新章 第1話:子供達
東京ドームでの伝説的なライブから数ヶ月。
アイの快進撃は留まることを知らず、アイドル業の枠を超えて、映画やドラマへの出演オファーが殺到していた。
ある日の早朝。『マヤ御殿』のリビングでは、アイが洗面台の前で熱心に台本を読み込みながら、ミヤコに髪をセットしてもらっていた。
今日は、映画監督である五反田泰志の現場での撮影日だ。アイの出番だけでなく、子役としてアクアも出演することになっている。
「ねえねえ、ママ」
ソファでミルクを飲んでいたルビーが、ふと、思いついたように口を開いた。
「ママとパパって、結局どういう関係なの?」
「ん? どういう関係って、夫婦だよ?」
「いや、そうじゃなくて! 世間的には絶対秘密じゃん? だから、その……実は籍を入れてない、内縁の関係だったりするのかなーって」
前世の知識があるルビーは、芸能界の複雑な事情を考慮して、かなり生々しい質問をぶっこんだ。
アイドルと世界的スターの極秘交際。スキャンダルを避けるために、法的な手続きは後回しになっているのではないか。ルビーなりの心配だった。
だが、アイは鏡越しにルビーを見て、不思議そうに首を傾げた。
「え? 普通に籍は入ってるから大丈夫よ? アクアもルビーも、しっかり戸籍に入ってるわよ」
「えっ」
「パパがね、『万が一俺に何かあっても、お前たちが法的に一番守られるように』って、結婚したその日にバッチリ手続きしてくれたの。もちろん、情報が漏れないようにパパが裏で凄く厳重に手回ししてくれてるんだけどね」
「そ、そうなんだ……!」
ルビーはホッと胸を撫で下ろし、隣に座っていたアクアも内心で(流石だ、あの親父……法的な防御力まで完璧すぎる)と深く感心していた。
悲壮感も、不安定な立場も、この家族には一切無縁だった。
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映画の撮影現場。
カメラや照明機材が所狭しと並ぶ中、アイとミヤコ、そしてアクアと見学のルビーが待機席に座っていた。
「私が、十秒で泣ける天才子役、有馬かなよ!」
現場の中心で、おかっぱ頭の少女がふんぞり返っていた。
大人たちの顔色を窺い、自分の可愛さと演技力を最大限にアピールする、いかにも業界擦れした子役。彼女の取り巻きのように、ステージママである母親がベッタリと張り付いている。
「よろしくね、アクアくん」
「……ああ」
アクアは、かなの露骨なマウントを大人の余裕でスルーした。
そんな中、スタジオの入り口の重い扉が開き、一人の長身の男が入ってきた。
深々と被ったキャップに、度の入っていない安っぽい黒縁メガネ。少し大きめの野暮ったいジャンパーを羽織っているが、服の上からでも分かる分厚い胸板と、洗練された歩き方は全く隠しきれていない。
「ちわーっす。劇団ララライの者です。今日は勉強しに来ましたー」
気の抜けた声で挨拶をして、男はスタッフたちの後ろに紛れ込んだ。
(((いや、あの変装はないでしょ……)))
アイ、アクア、ルビー、そしてミヤコの四人は、同時に心の中で突っ込んだ。
どう見ても神鬼マヤである。
物理的な変装は雑極まりないが、オーラを完全に消し去り「ただの冴えない見学者」になりきっているため、忙しく動き回る現場のスタッフたちは誰も彼が世界的スターだとは気づいていない。
「それじゃ、本番いくぞー! よーい、アクション!」
五反田監督の声が響き、撮影が始まった。
有馬かなは、持ち前の器用さで台本通りの『泣きの演技』を披露する。だが、その隣に立つアクアの存在感が、現場の空気を異質なものに変えていた。
アクアは、無理に表情を作ろうとはしなかった。
ただ、あのシアタールームで見た父親の『得体の知れない静けさ』を思い出し、その場にじっと立ち尽くしたのだ。大人の知能を持った子供の、不気味で底知れない静寂。
