東京都内の一等地、堅牢な城壁に囲まれた『マヤ御殿』。
その地下に設けられた特大のシアタールームは、完全な暗闇と静寂に包まれていた。
映画館をそのまま移設したかのような最高音質のスピーカーシステムと、壁一面を覆い尽くす巨大なスクリーン。最高級の革張りのソファに深く腰を下ろしているのは、現在二十歳となった神鬼マヤと、十九歳になった星野アイ、そして四歳を迎えた双子、アクアとルビーの四人だった。
スクリーンに映し出されているのは、現在進行形で世界中を熱狂の渦に巻き込み、つい最近待望のブルーレイ化を果たしたばかりの特大ヒット作。
『流星忍者最終章「愛しき姫」』。
重厚なサラウンドが、激しい戦闘の息遣いを部屋の隅々にまで響かせる。
画面の中で、赤い髪の青年――十七歳のマヤが演じた『龍星』が、凄まじい身体能力で敵の包囲網を突破していく。ワイヤーもCGも一切使用していない、圧倒的な肉体と空間把握能力だけが生み出す、本物の飛翔と斬撃。
「すごい……! パパの動き、やば……!」
ルビーが、ポップコーンを握りしめたまま、画面に食い入るように身を乗り出した。
アイもまた、隣に座るマヤの腕に身体を預けながら、真剣な眼差しでスクリーンを見つめている。
マヤ本人はといえば、自分の熱演を見ることに何の感慨もないのか、ただボリボリとポップコーンを放り込みながら、どこか退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
だが、アクアだけは違った。
四歳児の小さな身体の中で、前世である雨宮吾郎としての記憶と、一人の熱狂的なファンとしての感情が、激しくスパークしていたのだ。
(来るぞ……!)
アクアは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
映画はついに、最大のクライマックスへと突入しようとしていた。
絶望的な強さを誇る、物語の最終ボスとの対峙。
激しいBGMがふっと途切れ、画面の中が完全な静寂に支配される。
言葉はない。
ただ、荒い息を吐く龍星と、立ちはだかる絶対的な敵との間に、張り詰めた糸のような緊張感だけが存在している。
「……うんうん、ここだ。ここからなんだ……」
アクアは、無意識のうちに小さく相槌を打っていた。
前世で、一人きりの暗い部屋でこの映画を観ていた記憶が蘇る。あの時、どうしようもない運命の残酷さに打ちひしがれていた自分を、この画面の中の男が救い上げてくれたのだ。
スクリーンの中で、唐突に過去の回想シーンが挟まれる。
美しい装束を纏った姫。
言葉はない。彼女の瞳に浮かぶ哀哀とした光だけが、語り尽くせぬ悲劇を物語っている。
その姫に対し、龍星は静かに、ただ一言だけ口を動かした。
『愛しておりました』
画面が現在に戻る。
再び、静寂に包まれた対峙のシーン。
龍星は、ゆっくりと自分の愛刀を構え、真っ直ぐに刃を向けた。
刀身に浮かび上がる、特徴的な『龍の波紋』。
(あれは……!)
アクアの脳裏に、この要塞の奥深くにある『開かずの間』の光景がフラッシュバックする。厳重なガラスケースの中に、アイのグッズと共に並べられていたあの美しい模造刀。
画面の中の龍星が、その波紋の浮かぶ刃を敵へと突きつける。
そして。
龍星の鋭い瞳から、一筋の涙が、音もなくこぼれ落ちた。
言葉は、何一つ語られない。
だが、その無言の涙と、刃を握る手に込められた絶対的な決意が、画面を超えてシアタールームの空気を震わせた。すべてを背負い、愛する者のために鬼となる男の、言葉よりも重い真実。
(……完璧だ)
アクアは、ソファの背もたれに深く沈み込みながら、心の底から感嘆の息を漏らした。
何度見ても鳥肌が立つ。ゴローとしてこの結末を見た時、彼は画面の中の龍星に向かって「変わんねえな、お前は」「楽しかったぞ」と笑いかけ、救われたのだ。
それが今、自分の父親として隣でポップコーンを食べている。この信じられない奇跡に、アクアの魂は静かに打ち震えていた。
やがて、画面は暗転し、重厚なテーマソングと共にエンドロールが流れ始めた。
シアタールームに、少しずつ現実の空気が戻ってくる。
「……あ」
ふいに、アイが小さく声を漏らした。
彼女は、スクリーンから視線を外し、隣でぼんやりとエンドロールを眺めているマヤの横顔を見つめた。
アイの脳裏に、数年前の記憶が鮮明に蘇っていた。
自分がまだ十五歳で、マヤが十七歳になる頃。劇団ララライのワークショップの稽古場。
(あの時の……これか!?)
