『鬼の子』マルチバース   作:マイナーチョコ

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第7話:家族

重厚な防音扉の向こうから、ドスッ、ドスッ、という鈍く重い衝撃音が規則正しく響いていた。

 

都内の一等地に建つ神鬼邸の地下。かつて『開かずの間』と呼ばれていた広大なフロアは、今や一部の人間にとっては眩暈がするほどの聖域と化していた。

壁一面のスチールラックに整然と並べられているのは、世界的なメガヒットを記録した『流星忍者』シリーズの歴代劇場用ポスター、撮影で実際に使用されたプロップの数々、限定生産された精巧なフィギュア、そして海外の映画賞で授与された無数のトロフィー。その向かい側の壁には、かつて一世を風靡したアイドルグループ『B小町』の特大タペストリーや、星野アイの歴代サイン入り生写真、コンサートのペンライトが、こちらも狂気じみた几帳面さでディスプレイされている。

世界的なアクション映画の資料館と、伝説的アイドルの私設ミュージアムが、一部の妥協もなく同居している異様な空間だった。

 

その部屋の奥、ガラス張りのパーテーションで仕切られた最新鋭のトレーニングジムエリアを背にして、十六歳になった星野アクアは、スチールラックの前に立っていた。

黒縁眼鏡の奥の瞳で、十数年前の『流星忍者 第一章』の北米公開版パンフレットの角を指先でそっと撫でる。前世の雨宮吾郎だった頃、線香の煙が立ち込める四畳半の部屋で食い入るように見つめた少年の笑顔が、色褪せない印刷の向こうからこちらを見ていた。

 

「……父さん。少し、話があるんだけど」

 

アクアが振り返ると、フロアの中央に置かれた革張りのソファで、神鬼マヤがプロテインシェイカーを揺らしながらくつろいでいた。

三十歳を過ぎているはずのその容姿は、二十代前半の引き締まった肉体と彫りの深い顔立ちのまま、まるで時間が凍りついたかのように変わっていない。鮮やかな赤い髪を無造作に掻き上げ、マヤは「ん?」とシェイカーから口を離した。

 

「なんだ、アクア。次のテストの追試の相談なら、アイに言えよ。俺に勉強の話振っても、筋繊維の名称くらいしか答えられねえぞ」

「勉強の話じゃないよ。……有馬かなのことだ」

 

アクアはため息を一つ吐き出し、ソファの向かい側のパイプ椅子を引いて腰を下ろした。

 

「こないだの『今日あま』の現場で、あいつと再会した。……有馬には、子役の時の俺の変装、完全にバレてたよ。それに、父さんと母さんの関係も、あいつは間違いなく感づいてる」

 

芸能界の最前線で秘密裏に築かれた、この規格外の家庭環境。もしこの情報が世間に漏洩すれば、いくらマヤがハリウッドの第一線を退いたとはいえ、メディアが蜂の巣をつついたような騒ぎになることは火を見るより明らかだった。

だが、アクアの深刻な表情とは裏腹に、マヤは「ああ」と短く喉を鳴らしただけだった。

 

「有馬かなちゃんか。あの子、四歳の時にスタジオで会ったきりだったが……ずっと黙っててくれたんだろ?」

「……まあ、そうみたいだけど」

「なら、いい子じゃないか。口の堅い、信用できる役者さんだ」

 

マヤは事も無げにシェイカーの中身を飲み干し、テーブルに置いた。

 

「あの時、母親に怒鳴られそうになって縮こまってた姿を覚えてるが……立派に育ったんだな。自分の頭で考えて、真っ直ぐ芝居を続けてきたんだろうよ。せっかく苺プロに入って同じ事務所の仲間になったんだ。一度、うちに連れてきて温かい飯でも食わせてやれ」

「……は?」

 

想定外の返しに、アクアは思考を停止させた。

 

