むせ返るような夏の湿気と、古びた畳の匂い。そして、一階の居間から微かに漂ってくる線香の香りが、雨宮吾郎の日常だった。
田舎の夜は暗く、そして酷く重い。
開け放った窓から聞こえてくるのは、けたたましいカエルの合唱と、時折遠くの国道を走り抜ける大型トラックのくぐもった走行音だけだ。
薄暗い四畳半の自室。机の上に広げられた分厚い医学書を照らすデスクライトの冷たい光だけが、今の吾郎にとって唯一の確かなものだった。
ペンの裏でコツコツと額を叩きながら、十五歳の吾郎は解剖図のページを睨みつけていた。
人体の骨格、筋肉の繊維、神経の配置。それを一つ一つ脳内に叩き込んでいく作業は、決して知的好奇心から来る前向きなものではない。吾郎にとっての勉強は、ほとんど自罰的な儀式だった。
自分が生まれなければ、母さんは死なずに済んだ。
物心ついた時から、吾郎の背中には常に見えない重力がのしかかっていた。
父親の顔も名も知らない。自宅の布団の上で吾郎を産み落とし、そのまま息絶えたという母親の顔は、仏壇に飾られた色褪せた遺影でしか見たことがない。祖父母は吾郎を大切に育ててくれたが、だからといって彼自身の内側にある原罪感が消えるわけではなかった。
自分は、他人の命を奪ってこの世に存在している。
ならば、せめて将来、他人の命を救う医者にならなければ、自分が息をしてご飯を食べていることすら許されないのではないか。
その強迫観念だけが、吾郎を医学の道へと駆り立てていた。
「……駄目だ、頭に入んねえ」
吾郎はペンを放り投げ、深くため息をついた。
首の後ろを揉みほぐすと、凝り固まった筋肉がバキバキと嫌な音を立てる。将来命を救うための知識を詰め込めば詰め込むほど、人間の身体の脆さ、命の儚さが浮き彫りになり、息苦しさが増していく。
気分転換が必要だった。
吾郎はパイプ椅子から立ち上がると、軋む階段を降りて台所へ向かった。
暗い居間の奥で、仏壇の豆電球だけが赤い光を放っている。吾郎はそれを見ないようにしてヤカンに火をかけ、戸棚から安物のカップ麺を取り出した。
湯が沸くまでの間、鼓膜にへばりつくような静寂に耐えきれず、無造作に置かれていたテレビのリモコンを手に取り、電源を入れる。
深夜の映画枠だった。
ブラウン管の画面がパッと明るくなり、派手な炎のエフェクトと共に、やたらと威勢の良いコテコテのナレーションが静かな台所に響き渡った。
『ワイヤー!? なんだそれ! 少年・神鬼マヤが魅せる本物の忍者アクション!』
『さぁ! 君達も飛び込め忍者の道! 龍星との成長の物語!』
吾郎は思わず眉間を寄せた。
画面にはデカデカと、極太の明朝体でダサすぎるタイトルロゴが躍っている。
『流星忍者 第一章:流星きたる』
『全七章の壮大な幕開けを見逃すな!』
吾郎はヤカンの火を止めながら、鼻で笑った。
ワイヤー!?なんだそれ!ではない。どう考えてもワイヤーアクションが前提の、子供向け特撮かB級映画に決まっている。しかも「第一章」と銘打って全七章構成の大風呂敷を広げている時点で、大人の目線からすれば爆死の予感しかしない。
どうせ第三章くらいで予算が尽きて打ち切られるパターンだ。
斜に構えた高校生の吾郎は、カップ麺にお湯を注ぎながら、退屈しのぎにそのダサい映画を眺めることにした。
CMが明け、映画の本編が再開される。
画面に映し出されたのは、ニューヨーク郊外の広大なスタジオに莫大な製作費を投じて組まれたという、どこか異国情緒の混ざった荒廃した江戸の町並みだった。
着物姿の町人たちが、野盗のような柄の悪い男たちに囲まれて震え上がっている。典型的な、海の向こうの人間が夢想した「SAMURAI」と「NINJA」の世界。
そこへ、古風な瓦屋根の上から一つの影が飛び降りてきた。
現れたのは、十歳前後の少年だった。
燃えるような赤い髪を両サイドで短く刈り込んだ、異様によく目立つ頭。画面の隅に、親切にも『龍星(リュウセイ)/神鬼マヤ』と太文字のテロップが表示される。
「……なんだあの名前」
吾郎はズズッと麺をすすりながら、眉をひそめた。
神の鬼と書いて、マヤ。役名も龍の星で、リュウセイ。中二病をそのまま煮詰めたような字面だ。さっきのCMで喚いていた『少年・神鬼マヤ』とはこいつのことか。
「なんだあの髪色。時代劇設定無視かよ。これだからアメリカ人の作る日本映画は……」
呆れたように鼻を鳴らす。
どうせ中身も大味で、CGとハッタリだけで押し切る子供騙しのエンタメに決まっている。これ以上付き合う価値もないか、と箸を動かそうとした。
まさに、その瞬間だった。
画面の中の野盗たちが、一斉に少年に斬りかかった。少年――龍星は、刀を抜くことすらなく、その場からふわりと跳躍した。
