劇団ララライの広大な第一稽古場。
日が落ち、大半の劇団員が帰路についた薄暗いフロアの隅で、黒川あかねはパイプ椅子に座り込み、小さなスマートフォンの画面をじっと見つめていた。
画面のスクロールに合わせて、あかねの青白い顔に液晶の無機質な光がチカチカと反射する。
『こいつマジで空気読めないな』
『爪痕残そうとして必死すぎ。痛い』
『アクアくんに色目使うな。さっさと番組降りろ』
現在配信中の高校生向け恋愛リアリティショー、『今からガチで恋始めます』——通称『今ガチ』。
モデル、アイドル、ダンサー、そして舞台女優。様々なジャンルの若手が集められ、カメラの前でリアルな青春と恋愛を繰り広げるという名目のその番組で、あかねは完全に孤立していた。
生真面目すぎる性格が災いし、爪痕を残さなければという焦りから取った行動が悪目立ちし、番組の編集によって「空気の読めない嫌われ者」という悪意あるキャラクターに仕立て上げられてしまったのだ。
「……はぁ」
あかねは小さく息を吐き、重い頭を両手で抱え込んだ。
視界がぐにゃりと歪み、胃の奥が鉛を飲んだように重い。
「お疲れ、あかねちゃん。随分と参ってるみたいだね」
不意に、頭上から甘ったるい声が降ってきた。
顔を上げると、そこに立っていたのは同じ劇団の先輩であるカミキヒカルだった。
今年で二十九歳になるはずだが、いまだに端役やモブばかりを転々としている冴えない男。しかし、顔立ちだけは整っているため、劇団に出入りする若い女優や研究生にばかり手を出しているという良くない噂が絶えない人物だった。
「……カミキ、さん」
「今ガチ、荒れてるねぇ。可哀想に。あかねちゃんは真面目にやってるだけなのに、周りの連中が冷たいんだよ。……ねえ、一人で抱え込まないでさ。今から俺と飲みに行かない? 愚痴くらいなら、いくらでも聞いてあげるからさ」
カミキは下心を見え透かせながら、あかねの華奢な肩に手を伸ばしてきた。
あかねが身体を強張らせ、身をすくませた、まさにその瞬間だった。
「――カミキ」
地を這うような、重く鋭い声が稽古場に響いた。
カミキの肩がビクッと跳ね上がる。
フロアの入り口から、スウェットに首タオルという無造作な稽古着姿の男が、足音一つ立てずに歩み寄ってきていた。
劇団ララライの絶対的な重鎮であり、世界中がその名を知る伝説のアクションスター、神鬼マヤ。
あかねからすれば雲の上の存在すぎて、同じ劇団に所属していながらまともに会話すらしたことがない大先輩だった。
「あ、マ……マヤさん……お疲れ様です……っ」
「カミキ。お前、まだそこの領域にいないだろ」
マヤはカミキの挨拶を一蹴し、赤い瞳で射抜くように見下ろした。
威圧しようとしているわけではない。ただ、纏っている覇気と圧倒的な実績の差が、カミキという存在の薄っぺらさを残酷なまでに浮き彫りにしていた。
「若手の心配をする前に、まずは主役の一つでも自力で掴んでみろ。女の尻ばかり追いかけてるから、お前の芝居はいつまで経っても芯がブレてて疎かなんだよ。何年この劇団にぶら下がってるつもりだ?」
「っ……! そ、それは……」
「稽古が終わったなら、とっとと帰って台本の読み込みでもしな」
有無を言わさぬ正論の鉄槌。
カミキは顔を真っ赤にして唇を噛み締めると、あかねの方を振り返ることもできず、逃げるように稽古場から足早に立ち去っていった。
バタン、と重い扉が閉まる音が響く。
静まり返ったフロアで、あかねは放心したようにマヤを見上げていた。
「あ、あの……ありがとうございます……」
「気にするな。あいつは昔からああいう小賢しいところがある。……あかねちゃんでいいかな?」
マヤは、あかねの隣のパイプ椅子を無造作に引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。
「俺はマヤっていうんだ。よろしくな」
「……え?」
あかねは目を丸くした。