「ちょっと待ってくれ。家に連れてくるって……そんなリスクを冒す必要がどこにあるんだよ。いくら口が堅いと言っても、わざわざプライベートの拠点に招き入れるなんて――」

「同じ事務所の仲間が、一人で頑張ってんだぞ? 同じ釜の飯を食やあ、もう身内みたいなもんだろ。飯くらい腹いっぱい食わせてやりゃいいんだよ。ミヤコにも車の手配頼んでおけば、外に漏れることもねえ。悪い子じゃないんだから、難しく考えんな」

 

マヤの思考回路は、どこまでもシンプルで、どこまでも豪快だった。

セキュリティやスキャンダルという現代の芸能界の常識を、己の規格外の腕力と器の広さで丸ごとねじ伏せてしまうような圧倒的な肯定感。アクアが呆然としていると、背後の防音扉がガチャリと勢いよく開いた。

 

「ぷはぁーっ! 疲れたぁーっ!」

 

首にスポーツタオルを巻き、汗だくになったルビーが転がり込んできた。

十六歳の彼女の髪は、アクアと同じ燃えるような赤。父親譲りの強靭な体幹と、母親譲りの華やかな美貌を併せ持つ彼女は、そのまま大型冷蔵庫へと直行し、冷えた麦茶のボトルをラッパ飲みした。

 

「あー、生き返る! なになに? パパとアクア、何のお話ししてたの?」

「おう、ルビー。今な、有馬かなちゃんがうちに来たいらしいから、飯でも食わせてやろうかって話をしてたんだよ」

 

マヤが何気なく放ったその一言に、アクアは目を剥いた。

 

「(父さん、要約の仕方が雑すぎるだろ……!?)」

 

案の定、麦茶を飲み終えたルビーの動きがピタリと止まった。

彼女はゆっくりと首を回し、ジトッとした生温かい視線をアクアに向けた。その赤い瞳の奥で、星のハイライトが意地の悪い輝きを放ち始める。

 

「……へぇ? 有馬かなちゃんが、うちに? アクア、あんた……」

「違うぞルビー。父さんの言い方が極端なだけで、俺は情報の管理について相談して――」

「あーあー! 聞こえなーい! なるほどね! アクア、やるじゃん!!」

 

ルビーはタオルを放り出し、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながらアクアの肩をバシバシと叩いた。

 

「共演したばっかりの可愛い女優さんを、さっそくお家に連れ込みたいってわけだ! ママ公認、パパ公認で! ひゅーひゅー! とうとうアクアにも春が来ちゃったかー!」

「痛い! 叩くな! だから違うって言ってるだろ! そもそもあいつが来たいって言ったわけじゃない!」

「いいじゃん減るもんじゃないし! 私も同じ事務所の先輩だし、仲良くしてあげるよ〜。ま、私はまだパパが一番かっこいいから恋愛とか興味ないけどね! アクアはおませさんだな〜!」

「話を聞けって……! なんでそうなるんだよ……」

 

頭を抱えて項垂れるアクアを眺めながら、マヤは一人で満足そうに頷いていた。

 

「よし。なら今度、俺が直接苺プロに行って誘ってやるよ。現場でサクッと声かけて連れてくりゃ手っ取り早いままだろ。任せておけ」

「待ってくれ父さん、それは絶対に駄目だ! あなたが事務所に顔を出したら現場がどれだけパニックになるか――!」

「大丈夫だ、俺も暇じゃねえが、それくらいの手間はかけるさ。男が一度連れてくると決めたら、ビシッとエスコートしてやんねえとな」

「そういう問題じゃない!!」

 

地下のコレクションルームに、アクアの悲痛な絶叫が木霊した。

その横で、ルビーは腹を抱えてゲラゲラと笑い転げていた。

 

```

*

 

```

 

数日後。

渋谷区にある『苺プロダクション』のオフィスは、完全に時が止まっていた。

 

「……え?」

 

