『流星きたる』――そのふざけたタイトルと大風呂敷を広げた特撮映画が、いかにして世界を呑み込む怪物コンテンツへと化けたのか。
それを語るのに、多くの言葉は必要なかった。
ただ、スクリーンの中で赤い髪の少年が走る。跳ぶ。笑う。
たったそれだけのことが、国境も言語も文化の壁も、すべてを粉砕してしまったのだ。
彼が壁を蹴り、空を舞い、重力をねじ伏せるたびに、世界中の観客が息を呑み、熱狂した。
『ワイヤー!? なんだそれ!』という、当初は失笑を買うだけだったコテコテのキャッチコピーは、数ヶ月後には世界中のメディアがこぞって引用する伝説のフレーズへと変わっていた。
全米同時公開から瞬く間に興行収入の記録を塗り替え、アニメ化、ゲーム化、世界規模での関連商品展開。
神鬼マヤという名前は、わずか十歳にして「世界で最も有名な東洋のアクションスター」としてエンターテインメントの頂点に君臨することになったのである。
だが、世間がどれほど熱狂しようとも。
雨宮吾郎にとっての『流星忍者』は、社会現象や巨大ビジネスなどではなく、ただ暗闇の中で自分の魂を繋ぎ止めてくれる、たった一つの命綱であり続けた。
*
鼻を突くホルマリンの臭い。冷たいステンレスの解剖台。
十八歳になり、都内の医学部へ進学した吾郎の日常は、高校時代よりもさらに過酷で、ひりつくような死の気配に満ちていた。
分厚い教科書の文字を追うだけだった日々は終わり、実際の「人体」と向き合い、命の構造を直接手で触れて解き明かしていく実習の日々。
周囲の医学生たちが要領よく知識を吸収し、週末には酒を飲んで青春を謳歌する中、吾郎だけは依然として見えない重力に縛られていた。
母の命と引き換えに得た自分の生。
その罪悪感は、医学の深淵に触れれば触れるほど、吾郎の心をギリギリと締め付けた。
徹夜続きで目玉が焼けつくように痛み、自分が一体何のために血肉と臓器のスケッチを繰り返しているのか分からなくなり、嘔吐感に襲われる夜が何度もあった。
そんな時、吾郎は決まって深夜の映画館へと足を運んだ。
薄暗い館内。ポップコーンの甘い匂い。座り心地の悪いシートに身を沈め、スクリーンを見上げる。
『流星忍者 第二章』、そして翌々年には『第三章』。
画面の中の龍星は、吾郎が年を取るのと同じように、少しずつ成長していた。
十歳だった線の細い少年は、背が伸び、肩幅が広がり、筋肉の密度を増していく。だが、そのアクションの凄みと美しさは、成長と共に増すばかりだった。
重力を無視したような足運び。相手の攻撃のベクトルを完全に読み切り、最小限の動きで無力化する体術。ワイヤーなど一切使わない、骨格と筋肉の連動だけで生み出される飛翔。
そして何より、傷つき怯える人々を振り返り、汗を拭いながら見せるあの笑顔。
『怪我はないか? よかった!』
何十回、何百回とスクリーン越しにその笑顔を見るたび、吾郎の胸にへばりついていた泥のような疲労と罪悪感が、嘘のように洗い流されていった。
彼はただ、人が生きていることを喜んでいる。
その圧倒的な「生」の肯定が、どれほど吾郎を救ったか知れない。
「……ありがとな、マヤ」
深夜の映画館の片隅で、エンドロールを眺めながら、吾郎は誰にも聞こえない声で呟く。
そして翌朝には、憑き物が落ちたような顔で再び白衣に袖を通し、ホルマリンの臭いが立ち込める実習室へと向かうのだった。
吾郎が過酷な医学部生活を生き抜き、国家試験を突破し、一人前の医者になるまでの最も苦しい八年間。その傍らには、常に神鬼マヤと『流星忍者』の存在があった。
*
それから、さらに時が流れた。
真夜中の宮崎。山間にある総合病院の長い廊下は、不気味なほどに静まり返っている。
消毒液の冷たい匂いと、等間隔に並んだ蛍光灯の無機質な白い光。
産婦人科医となった吾郎は、重い足取りで休憩室へと向かっていた。
二十四歳。当直明けの身体は鉛のように重く、首を回すとゴキリと鈍い音が鳴った。ポケットの中で当直用PHSの感触を確かめながら、自販機の前に立つ。
見慣れたラインナップの中から迷うことなくブラックの缶コーヒーを選び、ボタンを押す。
ガコン、と金属音を立てて落ちてきた冷たい缶を拾い上げ、吾郎は休憩室の丸椅子にどっかりと腰を下ろした。
プルタブを開け、苦い液体を胃の腑に流し込む。
カフェインが血管を巡るのを感じながら、吾郎はふと、今はもうこの病院にはいない一人の少女のことを思い出した。
天童寺さりな。
