かなは、新たな所属先である『苺プロ』の扉を叩いていた。
かつて一世を風靡したB小町が円満解散し、その稼ぎを元手に裏方に回った初期メンバーのニノが手腕を振るうその事務所は、少数精鋭ながら非常にアットホームな空間だった。
ソファでは、年齢を重ねた今でも二十歳の頃と寸分違わぬ奇跡の美貌を保ち続ける伝説のアイドル・星野アイが、無防備なパーカー姿でくつろいでいる。ファンタジーとしか思えないその姿にも肝を冷やしたが、さらにかなを驚かせたのは双子たちの現在だった。
十六歳の高校生になったルビーは、アイドルの道ではなく、特撮番組の『変身後のスーツアクター』という異色のポジションで大活躍していた。「顔バレもしないし、思いっきりアクションできるし最高!」と笑う彼女の身体能力は、すでに業界内でも伝説になりつつある。あのアクションスターの父親からも「女の子の骨格を守るにはちょうどいいな」とあっさり許可が下りたらしい。
そして、アクアとの再会。
十六歳になり、少しマッシュ気味に整えられた赤い髪と、知的な黒縁眼鏡。かつて四歳の時に出会ったあの生意気な少年の面影を残しつつも、どこか思い詰めたような陰りを帯びた彼に対し、かなは真っ向から宣戦布告をした。
『あの時、あなたには負けたと思ったわ。でもね、あなたのお父さんに褒められて、私は変わる努力をしたの。……私はここで頑張っていく。一緒に、良いものを作りましょう』
堂々と手を差し出すかなに対し、アクアは(当時の変装、やっぱり完全にバレてたのか……)と頭を抱えながら、苦々しく視線を逸らした。
『俺は今……少し、演技が難しいなって思っててさ。お前は真っ直ぐで、よかったな』
『随分弱気ね。今度一緒に共演でもできたらいいわね。あと、あなたのお父様とも、いつか絶対……!』
『父さんは関係ないだろ……』
自分を真っ直ぐに肯定してくれたマヤに強烈な憧れを抱き、真っ当に実力を伸ばしてきたかな。
一方で、偉大すぎる父の背中と「場を読む」という高度な技術に縛られ、卑屈にこじらせてしまったアクア。
かつての子役時代とは、完全に構図が逆転していたのだ。
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「……お、おい。だいじょうぶ、か。おれが、おまえを、まもってやる、よ」
都内近郊のスタジオに、絶望的なまでに抑揚のない、まるで壊れた機械のような台詞が響き渡った。
深夜枠のWebドラマ『今日は甘口で』の撮影現場。ヒロインを演じる有馬かな(十七歳)は、目の前で大根役者ぶりをいかんなく発揮している若手モデル・鳴嶋メルトの芝居を受けながら、内心で激しい葛藤と戦っていた。
(顔はいい! 顔だけは無駄にいいのに、どうしてこうも中身がすっからかんなのよ!)
感情の乗っていない棒読み。視線は泳ぎ、立ち姿には芯がない。メルトだけでなく、周りを固める男性陣のほとんどが「顔と人気だけでキャスティングされた」演技経験ゼロのモデルたちだった。
だが、かなは折れない。かつての彼女なら、自分の演技レベルを彼らまで引き下げて「空気を読む」妥協の道を選んでいただろう。しかし、今の彼女は違う。周りがどれほど素人だろうと、自分が圧倒的な熱量で引っ張り、作品を成立させてみせる。彼女の瞳には、誇り高き女優としての強い意志が宿っていた。
そして現在、『今日あま』の撮影現場。
ヒロインをストーキングする悪役として現場に入っていたアクアは、セットの影で深く息を吐き出していた。
(有馬は主役だ。彼女の熱量を生かすために、俺は悪役として完全に気配を消し、場を読まなければならない)
そう思考を巡らせるアクアだが、それは完全に裏目に出ていた。前世の知能と、父親譲りの「静かなる強者のオーラ」を無理に圧縮しようとした結果、ただのストーカー役が『ヒロインを絶望の淵に追い詰めるサイコパスなラスボス』のような異様な存在感を放ってしまい、現場のバランスを不気味に歪めていた。
「はい、カット! うーん、メルトくん、もうちょっと感情込めてみよっか!」
監督の苦しいフォローが入り、現場の空気がダレかけた、まさにその時だった。
「おい、そこの奴ら。演技舐めてんのか?」
どこからともなく、地を這うような野太い声が響いた。
スタッフが慌てて振り返ると、スタジオの入り口に、不自然な帽子と大きなサングラスで顔を隠した、体格の良い男が立っていた。帽子の下からは、隠しきれない鮮やかな赤い髪が覗いている。
首からは『劇団ララライ関係者』のパスを下げているが、その見た目も放つ覇気も、全盛期から一切の衰えを感じさせない。どんな変装を通しても隠しきれない、圧倒的な存在感だった。
「はあ!?」
真っ先に噛み付いたのは、メルトだった。
何度もリテイクを出されて苛立っていた彼は、ずかずかと男に詰め寄った。
「なんだあんた! どこの馬の骨ともわかんねえ、きな臭いおっさんに言われる筋合いはねーんだよ! モブが引っ込んでろ!」
ギロリ。
その瞬間、かなの瞳がスッと細められ、メルトの背中へ凄まじい殺気のこもった視線が突き刺さった。
同時に、セットの影にいたアクアと、事情を知る一部のスタッフたちの顔からサーッと血の気が引いた。
(こいつら、マジか……!)