給湯室からコーヒーカップを持って出てきた社長の斉藤ミヤコの手が、ピクリと止まり、そのままカップが傾いて中身が零れ落ちそうになる。

デスクでパソコン作業をしていたニノの指が、キーボードの上で凍りついた。

ソファで優雅に雑誌を読んでいたアイだけが、「あ、パパだー」と呑気に手を振っている。

 

事務所の自動ドアをくぐり、堂々と室内に足を踏み入れたのは、黒いジャージの上下にベースボールキャップを目深に被った神鬼マヤだった。

変装のつもりなのだろうが、キャップの隙間から覗く鮮烈な赤髪と、布地越しでもわかる鋼のような胸板の厚み、そして何より部屋の気圧を一段階引き下げるような凄まじい存在感のせいで、変装としての意味は一ミリも機能していなかった。

 

「よっ。邪魔してるぞ」

 

野太く、それでいて部屋の隅々まで染み渡るような通る声。

その男が視線を向けた先――応接スペースのソファに、有馬かなは腰掛けていた。

 

かなの手にあった台本が、バサリとカーペットの上に滑り落ちる。

彼女の大きな瞳が信じられないものを見るように見開かれ、唇が小刻みに震え始めた。

四歳の時にスタジオで頭を撫でてくれた、あの大きな手。

テレビのニュースで見た、世界を股にかける伝説のアクションスター。

先日の『今日あま』の現場で、大根役者たちを一喝し、自分を「すげーいいぞ」と認めてくれた、絶対的な魂の道標。

 

「マ……マヤ、さん……?」

 

掠れた声で名前を呼んだ瞬間、かなの瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。

憧れと、驚愕と、あまりの神々しさに感情の許容量が限界を突破したのだ。両手で口元を覆い、しゃくり上げるようにして泣き出す十七歳の主演女優。

 

「おいおい、なんで泣いてんだよ」

 

マヤは困ったように眉を下げ、ずかずかと大股でかなの前に歩み寄った。

そして、ポケットから無造作に取り出した真新しいハンドタオルを、かなの頭の上にぽすんと載せる。

 

「泣くな泣くな。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ。……かなちゃん、今日、うち来ていいぞ」

「………………はえ?」

 

かなの涙が、物理的にピタリと止まった。

タオルを頭に載せたまま、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まるかな。

 

「今日、うちの家で温かい飯食うぞ。ミヤコに車出させるから、一緒に乗ってこい」

「…………」

 

オフィス全体が、絶対零度の静寂に包まれた。

ニノの眼鏡がずり落ち、ミヤコは開いた口が塞がらないまま壁に背中を預けてへたり込みそうになっている。

世界の頂点に立ったハリウッドスターが、白昼堂々、移籍してきたばかりの若手看板女優を「お持ち帰り」しようとしている。絵面だけ見れば、業界追放どころか国家レベルのスキャンダルだった。

 

「(俺のせいじゃない……俺のせいじゃないんだ……)」

 

事務所の隅で、アクアは壁に額を押し当て、虚空を見つめながらブツブツと念仏のように呟いていた。

その隣で、ルビーは肩を激しく揺らしながら笑いを必死に押し殺し、ソファのアイの元へと小走りで駆け寄った。

 

「ママ、ママ! アクアがね、かなちゃんのことお家に呼びたいってパパに相談したんだよ!」

「まあ! そういうことだったの!?」

 

アイはポンと手を叩き、満面の笑みで頷いた。

 

「ふふっ、アクアったら隅に置けないなぁ! いいよいいよ、かなちゃん大歓迎! 今日の夜ご飯、何にしようかな〜!」

 

誰も、何一つとして正しい事実を把握していない。

凄まじい速度で構築されていく地獄のような勘違いの包囲網の中で、有馬かなだけが、真っ白になった頭で「え……? え……? え……?」と壊れた人形のように呟き続けていた。

 

```

*

 

```

 

「な、なんですか……この車……」

 

