東向きの大きな窓から差し込む朝の光が、リビングの白大理石の床を淡い金色に染め上げていた。
天井が高く吹き抜けた広大な空間には、遠く離れたオープンキッチンから、ミヤコが包丁で野菜を刻むリズミカルなトントンという音だけが小さく響いている。換気扇の静かな吸気音と、出汁の温かい匂い。
防音性に優れたこの要塞のような邸宅の中は、昨夜の狂乱が嘘のように静まり返っていた。
リビングの中央、広大なペルシャ絨毯の上で、赤髪の双子が並んで転がっていた。
二人の瞳には、母親と同じ星の形のハイライトが浮かんでいる。だが、その視線は虚空を見つめたまま、完全に生気を失っていた。
「……ねえ」
ふいに、ルビーが小さな声で口を開いた。
まだ舌足らずな赤ん坊の肉体から出たとは思えない、あまりにも低く落ち着いたトーン。
「……お兄ちゃん。ぶっちゃけ、中身大人でしょ」
隣で仰向けになっていたアクアは、ピクリとも動かずに天井を見つめたまま、短く息を吐いた。
「……お前もな。前世が誰だとか詮索する気はないが……昨日のアレ、どう思う」
「どう思うって、あんた……」
ルビーはガバッと上半身を起こし、アクアの顔を覗き込んだ。
「パパ、やばくない!?」
「……ああ」
「やばいどころじゃないでしょ! なんであのハリウッドスターの神鬼マヤが私たちのパパなのよ! 世界の龍星だよ!? 映画で何億人も熱狂させてる本物のバケモノが、天井から降ってきてママに花束渡して、パパって……意味分かんないんだけど!」
興奮のあまり、ルビーの瞳の奥で星がチカチカと点滅する。
対するアクアは、両手で顔を覆った。
「どうしよう……。嬉しすぎて、泣ける……」
「はあ!? そこまでなの!?」
ルビーは目を丸くして、呆気にとられたようにアクアを見下ろした。
まさか隣の双子の兄が、前世でマヤの『流星忍者』を心の支えにして医学部を生き延びた重度の信者だとは夢にも思っていない。
ルビーは、一人で深く納得したように神妙な顔つきになった。
(……そっか。こいつも、私と同じだったんだ。前世で親の愛情に飢えてて、家庭環境がボロボロだったから……こんな完璧すぎる父親ができて、感極まっちゃったんだな)
勝手な同情から、ルビーの声音が少しだけ優しくなる。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどさ。……ねぇねぇ、それよりさ。あの開かずの間、どうにかして開けられないかな?」
「……またそれか」
アクアは顔を覆っていた手を下ろし、億劫そうに視線を巡らせた。
「無理だって言っただろ。この広い家の長い廊下を、よちよち歩きで這っていくこと自体が重労働なんだよ。それに、ドアノブまで身長が届かない」
「でも気になるじゃん! この家の部屋、ほとんど全部見たのに、あそこだけ頑丈な鉄扉で閉ざされてるんだよ? 絶対何か隠してるって!」
「金庫か、配電盤の管理室だろ。大富豪の家なら珍しくもない」
「絶対違う! だってママ、あの部屋の前を通る時だけ、すっごく嬉しそうに微笑むんだもん!」
ルビーがフンスと鼻息を荒くした、その時だった。
「おっはよー! 二人とも、仲良くお話し中だったかな?」
パタパタと軽やかな足音と共に、アイがリビングに姿を現した。
薄手のニットにデニムというラフな部屋着姿。昨夜、数千人の観客を熱狂させた絶対的なアイドルと同じ人物とは思えないほど、穏やかで柔らかな空気を纏っている。
「うあー」
「あぅー!」
双子は示し合わせたように瞬時に大人の自我を引っ込め、無垢な赤ん坊の表情を作って短い手足を振った。
アイは屈託のない笑顔を浮かべ、床に膝をつくと、二人を両腕に一人ずつひょいと抱き上げた。
「そうだ、今日はね、二人に良いところを見せてあげようと思って!」
「あー?」
ルビーは首を傾げ、アクアは内心で身構えた。
(……良いところ? まさか外に出るのか? またあの、対戦車ライフルでも防ぎそうな黒塗りの装甲車に乗せられるのか……?)