アクアは顔を引きつらせた。ハリウッドの頂点に立った世界的なアクションスターに向かって、モブ呼ばわり。無知とは恐ろしい。下手な裏社会の人間を怒らせるよりよっぽど命の危険がある行為だ。
周囲が冷や汗を流す中、変装下手な赤い髪の男――神鬼マヤは、メルトの暴言を受けても怒るどころか、フッと短く鼻を鳴らした。
「そうだな。俺はモブレベルだ。演技の繊細さで言えばな」
世界的アクションスターは、自らの演技の不器用さを誰よりも自覚している。だからこそ、その言葉には一切の虚勢がない。
「だが、お前らよりはよっぽど演技に真っ直ぐだ。……ま、続けてくれ。見させてもらうからよ」
呆気にとられるメルトたちを一蹴し、マヤは真っ直ぐにかなを指差した。
サングラス越しの視線が、十七歳の女優の姿をしっかりと捉える。
「そこの女優さん、すげーいいぞ。随分がんばったんだな、あの時から」
トクン、と。
かなの心臓が、大きく跳ねた。
メルトへの怒りで沸騰しそうだった頭の中が、一瞬で真っ白になる。
覚えていてくれた。あの時の、四歳の自分に言ってくれた言葉の続きを、今、この場所で。
かなの瞳の奥からじわっと熱いものが込み上げ、彼女は天にも昇るような歓喜に包まれた。全身から、さらに圧倒的な芝居のオーラが立ち昇る。
マヤはあっさりと背を向け、見学スペースのパイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。
そのすぐ隣には、顔をマフラーでぐるぐる巻きにした小柄な女性――お忍びで見学に来ていたアイが座っていた。夫が他の若い女優を大絶賛したことに少しだけ頬を膨らませて不機嫌そうにしているが、彼の不器用で真っ直ぐな優しさを誰よりも理解しているため、文句は言わない。
ドタバタとしたギャグのような乱入劇。だが、この状況で最も深刻なダメージを受けたのは、アクアだった。
(なぜだ……? なぜ父さんは、有馬の演技を褒めた?)
アクアの思考が、暗い迷路に迷い込む。
マヤは男には厳しい。そして演技にも嘘をつかない。その父が、周りの空気を読まずに一人で突っ走っているように見える有馬かなの演技を「すげーいい」と絶賛した。
では、周りの空気を読んで気配を消そうとしている自分の演技は、間違っているのか? 脇役としての役割を全うすることが、親父の教えだったはずじゃないのか?
「えー、じゃあ撮影再開します! アクアくん、スタンバイお願い!」
カメラが回り始める。
しかし、アクアの頭の中では疑問と葛藤がぐるぐると渦を巻き、足元が泥に沈んでいくような感覚に陥っていた。
(正解が、分からない……!)