事務所の地下駐車場から出発した漆黒の大型SUVの車内で、かなは強張った姿勢のまま、ドアの窓ガラスを恐る恐る指で小突いた。

コン、コン、と硬質で鈍い金属のような音が返ってくる。

 

「特注の防弾・防爆仕様だ。ガラスの厚さは四十五ミリあるから、対物ライフルで撃たれても傷一つ付かねえぞ」

 

助手席でシートを深々と倒したマヤが、振り返りもせずに豪快に笑った。

ハンドルを握るミヤコは、眉間を指先で強く揉みほぐしながら、死んだような魚の目で前方の道路を睨みつけている。

 

「……マヤ。私ね、芸能事務所の社長であって、民間軍事会社の司令官じゃないのよ。なんで白昼堂々、女子高生を装甲車で護送しなきゃいけないわけ?」

「いいじゃねえか、安全第一だろ。かなちゃんはうちの大事な役者さんなんだからよ」

「マヤさんの……大事な……」

 

後部座席の真ん中で、かなは耳まで真っ赤にして小さくなっていた。

その右隣にはアクアが、左隣にはルビーが座っている。アクアは腕を組んで車窓の外を流れる景色を睨みつけ、ルビーは意味深な笑みを浮かべながらかなの横顔をじっと観察していた。

 

「ねえねえ、かなちゃん。アクアのこと、どう思ってるの?」

「ぶふっ!?」

 

突如放たれたルビーの直球に、かなは肺の空気をすべて吐き出した。

 

「な、ななな何言ってるのよルビーちゃん!? どうって、そりゃ……あの、生意気で、でもお芝居はすごくて、負けたくないライバルっていうか……!」

「ふーん? ライバルねぇ? でもアクア、かなちゃんのことすっごく気にしてたよ? 『あいつは主役だから』とか言ってさ〜」

「ちょっと待てルビー、余計なことを言うな」

 

アクアが低く威圧的な声で割り込むが、ルビーは「べーっだ!」と舌を出して意に介さない。

 

「照れちゃってさー! かなちゃん、アクアって昔から理屈っぽくて素直じゃないから、ぐいぐい引っ張ってあげてね!」

「ち、違うから! そういうのじゃないからぁぁぁ!」

 

車内が騒然とする中、防音ガラスに守られた漆黒の巨躯は、都内屈指の高級住宅街の奥深くへと滑り込んでいった。

 

車が停止し、巨大な電動ゲートが開いた瞬間、かなは言葉を完全に失った。

視界に飛び込んできたのは、都心の住宅街とは思えない広大な敷地と、城塞のようにそびえ立つ近代建築の豪邸だった。周囲を囲む高いコンクリートの擁壁には無数の監視カメラと赤外線センサーが張り巡らされ、手入れの行き届いた前庭は中型ヘリコプターが一機まるまる着陸できそうなほどの広さがある。

 

「ついたぞ。降りろー」

 

マヤがドアを開け、真っ先に降り立つ。

かなは、震える足でコンクリートの地面に降り立った。豪邸を見上げ、あんぐりと口を開けたまま立ち尽くす。

 

「ここが……マヤさんの、お家……? 嘘でしょ……ホワイトハウスじゃないのこれ……」

「ホワイトハウスは言い過ぎだが、まあ、パパラッチ対策で土地ごと買い取って要塞化したからな。中に入れば誰も手出しできねえよ。ほら、入った入った」

 

マヤに背中をトンと軽く押され、かなはおっかなびっくりエントランスの重厚な扉をくぐった。

 

玄関ホールを抜けた先、吹き抜けのリビングダイニングに足を踏み入れた瞬間、香ばしい醤油と生姜の匂い、そして煮込み料理の甘い湯気が、かなの鼻腔をくすぐった。

 

「かなちゃん、いらっしゃーい!」

 

エプロン姿のアイが、キッチンカウンターから満面の笑みで身を乗り出して手を振っていた。

その隣では、いつの間にか先回りしていたのか、ミヤコが慣れた手つきで大鍋の豚汁をお玉でかき混ぜている。事務所の社長がなぜかエプロンを着けて家庭料理を仕込んでいるという異常な光景だが、この家ではこれが日常の風景らしかった。

 

ドゴォォォンッ!!