その圧倒的な『間』に、かなは完全に呑まれてしまった。
「カット!」
五反田監督の声がかかる。
かなは、肩で息をしながらアクアを睨みつけた。自分の見せ場だったはずのシーンが、隣の素人子役の気味の悪い存在感によって、完全に喰われてしまったことを、幼いながらも本能で理解してしまったのだ。
「……っ」
敗北感に唇を噛み締めるかなの元へ、彼女の母親が足早に歩み寄ってきた。
「かな! 今の演技、全然ダメじゃない! もっと前に出なさいっていつも言ってるでしょ! あんな素人の子に食われてどうするの!」
「ご、ごめんなさい……」
母親のヒステリックな叱責に、かなが怯えたように肩をすくめる。
周囲のスタッフも見て見ぬふりをする中、ふらりと、黒縁メガネの男が二人の間に立ち塞がった。
「それはいけないよ? おかあさん」
穏やかだが、絶対に逆らうことのできない芯のある声。
母親がギョッとして顔を上げると、メガネの奥の赤い瞳が、静かに彼女を見下ろしていた。
「お嬢さん、すごくいい演技してましたよ? 素直に、俺よかすげーって思ったからね」
「あ、あなたは……」
「大人があれこれ口出しして、この子の良さを潰しちゃもったいない。一個いいもんがあれば、それだけで十分なんですよ」
マヤの言葉には、不思議な重みがあった。
ただ庇うだけでなく、彼女の演技の中にあった『本物の光』を確実に見抜いている人間の言葉。母親は、その威圧感と説得力に圧倒され、何も言い返せずに口を噤んだ。
マヤは、ぽかんと見上げているかなの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「よく頑張ったな」
「……おじさん、だれ?」
「通りすがりの、見学者」
マヤはかなの頭をポンと撫でると、そのままアクアの方へと向き直った。
「アクア君も、いい演技してたね」
「……どうも」
「なんでも、まずは一個。それを大事にしていくといいぞ」
アクアは、父親からの真っ直ぐな称賛に、照れ隠しのように視線を逸らしてこくりと頷いた。
そこへ、騒ぎに気づいた五反田監督が歩み寄ってくる。
「あんた、ララライの人間か? 随分と役者のこと分かってるみたいだが」
「あ、監督。はじめましてですね。いやいや、俺なんてまだまだペーペーっすよ」
マヤは立ち上がり、人懐っこい笑みを浮かべて五反田に頭を下げた。五反田はその体格と歩き方に一瞬訝しげな目を向けたが、それ以上は追求しなかった。
「パパーッ!」
待機席からタタタッと走ってきたルビーが、マヤの足にしがみついた。
かなや五反田が「パパ?」と首を傾げる中、ルビーは目をキラキラと輝かせてマヤを見上げた。
「あのね! 私、アクションに興味があるの! パパみたいな、かっこいい動きしてみたい!」
「おっ、ルビーはアクションか? いいぞ、帰ったらパパが直々に基礎から教えてやる」
「やったー!」
ルビーがマヤの足元で無邪気に跳ね回り、アクアが呆れたようにため息をつく。
アイは待機席からその光景を眺め、愛おしそうに小さく微笑んだ。
「ただいまー」
「お疲れ様。いやー、今日もいい仕事したな」
強固なセキュリティに守られた『マヤ御殿』のリビング。
帰宅するなり、ソファにドカッと腰を下ろしたマヤに対し、アイとミヤコ、そして双子の冷ややかな視線が一斉に突き刺さった。
「マヤくん。あんた、あの黒縁メガネとジャンパーの変装は流石にないわよ。コントじゃないんだから」
「そうだよパパ! いくらなんでも雑すぎ!」
「父さん……あの変装で『劇団ララライのペーペーです』は、流石に無理がある。体格でバレバレだぞ」
ミヤコ、ルビー、アクアからの容赦ない総ツッコミ。
アイも、クスクスと笑いながらマヤの隣に座って肩をつついた。
「パパ、目立ちすぎだよぉ」
「はあ? なに言ってんだ、かなり誰にもバレてなかっただろ? 完全に気配消してたし」
「いや、気配を消してる大男っていう時点で異質なのよ……」