アイの瞳が、驚きに見開かれる。
渡米するマヤを引き留めることもできず、ただ無言で背中を見送ったあの日。
帰国した彼に向かって、自分が『人を愛するって、どういうことか分かる?』と、ずっと抱えていた呪いのような問いを口にした時のこと。
――アイがいなくなったら嫌だなって思う。
――理屈じゃない。ただの、根っこの反応だ。
嘘の愛しか知らなかった自分に、あの男はそう言って笑ったのだ。
アイの心臓が、トクトクと早鐘を打ち始める。あの時のマヤの言葉の直前にアメリカで撮影されていたのが、今のシーンだったのだと、数年の時を経て点と点が綺麗に繋がった。
だが、過去の真実に思い至った嬉しさと同時に、アイの胸の奥で、チクリと小さな棘が疼いた。
「……ねえ」
アイは、マヤの袖をクイッと引っぱった。
声のトーンが、いつもより少しだけ低く、唇が不満げに尖っている。
「なんだ?」
「今の涙、すっごく綺麗だったね」
アイは、ジト目でマヤを睨みつけた。
「なんで泣いたの? ……あの女優さんのこと、ホントに好きだったから泣けたの?」
それは、完璧なアイドルである星野アイからは決して出ることのない言葉だった。
余裕もなく、計算もなく、ただ自分の大好きな人が、画面の中で別の女に対して美しい涙を流したことへの、極めて人間臭く、等身大の嫉妬。
一人の恋する女の子としての、素直すぎるヤキモチだった。
その言葉を聞いて、双子はビクッと肩を震わせた。
(マ、ママが嫉妬してる……!?)
(すげえ……あのアイが、ただの不機嫌な女の子になってる……!)
張り詰める空気。
だが、当のマヤは、そんなアイの視線を真正面から受け止めて、きょとんと首を傾げた。
彼にとっては、演技のプランだの女優への感情移入だのといった小賢しい理屈は、初めから存在していなかった。
「あー、あれな」
マヤは、残っていたポップコーンを口に放り込みながら、何でもないことのようにケロリと言い放った。
「なんだろうな……。お前が『愛ってなんだ』って聞いてきた時期だったろ? だから、アイがいなくなったら嫌だなって想像したら、勝手に涙出たんだよな」
――ピタリと。
シアタールームの時間が、完全に停止した。
世界中を感動の渦に巻き込み、今なおロングランを続けるあの歴史に残る美しい一筋の涙。
映画史に残る名演だと評論家たちが絶賛したあの静寂。
それが、演技の才能でも、共演者への恋心でもなく、ただ『星野アイを失うかもしれないという恐怖(根っこの反応)』のダダ漏れだったという事実。
「えっ……」
アイの瞳が、大きく揺らいだ。
尖っていた唇から力が抜け、嫉妬の棘は一瞬にして蒸発した。
代わりに込み上げてきたのは、胸が張り裂けそうになるほどの、圧倒的な熱。
嘘で塗り固められた世界の中で、この男だけは、いつでも真実だけを真っ直ぐに叩きつけてくる。彼が背負ってきた孤独な世界線の記憶などアイには知る由もないが、ただ、彼が自分を見つめるその赤い瞳の奥にある『絶対に手放さない』という強烈な温度だけは、痛いほどに伝わっていた。
「……っ」
アイの顔が、耳の先まで一気に真っ赤に染め上がった。
「おい、アイ? どうし――んっ」
不思議そうに顔を覗き込もうとしたマヤの言葉は、最後まで紡がれなかった。
アイが、ソファの上で身を乗り出し、両手でマヤの頬を挟み込むようにして、その唇に自分の唇を押し当てたのだ。
チュッ、という小さな、けれど甘い水音が響く。
「……パパの、ばか」