よろしくな、ではない。日本のエンタメ業界に身を置いていて、この男の顔と名前を知らない人間など存在するはずがない。
「あの……番組で、えらいことになってるな。顔色、最悪だぞ」
「あ……はい……」
「ネットの連中がワーワー言ってるんだろうが、気にするなよ。画面の向こうの言葉なんて実体のないノイズだ。……んなこと言ったら、俺のデビューなんて酷いもんだったぜ。あー……そうか、もうそんな時代だもんな。二十年も前か。お前、知らないよな?」
「何を言ってるんですか!!」
あまりの飾らなさに、あかねは思わず声を張り上げていた。
「知ってますよ! 二十年前のデビュー作から全部! 今もアニメ化されてますし、グッズも舞台も大ヒットしてます! 遊園地のアトラクションにだってなってるじゃないですか!」
「へー……。そうなんだ。知らなかったわ」
「……え?」
「いや、俺は現場で身体を動かしてるのが好きなだけで、その後の展開とかあんまり気にしてなくてよ」
マヤは頭を掻きながら、豪快に笑った。
世界的大ヒットの張本人でありながら、この男は驚くほど自分の実績に執着がない。あかねは、目の前の巨大な存在にすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「ま、なんだ。俺は今でも、繊細な演技とかそういうのはよく分からん。現場で言われた通りに動いてるだけだ。でも、あかねちゃんは違うんだろ?」
「……っ」
あかねは、膝の上でギュッと拳を握りしめた。
本当は、誰よりも真摯に役と向き合い、芝居を愛している。だからこそ、カメラの前で「自分」という存在をどう振る舞えばいいのか分からず、空回りしてしまったのだ。
「……でも、今。アクア君と……その……」
「ん? アクア? あぁ、今ガチの共演者の」
「はい。お互い、恋愛がよく分からないから……その、あの、ですね」
あかねは周囲を見回し、マヤにだけ聞こえるような消え入りそうな小声で囁いた。
「私達、番組の中で、ビジネス恋愛をしてるんです……」
「は?」
「彼が、番組を上手く回すために提案してくれて。私も、それに乗れば上手くいくと思ったんですけど……でも、結果的に私が足を引っ張っちゃって……もう、どうすればいいか……」
マヤは少しの間、あかねの震える肩を静かに見つめていた。
そして、ふっと短く息を吐き出す。
「……なるほど。そういうことか。大体わかった」
マヤは立ち上がり、あかねの頭に大きな手をポンと載せた。
「大丈夫だ、あかねちゃん。普通に演技をしな」
「……普通に?」
「ああ。小手先で誰かになろうとするな。お前自身の持ってる熱を、真っ直ぐ見せればいい。お前が本気でぶつかれば、それは必ずリアルになるさ」
その言葉の奥にある深い確信に、あかねは小さく息を呑んだ。
マヤはそれ以上何も言わず、軽く手を振って稽古場の奥へと歩いていった。
```
*
```
同じ頃。
都内の一等地にある神鬼邸の地下コレクションルームで、星野アクアは壁に背中を預け、スマートフォンを握りしめて懊悩していた。
『黒川あかね、マジで無理』
『アクアくんに釣り合わない。早く消えろ』
タイムラインを埋め尽くす、黒川あかねへの心無い誹謗中傷の数々。
アクアはギリッと奥歯を噛み締めた。
(まずいな……。なんで、あかねにばかりヘイトが集中するんだ……?)
アクアは番組の空気を見極め、プロデューサーのような視点で立ち回っていた。
目立たないあかねを救済するため、お互いの利益のための「ビジネス恋人」という関係を提案し、カメラの前でそれらしい振る舞いをして見せた。番組の撮れ高としては十分であり、全体としては上手く回っているはずだった。
だが、アクアは致命的な配慮を欠いていた。自分は前世の経験と大人の知能で立ち回れても、あかねは生真面目で不器用な、ただの十代の少女なのだ。彼女一人に、番組の悪意ある編集と世間の攻撃を受け止めきれるはずがなかった。
(俺は、みんなが上手くいくように、完璧に場を読んでいたはずなのに……!)