マヤの言葉で歓喜し、さらに芝居のキレを増したかなの前で、アクアは完全に自分の芯を見失い、シリアスな表情のまま無惨なNGの連鎖へと落ちていくのだった。
「はい、カット! ……うーん、アクアくん。ちょっと怖すぎるかなぁ。ストーカー役なんだけど、もうちょっとこう、ヒロインへの歪んだ愛情みたいなものを出してほしいっていうか……ただの猟奇殺人鬼に見えちゃうんだよね」
監督の困惑した声が、スタジオに響き渡った。
セットの端で、アクアは「……すみません」と短く頭を下げ、逃げるようにパイプ椅子の置かれた暗がりへと戻った。
「(クソッ……!)」
アクアは両手で顔を覆い、ギリッと奥歯を噛み締めた。
これで3連続のNGだ。頭では分かっている。有馬かなという圧倒的な熱量を持つ主役を輝かせるために、自分は悪役として出しゃばらず、不気味な気配だけを残して場をコントロールしなければならない。親父がよく言っていた「役割分担」とはそういうことのはずだ。
だが、やればやるほど芝居が泥沼にハマっていく。
「随分と難産みたいね、アクア」
ふいに、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、大きなマフラーで顔の半分を隠したアイが、ペットボトルの水を差し出しながら覗き込んでいた。
「……母さん」
「お疲れ様。はい、お水」
「……ありがとう」
アクアは水を受け取り、深くため息をついた。
少し離れた見学スペースでは、相変わらずマヤが腕を組んでどっかりと座っている。その存在感が、今の彼にはひどく重かった。
「……なぁ、母さん。父さんはなんで、有馬の演技をあんなに絶賛したんだ?」
「え? 有馬ちゃん、すごくいいお芝居してるじゃない」
「それは分かる。あいつは主役だ。だからこそ、俺は悪役として気配を消して、あいつの熱を際立たせようとしてるんだ。父さんが教えてくれた『場を読む』って、そういうことだろ? なのに俺はNGばかりで、有馬は……」
「あーあ」
アイはクスリと笑い、アクアの隣のパイプ椅子にちょこんと腰掛けた。
「アクアは頭がいいから、なんでも難しく考えすぎちゃうんだね。ねえ、パパが言ってた『役割』って、自分が消えることだと思ってるの?」
「違うのか?」
「全然違うよ。パパ、自分が消えようとしてお芝居したことなんて一度もないと思うけど?」
アクアはハッと息を呑んだ。
言われてみればそうだ。『流星忍者』でマヤが見せていたのは、どんな相手の動きにも合わせる完璧な受けの技術だったが、彼自身の存在感が消えたことなどただの一度もなかった。
「アクアはさ、今『目立たないようにする役』をやってるだけで、『ヒロインを追い詰めるストーカーの役』をやってないよね。ただ感情に蓋をして、変な力みが入って、耐えてるだけ。それ、見ててすっごくつまんないよ」
「つまんない……」
「うん。有馬ちゃんのお芝居、すっごく熱くてキラキラしてるでしょ? アクアがそれを避けてどうするの。有馬ちゃんは、アクアがどれだけ本気でぶつかっても、絶対に受け止めてくれるよ」
アイはマフラーを少し下げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「『有馬ちゃん可愛い! 私のものにしたい! こっちを向いて!』って、嘘のないありのままの気持ちで、思いっきりぶつかっていけばいいんだよ。お芝居なんだから、ブレーキなんてかけなくていいの」
ドクン、と。
アクアの中で、何かが弾ける音がした。
「(……俺は、ただ逃げていただけなのか)」
気配を消す、という聞こえのいい理屈を盾にして、有馬かなの圧倒的な熱量と真っ向からぶつかることから逃げていた。親父の教えの表面だけをなぞって、自分自身の芝居をすることを恐れていたのだ。
「……母さん。ありがとう」
アクアは立ち上がった。眼鏡の奥の瞳に、確かな光が戻っていた。
「じゃあ、撮影再開しまーす! アクアくん、いける?」
「はい。……次は、やれます」
カメラの前に立つ。
向かい合うのは、制服姿の有馬かな。彼女の目は、獲物を狙う肉食獣のように爛々と輝いている。
「(こいつは、俺の芝居を待っている)」
アクアは深く息を吸い込んだ。
気配を消すのはやめた。自分の中にある、前世から続く人間の心理への理解、執着、そして何より、目の前で輝く有馬かなという同世代の才能に対する強烈な「負けたくない」というライバル心。
そのすべてを、ストーカーという役の器に流し込む。
「よーい、アクション!」
カチン、とカチンコが鳴った瞬間。
アクアの瞳の奥で、星のハイライトが揺らぎ、紫がかった色がじわじわと熱を帯びた。
怒りでも、狂気でもない。圧倒的な感情の爆発。