わずかに唇を離したアイは、涙ぐんだ瞳でマヤを見つめ、恥ずかしそうに、けれどこれ以上ないほど愛おしそうに微笑んだ。
マヤは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにふっと柔らかく笑い、アイの細い腰を引き寄せて、その頭を優しく撫でた。
「なんだよ、急に」
二人の間に流れる、完璧に満たされた、甘く濃密な空気。
スクリーンの中の悲劇的な運命を、現実のソファの上で寄り添う両親が、圧倒的な愛で完全に上書きしていた。
その光景を目の前で見せつけられた双子は、ソファの端で完全に限界を迎えていた。
(うわぁぁぁぁっ! パパかっこよすぎるし、ママ可愛すぎる! なにこの二人、尊すぎて直視できないんだけどぉぉぉ!!)
ルビーは、両手で自分の顔を覆いながら、指の隙間から目を輝かせて悶絶している。
(……なるほどな)
アクアは、白目を剥きかけながらも、静かに天井を仰ぎ見た。
((……俺の前世の青春が、両親の純愛ドキュメンタリーに上書きされた……尊すぎて、俺の魂が成仏しそうだ……)
アクアがソファの端で白目を剥きかけ、静かに昇天しかけていたその時だった。
「――お前ら、ちょっと待ってろ」
ふいに、マヤがソファから立ち上がった。
アイが不思議そうに見上げる中、彼はシアタールームの扉を開けて廊下へと出て行く。そして数分後、戻ってきた彼の手には、見覚えのある細長い物体が握られていた。
美しい装飾が施された、漆黒の鞘。
「ほらよ」
マヤは、ソファで硬直しているアクアの目の前に、それをごく無造作に差し出した。
「お前、さっきから画面のこれ、すげー真剣に見てたからさ。これ、その時のやつだぞ」
アクアの思考回路が、完全にショートした。
目の前にあるのは、先ほどまでスクリーンの中で世界中を熱狂させていた、あの歴史的名シーンで実際に使われた伝説の模造刀。
前世の自分がどれほど熱望してもガラス越しに眺めることすら叶わなかったであろう神話級のアイテムが、今、無造作に自分の目の前に突きつけられているのだ。
「すっご! これ、映像で使ってたやつ!?」
ルビーが目を輝かせて身を乗り出す。
「おう、そうだぞ。……ほらアクア、持ってみるか?」
マヤは悪戯っぽく笑いながら、鯉口を切った。
チャキッ、と。
シアタールームの薄明かりの中で、鞘から滑り出た刃が鋭い光を反射する。刀身に浮かび上がる、あの美しくも恐ろしい『龍の波紋』。
「これ、すごく綺麗だよね……」
アイが、ため息をつくように呟いた。
そして、ごく自然な動作でマヤの太い腕にすり寄り、その背中に腕を回してぎゅっと抱き着いた。嫉妬の棘が抜け落ちた彼女は、もう何の迷いもなく、大好きな夫の温もりを独占している。
「…………っ」
アクアは、震える小さな両手を伸ばし、マヤからその柄を受け取った。
ずしりとした、確かな金属の重み。
撮影時の激しいアクションの跡が、柄の擦れや微かな傷として生々しく残っている。世界中の映画ファンが喉から手が出るほど欲しがるこの刀に、今、自分の手が直接触れている。
「これ、やばいんだけど……」
アクアの瞳から、ついに本物の涙がボロボロと溢れ出した。
オタクとしての極限の感動。そして、それを自分のためにわざわざ持ってきてくれた父親の、不器用で真っ直ぐな優しさ。
「喜んでくれて嬉しいよ」
マヤの大きくて温かい手が、泣きじゃくるアクアの頭をポンポンと優しく撫でた。
