第14話:ロックオンと蚊帳の外
都内の一等地にある、会員制のプライベートレストラン。
重厚なマホガニーのテーブルを挟み、神鬼マヤと姫川愛梨は向かい合って座っていた。
テーブルの上には、美しく盛り付けられたフレンチのコース料理が並んでいる。間接照明が落とされた薄暗い店内は、いかにも業界人が密談や逢瀬に使うような、艶やかな空気を纏っていた。
「マヤくん、お肉の焼き加減はどう? お口に合うかしら」
「ん、めっちゃ美味いっすよ。こういうところ、あんまり来ないんで新鮮ですね」
愛梨はワイングラスを傾けながら、熱を帯びた瞳でマヤを見つめていた。
ララライのプロデューサーとしての彼女の顔は、今日に限ってはひどく女を意識したものだった。胸元の少し開いたドレス、普段よりもワントーン落とした艶やかな声色。仕事の打ち合わせという名目で設定された食事の席だが、彼女の放つ空気は明らかにそれ以上の関係を期待させるものだった。
世界的なメガヒットシリーズの主演俳優。
ハリウッドの巨大な資本を背負いながらも、まだ十六歳という若さ。
愛梨にとって、目の前で豪快に肉を頬張るこの青年は、自分の劇団を世界レベルに引き上げる最高の切り札であり、同時に女としての本能を強烈に刺激する、極上の獲物でもあった。
「マヤくん、これから日本の活動も増えるでしょ? うちの劇団の若い子たちにも、世界レベルのアクションを教えてもらえると嬉しいわ。……もちろん、私もマヤくんの個人的なサポート、何でもするつもりよ」
愛梨は、テーブルの下で足を組み替え、マヤに向かってわずかに身を乗り出した。
その視線には、明確な誘いの色が混じっている。
これまで彼女は、才能のある年下の男たちをこの瞳で見つめ、手なずけ、自分の手駒にしてきた。優しく甘やかしてきた。
だが、マヤはフォークを止めることなく、あっけらかんと笑った。
「ああ、稽古なら全然見ますよ。でも俺、愛梨さんのプロデュース能力とか、現場を仕切る手腕、マジで助かってるんですよね。仕事のパートナーとして、すげぇ信頼してますわ」
「……仕事のパートナー」
「ええ。アメリカの連中にも、俺の日本の窓口は超優秀だから安心しろって言っときました」
マヤの透き通るような赤い瞳が、真っ直ぐに愛梨を見返した。
そこに、愛梨の女としての誘いに乗る色気も、逆に嫌悪する様子も、何一つない。
ただ純粋に、有能なビジネスパートナーとしての絶対的な評価だけが置かれていた。
愛梨の背筋に、微かな冷や汗が伝った。
目の前の男は、十六歳であっても、自分がこれまで手なずけてきた無力な少年たちとは次元が違う。ハリウッドのトップに君臨する、圧倒的な強者だ。
もしここで無理に踏み込み、彼の機嫌を損ねてしまえば、どうなるか。
マヤはあっさりとララライを去り、国際的なスキャンダルに発展すれば、劇団は一瞬にして吹き飛ぶ。
愛梨のプロデューサーとしての理性が、捕食者としての本能に冷水を浴びせた。
彼女は、マヤという『本物のVIP』に対して、自分の個人的な欲求を押し付けることの恐ろしさを悟った。絶対に失ってはいけない最大の利益を守るためには、自分はどこまでも「有能で綺麗なビジネスパートナー」でい続けなければならない。
「……ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ。プロデューサー冥利に尽きるわね」
愛梨は、女としての熱を孕んだ視線をすっと引っ込め、洗練された大人の笑みを浮かべ直した。
「じゃあ、これからもビジネスパートナーとして、しっかりサポートさせてもらうわね」
「よろしくお願いします。……あ、そういえば」
マヤは、ふと思い出したようにグラスの水を飲み干し、事も無げに言った。
「俺、好きな子がいるんで」
「……え?」
「いや、なんか最近、劇団の他の子たちからも変に気を使われるっていうか。俺、その子以外とどうこうなる気、全然ないんですよ。だから愛梨さんからも、うまく仕事だけの関係だって周りに言っといてもらえません?」
その言葉は、牽制ですらなかった。
ただの事実の共有。好きな子(アイ)がいるから、それ以外の人間とは仕事以外の関係にはならないという、圧倒的でシンプルな一途さの宣言だった。
愛梨は、一瞬だけ硬直し、やがてふっと息を吐き出した。
「……そう。一途なのね、マヤくんは」
「まあ、そうっすね」
愛梨の心の中にあった僅かな野望の残り火も、この瞬間、完全に消え去った。
彼女はもう二度と、マヤに対して女としての隙を見せることはないだろう。
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数日後。ララライの事務所。
カミキヒカルは、パーテーションの陰から、執務スペースでの光景をじっと見つめていた。
「マヤくん、来月のスケジュールなんだけど、ここの取材はキャンセルしておいたわ。アメリカとの時差もあって負担になるでしょうし」
「お、マジすか。助かりますわ、愛梨さん」
「いいのよ。マヤくんには万全の状態で舞台に立ってもらわないと困るもの」
愛梨は、マヤに対して完璧な敬意と配慮を持って接していた。
声を荒げることもなく、大人の女としての駆け引きを仕掛けることもない。ただ、機嫌を損ねないように、最高の環境を整えるためだけに立ち回っている。
カミキの胃の腑が、ギリギリと音を立てて軋んだ。
(……なんだ、あれは)
カミキは、自分の両手を見下ろした。
十四歳の、まだ骨ばった小さな手。
愛梨はかつて、カミキに対しては平気で大人の汚い部分を押し付け、精神的に支配し、手なずけてきた。カミキはそれを、自分が『特別な才能を持っているからだ』と思い込もうとしていた。
だが、現実は違った。
(俺に手を差し出されたのは……俺が、逆らうことすらできない無力な子供だったからだ)
本当に価値のある、絶対に失いたくない『本物』を前にした時、愛梨は傷つけることも汚すことも恐れ、ただひれ伏している。
自分は、マヤの代用品ですらなかった。
ただ、強者に手を出せない愛梨が、安全に欲を満たすために選んだ『手頃な弱者』でしかなかったのだ。
カミキの唇から、血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。
惨めだった。自分が箱庭だと思っていた世界は、最初から自分のものではなかった。才能も、居場所も、自尊心も、神鬼マヤという男が持つ巨大な力の前では、塵芥のように意味を持たない。
真っ向から挑んで勝てる相手ではない。腕力でも、権力でも、愛梨という存在の庇護においてすら、カミキはマヤの足元にも及ばない。
カミキの視界が、どす黒い憎悪で塗り潰されていく。
この圧倒的な光に、どうすれば一矢報いることができるのか。
どうすれば、この涼しい顔をした男を、自分と同じ絶望の淵に引きずり降ろすことができるのか。
(……アイ)
カミキの脳裏に、かつての共犯者であり、今はマヤの隣で無防備に笑う少女の顔が浮かんだ。
マヤが唯一、自分から執着を見せ、「他の女性たどうこうなる気はない」とまで言い切った存在。
あの男が、命よりも大切にしているもの。
カミキの瞳の奥に、暗く冷たい炎が宿った。
パーテーションの陰から音もなく身を翻し、カミキは薄暗い廊下へと姿を消した。