 

突如、リビングの奥の壁から、床を震わせるような凄まじい重低音が響いた。

ビクッと肩を跳ね上がらせるかな。

 

「ひっ!? な、何の音!?」

「あ、気にしないで。ルビーが早速サンドバッグ蹴りに行っちゃっただけだから」

 

アクアが慣れた様子でスニーカーを脱ぎ、スリッパをかなの足元に差し出した。

 

「あいつ、放っておくと飯の時間までずっとあの調子なんだ。……ほら、上がって。適当に座ってていいから」

「あ、ありがとう……って、あの重低音、人間の蹴りの音じゃないでしょ……!」

 

伝説のアイドルが笑顔で味噌汁を作り、社長が大鍋をかき混ぜ、隣の部屋からは重火器の着弾音のような打撃音が響き、目の前には赤髪の美少年と、世界一のアクションスターがいる。

あまりの情報の濁流に、かなのキャパシティはとっくに限界を超えていた。

 

```

*

 

```

 

「ほら、かなちゃん。遠慮しないでガンガン食えよ! 女優は体力も命だぞ! 画面映えで細いのもいいが、まずは土台の体力だ!」

 

ダイニングテーブルの中央には、大皿に山盛りにされた照り焼きハンバーグ、湯気を上げる大鉢の肉じゃが、どんぶり一杯の豚汁、そして炊き立ての白米が並んでいた。高級レストランのコース料理のような気取ったものではない。大人数で囲んで、遠慮なく箸を伸ばすための、正真正銘の「家庭料理」だった。

マヤがかなの茶碗を受け取り、漫画のようにこんもりと白米をよそって目の前にドンと置く。

 

「は、はいっ! ありがとうございます……!」

 

かなは背筋をピンと伸ばし、両手で茶碗を受け取った。

隣ではルビーがすでにハンバーグを二つ皿に確保し、アクアは呆れ顔でお茶を全員の湯呑みに注いでいる。向かい側ではアイが美味しそうに豚汁を啜り、ミヤコがビール缶のプルタブをプシュッと開けていた。

 

「いただきます……」

 

かなは恐る恐る、箸でハンバーグを小さく切り取り、口に運んだ。

ジュワリと、温かい肉汁と甘辛いタレの風味が口いっぱいに広がる。続いて、炊き立てのご飯を一口。

 

「…………っ」

 

喉の奥が、ツンと痛くなった。

温かい。信じられないくらいに、温かかった。

 

子役として成功し、やがて母の操り人形であることをやめたあの日から、かなの家庭は完全に崩壊していた。

父は去り、母との間には冷たい壁ができた。仕事が終わって一人で帰る暗いマンション。冷蔵庫の中にあるのは、冷え切ったコンビニのプラスチック容器か、栄養補給のためだけの無機質なゼリー飲料。誰かが自分のためにご飯を作ってくれることも、湯気の立つ鍋を囲んで「美味しいね」と言い合うことも、彼女の人生からはとうの昔に消え去っていた。

 

生き残るためには、一人で牙を研ぐしかなかった。

誰にも舐められないように、誰にも見捨てられないように、傲慢な仮面を被り、実力だけを頼りに芸能界の荒波を泳いできた。

そんな彼女の前に、今、この温かい食卓がある。

 

「……おいしいです。すごく、おいしい……」

 

俯いたかなの瞳から、ポロリと一粒の雫が零れ落ち、ご飯粒の上に落ちた。

慌てて手の甲で目元を擦るが、一度緩んだ涙腺は言うことを聞いてくれない。

 

