都内の一等地にある、劇団ララライのオフィス。
数年前までは演劇界の一角を担う硬派な劇団という立ち位置だったが、今やそのオフィスの活気は異常な熱を帯びていた。世界を呑み込んだトップスター・神鬼マヤの国内マネジメントを担っているという事実が、この劇団に莫大な資本と影響力をもたらしているのだ。
「――それでね、あっさりサインしてやったわよ。離婚届」
革張りのソファに深く腰掛け、最高級のハーブティーを優雅に啜りながら、代表である姫川愛理はカラリと笑った。
目の前に座るマヤに向かって、彼女は憑き物が落ちたような、すっきりとした表情を見せている。
「清十郎とはずっとすれ違いばっかりだったしね。でも今の私は、マヤくんのおかげで仕事が楽しくて楽しくて仕方ないの! これで24時間、煩わしい家庭の事情抜きで仕事にすべてを注げるわ。いやぁ、本当に満たされてる!」
愛理の晴れやかな顔に、マヤは苦笑しながらコーヒーカップを置いた。
「代表が元気なのはいいことだな。俺も、愛理さんにはすごく感謝してる」
「アイさんとの関係のこと?」
「ああ。ワークショップの時から見抜いてて、それをマスコミから完璧に隠し通してくれた。愛理さんがビジネスパートナーでいてくれたから、俺もアイも安心してやれてるんだ」
「ふふっ、あの時のスクラップブック作りが、私の人生で一番の投資になったわね。子供たちも、もう三歳になったんでしょう? うまくやってる?」
「バッチリだ。二人とも可愛すぎて、海外ロケ中も毎日写真見てる」
愛理は「すっかりパパの顔ね」と目を細めた後、ふと少しだけ呆れたような、気味の悪いものを思い出したような顔でトーンを落とした。
「……そういえば。うちの劇団員のカミキなんだけどね」
「ああ、あいつか」
「ええ。最近、一人でブツブツ怖いこと言ってたり、目が据わってたりして、明らかにおかしいのよ。危ないから、マヤくんもアイちゃんも気をつけてね」
「そうですか。……あいつも、色々と大変なんだな」
マヤは、かつて同じワークショップで演技を共にした後輩に対して、どこか哀れむような、静かな視線を落とした。
「一応、変に拗らせて暴走されても困るから、小さな舞台の端役を無理やりねじ込んで仕事は与えてるの。完全にもてあましてるんだけどね……本人は、自分の実力で役を勝ち取って、世界を裏で操ってる気でいるみたいで……この前も、すごく気持ちの悪い笑みを浮かべて喜んでたわ」
「そうか。まぁ、うちの家はセキュリティが厳重で近づけないし、アイたちのことは俺がしっかり守るから安心してください。あいつも、自分の足で立てるようになればいいんだがな」
マヤは静かに立ち上がり、黒いコートを羽織った。
「じゃ、俺はそろそろ帰る。家族が待ってるんで」
*
「――でさぁ! ママってば、パパに愛されすぎじゃない!?」
東京都内、マヤ御殿の広大なリビング。
三歳になり、舌っ足らずながらもすらすらと言葉を話せるようになった双子が、フカフカの絨毯の隅でコソコソと密談を交わしていた。
「あの『開かずの間』に行くたびに思うけど、パパのトロフィーは剥き出しなのに、ママのグッズだけは未だに特注ケースの中でピッカピカなんだよ? どんだけママのこと大事にしてんのよ!」
「……ああ。俺はあの部屋に入るたびに、嬉しすぎて泣きそうだ」
「そっかぁ。お兄ちゃんも大変だったねぇ」
ルビーが、アクアの小さな肩をポンポンと叩く。
アクアの「(推しとヒーローの純愛が尊すぎて)泣きそうだ」というガチオタの涙を、ルビーは「(前世の家庭環境が複雑で愛に飢えていたから)泣きそうだ」と完全に勘違いして同情していた。
「でもさ、パパって全然お家にいないよね。いっつも海外の映画に出てて。世界を飛び回る孤独なヒーローって感じで、かっこいいけど……ちょっと寂しいよね。早く帰ってこないかなぁ。うちのパパとママ、大物すぎてやばいよね」
ルビーが頬杖をつきながらため息をついた、その時だった。
「そうだな。パパは、ママも、お前たちも愛してるよ」
「「えっ?」」
双子が振り返る。
そこには、一切の気配も、足音も、空気の揺れすら生じさせずに、黒いコートを着た神鬼マヤが突如として立っていた。
「ぱ、パパ……!?」
「父さん……ッ!?」
三歳の子供たちの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
ずっと会いたかった本物のヒーロー。スクリーンの中でしか見られなかったの父親が、今、自分たちを見下ろして優しく笑っている。
二人は短い足で立ち上がると、弾かれたようにマヤの足元へと飛び込んだ。
「うわああああん! パパーッ!」
「お、父さん!」
「おっと。なんだなんだ、二人ともすげえ泣きっぷりだな」
マヤは苦笑しながら膝をつき、二人の小さな身体をまとめて太い腕で抱きしめた。
異国の香水と、温かく力強い太陽のような匂いが、双子を包み込む。
「寂しかったよぉ!」
(ずっと……ずっと、一人で海外で戦ってたんだよね……! )
「会いたかった!」
(俺たちのヒーロー……ッ! やっと帰ってきてくれた……!)
