数十年後のある日
深夜の静寂に包まれた、都内一等地の高級マンション。
分厚い絨毯が敷き詰められた廊下は、足音ひとつ立てないほどの静けさを保っていた。空調の微かな稼働音だけが耳を撫でる、温度のない無機質な空間。
その仄暗い廊下の突き当たり。寝室の重厚なマホガニーの扉が、ほんの数センチだけ開いていた。
隙間から漏れ出す、蜂蜜色の間接照明の灯り。
そして、嗅覚を麻痺させるような、むせ返るほど甘く重い熱の匂い。高級な香水の香りと、男女の汗、そして理性を溶かしたような艶やかな気配が、その細い隙間から廊下の冷たい空気の中へと這い出してきていた。
その光景を、扉の隙間に張り付くようにして目の当たりにしていた男がいた。
カミキヒカル。
暗がりに立ち尽くす彼の端正な顔は、嫉妬と憎悪、そして底知れぬ絶望によって、見る影もなく歪みきっていた。
ギリッ、と奥歯が鳴る。強く握りしめすぎた拳の爪が手のひらに食い込み、生温かい血が滲んでいる。だが、そんな痛覚などとうに麻痺していた。
(……俺が、寝取るはずだったのに……!)
カミキの網膜に焼き付いているのは、寝室のベッドの上で微睡む神鬼マヤと、彼に寄り添う姫川愛理の姿だった。
愛理の表情は、カミキが知っている『彼女』のそれではなかった。
劇団を牛耳る冷徹なプロデューサーの顔でもなく、才能ある少年を手なずける捕食者の顔でもない。今の彼女は、ただ一人の圧倒的な強者――神鬼マヤという男の下に完全にひれ伏し、身も心もメロメロに溶かされた、ただの無防備な女の顔をしていた。
カミキには一度も見せたことのない、とろけるような熱を帯びた表情。あの男にすべてを委ね、彼の子供を宿すことすら望んでいるような、盲目的で幸福な眼差し。
カミキの胃の腑が、どろどろと焼け焦げるような感覚に襲われる。
自分が愛理の嘘に付き合い、あの女を操り、いつかはこの劇団のすべてを、そして彼女の心を完全に支配して自分のものにするはずだった。あの女にとって、自分こそが裏側を共有する特別な『共犯者』であると信じ込んでいた。
だが、現実はどうだ。
愛理にとって、カミキの存在など最初から歯牙にもかけられていなかったのだ。
自分は、愛理にとっても、この世界にとっても、ただの「代用品」ですらなかった。完全なる蚊帳の外。
足元の床が音を立てて崩れ落ち、無限の暗闇へと落下していくような無力感。冷たい絶望が、カミキの全身の血液を凍りつかせていた。その場から一歩も動けず、呼吸すら忘れて立ち尽くすことしかできない。
その時だった。
「――ねえ、いつまでそこにいるつもり?」
冷たく、ねっとりと湿った声が、扉の向こうから投げかけられた。
ビクリと、カミキの肩が跳ねる。ハッと顔を上げると、いつの間にかベッドから身を起こし、上質なシルクのガウンを羽織り直した愛理が、隙間からこちらを見据えていた。
彼女の冷ややかな視線が、カミキを射抜く。少し乱れた髪の隙間、熱を帯びた白い首筋で、先ほどマヤにつけられたばかりであろう銀色のピアスが、微かな光を反射しておぞましく輝いていた。
「……っ」
「何見てんのよ、クズストーカーが」
愛理の瞳には、かつてカミキに向けられていた気まぐれな優しさや、甘やかすような色の欠片もなかった。
そこにあるのは、路地裏に這いつくばる害虫を見下ろすような、底冷えのする完全な侮蔑だけだった。
「もうここに来ないでちょうだい。目障りなのよ。あなた、よくもまあ抜け抜けとここにいられるわね? その神経、本当にすごいわ」
「愛理、僕は……」
「名前を呼ばないで。気色が悪いわ」
絶対零度の声で言い放つと、愛理は扉のノブに手をかけた。
バタンッ!!