「おいおい、だからなんで泣くんだよ」

 

マヤが豪快に笑いながら、白米を口いっぱいに頬張った。

 

「美味いならもっと食え。……かなちゃん、こないだの『今日あま』、本当に大したもんだったぞ」

「え……?」

「あの素人同然のモデルの男たち、よくキレずに最後まで引っ張ったな。あいつらの大根っぷりを受け止めながら、自分の芝居で現場全体の空気を成立させてた。あれは並大抵の根性じゃできねえよ。お前の芝居、真っ直ぐで本当にすげーよ」

 

マヤの言葉には、お世辞も打算も一切なかった。

世界最高峰のアクションの現場で、己の肉体一つで戦い抜いてきた男が、同じ表現者として真っ向から下した、純粋な賛辞。

 

「それに、アクアの奴もな。お前の熱量に引っ張られて、ようやく自分の殻を破りやがった。あいつの最後の芝居を引き出してくれたのは、かなちゃんだ。ありがとな」

 

マヤが、頭を軽く下げた。

世界の頂点に立った男が、自分のような一介の若手女優に対して、父親として、役者として礼を言っている。

 

「う……うぅ……っ、ありがとうございます……っ、ありがとうございます……!」

 

かなは何度も何度も頭を下げた。

四歳のあの日にかけられた言葉を信じて、一人で走り続けてきた十二年間が、今、この瞬間、完全に報われた気がした。孤独だった日々の寒さが、マヤの温かい言葉と、目の前の湯気によって、音を立てて溶けていく。

 

「まーそうだな! かなちゃんがそんだけ頑張るなら、今度何かの作品で共演でもしてやるか!」

 

マヤが麦茶をごくりと飲み干し、豪快に言い放った。

その瞬間、ビールを飲んでいたミヤコが「ブフォッ!?」と派手に吹き出した。

 

「ゲホッ、ゲホッ! な、何言ってんのよアンタ!? マヤが日本の作品に出るなんて話になったら、それだけで業界がひっくり返る大ニュースでしょうよ! 本気で言ってんの!?」

「なんだよミヤコ、うるせえな。俺だって今でもたまに日本で単発の仕事受けてるだろ。それくらい平気だ。……なんなら、カメオ出演でもいいぞ?」

「は……!? カメオ!?」

 

かなが涙目を丸くして固まった。

 

「カ、カメオ出演って……そんなのおかしいです! マヤさんですよ!? 世界の神鬼マヤが、チョイ役で出るなんて……!」

「ハリウッドじゃそんなの日常茶飯事だぞ? 通行人Aで出てきていきなりエイリアンに食われて死ぬ役とか、物語が始まった時点でもう死んでる死体役とかな。あとは……そうだな、ヒロインの『昔の恋人』の写真とか、回想シーンでワンカットだけ出てくるとかよ」

「えっ?」

 

アイがピクッと反応し、箸を止めてマヤをじとーっと見つめた。

 

「ちょっとパパ? ラブシーン? それはどうなの? しかも死んでばかりじゃない!」

「向こうのカメオなんてそんなもんだって! 『おい、今の死体、あの大物俳優じゃねえか!?』って観客がゲラゲラ笑うのが粋なんだよ」

「そんなワンシーンに本来いくらのギャラが飛ぶと思ってんのよ……!」

 

ミヤコが頭を抱えて唸り声を上げた。

 

「あなたの出演料、ワンカットで数千万どころの話じゃないのよ!? 制作費が吹き飛ぶわ!」

「出演料? んなもん要らねえよ。ノーギャラでふらっと行って、サクッと撮って終わりだろ。ま、ラブシーンは論外だな。俺みたいなむさ苦しいおっさんとじゃ、かなちゃんが可哀想すぎるだろ」

「もうーー! パパはそういうところが大雑把すぎるんだから!」

 

アイが頬を膨らませてマヤの腕をペチペチと叩く。

その横で、ルビーが身を乗り出してケラケラと笑い声を上げた。

 