重い病を抱え、たった十二歳でこの世を去った小さな患者。
彼女は、アイドルグループ「B小町」のセンター・星野アイの熱狂的なファンだった。
『せんせー! 今日のアイちゃんもすっごく可愛いよ! ほら見て!』
『はいはい。お前、ほんとそういうの好きだな』
病室で目を輝かせるさりなに、吾郎はよく呆れたように笑い返していた。
だが、吾郎も人のことは言えなかった。
『いいか、さりな。本当のスターってのはな、キラキラした衣装なんか着なくても、壁を垂直に走れるやつのことを言うんだ。俺の青春は「流星忍者」全七章と共にあるんだよ』
『出た! せんせーのオタク語り! だいたいその映画、タイトルがくっそダサいんだってば!「ワイヤー!?なんだそれ!」って、いまどき誰も言わないよ!』
『バカ、あのダサさがいいんだろうが。マヤの凄さが分からんとは、お前もまだまだガキだな』
そんな軽口を叩き合った日々は、もう遠い。
さりなが亡くなった後、吾郎は彼女が遺したB小町のグッズを引き継ぎ、いつしか星野アイというアイドルを「命を賭けて推す」と決めていた。
暗闇の底にいた十代の自分を、圧倒的な強さと笑顔で引っ張り上げてくれた、最初のヒーローである神鬼マヤ。
そして、さりなが愛し、その命の輝きを仮託した絶対的なアイドル、星野アイ。
吾郎の心には、この二つの強烈な「光」が灯っていた。
「……さてと」
吾郎は缶コーヒーをテーブルに置き、白衣のポケットからスマートフォンを取り出した。
何気なくニュースアプリを開き、エンタメのタブをタップした瞬間。
吾郎の指が、ピタリと止まった。
『世界的メガヒットシリーズ「流星忍者」、ついに第七章で堂々の完結! 主演・神鬼マヤ、十八歳の旅路』
画面にデカデカと表示されたその見出しを見て、吾郎は小さく息を呑んだ。
添付されている動画のサムネイルには、海外の豪華なプレミア上映のステージに立つ、一人の青年の姿があった。
吾郎は迷わず再生ボタンを押す。
フラッシュの瞬く中、マスコミの前に現れたのは、見事な青年に成長した神鬼マヤだった。
十八歳。あの十歳の頃の面影を残しつつも、彫刻のように美しく引き締まった肉体。トレードマークの赤髪のツーブロックは健在で、フォーマルなスーツを着崩した姿には、すでに大人の男としての色気が漂っている。
だが、その鋭くも透き通った赤い瞳だけは、吾郎が八年前に初めて深夜のテレビで見た時と、何一つ変わっていなかった。
画面越しに、外国人記者の質問が飛ぶ。
『マヤ! 八年間にわたる壮大な撮影が、ついに完結を迎えました。巨万の富と世界的な名声を手にした今、この旅の終わりをどう感じていますか!?』
通訳を介してその言葉を聞いたマヤは、マイクを握ると、不思議そうに小首を傾げた。
『ん?』
そして、あの頃と全く同じ、底抜けに明るく、屈託のない笑顔を見せた。
『楽しかったぞ! 現場で食う飯も美味かったしな!』
世界的なスターの一つの区切りとも言える歴史的瞬間に、飛び出した感想は「楽しかった」と「飯が美味かった」。
その飾らない笑顔を見た瞬間、休憩室に一人座る吾郎の胸に、熱いものが込み上げてきた。
「……変わんねえな、お前は」
吾郎は、スマートフォンの画面を指でそっと撫でた。
十五歳の夜、線香の匂いがする薄暗い部屋で、初めて彼のアクションに魂を救われた日のことが鮮明に蘇る。
あれから八年。
自分は医者になり、そして彼もまた、龍星としての長い旅を終えたのだ。
『流星忍者』が終わった。
それは吾郎にとって、自らの過酷だった青春時代の一つの区切りを意味していた。
「……終わっちまったか、龍星」
吾郎は天井を仰ぎ、深く、長く息を吐き出した。
寂しさと、それ以上の清々しさが胸を満たしている。
暗闇にいた自分を光の当たる場所まで連れてきてくれたヒーローは、これでもう十分すぎるほどの役目を果たしてくれた。
これからは、自分が誰かを救う番だ。あの時のマヤのように、誰かが生きていることを心の底から喜べるような、そんな医者になるために。
吾郎は立ち上がり、残っていた冷たい缶コーヒーを一気に飲み干した。
空になった缶をゴミ箱に放り投げると、カラカラと小気味よい音が鳴る。
吾郎は白衣の襟を正し、夜明けが近づく窓の外、満天の星が輝く宮崎の空を見つめた。
穏やかな充実感に包まれながら、彼は思う。
自分の人生は、これからもこの静かな田舎の病院で、命の誕生と向き合いながら淡々と続いていくのだろう、と。