マヤの血筋が顕現するように、アクアの瞳が燃えるような『深紅』に染まった。
「――っ!」
かなの背筋に、ゾクリと電流が走った。
先ほどまでの、ただ無機質で感情のない不気味な気配ではない。ドロドロとした熱い執着と、絶対に逃がさないという強烈な意志を持った「人間」が、そこに立っていた。
「どうして、僕を見てくれないんだ?」
アクアの一歩が、空気を震わせる。
重い。一歩踏み出されるごとに、物理的な重圧がかなの全身にのしかかってくるようだ。
だが、かなは怯まない。むしろ、その凄まじい熱量を受けて、彼女の奥底にあった女優としての本能が爆発的に跳ね上がった。
「来ないでっ!」
かなが叫ぶ。ただの台詞ではない、魂の底から絞り出したような拒絶と恐怖、そしてそれに抗うヒロインとしての絶対的な強さ。
アクアはかなの腕を掴む。力は入っていない。しかし、その指先からは、相手の逃げ道を完全に塞ぐ完璧な理が働いていた。かつて彼が画面越しに見た、あのマヤの体術の片鱗。
「君は、僕のものだ」
深紅に染まった瞳が、かなを射抜く。
かなは息を呑み、そして、カメラの前で最高に美しい、恐怖と悲哀に満ちた涙を流した。
「……っ、いやぁぁぁぁっ!」
二人の感情が真っ向から激突し、スタジオの空気を完全に支配した。
大根役者のモデルたちは声も出せず、スタッフたちは息をするのすら忘れてモニターに釘付けになっていた。
「……っ、はい、カットォォォォ!!」
数秒の静寂の後、監督の興奮しきった絶叫が響き渡った。
「OK! OK!! アクアくん、今の最高! 有馬ちゃんも鳥肌立ったよ!! 完璧だ、これ以上のテイクはない!!」
スタジオが割れんばかりの拍手に包まれる。
アクアはスッと息を吐き、かなの腕から手を離した。深紅に染まっていた瞳が、いつもの紫がかった色へと静かに戻っていく。
「……ふぅ」
「ちょっと、あんた」
肩で息をするアクアに、かなが涙を拭いながらツカツカと歩み寄ってきた。
彼女の顔には、隠しきれない高揚感と、生意気な笑みが浮かんでいる。
「やればできるじゃない。さっきまでの死んだ魚みたいな目は何だったのよ?」
「悪かったな。少し、考え事をしてたんだ」
「ふん。でも、最後のは認めてあげる。すっごく……熱かったわ」
「お前こそ」
二人は、互いの確かな実力を認め合うように、小さく笑い合った。
「……おう。やっと見つけたみたいだな」
ふいに、横から野太い声がした。
見ると、見学スペースにいたはずのマヤが、いつの間にかアクアのすぐ傍まで歩み寄っていた。サングラスを外し、赤い瞳で息子を見下ろしている。
「父さん……」
アクアは少しだけ身構えた。
マヤはアクアの前に立つと、フッと短く息を吐いた。
「お前、俺を追いすぎなんだよ」
「え……?」
「ずっと俺の背中ばっかり見て、『親父ならどう動くか』『親父の教えの正解は何か』って、そればっかり考えてただろ。俺の光が眩しすぎて、自分の足元が見えなくなってたんだ」
図星だった。
前世の雨宮吾郎だった頃から、十五歳で『流星忍者』に出会って以来、彼にとってマヤは絶対的な魂のヒーローだった。転生して本当に息子になってからも、その巨大すぎる憧れは消えるどころか増すばかりで、無意識のうちに自分を「マヤの枠」に押し込めようとしていたのだ。
「俺はお前じゃない。お前は俺じゃない」
マヤは大きな手で、アクアの赤い髪をガシガシと荒っぽく撫で回した。
「俺の真似なんかして小さくまとまってんじゃねえ。……さっきのお前の芝居、悪くなかったぞ」
その言葉を聞いた瞬間、アクアの胸の奥で、長く重く燻っていた鎖がカチンと音を立てて砕け散った。
親父からの、初めての真っ直ぐな演技の肯定。
「……っ」
アクアはぐっと唇を噛み締め、眼鏡の奥で滲みそうになる涙を必死に堪えた。
十五歳のあの夜、暗い四畳半でテレビの画面越しに救われた光が、今はこうして、自分の頭を撫でてくれている。これ以上の幸福がどこにあるだろうか。
「……ありがとう、父さん」
アクアは頭を下げた。迷いはもう、微塵もなかった。
その親子のやり取りを少し離れた場所から見ていたかなも、満面の笑みを浮かべていた。彼女もまた、マヤの言葉に救われ、ここまで登り詰めてきた一人だ。
(やっぱり、この親子の近くにいると……最高に熱いお芝居ができる)
有馬かなは、ギュッと拳を握りしめた。
圧倒的な強さと優しさを持つ神鬼マヤ。そして、その呪縛から解き放たれ、ついに自分の足で歩き出した星野アクア。
役者としての最高のライバルを見つけた喜びに、彼女の胸は高鳴り続けていた。
セットの隅では、マフラーを巻いたアイが「ふふっ」と優しく微笑みながら、夫と息子の姿を温かい目で見守っていた。