どんよりとした鉛色の雲が、都内の空を重く覆い尽くしていた。
警察署の裏通りにひっそりと停められた古びたセダンの車内には、ツンとしたカビの匂いと、何日も風呂に入っていない人間のすえた臭いが充満している。
「ほ、本当にいけるのか……? カミキ君」
後部座席で膝を抱えるように丸まった男――リョウスケは、ガタガタと小刻みに肩を震わせながら、隣に座る少年にすがりつくような視線を向けた。
落ちくぼんだ眼窩、焦点の定まらない濁った瞳。彼の両手は、見えない何かに怯えるように力なく宙を掻いている。
「俺、もう捕まりたくない……。あの男は……あいつは人間じゃない、殺される……っ」
「大丈夫だよ、リョウスケさん。落ち着いて」
カミキヒカルは、ひどく穏やかな、まるで傷ついた小鳥を宥めるような声音で囁いた。
彼は自らの全財産をはたき、さらにリョウスケの親族に巧妙な嘘を吹き込むことで保釈金を工面し、この男をシャバへと引きずり出した。すべては、自分の手を汚さずに盤面を動かすためだ。
「アイは僕たちを裏切ったんだ。僕たちの純粋な愛を捨てて、あんな野蛮な男のところに逃げた。……許せないよね?」
「あ、ああ……許さない。アイちゃんは、俺の……」
「でもね、あいつらは今、どこかに隠れてるんだ。リョウスケさんが直接会いに行くのは難しい」
カミキは、車の窓を打つ冷たい雨粒から視線を外し、リョウスケの耳元へと顔を寄せた。
「だから……あの宮崎の医者を狙うんだ。あいつなら、アイの居場所を知っているはずだ。それに、あいつを殺せば、アイの心は確実に壊れる」
「い、医者を……?」
「そう。アイの大切なものを、リョウスケさんの手で奪ってあげるんだよ。そうすれば、アイはきっと僕たちの元に帰ってくる」
カミキの唇の端が、暗闇の中で三日月のように吊り上がった。
自分が世界を回している。人間の運命を支配している。その歪んだ全能感が、カミキの脳髄を甘く痺れさせていた。
吹き込まれた猛毒を飲み込んだリョウスケの瞳に、再びドロドロとした狂気の火が灯るのを、カミキはただ満足げに見つめていた。
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同じ日の夜。都内にある、厳重なセキュリティに守られた高級マンションの一室。
ベビーローションと甘いミルクの匂いが漂う薄暗い寝室で、ベビーベッドに寝かされた赤ん坊が、手足をバタつかせて激しい癇癪を起こしていた。
「あーっ! あーっ!」
不快感を訴えるような、甲高い泣き声。
その小さな身体の奥底から込み上げる感情の昂ぶりに呼応するように、赤ん坊――アクアの瞳に宿る星型のハイライトが、チカチカと異様な光を放ち始めた。
やがて、その瞳孔は血のような『深紅』に染まり、部屋の暗がりの中で妖しく発光する。
バタン、と静かに扉が開いた。
「あらら、どうしたの? お腹すいたのかな?」
部屋に入ってきたのは、アイだった。
彼女は、暗闇で真っ赤に光る我が子の異常な瞳を見ても、一切怯えることなく、むしろ心底愛おしそうな笑みを浮かべてベビーベッドを覗き込んだ。
「ふふ、パパと一緒なのね。よしよし」
アイは、深紅の光を放つアクアを柔らかく抱き上げ、ゆっくりと背中を叩きながら子守唄を口ずさみ始めた。
規則正しいトントンというリズムと、世界で一番優しい母親の声。
その温もりに包まれると、アクアの瞳からスッと赤い光が引き、元の穏やかな色へと戻っていく。アイの胸元に顔を擦り付けながら、赤ん坊は再び静かな寝息を立て始めた。
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宮崎の夜は、氷のように冷たい雨に沈んでいた。
当直明けの雨宮吾郎は、傘を打つ雨音を聞きながら、人気のない病院の裏路地を歩いていた。
疲労で重い足取り。冷え切ったアスファルトの上を、靴音が単調なリズムを刻む。