だが、アイが向かったのは玄関ではなかった。
リビングを出て、静まり返った長い廊下の奥へと足を進めていく。
磨き上げられたフローリングを踏む、アイのスリッパの音だけが響く。
(……こっちって)
(……まさか)
双子の視線の先。
廊下の突き当たりに鎮座する、鈍い銀色に光る重厚な金属の扉。
二人が何度も攻略を試み、その度に赤ん坊の短い足と届かない背丈に絶望した、あの『開かずの間』の前でアイの足が止まった。
アイは二人を抱えたまま、扉の横の壁に埋め込まれた黒いガラスパネルに右手をかざした。
ピピッ、と澄んだ電子音が鳴り、青い光がアイの掌を走る。
さらに小さなレンズから細いレーザーが照射され、アイの右目をスキャンした。
『――認証完了。ロックを解除します』
カシャン、シューッ……。
空気の抜ける重い音が響き、分厚い扉が音もなく内側へとスライドしていった。
((子供の背丈以前の問題だろ!! 生体認証システムじゃねえか!!))
双子の心が、完全に一致したツッコミを叫んだ。
銀行の地下金庫室すら生ぬるい、国家機密レベルの厳重さ。歩行器に乗った赤ん坊が開けられるはずがなかったのだ。
「はい、どうぞー」
アイは、驚きで固まる二人を抱いたまま、部屋の敷居を跨いだ。
自動で天井の間接照明が灯り、柔らかな光が空間を満たしていく。
その瞬間、双子は言葉を失った。
微かなオイルと革の匂い、そして完璧に空調管理された清潔な空気。
数十畳はあろうかという巨大な空間の左半分には、黒とシルバーで統一された最新鋭のトレーニングマシンが整然と並んでいた。何百キロものプレートが装着されたバーベル、天井から頑丈なチェーンで吊り下げられた特大の革製サンドバッグ。
そして、部屋の右半分と正面の壁面は、まるで映画の博物館だった。
壁一面に飾られた、世界各国の言葉で刷られた『流星忍者』の巨大なポスター。
全米映画賞のゴールドに輝くトロフィーや、重厚な木製の記念盾がガラス棚にずらりと並んでいる。激しいアクションの跡が残る、擦り切れた歴代の忍者衣装。アニメ版の限定フィギュア。
アイによって絨毯の上に降ろされたアクアは、よちよちと壁際へ歩み寄り、ガラスケース越しに飾られた一本の刀を見上げて息を呑んだ。
美しい装飾が施された鞘と共に鎮座する、その刃。
表面に浮かび上がる、特徴的な『龍の波紋』。
(これって……まさか!)
アクアの脳裏に、前世の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。
『流星忍者最終章「愛しき姫」第7章』。
キャッチコピーは――『君は本当の涙を知る!』。
ゴローとして生きていた頃、結末を見届けたあの圧倒的な名シーンが、アクアの頭の中で鮮明に再生された。
――絶望的な強さを誇るボスとの最終対峙。
言葉はない。ただ静寂だけが支配する空間で、ふいに挟まれる過去の回想。
言葉を発しない姫。
そして、龍星の『愛しておりました』という静かな告白。
場面が現在に戻り、龍星は龍の波紋が浮かぶ刃を真っ直ぐに敵へと向ける。
その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。決意と共に――。
(間違いない……最終章の伝説の名シーンで使われた、あの刀だ!! なんでこんな無造作に……!)
前世の記憶が完全に蘇ったアクアの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
興奮のあまりガラスに張り付くアクアを見て、アイが少しだけ複雑そうな顔をしてしゃがみ込んだ。
「……これ、すっごく綺麗な刀だよね」
アイはガラスケース越しの刃を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「でもさ……その時のシーンがね……うーん……」
アイは、少しだけ唇を尖らせて、ジト目で刀を睨みつけた。
(あれ? 母さん、なんで嫉妬みたいな顔してんだ?)