ミヤコが呆れて頭を抱える中、マヤはどこ吹く風でアクアの頭をポンと撫でた。
「でもまぁ、現場に行った甲斐はあったわ。アクア、すげーいい演技だったぞ。あの子役の女の子の空気を完全に喰ってたな」
「……たまたまだよ」
照れ隠しのようにそっぽを向くアクアに、マヤはカラリと笑った。
「パパはよ、演技とか本当だめでよ。向こうの台本なんて、パパのところだけうっすいんだぞ? 『ここで敵を十人倒す』『ものすごい動きで避ける』くらいしか書いてねえし、セリフもほとんどねえ」
「えっ、あの名作映画の台本ってそんななの!?」
「おう。アクションの段取りなんか俺が現場で勝手に作ってるからな」
世界を熱狂させる『神鬼マヤ』のまさかの大暴露に、アクアは(あの伝説のアクション、全部親父のアドリブだったのか……)と白目を剥きかけた。
「でも、パパは一個いいもん(アクション)があればそれでいいってな。……その点、ママは違うだろ?」
マヤは、隣に座るアイを優しく見つめた。
「歌って踊って笑って、おまけに演技もうまい。今日の現場でも、監督の要求に完璧に応えてたしな。……アイは、本当に最強すぎだな!」
「っ……もー、パパは!」
マヤの直球すぎる褒め言葉に、アイの顔がぱぁっと赤く染まる。
アイドルの仮面など微塵もない、ただの恋する女の子の照れ顔。アイは両手で熱くなった頬を押さえながら、「昔から変わらないな、パパは」と嬉しそうに呟いた。
その微笑ましい両親のやり取りを横目に、ルビーが短い手足をバタバタと振り回してマヤの前に躍り出た。
「ねえねえ、パパ! 私ね、パパみたいにシュッシュッ! て感じのがいいな! アクション教えて!」
ルビーの瞳は、これ以上ないほどキラキラと輝いていた。
前世では病室のベッドの上で、自分の身体を自由に動かすことすら叶わなかった彼女にとって、『自分の意志で思い切り身体を動かす』ということは、何よりも強い憧れだったのだ。
「おう、いいぜ。……と言いたいところだが、ルビーはまだちっちゃいからな」
マヤはルビーの目線に合わせてしゃがみ込み、その小さな肩に手を置いた。
「まだ幼いうちからハードなトレーニングはあんまりしないこと。筋肉と骨が変なつき方して、大きくなった時に困るからな。まずは、イメージだ。自分が『どう動きたいか』っていうのを、頭の中でしっかり思い描くんだよ」
「イメージ……」
「そうだ。頭で描いた通りに身体を動かせるようになるのが、一番最初のステップだ」
そのマヤの言葉に、アクアは密かに感心して聞き入っていた。
(流石だ……父さんは脳筋に見えて、身体の構造や発育に関しては完全に理にかなったことを言っている。四歳児の骨格に無理な負荷をかけないのは、医学的にも大正解だ)
「ま、でも、俺はそれを言葉で説明できないだけなんだけどね」
アクアの感心をよそに、マヤはあっけらかんと笑い飛ばした。
「でもな、相手の『動き』を教えることはできるぞ? 言葉でどうこう言うよりも、直接寄り添って直すって感じだな」
「寄り添う?」
「ああ。パンチ一つでシュッてやった時に、『あ、そこの重心ブレてる』みたいな感じだな。ママにアクションとかバランスを教えた時が、まさにそれだったな。背後からママにぴったりくっついて、直接身体を動かして教える感じだ」
マヤが何気なく放った言葉に、アイが「あー、あの時ね!」とニコニコしながら頷く。
「パパったら、稽古場の真ん中なのに後ろからぎゅーってしてきて、すっごく密着して教えてくれたんだよー。みんな、びっくりして固まっちゃってたよね」
「向こうの現場のノリだったからな。愛理さんに怒られたわ」
あっはっはと笑い合う最強夫婦。
だが、それを聞いていたアクアの顔は、一気に引き攣っていた。
(……待て。それ、ただのセクハラ……いや、稽古場での公開イチャイチャじゃないか! ララライの連中、よくそれで暴動起きなかったな!?)