不意に、背後の水たまりを激しく蹴り上げるような、荒々しい足音が近づいてきた。
振り返る暇すらなかった。
ドンッ、と背中を強く突き飛ばされるような鈍い衝撃。
直後、内臓を直接かき回されるような鋭く熱い痛みが、吾郎の全身を貫いた。
「が、はっ……!?」
手から傘が滑り落ち、吾郎の身体は冷たいアスファルトに崩れ落ちた。
傷口から止めどなく溢れ出す血液が、雨水と混ざり合って足元へ広がっていく。痛覚すらも麻痺していく中、吾郎の耳に、狂ったような男の叫び声が鼓膜を打った。
「やった……! やってやったぞ! これで、これでアイちゃんは俺たちの元に……ッ!」
血まみれの刃物を手にした見知らぬ男が、歓喜とも絶望ともつかない奇声を上げながら、夜の闇へと逃げ去っていく。
誰なのか。なぜ刺されたのか。
何も分からないまま、吾郎の視界は急速にぼやけていく。ただ、街灯の光が滲む中、急激に奪われていく体温だけが、自分の死を明確に告げていた。
バサバサと、雨音を切り裂くような黒い羽ばたきが聞こえた。
薄れゆく吾郎の視界に、一人の少女のシルエットがふらりと現れる。
黒い着物を纏った、カラスのような少女。
彼女は、血だまりの中で息絶えようとしている吾郎を見下ろし、酷薄に、けれどひどく満足げににっこりと微笑んだ。
「……ふふっ。これで正しい。因果は繋いでおいてやるよ」
少女の言葉は、雨音に溶けていくように遠かった。
彼女がそっと手をかざした瞬間、吾郎の意識は完全な暗闇へと沈み込んだ。
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――ふんわりとした、最高級のコットンの感触。
アクアは、薄暗いベビーベッドの中でゆっくりと目を開けた。
視界はひどくぼやけており、自分の手足すら思うように動かせない。
頭の奥には深い霧が立ち込めている。自分が誰だったのか、はっきりとした輪郭を結ばない。ただ、胸の奥底にぽっかりと空いた「とてつもない喪失感」と、本能的にミルクや温もりを求める「赤ん坊としての自我」だけが、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
上手く思考がまとまらないまま、アクアの意識は再び微睡みの底へと引きずり込まれていく。
そして、その悪夢は唐突に訪れた。
『――アイッ!!』
夢の中で、玄関の扉が開く。
見知らぬ男が握りしめた刃物が、美しい少女の腹部を深々と貫く。
飛び散る鮮血。床に崩れ落ちるアイ。
その惨劇の背後で、暗闇に溶け込むように浮かび上がる「黒い星の瞳」を持つ男の顔。
(なんだ……こいつは、誰だ……っ!?)
極限の恐怖と絶望が、アクアの小さな身体を内側から食い破るように膨張した。
魂に直接刻み付けられた呪いのようなその映像は、赤ん坊の脆弱な精神を容易くパニックへと陥れた。
「あ、あああぁぁぁぁぁっ!!」
アクアは喉が裂けんばかりの絶叫を上げ、ベビーベッドの中で激しく身をよじった。
先ほどの癇癪とは違う、魂の底から絞り出された異常な泣き叫び。
極限の恐怖に呼応するように、アクアの瞳が再びドロドロとした『深紅』に染まり、暗闇の中で妖しく発光した。
怖い。アイが死んでしまう。あの黒い星の瞳が、すべてを奪っていく。
泣き叫ぶアクアの声は、静まり返った部屋に虚しく響く。誰も来ない。この絶対的な孤独と恐怖から、誰も助けてはくれない。
そう思った、その時だった。
「――おいおい、どうした。怖い夢でも見たか?」
不意に、暗闇の中から低く穏やかな声が降ってきた。
次の瞬間、ベッドの柵越しに差し込まれた大きく分厚い手が、泣き叫ぶアクアの身体をふわりと抱き上げた。
アクアの深紅に染まった瞳が、涙越しにその人物を捉える。
異国の香水と、微かな汗の匂いが混ざった、独特の香り。
抱き上げられた胸板は岩のように硬く、そこから伝わってくる体温は、火傷しそうなほどに力強く、圧倒的な熱量を持っていた。