「えええーっ! パパがラブシーン!? 見たい見たい! どんな顔してやるの!? 絶対ガチガチになって吹き出しちゃうでしょ!」

「馬鹿言え、基本はやらねえよ。だいたい俺は芝居が下手だから、そんなオファー自体が来ねえんだよ。笑えるだろ?」

 

豪快に笑い飛ばすマヤ。

だが、かなは「昔の恋人」という単語と、マヤの彫刻のような横顔を交互に見比べ、湯気を噴き出しそうなほど顔を真っ赤にしてフリーズしていた。

 

「(む、昔の恋人役……!? わ、私とマヤさんが……!? いやいやいや、何を想像してんのよ私! 不敬よ! 万死に値するわよ有馬かな!!)」

 

一人で脳内パニックを起こしてジタバタするかなを見かねて、アクアが溜息混じりに口を挟んだ。

 

「父さん、それはどうなんだ……。カメオだとしても、クレジットに名前が出た時点で作品の主役を食っちゃう大騒ぎになるぞ。作品そのもののバランスが崩れる」

「だから、公開の時には徹底的に名前を伏せておくんだよ」

 

マヤは不敵にニヤリと笑った。

 

「エンドロールの最後まで誰だか分からなくて、後から『おい、あの通行人マヤじゃねえか!?』ってネットがざわつくのが一番面白いんだ。少し特殊メイクすりゃ、一回見ただけじゃ分からねえようにする技術なんていくらでもあるからな」

「……まったく、悪戯が過ぎるよ」

 

アクアは眼鏡を押し上げ、やれやれと肩をすくめた。

だが、その口元には、微かな苦笑が浮かんでいた。

 

大スターたちが繰り広げる、規格外で、馬鹿げていて、あまりにも温かいやり取り。

その中心で、かなは目を白黒させながらも、何度も「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」と嬉しそうに呟き、山盛りのご飯を美味しそうに口いっぱいに頬張っていた。

 

最初は、父の無鉄砲な思いつきに巻き込まれただけだと思っていた。

だが、こうして涙を拭いながら、生まれて初めて触れた本物の「家族の温もり」に救われているかなの横顔を見て、アクアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

 

「(……まあ、いいか)」

 

前世の自分を救ってくれた、あの眩しい光。

その光は今も変わらず、誰かの暗闇を軽々と照らし出し、温めていく。

親父の豪快さに振り回されるのは骨が折れるが、この結果を見せられてしまっては、文句のつけようがなかった。

 

「ふぅー、食った食った!」

 

どんぶりを綺麗に空にしたマヤが、満足そうに腹をポンと叩いて立ち上がった。

 

「ま、共演の話はミヤコとゆっくり詰めるとしてだ。……いずれ、アクアやルビーとも、みんなで一緒に何かやろうな」

 

マヤは何気ない口調で、だが確かな重みを持ってそう言った。

アクアとルビー、そしてかな。三人の視線が、自然とマヤへと集まる。

 

「お前ら若い連中が、これからどんな役者になっていくか……俺は楽しみで仕方ねえよ」

 

マヤは三人の頭を、順番に大きな手でガシガシと乱暴に撫で回した。

ルビーは照れくさそうに笑い、アクアは眼鏡を押さえながら苦笑し、かなは再び涙ぐみそうになるのを必死に堪えていた。

 

「よし! 飯も食ったし、ちょっとコンビニ行ってアイスでも買ってくるか。アイ、いつものやつでいいか?」

「うん! チョコモナカジャンボね!」

「オッケー。アクア、ルビー、かなちゃん、お前らも適当に食いたいもんあったら付いてこい」

 

ジャージのポケットに財布を突っ込み、マヤがサンダルを引っ掛けて玄関へと向かう。

要塞のような豪邸の重厚な扉が開き、夜の柔らかな風がリビングへと吹き込んできた。

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