!!」
スタジオに、耳をつんざくようなカミキの怒声が響き渡った。
カミキはマヤの前に立ち塞がると、パイプ椅子の上に置かれていたスクラップ帳を、力任せに殴り飛ばした。
バサッ、というくぐもった音を立てて、分厚いノートが床に叩き落とされる。中から数枚の古い切り抜きが、無惨に床へ散らばった。
稽古場が、水を打ったように静まり返る。
劇団員たちが息を呑み、愛理も目を見開いて硬直した。
だが、マヤだけは表情一つ変えなかった。
マヤの透き通るような赤い瞳が、激昂して肩で息をするカミキを静かに見つめる。そこに怒りも、怯えも、敵意すらない。
ただ、ひどく凪いだ、平坦な視線だった。
マヤは、カミキに言葉を返すことなく、ゆっくりと膝を折った。
そして、床に落ちたスクラップ帳と切り抜きを一つずつ丁寧に拾い集め、表紙についた埃をそっと手で払った。
マヤは立ち上がると、カミキの存在など最初からそこにいないかのように完全に無視し、愛理の方へと向き直った。
「……俺、こういうのやられると本当に嬉しくてさ」
マヤは、愛理が作ってくれた宝物を愛おしそうに小脇に抱えると、もう一度、愛理の肩を軽く引き寄せてハグをした。
「Thank you、愛理」
カミキの怒号によって凍りついていた空気が、マヤのその揺るぎない明るさと感謝の言葉によって、一瞬にして塗り替えられた。
マヤが「カミキの暴走をただのノイズとして無視した」ことを察取した劇団員たちが、堰を切ったようにマヤの周囲へと集まり始める。
「ねえねえマヤさん! どれですか、十歳の時の記事って!」
「うわ、本当だ、ちっちゃい! でもこの時から顔立ち完成してるなぁ」
「愛梨さん、よくこんな海外のマイナー誌まで集めましたね!」
マヤを中心に、温かく賑やかな輪が広がっていく。
「だろ? 愛理マジですげーよな!」と笑うマヤの声が、稽古場に響く。
その明るい輪から、カミキヒカルは完全に弾き出されていた。
激怒してスクラップ帳を叩き落とした自分の行動すらも、反撃されるどころか、マヤの圧倒的な陽のオーラの前に「意味のない異物」としてあっさりと無効化され、風景と同化させられてしまった。
誰からも見向きされず、言葉すら掛けられない。
自分が大切に築き上げてきたはずの箱庭も、居場所も、すべてを奪われ、薄暗いスタジオの片隅で、カミキは一人きりで立ち尽くしていた。