アクアは内心で首を捻る。アイがなぜ不満そうにしているのか、今の彼には知る由もなかったが、その理由はいつか知ることになるのだろう。
一方のルビーは、中央の特注アクリルケースの前に張り付いていた。
防塵・紫外線カット加工が施された透明なケースの中に、神仏の御神体のように恭しく並べられていたのは――。
初期のB小町のライブタオル。
星野アイのサイン入り生写真。
擦り切れるほど再生されたであろう、インディーズ時代のCD。
ステージから投げられた、少し色褪せたアイのリストバンド。
埃ひとつ付かないよう、完璧な配置で並べられたそれは、世界を熱狂させたアクションスターの部屋の真ん中に作られた、あまりにも純粋で、狂気的なまでに丁寧な『星野アイの祭壇』だった。
「すっご!!」
「まじやばい!!」
名シーンの刀に限界化していたアクアと、自分の母親の祭壇に圧倒されたルビーの口から、同時に濁りのない大人の声が飛び出した。
「えっ!?」
アイがピタリと動きを止め、二人をまじまじと見つめた。
大きな瞳をパチパチと瞬かせ、驚きに口元を押さえる。
「アクア、ルビー……!? いま、喋った……? ママ以外の言葉、とうとう喋れるようになったの!?」
((やっっっっばい!!))
我を忘れて叫んでしまった二人の背筋を、冷たい汗が伝った。
ルビーは慌てて両手をパタパタと振り、全身全霊の赤ん坊の演技を繰り出した。
「しゅ、しゅごい! しゅごいあうー!」
「あぅ、あー……!」
アクアも必死に目を丸くし、小さな指で壁のポスターを指差してヨダレを垂らすふりをした。
アイは一瞬ポカンとしていたが、すぐにふにゃりと顔を綻ばせ、二人をぎゅっと抱きしめた。
「ふふっ、びっくりしたぁ! 『すごい』って言いたかったんだね! うんうん、すごいよねぇ!」
胸を撫で下ろす双子。
ルビーはアクリルケースを指差し、不思議そうに首を傾げた。
(な、何これ……! 私のママのグッズが、美術館の国宝みたいに展示されてる……! 触りたくても触れない! なのに、パパの全米映画賞のトロフィーは棚の上に剥き出しで置いてあるんだけど!? 価値の基準どうなってんの!?)
二人がそれぞれの方向でパニックを起こしていると、アイがアクリルケースの横にしゃがみ込み、愛おしそうにケースの天板を指先で撫でた。
「ここはね、パパのお部屋なんだよ。パパの大事なものと、ママの大事なものが置いてあるの」
「あぅ?」
「パパはね、『自分の過去の栄光なんて飾るな、邪魔だ』って言って、トロフィーも衣装も全部倉庫の奥に放り込もうとしてたの。でもね、私にとっては、パパが血だらけになって頑張ってきた証だから……全部、すっごく大事な宝物なんだ」
アイは、壁に掛けられたボロボロの衣装を見上げて、誇らしそうに微笑んだ。
(それくらいって言っても……普通にハリウッドの国立博物館レベルの展示物になってるぞ、この部屋……)
アクアは冷や汗を流しながら、棚に並ぶ無数の金色の像を見つめた。
世界中の映画人が喉から手が出るほど欲しがる栄誉が、この男にとっては「邪魔なもの」で片付けられそうになっていたという事実に、改めて父親の規格外さを思い知らされる。
「パパはね、ママのグッズが世界で一番の宝物なんだって。『アイの笑顔が曇らないように、俺は戦ってるんだ』って、いつも言ってくれるの。だから、絶対に傷つけないように特注のケースに入れてくれたんだよ。……なんだか、嬉しいよね」
その言葉を聞いた瞬間、アクアとルビーの胸に、言葉にできない温かい衝撃が走った。
世界的なメガスターが、十代のアイドルである星野アイのグッズを、誰に見せるでもなく自分の要塞の心臓部に祀り上げ、世界一の宝物だと公言している。
虚飾も、計算も、世間体もない。
ただ、純粋で、どこまでも不器用で、圧倒的な男の愛が、この部屋の隅々にまで満ち満ちていた。
「パパと出会えて、本当によかったって思う」
アイは立ち上がり、両手を広げて、部屋全体を見渡した。
その顔に浮かんでいたのは、ステージの上で見せる完璧なアイドルの笑顔ではなかった。ファンを魅了するための計算された美しさではない。
ただ、愛する夫を信じ、愛されていることを誇りに思う、一人の少女としての――そして母親としての、嘘のない満開の笑顔。
「アクアと、ルビーもいるしね。……今のママは、世界で一番最強だよ!」
その笑顔の眩しさに、双子は呼吸を忘れて立ち尽くした。
(……やっば)
ルビーはゴクリと唾を飲み込んだ。
(ママの笑顔……ライブの時より、何百倍も破壊力あるじゃん……! なにこれ、尊すぎて直視できないんだけど……!)