前世からの推しとヒーローの『馴れ初め時の生々しいスキンシップ』を思いがけず聞かされ、アクアは再び特大の羞恥心でダメージを負う羽目になった。
「よし、ルビー。まずは姿勢からだ。こうやって、まっすぐ立ってみろ」
「こう?」
リビングの絨毯の上で、マヤがルビーの小さな身体を優しく支えながら、正しい重心の掛け方を教えている。
その温かい光景を、アイは心底幸せそうな顔で見守っていた。
悲壮感などどこにもない。この要塞の中で、神鬼マヤという太陽に照らされた家族の日常は、今日もどこまでも平和に続いていくのだった。
「じゃあ、ちょっとこっち来てみな」
マヤは立ち上がると、ルビーをリビングの広い壁際へと連れて行った。
「壁に『後頭部』『肩甲骨』『お尻』『かかと』の四カ所をくっつけて、まっすぐ立ってみな」
「こうかな?」
ルビーが言われた通り、壁にペタッと背中をくっつける。マヤはその小さな身体を横から眺め、優しく頷いた。
「そうだ。で、その姿勢をキープしたまま、一歩だけ前に踏み出すんだ。この時、耳たぶが肩より前に出すぎていないか、腰の後ろに手のひらが入りすぎていないかを確認する。これで、だいたいの重心が分かる」
ルビーが真剣な顔で一歩前に出る。マヤはルビーの腰の裏に大きな手のひらをすっと差し込み、隙間の感覚を確かめた。
(……なるほど)
少し離れた場所から見ていたアクアは、内心で深く唸っていた。
(姿勢評価の基本であるウォールテストだ。感覚的な言葉だけでなく、四歳児にも分かりやすい物理的な指標でコアの重心を意識させている。父さんの身体操作理論は、医学的に見ても完全に理にかなっている)
「最初は難しいけどな、お前みたいに若い時は骨格もそんなにズレてねえからな。その重心を普段からずっとキープしていけば大丈夫だ。それでだんだん大きくなったら、あっちのジムの部屋で本格的に身体を作っていくといいぞ」
「うんっ! 私、頑張る!」
ルビーは目をキラキラと輝かせて元気よく返事をした。
前世の病室では、自分の意志で身体を動かすことすら叶わなかった。それが今、大好きな本物のヒーローから直々に『健康に身体を動かして成長していく未来』のビジョンを提示されているのだ。その喜びは計り知れない。
「アクアも、やりたきゃ一緒にやってもいいぞ?」
「……俺は、まぁ、気が向いたらな」
マヤに声をかけられたアクアは、顔を背けてそっぽを向いたが、その小さな耳の先は照れくささでほんのりと赤く染まっていた。
すると、その親子のやり取りをソファから見ていたアイが、急に立ち上がって壁の前へとやってきた。
「パパ! ママもやる! 見てて!」
「お?」
アイはルビーの隣に並ぶと、壁に背中を預け、完璧な四点立ちの姿勢をとった。
そして、スッ……と、頭の先から足先まで一切のブレを感じさせない、滑らかで美しい一歩を前に踏み出した。
「どう? 完璧でしょ!」
「おお。流石だな、アイ。体幹のブレが全くねえわ」
「えへへー!」
マヤが感心したように手を叩くと、アイはこれ以上ないほど嬉しそうに胸を張った。そして、隣のルビーに向かって、なぜかドヤ顔を決める。
「どうだー、ルビー! ママの重心、すっごく綺麗でしょ!」
「むむっ、ママ大人げない! 私だってパパに教えてもらえば、すぐにママよりシュッシュッって動けるようになるもん!」
「ふふーん、百年早いね!」
なぜか四歳の娘を相手に、本気で張り合い始めるトップアイドル。
ルビーも負けじと壁に背中をくっつけて、もう一度一歩踏み出す練習を繰り返している。
「こらこら、喧嘩すんなって」
その騒がしくも微笑ましい母娘の対決を、マヤは楽しそうに笑いながら見守っていた。
アクアは「やれやれ」と小さく肩をすくめながらも、その口元には、絶対に失いたくなかった『家族の温かい日常』を守り抜いた、穏やかな笑みが浮かんでいた。