吾郎の箸が、ピタリと止まる。
「……え?」
龍星は壁に足をつけた。
――タタタッ。
垂直な壁を三歩、駆け上がる。
空中で身体を捻り、野盗の刀をミリ単位で躱す。
そのまま背後にある瓦屋根の上へと落下していく。
トン。
軽すぎる着地だった。
「……ワイヤーじゃない」
吾郎の目が変わった。
足首から膝、股関節。
一瞬の動きの中で、身体の軸が一度も崩れていない。
ハーネスで吊り上げられた際の不自然な引っ張られ方が一切ない。瓦に触れた瞬間に膝と股関節のクッションを使って衝撃を完全にゼロにしていた。
「……こいつ、自分の脚だけでやってるのか?」
吾郎はカップ麺をテーブルに置き、テレビの画面ににじり寄った。
「今の重心移動、ワイヤーじゃ絶対に無理だ……じゃあなんだ、CGか? いや、生身の筋肉の躍動だぞあれは……!」
そこからのアクションは、吾郎の常識を木っ端微塵に粉砕していく暴風だった。
龍星は野盗の群れの中に自ら飛び込んでいく。
大振りの斬撃に対して、龍星は全く力まない。相手の腕の動き、重心の傾きを完全に見切り、攻撃が届く直前の死角へと滑り込む。
野盗の太い腕を小さな両手で下からスッと押し上げる。ただそれだけで、男の体勢が大きく崩れ、自分自身の突進の勢いに負けて宙を舞う。
打撃、投げ、関節の極め。すべてが最小限の動きで、最大限の効果を生み出している。無駄な力が一切入っていない。殺意すら感じさせない、ただただ淀みのない理の体現。
人間は、骨と筋肉をこれほどまでに美しく、完璧に制御できるのか。
吾郎は息をするのも忘れて、ブラウン管の中の少年に魅入っていた。
暗い部屋の中で、テレビの光だけが吾郎の顔を照らしている。
やがて、数分間に及ぶ圧倒的な立ち回りが終わった。
野盗たちは全員が地に這い蹲り、恐れをなして逃げ出していく。
残された町人たちは、自分たちを助けてくれたにもかかわらず、その人間離れした強さを持つ龍星に対して怯え、後ずさっていた。
無理もない。吾郎だって、目の前であんな怪物じみた動きを見せられたら恐怖を覚える。
普通なら、ここで主人公は哀愁を漂わせ、孤独を背負いながら無言で立ち去る場面だ。
画面の中の龍星が、ゆっくりと町人たちの方を振り返った。
その顔を見て、吾郎の心臓が大きく跳ねた。
龍星は、怯える人々を見て少しだけ困ったように眉を下げると、額の汗を拭い、屈託のない明るい笑顔を見せた。
『怪我はないか? よかった!』
龍星は笑っていた。
本当に嬉しそうに。
吾郎は、しばらく何も考えられなかった。
――よかった。
その言葉が、妙に胸に残った。
将来、自分が医者になって人を救おうと考えるとき、いつも頭にへばりついていたのは母の「死」だった。
なのに、この少年は違う。
生きていることを、ただ喜んでいる。
ただ目の前で、人が生きていてくれたこと。無事だったこと。
それだけを、心の底から嬉しそうに笑っている。
吾郎の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
十五歳の吾郎にとって、「将来、医者になって命を救うこと」は重い十字架だった。自分の青春をすり減らしてでも成し遂げなければならない、母への贖罪のはずだった。
だからこそ、吾郎の毎日は息苦しく、常に薄暗い自室の机の上で孤独に耐え続けなければならなかった。
だが、画面の中の赤髪の少年は、その重力をいとも簡単に跳ね除けてみせた。
重力も、理不尽な暴力も、死の恐怖も、己の肉体一つで軽々とねじ伏せ、そして誰かを救うことを心から楽しんで笑っている。
吾郎の目から、不意に視界を滲ませるものが溢れそうになった。
慌てて目元を乱暴に拭う。
人を救う道は、こんなにも軽やかで、温かくて、笑っていいものだったのか。
背中にずっと張り付いていた鉛のような罪悪感が、フッと軽くなるのを感じた。息を吸い込むと、夏の夜の空気がいつもよりずっと深く肺の奥まで入ってくる。
エンディングテーマが流れ出し、画面にスタッフロールが昇っていく。
吾郎は、すっかり冷めきって麺が伸びたカップ麺の容器を手に取り、それをゆっくりと口に運んだ。
冷たいスープの塩辛さが、今の吾郎には不思議と美味しく感じられた。
『主演 神鬼マヤ』
画面の端に流れていったその名前を、吾郎は網膜に焼き付けるように見つめた。
ダサいタイトルだの、すぐに打ち切られるだのと笑っていた十数分前の自分がひどく滑稽に思えた。打ち切られるわけがない。この男の強さとあの笑顔は、間違いなく世界を呑み込む。
吾郎は、テレビの電源を切ることも忘れ、空になったカップ麺の容器を持ったままニッと笑った。
「お前、すげえよ」