東京都内の一等地。
周囲の景観から完全に浮き上がっている、巨大なコンクリートの城壁。
門には最新鋭の生体認証ゲートが備え付けられ、死角ゼロで配置された防犯カメラが赤いランプを無機質に点滅させている。敷地内を巡回するのは、隙のない体格をした民間警備会社のプロたち。
週刊誌が『数十億円の要塞』と書き立てた『マヤ御殿』のリビングで、歩き始めたばかりの双子は、広すぎるフカフカの絨毯の上を転げ回っていた。
(見てよこの最高級のペルシャ絨毯! そして私の美しいママ! 前世の孤独な病室から一転、超絶大富豪の娘に転生しちゃったわ!)
ルビーは、短い手足をバタつかせながら、歓喜の声を上げていた。
前世で親の愛情に飢えていた天童寺さりなにとって、この絶対的な安全圏と、何より世界で一番大好きな推しである『星野アイ』が母親として毎日微笑みかけてくれる環境は、まさに天国そのものだった。
(……なんだこの無駄に広い家。それに、この異常なまでのセキュリティ……)
一方、少し離れた場所でおもちゃのブロックを積んでいたアクアは、ひどく冷静な目で周囲を観察していた。
雨宮吾郎としての記憶が徐々に明確になりつつある彼は、この恵まれすぎた環境に大きな疑問を抱いていた。
(俺はただ、アイの推し活を間近で平穏に楽しみたいだけなのに。……だが、肝心の『アレ』がいない)
アクアは、台所で手際よく朝食の準備をしているアイの背中を見つめる。
母親はいる。仕事で忙しいはずなのに、自分たちに惜しみない愛情を注いでくれる。
けれど、父親という存在の気配が、この巨大な家には完全に欠落しているのだ。
自分が赤ん坊の頃、夜泣きをした時に抱き上げてくれた『龍星』に似た大きく温かい男の記憶。それはひどく混濁しており、今のハッキリとした自我を持ったアクアには、ただの願望が見せた幻影のように思えていた。
(俺たちには……父親がいないのか? まさかアイは、どこの馬の骨とも知れない大金持ちの愛人にされて、この要塞に囲われているんじゃ……)
アクアが一人で深刻に眉を寄せていると、隣で寝転がっていたルビーも、ふと天井を見上げて首を傾げた。
(でも、うちってなんでパパがいないんだろ? ママはいつも一人だし……まさか、捨てられた!? いやいや、私の完璧なママを捨てる男なんてこの世にいるわけないし!)
二人の大人の思考回路を持った赤ん坊が、それぞれの内心で父親の不在について首を捻っていると、エプロンを外したアイがリビングに戻ってきた。
「アクアー、ルビィ。準備できた? 今日はママのライブだからねー。ミヤコさんがもうお迎えに来てくれてるよ」
嘘のない、ひだまりのような笑顔。
その顔を見た瞬間、父親への疑問などどうでもよくなり、二人は「あーっ!」と短い手を伸ばしてアイに駆け寄っていくのだった。
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*
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「……本当にこの車、いつ乗っても凄すぎない? 戦車に撃たれても傷ひとつ付かなそうね。さすがだわ」
重厚なエンジン音を響かせて都内の道路を滑るように走る、漆黒の巨大なVIP車。
革張りの後部座席で、苺プロの社長夫人である斉藤ミヤコは、ため息をつきながら分厚い防弾ガラスの窓を撫でた。
「ねー。これならパパラッチの車にいきなりぶつけられても全然平気だね!」
「ぶつけられる前提で話さないでちょうだい」
隣に座るアイは、無邪気に笑いながらジュースのストローを咥えている。
地下アイドルをしながら双子を育てるシングルマザー。本来なら地獄のように過酷なはずのその環境は、ミヤコの態度の余裕っぷりからも分かるように、何者かの莫大な資本によって完全に無効化されていた。運転席には、プロのSPが隙のない表情でハンドルを握っている。
(対戦車ライフルでも防ぐ気かよ……。地下アイドルの移動に乗る車じゃねえだろ)
チャイルドシートに固定されたアクアは、呆れたように車内を見回した。
ドアの厚みも、外の音が全く聞こえない防音性も、明らかに一般人の乗る車ではない。大統領やマフィアのボスが乗るレベルの装甲車だ。
(フカフカの革張りシート……! ていうか私たちの家、どんだけお金持ってるの!?)