ドスッ、ドスッという重低音が止み、隣の防音ジムの扉が開いた。
スポーツブラとスパッツというラフな格好で、汗だくのルビーがタオルで顔を拭きながら出てくる。
「あー疲れた! ……ん? パパ、お帰り」
「ああ」
階段を降りてきたマヤの姿を見て、アクアは顔を上げた。
だが、次の瞬間、アクアは全身の産毛が逆立つような強烈な悪寒に襲われた。
冷気。
いや、それは温度ではない。フロアを満たしていた空気が一瞬にして重さを増し、呼吸すら困難になるような凄まじい威圧感。
マヤはゆっくりとした足取りで階段を下り、アクアの目の前で立ち止まった。その赤い瞳の奥には、かつて見たことのない、静かで、底知れない怒りが渦巻いていた。
「え……どうしたの、父さん……」
アクアの声が、情けなく震えた。
マヤの纏う殺気にも似た気配を感じ取り、リビングからアイが小走りで駆け降りてきた。彼女は一目で夫の纏う空気を察し、(あかねちゃんのことだ……)と静かに息を呑んで立ち止まる。
「アクア」
マヤの声は低く、地鳴りのように響いた。
「俺には、この世でどうしても許せないことがある。お前たちには言う機会もないだろうと思ってた。……だが、お前はやってしまった」
「え……なにを……?」
アクアの額から、一筋の冷や汗が滑り落ちる。
「おい、お前今、あの番組で何やってやがる」
「……っ!」
「俺は言ったはずだ、場を読めと! お前がやってるのは、場を読むことじゃない。プロデューサー気取りで『等身大の恋愛』なんて言葉に引っ張られ、小手先で周りを良く見せようと転がしてるだけだ。そんな薄っぺらいものは、芝居とは呼ばねえ!!」
容赦のない言葉が、アクアの胸を深くえぐった。
『今日あま』で有馬かなとぶつかり合い、演技の壁を越えたつもりになっていた。だが、今回は違う。アクアは役者としてではなく、黒幕のように立ち回り、結果として最も身近な共演者を見殺しにしかけているのだ。
「何よりお前……」
マヤは一歩踏み出し、アクアを見下ろした。
世界の頂点に立った男の本気の怒号が、地下室の空気をビリビリと震わせる。
「女泣かせてんじゃねえぞ!!!」
ビクッ、と。
アクアだけでなく、少し離れた場所にいたルビーの肩までもが大きく跳ね上がった。
「お前たちがカメラの前で何をしようがいい! 疑似恋愛ごっこでも、ビジネスでも、大いに結構だ! なら、それを真実に昇華しろ! 自分の相方を、絶対に傷つかせない完璧な嘘で守り抜け! それができないなら、最初からそんな真似をするな!」
「…………っ」
「男なら、隣に立つ女を大事にしろ。それが最低限の筋だろうが!!」
圧倒的な正論。一人の男としての、決して譲れない絶対的な仁義。
アクアは完全に言葉を失い、膝がガクガクと震えるのを抑えることができなかった。前世の知識も、大人の思考も、この男の真っ直ぐな魂の前では何の役にも立たなかった。
「あ……ごめんなさい……」
アクアは消え入りそうな声で呟き、深く頭を下げた。
「違うだろ!!」
マヤの叱責が飛ぶ。
「俺に謝ってどうする! お前は役者なんだろ!? 自分が今、何を間違えたのか。誰の心を置き去りにしたのか。……頭を下げるべき相手は誰なのか、しっかり自分の頭で考えろ!!」
「……!」
アクアはハッと顔を上げた。
謝るべき相手。救うべき相手。
一人で暗闇の中で震え、ネットの悪意に押し潰されそうになっている、あの生真面目な少女。
(こわ……パパがあんな風に怒るなんて……)
ルビーは壁際に身を寄せながら、胸を押さえていた。
だが、その恐怖の裏側で、彼女の心の中には不思議な感情が芽生えていた。
女を泣かせるな。隣に立つ女を大事にしろ。そう言って本気で怒ってくれる父親。
(……そっか。ママは、パパにずっとあんな風に大切に守られてきたんだ。……うらやましいな)
視線を向けると、階段の途中で立ち止まっているアイは、怯えるどころか、どこまでも不器用で男気にあふれる夫の背中を、静かに、うっとりと見つめていた。
マヤは深く息を吐き出し、乱れた赤い髪を片手で掻き上げた。
部屋の温度が、少しだけ元に戻る。
「……自分でなんとかできないなら」
マヤは、静かに、だが一切の冗談を交えずに言った。
「俺が明日にでもあの番組の収録に乱入して、全部『俺中心の物語』に書き換えてやろうか?」
