撮影を終え、自宅へと向かう送迎車の後部座席。
有馬かなは、流れていく窓の外の景色をぼんやりと見つめていた。
「まったく、なんなのあの男! 劇団のペーペーのくせに、偉そうに口出ししてきて!」
隣に座る母親は、先ほどの出来事を思い返しては、まだカリカリと不満をこぼしている。
いつもなら「そうだね、ママ。変な人だったね」と同調して、母親の機嫌を取るところだ。
しかし、今のかなには、母親のヒステリックな声がまったく頭に入ってこなかった。
(……あの人)
ダサい黒縁メガネに、野暮ったいジャンパー。
しかし、服の上からでも分かる分厚い胸板と、一切の隙がない立ち姿。
そして何より、メガネの奥から真っ直ぐに見下ろしてきた、あの静かで圧倒的な『赤い瞳』。
芸能界の大人たちに囲まれて育ってきたかなの本能が、あの男がただの劇団員であるはずがないと警鐘を鳴らしていた。
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自宅のマンションに帰り、自分の部屋のドアを閉めたかなは、ふうっと息を吐いてベッドに倒れ込んだ。
ふと、壁に貼られた特大のポスターが目に入る。
赤い髪に、研ぎ澄まされた肉体。波紋の浮かぶ刀を構えた青年の姿。
現在進行形で世界中を熱狂させている超特大ヒットコンテンツ、『流星忍者』。
その第一章から長年にわたって世界的な社会現象を巻き起こし続け、かなが生まれた頃に堂々の最終章を迎えた伝説のシリーズだ。芸能界で生き残るため、演技の勉強として、母親が「世界一のアクションスターの表情を研究しなさい!」と買ってきた第一章からの分厚いDVDボックスが、かなの部屋の棚にもずらりと並んでいる。
アクションといえば、神鬼マヤ。赤い髪といえば、龍星。
物心ついた時から、かなにとって『本物のスター』の象徴といえば、ポスターの中で鋭い視線を放つこの男だった。
「…………えっ?」
ベッドの上で、かなの動きがピタリと止まった。
ポスターの男の顔。背格好。そして、あの特徴的すぎる赤い瞳。
記憶の中の『ダサいメガネの見学者』と、ポスターの中の『世界一のアクションスター』の姿が、かなの頭の中で急速に重なっていく。
「……う、嘘でしょ」
かなはガバッと身を起こし、ポスターを指差して震える声を上げた。
「あ、あの時の男の人……絶対、龍星(マヤ)じゃなかった!?」
気付いてしまえば、あまりにも露骨だった。
なんで誰も気付かなかったのか不思議なくらいだ。いや、あの男の『気配の消し方』が常軌を逸していたせいなのだが、至近距離で目を合わせたかなの脳裏には、あの赤い瞳の引力が強烈に焼き付いていた。
「ま、待って待って! てことは……!」
かなの小さな脳味噌が、フル回転で状況を整理し始める。
「あの時、『パパ』って飛びついてきた可愛い女の子……それに、私を演技で喰ったあのアクアって男の子も……龍星の子供ってこと!?」
世界的スーパースターに、自分と同い年の隠し子がいる。
業界に身を置く四歳児として、それがどれほどとんでもない特大スクープか、かなには痛いほど理解できた。
「えっ……私、とんでもない秘密を知っちゃったんじゃ……」
パニックになりかけたかなの頭に、ふたたび、スタジオでの光景がフラッシュバックする。
自分の演技がアクアに喰われ、母親からヒステリックに怒鳴りつけられていた、あの惨めな瞬間。
そこに立ちはだかり、自分を庇ってくれた大きな背中。
『お嬢さん、すごくいい演技してましたよ? 素直に、俺よかすげーって思ったからね』
「~~~~~~っ!!」
かなは、自分の顔が爆発しそうなほど熱くなるのを感じて、ベッドのシーツに顔を押し付けてバタバタと足を転げ回った。
「はずい! はずいぃぃっ! よりによって世界一のスターに、あんなダサいとこ見られたの!? しかも、私の方がすごいだなんて……っ!」
恥ずかしさで死にそうだった。
だが、シーツを握りしめるかなの胸の奥には、それ以上に、どうしようもないほどの『嬉しさ』がジンジンと広がっていた。
『なんでも、まずは一個。それを大事にしていくといいぞ』
あの大きな手で頭を撫でられた時の、不思議な安心感と温もり。
今まで、かなが演技をする理由はたった一つだった。「お母さんに褒められたいから」「お母さんの機嫌を良くしたいから」。
でも、あの人は違った。母親の言いなりになっている自分ではなく、かな自身の中にある『一個の光』を確実に見つけ出し、真っ直ぐに肯定してくれた。
「……もう」
かなはベッドから起き上がり、両手で自分の頬をパンッと叩いた。
「お母さんの言いなりになるだけの、お人形の演技はやめる」
鏡の中に映る自分を見つめる。
泣くことしか取り柄がない、大人の顔色を窺うだけの『天才子役』は、今日で終わりだ。
ポスターの中の赤い髪のヒーローを見上げ、かなはギュッと小さな拳を握りしめた。
「絶対に、自分の演技を磨いてやる。……いつか、アクアにも勝って、あの人と同じステージに立ってやるんだから!」
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壁際での重心トレーニングと、アイとルビーの微笑ましい張り合いが落ち着き、リビングに再びゆったりとした時間が戻ってきた。
マヤはソファに深く腰を下ろすと、少し離れた絨毯の上に座っていたアクアに向かって、静かに口を開いた。
「アクア。お前、今日の演技すげーよかったぞ」
「……え?」