ルビーも目を輝かせながら、シートの上で跳ねている。
しかし、これだけの手回しをしておきながら、ミヤコもアイも『誰が手配したのか』を子供たちの前で明言することはなかった。
ただ、この異常なまでの過保護っぷりに、アクアの中の『ヤバい大富豪の愛人説』はますます濃厚になっていくばかりだった。
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*
```
「アイ……。今日のアイも、本当に完璧ね」
ライブ会場の楽屋。
鏡の前でリップを塗るアイの背中を、初期メンバーであるニノが、瞬きすら忘れたような熱の籠もった視線で見つめていた。
崇拝と、憧憬。そして、絶対に手の届かない星を見るような、ほんの僅かな愛憎の入り混じった瞳。
ニノにとって、星野アイという存在は絶対だった。彼女がいれば、B小町は輝ける。彼女の光の傍にいることだけが、ニノの生きる意味そのものになっていた。
「ニノー、早く着替えないと出番きちゃうよ?」
「……ええ、分かってるわ」
アイが無邪気に振り返ると、ニノはハッと我に帰り、慌てて衣装のフリルを整えた。
少し離れた場所では、高峯と渡辺が念入りにストレッチをしながら、本番に向けての緊張感を高めている。
やがて、会場に重低音のBGMが鳴り響き、客席からの地鳴りのような歓声が楽屋まで届き始めた。
B小町のライブが、幕を開ける。
```
*
```
【B小町ライブ・本番】
熱狂。
その一言に尽きた。
無数のペンライトの光が、荒れ狂う海のようにうねっている。飛び交う野太い歓声と、会場の温度を急上昇させる熱気。
「アイーッ!!」
「B小町ーッ!!」
ステージの上では、星野アイが、他の追随を許さない圧倒的なセンターのオーラを放って歌い踊っていた。
嘘で塗り固めた完璧な笑顔。ファンが求める絶対的なアイドルの偶像を、彼女は一滴の汗と共に完璧に演じ切っている。
その光景を、舞台袖の関係者席に置かれたベビーサークルの中から眺めている二人の赤ん坊がいた。
(あああっ! 今日のママも最高に可愛い! 尊い! 輝いてる!)
(ステップのキレが前より上がってる……! さすがアイ、完璧なアイドルだ!)
ルビーとアクアは、短い手足で器用に小さなサイリウムを握りしめ、寸分の狂いもない完璧なオタ芸(ロマンス)を打ち続けていた。
周囲のスタッフたちが「あの子たち、リズム感おかしくない……?」「というか腕の動きが見えない……」と引いていることなど、今の二人には関係ない。
ただ、大好きな推しのステージを全力で楽しむ。それだけだ。
(……でも、また今日も母さん一人か)
ふと、アクアはサイリウムを振る手を止めた。
ステージで圧倒的な光を放つ母親。
だが、その観客席の中にも、関係者席にも、自分たちの父親らしき人物の姿はない。
(俺たちには……父親がいないのか?)
そんな疑問が、再びアクアの脳裏をよぎった。
その時だった。
――ドンッ!!
曲の合間のMC中。
突然、ステージの上空から何かが落ちてきた。
いや、落ちたのではない。着地したのだ。
数十メートルはある舞台の天井トラス付近から、一切の動作音もなく、一人の男が滑るように降り立った。
燃えるような赤い髪。
無造作に羽織られた黒いコート。
「……」
一瞬、会場にいた数千人の時が、完全に停止した。
呼吸の音すら消えたような静寂。
次の瞬間。
「うおおおおおおおおおおっ!?」
「龍星だあああああああ!!」
「忍者スターのマヤ!? なんでここに!?」
観客が、パニックに近い悲鳴と歓声を上げて一斉に沸騰した。
ステージ上のB小町のメンバーたちも、心臓が跳ね上がるほどの衝撃を受けていた。
「ひっ!? な、なんか上から降ってきた!?」
高峯が悲鳴を上げて後ずさる。
「えっ、嘘、赤髪……? アクションスターの、マヤ!?」
渡辺が口を手で覆い、信じられないものを見るように目を見開く。
「龍星……!? どうして、本物がここに……っ」
ニノは、世界的な大スターの登場に驚愕しつつも、自分の神聖なアイドルであるアイのステージに、なぜこの男が乱入してきたのか、思考が全く追いついていなかった。
舞台袖のアクアとルビーも、手からサイリウムを滑り落とし、ぽかんと口を開けてその男を見つめていた。
マヤは、周囲のパニックなど全く気にする様子もなく、頭をぽりぽりと掻いた。
「あー、わりぃ。みんなのライブ中だけどよ。今しか時間なくて」
マイクを通さない、よく通る地声。
悪びれもせず言い放つと、マヤは真っ直ぐにアイの元へと歩み寄った。
そして、いつの間にか抱えていた巨大な深紅のバラの花束を、すっとアイに差し出した。
「はい、これ。お祝い。ライブ、お疲れさん」
アイは、目を丸くしてマヤを見上げた。
「……ふふ、ありがとう」
それは、ファンに向ける完璧なアイドルの笑顔ではなかった。ただの、一人の幸せな少女としての、嘘のない本物の笑顔だった。
会場からは、さらに凄まじい絶叫と、フラッシュの嵐が巻き起こる。
「アイちゃんに花!?」
「マヤが!? ドッキリか何か!?」
「え、なにこれ現実!?」
「なんでハリウッドのトップスターが、日本のアイドルのステージに!?」
熱狂の渦の中で、マヤは満足げに頷いた。
「じゃ、もう時間だから。みんな、応援よろしくな」
マヤは客席へ向かって、軽く手を振る。
「B小町ともども、よろしく!」
「うおおおおおおお!!」
「マヤーーーッ!!」
「B小町ーーーッ!!」
「じゃあな!」
ダンッ!