「……は?」
突拍子もない言葉に、アクアは間の抜けた声を漏らした。
番組を書き換える。それは権力や圧力の話ではない。マヤは自身の圧倒的な「個」の力を前提にして、本気で言っていた。
「群れの中に一人の圧倒的な男がいれば、女は全員そいつに惹かれる。そういう『リアリティ』もあるだろ? お前が上手く立ち回れないなら、俺が乱入して出演者の女全員を惚れさせて、あの恋愛番組ごと俺一人でかっさらって終わらせる事もできる」
「……っ!」
「そもそも『リアリティーショー』なんだから、圧倒的なイケメンが一人いて、そいつに全員なびくっていうのも一つのリアルで面白いだろ? 高校生の制服着てメイクすりゃ、いまだに俺は通用するし、それをカメラの前で完璧に成立させることもできる」
世界を熱狂させたハリウッドの生ける伝説が、高校生の恋愛リアリティショーに『転校生』のような顔をして乱入する。
三十路を過ぎているとはいえ、マヤの容姿は全盛期と変わらず、その纏う色気と覇気は十代の俳優など赤子扱いするレベルだ。もし本当にそんなことをされれば、番組の趣旨は崩壊し、女性陣は全員マヤの虜になり、残された男子メンバー(アクアを含む)は完全に背景と同化して終わる。
「正気か……!? いくらなんでも無茶苦茶すぎるだろ……!」
「簡単だろ? 演者として、一人の圧倒的な男が来ました、全員惚れました。そんな話、エンタメの世界だけじゃなくどこにでもあるリアルだ」
マヤはフッと鼻で笑い、アクアを真っ直ぐに見据えた。
「それが群れのリアルってもんだ。なんで一対一で上手くいく、いかないだけの小さな枠で考えてんだ。……だがな、お前はその中で、一人の相手を選んだんだろ。なら、その選んだ相手を死ぬ気で大事にしろってことだよ」
「……!」
ただの理不尽な脅しではない。
圧倒的な強者がすべてをかっさらうのが自然の摂理だとしても、お前は黒川あかねと向き合うことを選んだのだから、その選択に男として責任を持てという、マヤなりの強烈なエールだった。
「僕が……僕が、なんとかする。あかねのことは、僕が絶対に守る。だから、親父は家で大人しくしていてくれ……!」
アクアは血走った目でマヤを見返し、スマートフォンをポケットにねじ込んだ。
迷いは完全に消え去っていた。小手先の編集やビジネスではない。役者・星野アクアとして、相方である黒川あかねを完璧に救い出すための、本気の芝居を組み立てる時だ。そして何より、父親に番組をハーレム化されて乗っ取られるという地獄のような大惨事だけは、何としても阻止しなければならない。
「……なら、さっさと行ってこい」
マヤは短く言い捨て、背を向けた。
アクアは深く一礼し、地下室の階段を駆け上がっていく。
その背中を見送りながら、マヤは「ふぅ」と小さく息を吐き、乱れた前髪を無造作に掻き上げた。
「ちょっと、脅かしすぎたかな」
「ううん、かっこよかったよ、パパ」
アイが微笑みながら歩み寄り、マヤの太い腕にそっと自分の腕を絡ませた。
「アクア、これでやっと本気でお芝居すると思う。……あの子、自分の力でちゃんと女の子を助けられるかな?」
「できるさ」
マヤは静かに目を細め、階段の先を見上げた。
「あいつは頭が回りすぎる分、カメラの前で変に利口ぶろうとして、一番大事な足元を見落とす。だが、本当に大事なのは小手先の見え方じゃねえ。隣に立つ人間の人生に、誠実に向き合う覚悟があるかどうかだ。……それが腑に落ちたなら、あいつは必ずやり遂げるよ」
アイはマヤの腕に頬を寄せ、「そうだね」と優しく微笑んだ。
世界中を熱狂させてきた本物の表現者たちだけが知る、静かで揺るぎない確信が、そこにはあった。
世界が、ひっくり返った。
数日前まで黒川あかねを袋叩きにしていたSNSのタイムラインは、今や真逆の熱狂に包まれていた。
『あかねちゃん、裏でこんなに努力してたんだ……』
『メモ帳びっしりじゃん。真面目すぎて空回りしてただけなんだね』
『アクアの作った動画、泣ける。今ガチメンバー最高!』
アクアが主導し、共演者のMEMちょたちと共に徹夜で作り上げた一本の動画。そこには、カメラの回っていないところであかねがどれほど真剣に番組に向き合い、不器用なまでに努力を重ねていたかが、共演者たちの温かい視点と共に収められていた。