ルビーとアクアが感極まって号泣していると、パタパタという足音と共に、奥のキッチンからエプロン姿のアイが顔を出した。
「あれ? パパ、今日は早かったね。おかえりー」
「おう。ただいま」
アイは、何ヶ月ぶりかの劇的な再会を果たしたわけでもない、ただの「日常」のテンションで平然とマヤに微笑みかけた。
マヤもまた、当たり前のようにそれに答える。
そのあまりにも自然なやり取りに、泣きじゃくっていた双子がピタリと動きを止めた。
「……えっ? ママ、ずっとパパいなかったのに、反応薄くない?」
「母さん……? もしかして、父さんと外で会ってたのか?」
二人が不思議そうに尋ねると、マヤはきょとんとした顔で首を傾げた。
「は? 俺、結構ちょくちょく帰ってきてるぞ」
「えっ」
「海外ロケの合間に日本に戻ってきて、お前らが寝た深夜にこっそり帰ってきてる。で、アイの部屋で一緒に寝て、朝早く仕事に行ってるんだよ。お前らの寝顔も、毎回ちゃんと見てるぞ」
マヤがケロリと言い放った瞬間。
リビングに、気まずい静寂が降り降りた。
「えー! ずるいずるい! 私も今度、パパとママと一緒に寝たい!」
前世でも幼くして亡くなっているため、大人の機微に疎いルビーは、純粋に頬を膨らませて抗議した。
だが、前世で20代の成人男性だったアクアの思考回路は、その言葉の裏にある「生々しい真実」を完璧に理解してしまった。
(……えっ。ちょくちょく深夜に帰ってきて……アイの部屋で、一緒に寝てただと?)
アクアの顔から、サーッと血の気が引いていく。
そして次の瞬間、爆発的な勢いで耳の先まで真っ赤に染まった。
(ってことは……俺たちが隣の子供部屋ですやすや寝てる間に、この要塞の中で、夜な夜な夫婦の営みを……!? 推しとヒーローが、壁一枚隔てた向こう側で……ッ!?)
特大の羞恥心と、見たくもない生々しい現実を突きつけられ、アクアは自分の頭を抱えて悶絶した。
悲壮感など欠片もない。ただの仲良しでラブラブな夫婦が、防弾ガラスと最強のセキュリティに守られた家の中で、完璧に満たされた生活を送っている
「ふふっ。パパがあったかくて、ママいつもぐっすり眠れちゃうんだよねー。だから、お肌の調子もバッチリ!」
「そりゃよかった。ライブも近いんだろ? 無理すんなよ」
アイがマヤの胸元に無邪気にすり寄ると、マヤも愛おしそうにアイの頭を撫でる。
その破壊力抜群の光景に、アクアはついにキャパシティを限界突破させ、顔を真っ赤にしたままマヤの足にしがみついてプルプルと震え始めた。
「あーら、マヤくん。帰ってたのね。おかえりなさい」
そこへ、買い物から帰ってきたミヤコがリビングに入ってくる。
「おう、ミヤコさん。いつも留守任せてすんません。今日は愛理さんとも会ってきて、仕事の話もバッチリです」
「それなら良かったわ。さあ、今日はハンバーグよ。みんなで食べましょう」
ミヤコが呆れたように笑いながらキッチンへ向かい、アイも嬉しそうにマヤの手を引く。
最強の父親の足にしがみついたまま、アクアは歓喜と羞恥の入り混じったカオスな感情の中で、ただ強く、その太い足に抱きつく力を込めた。