その圧倒的な包容力に触れ、アクアの胸の奥底で、前世の『ゴロー』としての憧憬と、今を生きる『アクア』としての感情が、完全に一つに溶け合っていく。
「わ、私も! 私も持ってみる!」
「…………」
「おっと、順番な?」
ルビーがぴょんぴょんと跳ねてアピールすると、マヤが笑ってアクアから刀を受け取ろうとした。
すると、マヤの背中にしがみついていたアイが、ふふっと得意げに胸を張った。
「ママはねー、前に持たせてもらったことあるんだよー?」
なぜか四歳の娘に向かって、本気で張り合うアイ。
ルビーが「えー! ママずるい!」と頬を膨らませる中、アクアは袖で乱暴に涙を拭い、柄を握りしめたまま、真っ直ぐにマヤを見上げた。
「ありがとう……俺、この感情、絶対に忘れない。……なんかな」
アクアの口から、無意識のうちに、心の底からの本音がこぼれ落ちていた。
「俺……父さんみたいになりたいな」
それは、世界を救うヒーローへの憧れであり、目の前の愛する母を笑顔にしてくれた、世界で一番かっこいい男への、純粋な敬意だった。
「おっ。……嬉しい事言ってくれるねぇ」
マヤは照れくさそうに目を細め、アクアからゆっくりと刀を受け取った。
そして、今度はルビーの小さな両手に、その柄をそっと握らせてやる。
「…………」
ルビーは、その刀を受け取った瞬間、ふっと言葉を失った。
先ほどまではただの「映画の小道具」だと思ってはしゃいでいた。だが、実際に触れてみると、そこから伝わってくる圧倒的な重厚感と、これを持って死線をくぐり抜けてきた(ように見える)父親の熱い感情の残滓が、ダイレクトに伝わってくるような気がした。
「本当だ……。なんかこれ、やばいね。思いが伝わってくるっていうか……私も、なんかな……」
ルビーの瞳にも、じんわりと涙が滲む。
その様子を隣で見ていたアイは、これ以上ないほど優しく、誇らしげな母親の笑顔を浮かべていた。
「んじゃ、ちょっと貸してみ」
マヤは、ルビーから刀を回収すると、スッと立ち上がった。
ソファの前に立ち、無造作に刀を構える。
次の瞬間。
ヒュンッ――!!
空気が、破裂した。
鋭い風切り音がシアタールームに鳴り響いたが、アイと双子の目には、マヤが『どう振ったのか』が全く見えなかった。
視認できないほどの神速の斬撃。
そして、凄まじい風圧を巻き起こしたにもかかわらず、その刃はピタリと、ブレ一つなくマヤの顔の横で静止していた。
圧倒的な力と、それを完全に支配する完璧な制御。
世界を熱狂させる『神鬼マヤ』の真髄が、そこにあった。
「――みんな、愛してる」
微動だにしない刃の横で、マヤが振り返る。
その顔に浮かんでいたのは、映画の中の悲壮な決意でも、敵を威圧する鬼の表情でもない。
ただ自分の前で笑って生きている、大切な家族へ向けた、太陽のように温かい笑顔だった。
「「「…………っ!」」」
三人の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
アイが弾かれたように立ち上がり、マヤの首に両腕を回して強く抱き着く。
アクアとルビーもソファから転がり落ちるように飛び出し、マヤの太い両脚にしっかりとすがりついた。
カチャリ、と。
マヤは一瞬で刀を鞘に収めると、大きな両腕で、泣きじゃくる妻と二人の子供をまとめて強く抱きしめた。
「……ははっ、みんないい笑顔だ」
家族の温もりを胸いっぱいに抱きしめながら、マヤは満足げに笑う。
スクリーンの中の物語は終わった。だが、彼らの現実の幸福な日常は、ここからどこまでも続いていく。