悪意ある切り取り編集に対する、エンターテインメントによる完璧なカウンター。
炎上は瞬く間に鎮火し、あかねへの評価は「空気の読めない嫌われ者」から「健気で応援したくなる不器用な少女」へと劇的に反転した。
*
番組収録の再開日。
スタジオの裏手にある人気のない階段の踊り場で、アクアは深く、深く頭を下げていた。
「ごめん。本当に、ごめんなさい」
目の前に立つあかねに対し、アクアは一切の言い訳をせず、ただ誠実に謝罪の言葉を紡いだ。
「僕は、番組を上手く回すことばかり考えて、君にビジネスの関係を持ちかけた。自分がプロデューサーにでもなったつもりで、全部コントロールできていると勘違いしていた。……君という一人の人間が、どれだけ傷つきやすい繊細な心を持っているかを見落として、見殺しにしかけた」
「アクアくん、頭を上げて。私はもう――」
「違うんだ」
アクアは顔を上げ、あかねを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、以前のような計算高い大人の色はなく、等身大の、ひどく悔しそうな少年の色が滲んでいた。
「親父に、死ぬほど怒られたんだ。……『小手先の嘘で周りを転がすな。そんなものは芝居じゃない。隣に立つ女の心一つ守れないなら、最初からそんな真似をするな』って」
「……え?」
「僕の親父は、不器用なくらい真っ直ぐな人なんだ。その親父に言われて、やっと目が覚めた。僕は君をキャラクターとして扱っていた。本当に最低だった。……君を助けるための動画を作ったのは、番組のためなんかじゃない。僕自身のけじめだ」
アクアは再び深く頭を下げた。
あかねの胸の奥で、トクン、と大きな音が鳴った。
自分のために徹夜で奔走し、泥だらけになって世界をひっくり返してくれた目の前の少年。彼の行動の根底には、とてつもなく巨大で、温かく、厳しい「父親」の存在があった。
(……隣に立つ女を、守れ。……小手先の嘘ではなく、真っ直ぐに……)
あかねの脳裏に、数日前の劇団ララライでの記憶がフラッシュバックする。
炎上で孤独に震えていた自分を、あの冴えない男から守ってくれた巨大な背中。
『小手先で誰かになろうとするな。お前自身の持ってる熱を、真っ直ぐ見せればいい』――そう言って頭を撫でてくれた、世界的なアクションスター、神鬼マヤ。
(……あ、そうか)
あかねの中で、すべてのピースがカチリと音を立てて噛み合った。
アクアの父親。この少年が、無意識のうちに背負い、超えようともがき、そして打ちのめされてなお前を向こうとしている巨大な壁の正体。
「(アクアくんは、マヤさんの……息子さん、なんだ……!)」
その事実に気づいた瞬間、あかねの全身の血が沸騰するような熱を帯びた。
自己肯定感が低く、いつも他人の顔色ばかりを窺っていた少女の奥底で、劇団ララライの若き天才としての『役者の業』が激しく燃え上がる。
アクアは、自分を守ってくれた。マヤの言葉を受けて、本気で自分と向き合ってくれた。
ならば、自分が彼に返すことのできる最大の恩返しとは何か。
「守られるだけの可哀想なヒロイン」のままでいることではない。彼が安心して背中を預けられる、そして彼の心を強烈に揺さぶることができる「完璧な相方」として、隣に立つことだ。
「……アクアくん」
あかねは、アクアの肩にそっと手を置いた。
顔を上げたアクアは、一瞬、息を呑んだ。目の前にいる少女の纏う空気が、先ほどまでの弱々しいものから、研ぎ澄まされた刃のように静かで冷たいものへと変貌していたからだ。
「ありがとう。私、アクアくんが求めているもの……なんとなく、分かった気がする」
「え……あかね?」
「もう、大丈夫。心配かけてごめんなさい。……いこっか、カメラの前に」
あかねは微笑み、アクアの手を引いてスタジオへと歩き出した。
*
カメラが回り始める。
番組の後半戦。メンバーが集まるシェアハウスのラウンジに、あかねが姿を現した。
「おはよう、みんな」
その声が響いた瞬間。
アクアだけでなく、その場にいたMEMちょや他の共演者たちも、背筋に電流が走ったように動きを止めた。
足取り、視線の配り方、声のトーン、微笑みの角度。
そのすべてが、以前の「真面目で地味な黒川あかね」とは全くの別物だった。
(……なんだ、これは?)