「でも、ダメだったな」
その言葉に、リビングの空気がピタリと止まった。
アイは目を丸くし、ルビーは頭の上にいくつものハテナマークを浮かべている。アクア自身も、予想外のダメ出しに言葉を失い、マヤの顔をまじまじと見つめ返した。
「え……ダメって、どういう……?」
「アクア。他の人を『食べたら』ダメだろ?」
マヤは、テーブルの上のグラスを手にとりながら、ごく当たり前のことを諭すように言った。
「あの子は良い演技だった。でも、アクアはそれ以上のものをしてしまったんだよ。つまり、出しすぎたってことだ」
「…………!」
アクアの肩が、ビクッと跳ねた。
図星だった。大人の知能と、前世の医者としての観察眼。そして何より、父親であるマヤの『得体の知れない静けさ』を無意識に模倣してしまったことで、あの場の空気を完全に支配してしまったのだ。結果として、見せ場だったはずの有馬かなの演技は、完全にアクアの影に呑まれてしまった。
「役割分担ってやつだな。あの時、お前は最高の演技をした。でも、場を見ないとダメだ」
「場を、見る……」
「ああ。俺の台本にはほぼセリフないからさ。案外そういうの……なんだろうな、『空気』っていえば分かるかな。それを求められてるのかどうかってやつだよ」
マヤはグラスの水を一口飲み、言葉を探すように少しだけ視線を彷徨わせた。
「俺の場合は、全部その時に思ってることみたいなんだぞ? 監督からは『相手がこう言いました。それを感じたらどう思ったかでやってください』って言われるだけだ。セリフも動きも、その場の空気で決まる」
「……えっ。それ、すごすぎじゃないの……?」
アクアは戦慄した。
マヤが語っているのは、究極の憑依の領域だ。決められた台詞をなぞるのではなく、その場に流れる空気と相手の感情を受信し、嘘のない『本物の反応』だけをカメラの前に出力する。
「……なんとなく、わかったかも。ありがとう、父さん」
アクアが真剣な顔でこくりと頷くと、隣で聞いていたアイが、誇らしげにふんすと胸を張った。
「ふふっ、パパすごいでしょ? ママの時もこんな感じだったんだよ」
「えー? どういうことー?」
ルビーが首を傾げると、アイはアクアとルビーの顔を交互に見つめ、ニコッと笑った。
「要するに、空気を読もうってことだよ。あの場でアクアは、出すぎちゃダメな場面だったのよ」
「出すぎちゃダメ?」
「そう。アイドルで言えば、センターじゃない子が、いきなり前に出てきちゃった、みたいな?」
「あーっ! なるほど!!」
アイの完璧すぎる例えに、ルビーが両手をポンと叩いて納得した。
「ママのほうが解説上手だね!」
ルビーの無邪気な言葉に、リビングにドッと笑い声が起こる。
マヤも「違いない」と苦笑いしながら、アクアの頭を大きな手でガシガシと撫でた。
「そういうことだ。芝居は一人でやるもんじゃないからな。ま、ゆっくり覚えていけばいい」
家族の温かい笑い声が響く中、アクアは自分の膝の上で、小さな両拳を静かに握り締めていた。
(……勝ち負けじゃ、ないんだ)
有馬かなは、現場で明確に『勝負』を仕掛けてきていた。だから自分も、それを受けて立つように自分の存在感をぶつけてしまった。
だが、父親が教えてくれた真理は違った。
役者とは、共演者を蹴落として自分が目立つためのものではない。そのシーンで自分が『何を求められているか』を理解し、相手の演技を受け止め、一つの作品としての空気を創り上げること。
(父さん……やっぱりあんた、底が知れないよ)
力任せに全てをねじ伏せることもできるはずの男が、誰よりも周囲の空気を読み、相手の良さを活かすための『役割』に徹している。
アクアは、目の前でアイと笑い合う父親の大きな背中を見つめながら、改めてその途方もない大きさと、役者としての深みに圧倒されていた。
天才子役をねじ伏せただけの自分が、少しだけ恥ずかしくなる。と同時に、これほど偉大で確かな道標がすぐそばにあることに、前世では決して味わえなかった満たされた感情がこみ上げてくるのを感じていた。
「ま、父さんの場合はよ、そもそも器用な『演技』なんてできないからさ。そうやってその場に入り込まないとできなくなったから、結果的にそういう周りの空気とか役割みたいなのが、見えてしまうようになっただけなんだけどな」
マヤは頭の後ろで手を組みながら、どこまでもあっけらかんと言ってのける。
世界中を熱狂させる自分の芝居の根源を、単なる『不器用さの副産物』だと本気で思っているのだ。計算や打算など一切ない、ただ目の前の相手に寄り添った結果の境地。
(……それを無意識の極地でやってのけるから、あんたは規格外なんだよ)
アクアは内心で小さくため息をつきつつ、ポツリと本音をこぼした。
「……それはそれで、凄いよ」
「えー? 私は、パパ凄いと思うよ!」
ルビーが、アクアの言葉に被せるようにして両手を大きく広げた。
「映画のパパ、シュバババッて動いてて本当にかっこよかったもん! だから、演技できないなんて絶対に嘘だね!」
「あはは、そうか? ありがとうな、みんな」
ルビーの無邪気な全力の肯定と、アクアからの不器用な称賛を受け、マヤは嬉しそうに声を上げて笑った。
アイもまた、そのやり取りを横で見つめながら、愛おしそうに微笑んでいる。
演技の技術でも、業界の常識でもない。ただ相手を思いやり、役割を全うするという真理。最強の父親がもたらす温かい教えは、二人の子供たちの心に、確かな道標として刻み込まれていくのだった。