鼓膜を劈くような激しい音を立てて、寝室の扉が閉ざされた。
カミキの顔の目の前で、彼が縋り付こうとしていた「特別な居場所」は完全に遮断された。
閉ざされた扉の向こうからは、満足げな男の寝息と、甘い熱の残臭だけが、カミキを嘲笑うように漂ってくる。
行き場を失った絶望と、喉の奥から込み上げるどす黒い怒り。カミキはそれを無理やり飲み込み、ガタガタと震える足を引きずって、暗い廊下の奥へと逃げるように背を向けた。
もう、ここにはいられない。すべてが壊れた。
だが、カミキが暗闇へ向かって一歩を踏み出そうとした、まさにその瞬間だった。
「――おい、カミキ」
背後で、カチャリと重い扉が開く音がした。
低く、よく響く男の声。
カミキの足が、床に縫い付けられたように止まる。恐る恐る振り返った先には、寝室の扉を開け放ち、半裸のまま廊下に姿を現した神鬼マヤが立っていた。
彫刻のように鍛え抜かれた肉体。その腕の中には、マヤの背中にすがるようにして寄り添う愛理の姿があった。マヤはごく自然な動作で、愛理の肩を抱き寄せている。
「逃げんなよ」
マヤの透き通るような赤い瞳が、逃亡を図ったカミキを真っ直ぐに見据えていた。
そこに怒りはない。ただ、ひどく冷静で、圧倒的な強者としての静かな圧だけがあった。
「お前、人をなんだと思ってんの? 家庭壊したいとか、意味がわかんねえんだけど」
マヤの言葉は、何の装飾もない物理的な打撃となってカミキの胸を打った。
「いまの愛理は、ちゃんと清十郎さんと離婚して、法的にフリーだ。お前とは何の関係もないだろ? だって、お前ら一度も抱き合ってすらいねえんだからよ」
「……な、にを」
「俺がララライに所属したせいで、お前が愛理を狙ってたの、バレバレだったからさ。だから全部整理させたんだよ」
カミキの呼吸が浅くなる。
マヤは、すべてを知っていた。カミキが愛理を利用しようとしていたことも、その裏でドロドロとした嘘を巡らせていたことも。その上で、マヤは「面倒だから」という理由だけで、清十郎との離婚を法的に処理させ、カミキの入り込む隙を完全に物理で塞いでいたのだ。
マヤの腕の中で、愛理がうっとりとした瞳でマヤを見上げた。
「マヤくん……そんな風に私を見てくれていたのね……。でも、アイちゃんには……少し悪いと思ってるけど」
「アイは知ってるよ。あいつが言ったんだ。『愛理さんを、あのクズ野郎の嘘から救ってやって』ってな」
その言葉に、カミキの心臓が早鐘のように跳ねた。
「アイが……なんで……?」
アイは、自分が裏で糸を引いていることなど知らないはずだ。自分とアイの間には、誰も知らない共犯関係の秘密があったはず。なぜ、アイがカミキを『クズ野郎』だと認識しているのか。
マヤは、ふっと冷笑を浮かべた。
「お前が宮崎によこしたリョウスケだよ。あいつ、警察で全部吐いたぞ。お前が裏で唆してたってな。ほんと、とんでもねえクズ野郎だな、お前」
カミキの視界が、ぐらりと揺れた。
リョウスケが捕まったのは知っていた。だが、あそこまで狂信的な男が、まさか自分との繋がりをあっさりと自白するなんて。
自分が完璧だと思っていた心理的な支配は、マヤという現実の暴力(警察と警備)の前に、あまりにも脆く崩れ去っていたのだ。
「アイからの伝言だ」
マヤの声が、廊下の冷たい空気を切り裂いた。
「『気持ち悪い』。……それだけだ」
ドクン、と。
カミキの中で、最後に残っていた細い細い自尊心の糸が、音を立てて断ち切られた。
気持ち悪い。
かつて愛した少女からの、これ以上ない絶対的な拒絶。裏切られた怒りですらない。ただの、生理的な嫌悪。
アイにとって、カミキはもはや『憎むべき敵』ですらなく、ただの『処理すべきゴミ』へと成り下がっていた。
崩れ落ちそうになるカミキを他所に、愛理はマヤの胸元に顔を埋め、熱に浮かされたような声で囁いた。
「嬉しい……。愛してます、マヤくん。アイちゃんが本妻でも、私、愛人でもいいわ……。ただ、ずっとそばに置いて……」
「馬鹿。俺はアイ一筋だって言ってんだろ。お前は優秀なビジネスパートナーだ。……まあ、たまにはこうして息抜きに付き合ってやるけどな」
「ふふっ……それでもいいの。私を、マヤくんのものにして……」
その光景は、カミキにとって地獄そのものだった。
プライドが高く、男を支配することしか考えていなかった愛理が、マヤの『愛人(二番目)』であることに至上の喜びを感じ、縋り付いている。
自分が手に入れようとしていた世界は、最初から存在しなかった。
アイにも見捨てられ、愛理にもゴミとして扱われ、マヤという圧倒的な太陽の前に、ただ焼き尽くされた。
「……あ……あぁ……っ」
カミキの口から、意味を成さない乾いた呻き声が漏れる。
もはや、憎悪すら湧いてこなかった。
ただ、絶対的な敗北感と、自分の存在そのものが無価値であるという事実だけが、カミキの精神を完全に破壊した。
マヤが扉を閉める音も、カミキの耳には届いていなかった。
高級マンションの冷たい廊下で、カミキヒカルは糸の切れた操り人形のようにへたり込み、永遠に明けることのない暗闇の中、ただ一人、音もなく慟哭し続けていた。