アクアもまた、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚に襲われていた。
(……推しが、心から幸せそうに笑っている。俺が前世で祈り続けていた『星野アイの本当の幸せ』が、今、ここにある)
それは、医師・雨宮吾郎として、これ以上ない救いだった。
だが同時に、アクアの脳裏に現実的な恐怖が雪崩のように押し寄せてくる。
(……だけど、父親が龍星って……俺、どうしたらいいんだ? 次に親父が帰ってきた時、どんな顔して会えばいい!? 『いつも映画観てました、ファンです』って言うのか!? 息子の立場はどうなる!? 会ったら心臓が止まるぞ……!)
アクアが頭を抱えて激しく葛藤していると、アイが二人を優しく見下ろした。
「そのうちパパがお仕事から帰ってきたら、家族みんなで、ゆっくり映画とか観ようね。パパは海外を飛び回ってて凄く忙しいからさ……私も、日本でいっぱい頑張らなくちゃね」
「だー!」
「あぅ……!」
双子は揃って、深々と頭を下げるように頷いた。
納得せざるを得ない。この母親の幸せを守るためなら、父親が地球の裏側で戦っていることにも、自分たちが赤ん坊として平穏を装うことにも、何の後悔もなかった。
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リビングに戻ると、ダイニングテーブルの上には湯気を立てる朝食が並べられていた。
出汁の効いた優しい味付けの離乳食と、アイとミヤコのための焼き魚定食。
「ほら二人とも、椅子に座って。お腹空いたでしょ」
ミヤコが手際よく双子を子供用のハイチェアに座らせ、木製の小さなスプーンを握らせる。
だが、アクアとルビーは、目の前の離乳食を見つめたまま、スプーンを握る手をピクリとも動かせなかった。
先ほど見た光景の衝撃が強すぎて、脳の処理速度が完全に追いついていない。口に運んだすりおろしリンゴの味すら、全く頭に入ってこなかった。
「……二人とも、どうしたのかしら。熱でもあるの?」
「ううん、パパのお部屋見て、すっごく大興奮してただけだよ」
アイは楽しそうに笑いながら、焼き魚の身を箸でほぐした。
ミヤコは温かいお茶をすすりながら、ふうと長い息を吐き出した。
「まったく……昨日のライブの乱入騒ぎといい、あの部屋の厳重さといい、マヤくんは本当に規格外ね。社長も昨日の夜から、スポーツ紙の対応で電話鳴りっぱなしよ。『あのアクションスターがなぜB小町に!?』って」
「えへへ、社長には悪いことしちゃったかな」
「いいのよ、宣伝効果としては億単位の価値があるんだから。……でもね、アイ」
ミヤコは箸を止め、柔らかな眼差しでアイを見つめた。
「あの男の子があなたの夫で、この子たちの父親で……本当によかったわ。あの要塞といい、あの車のセキュリティといい……ここなら、誰もあなたたちを傷つけられない。私ね、毎日すごく安心してるのよ」
ミヤコの言葉に、アイは箸を止め、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
雲ひとつない青空が、高いコンクリートの城壁の向こうにどこまでも広がっている。
世間の喧騒も、悪意に満ちたカメラのレンズも、ここには何一つ届かない。
「うん。……私も、すっごく安心してる」
アイは優しく微笑み、隣のハイチェアでフリーズしている双子の柔らかな髪を、そっと撫でた。
「だから私、もっともっと頑張るよ。パパが帰ってきた時、胸を張って『おかえり』って言えるようにね」
注がれる柔らかな陽光の中、スプーンを咥えたままのアクアとルビーの頭上を、穏やかな秋の風が吹き抜けていった。