軽い踏み込みの音が一つ。
それだけで、マヤは重力を完全に無視したような跳躍を見せ、舞台の照明の奥、天井の暗がりへと、来た時と同じように一瞬で姿を消した。
ワイヤーなど一切使わない、ただの身体能力による飛翔。
まるで、最初から幻だったかのように。
嵐のような歓声と、巨大な花束を抱えてポツンと立つアイだけが、ステージに取り残された。
```
*
```
ライブ終わりの楽屋。
当然のように、中は大混乱に陥っていた。
「アイ! さっきのマヤってどういうこと!? なんでハリウッドスターがあなたに花を!?」
「アイ、あなた、あの龍星とどういう関係なの……!?」
高峯とニノが、息を荒らげてアイに詰め寄っている。
世界的なスーパースターの異常なゲリラファンサ。明日のニュースとSNSは、間違いなくこの話題で完全に埋め尽くされるだろう。特にニノの目には、驚愕と、アイの底知れなさに当てられた強烈な焦燥感が入り混じっていた。
「えへへー、秘密!」
アイは、ふわりと笑ってメンバーたちの追及をヒラリとかわす。
アイドルとしての完璧な仮面を崩さないまま、巨大な花束を抱えて楽屋を後にした。向かう先は、メンバーすら立ち入れない社長夫人・ミヤコが待つVIP控室だ。
*
「……まったく、あの男は。心臓に悪いサプライズをしてくれるわね」
帰りの防弾VIP車の中。
ミヤコが呆れたようにため息をつく横で、アイは抱えた深紅のバラの香りを嬉しそうに嗅いでいた。
チャイルドシートに乗せられた双子は、静かに考え込んでいた。
(なんで、あの人は母さんに花を渡した?)
アクアの脳内で、様々な仮説が渦巻く。
神鬼マヤ。前世からの絶対的なヒーロー。なぜ、その彼が日本のアイドルのステージに現れたのか。
(ママ凄すぎる! 世界の龍星からゲリラファンサされるなんて!)
ルビーは、純粋に母親の大物っぷりに目を輝かせている。
まだこの時点では、二人ともその事実に気がついていなかった。
*
そして、東京都内の『マヤ御殿』。
誰の目も届かない、絶対的な安全圏である広大なリビングに帰ってきたアイは、コートを脱ぐと、絨毯の上で遊んでいた二人の前にコトンと花束を置いた。
「ただいまー! ほら、見て見て。いい匂いだよ」
アイは、双子の顔を覗き込み、今日一番の――アイドルではない、一人の幸せな少女としての嘘のない笑顔で、爆弾を落とした。
「パパからの、お祝いだよ」
「…………」
「…………!」
その瞬間。
アクアとルビーの、大人の思考回路がピタリと停止した。
(……パパ?)
(パパ……?)
「海外のお仕事で忙しいから、今日は来られないと思ってたんだけどね。来てくれたね」
アイの言葉と、目の前の花。
そして、先ほど天井から現れた男の顔と、夜泣きした時に抱き上げてくれた大きな胸板の記憶が、アクアの頭の中で急速に繋がっていく。
(…………あいつが)
(俺たちの……父親?)
ルビーも、小さな指でバラの花びらに触れる。
(あの龍星……が、私の、パパ?)
(俺は……アイ(推し)と、マヤ(ヒーロー)の、子供……!?)
(ママが推しで……パパが世界的スター……!?)
ファンとしての、越えてはいけない一線。
致死量の罪悪感。
そして、前世の不遇をすべてひっくり返すような、圧倒的な幸福の事実。
「あ……あぁ……っ」
「あぅ……!」
二人の赤ん坊は、それぞれ全く別の感情でキャパシティを限界突破させ、揃って白目を剥き、フカフカのペルシャ絨毯の上にバタリと仰向けに倒れ込んだ。