アクアは目を見開いた。
あかねの瞳の奥に、吸い込まれるような強い光――まるで夜空に瞬く星のような、圧倒的なカリスマ性が宿っている。
黒川あかねの特技は、異常なまでの洞察力に基づく「完璧なプロファイリング」。
だが、今回の彼女は、単なる「誰かのトレース(模倣)」を行っているわけではなかった。
彼女は、アクアの背景にある「星野アイ」という究極のアイドルの存在と、「神鬼マヤ」という絶対的な強者の概念を脳内で分析し、それらを自分自身の「真っ直ぐな熱(リアル)」というフィルターを通して再構築したのだ。
ただのコピーではない。マヤの助言通り「自分を見せる」ことを軸にした結果、彼女は『アクアの隣に立つに相応しい、圧倒的なヒロイン』という完全なオリジナルキャラクターをこの場に顕現させていた。
「アクアくん」
あかねが、アクアの隣に腰を下ろす。
フワリと、華やかで甘い香りがした。アクアは心臓が跳ね上がるのを感じた。
「昨日は、ありがとう。私……アクアくんのこと、もっと知りたいな」
上目遣いで、しかし決して媚びるわけではない、自信と包容力に満ちた強い視線。
アクアは、完全に言葉を失っていた。
前世の知能も、プロデューサー的な冷静な視点も、すべてが吹き飛んでいく。目の前にいるのは、自分が小手先でコントロールできるような脆い少女ではない。自分という存在を丸ごと喰い殺しにきている、恐ろしいまでの「怪物」だ。
(……やられた)
アクアは、動悸を抑えながら、口元に微かな笑みを浮かべた。
『守らなければならない』という傲慢な思い上がりは、心地よく粉砕された。
彼女はもう、ネットの悪意などに押し潰されるタマではない。ガラス細工のように扱う必要などないのだ。
彼女がこれほどの熱量で向かってくるなら、自分も役者として、全開で迎え撃つしかない。
「……ああ。僕も、君のことが知りたい」
アクアの瞳が、静かに深紅の熱を帯びる。
カメラの前で、二人の天才が、ビジネスの枠を超えた本当の「芝居の激突」を開始した瞬間だった。
モニター越しにその様子を見ていたディレクターは、震える手でヘッドセットを握りしめていた。
炎上からの復帰劇。そして、そこから突如として始まった、画面越しでも圧倒されるほどの濃密なドラマ。この『今ガチ』という番組が、間違いなく伝説になるという確信に、スタッフ全員が息を呑んでいた。
あかねは、アクアの燃えるような瞳を正面から受け止めながら、内心で歓喜の声を上げていた。
(アクアくん。私、もう泣かないよ。あなたの隣で、どこまでも一緒に戦うから)
理不尽な負の連鎖は、完全に断ち切られた。
劇団ララライの若き天才・黒川あかねは、圧倒的な光を放つ本物の女優として、ついにその完全な覚醒を遂げたのだった。