混濁したアクアの意識は、目の前の大きな男を「父親」として認識しなかった。
赤い髪。暗闇でも鋭く光る瞳。
それは、絶望の底にいた自分をいつもスクリーンの中から救い出してくれた、絶対的なヒーロー『龍星』そのものだった。
「大丈夫だ」
男は、怯えて震えるアクアの背中を、大きな手のひらでゆっくりと叩いた。
「今を見ろ。全部現実だぞ」
ドクン、ドクン、と。
耳元で響く、力強く規則正しい心音。
その声と体温に包まれた瞬間、得体の知れない悪夢の幻影は、まるで強烈な太陽の光に灼かれたように、影すら残さずに消え去っていた。
アクアの瞳から、スッと深紅の光が引いていく。
喪失感も、恐怖も、今はどうでもよかった。ただ、この絶対的なヒーローの腕の中に抱かれていたい。
アクアは小さくしゃくりあげながら、分厚い胸元に顔を埋め、静かに安らかな眠りへと落ちていった。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びてアクアが目を覚ました時、すでに部屋のどこにもその男の姿はなかった。
それが現実だったのか、夢の中の幻影だったのか。曖昧な赤ん坊の意識の中には、ただ暗闇を切り裂くような『温かい光』の記憶だけが、確かな重みを持って残されていた。
朝の光が、ふんわりとした白いレースのカーテンを透過して、静かなベビー部屋を黄金色に染め上げていく。
空気清浄機の微かな駆動音だけが流れる中、アクアはゆっくりと瞬きをした。
周囲を見渡しても、昨夜自分を抱き上げてくれたあの大きく温かい男の姿はどこにもない。シーツに残るわずかな窪みと、鼻を掠める微かな異国の香水の残り香だけが、あれが夢ではなく、確かにあのヒーローがそこにいたことを証明していた。
ガチャリ、と。
部屋のドアが軽やかな音を立てて開いた。
「おっはよー、アクア! よく眠れたかな?」
朝の眩しい光を背に受けて部屋に入ってきたのは、アイだった。
ふわりと柔らかな髪を揺らし、嘘のない、太陽のように明るい本物の笑顔を咲かせている。その腕の中には、アクアと同じ赤い髪に星の瞳を持った双子の妹――ルビーがしっかりと抱き抱えられていた。
「ルビーも一緒だよ〜。ほら、お兄ちゃんにおはようして?」
アイはベビーベッドの縁から身を乗り出すと、空いている方の手で、アクアの柔らかな頬を愛おしそうに撫でた。
甘いシャンプーの匂いと、母親の手のひらの温もりがアクアを優しく包み込む。昨夜の恐ろしい悪夢の残滓など、彼女のこの眩しい笑顔と体温の前では、完全に洗い流されてしまう。
だが、アイの腕の中で抱かれているルビーの視線は、ベッドに横たわるアクアに対してひどく尖ったものだった。
(……なんだこいつ。朝から私のママに撫でられて、デレデレしちゃってさ)
ルビー――前世である天童寺さりなとしての自我を薄っすらと持っている彼女は、アイの温かい胸元にピタリとすり寄りながら、自分と同じ顔をした『兄』をジト目で睨みつけていた。
前世から愛してやまない絶対的な推しであり、今や世界で一番大好きな『ママ』。その特等席は自分だけのものだと言わんばかりに、ルビーはアイのエプロンを小さな手でぎゅっと握りしめる。
(ママの愛は全部私のものなんだから。これでもおっぱいとか色々譲ってあげてるんだから、これ以上ママの気を引こうとするなら容赦しないわよ、)
目の前の赤ん坊の中身が、かつての自分の主治医であることなど知る由もないルビーは、強烈な同担拒否の独占欲をむき出しにして、フンスと鼻息を荒くした。
「ふふっ、二人ともおめめパッチリで可愛いなぁ」
そんなルビーのバチバチとした心の声など露知らず、アイは幸せそうに目を細め、二人の赤い髪を交互に撫でる。
暗闇の中の凄惨な事件も、カラスの少女が繋いだ不吉な因果も。
この光に満ちた、完璧で温かい朝の日常には、入り込む隙など一ミリたりとも存在しなかった。