神鬼邸の広大なリビングは、北極のような冷気に包まれていた。
特大の八十インチモニターはすでに電源が落とされ、黒い画面が室内の気まずい空気を鏡のように反射している。
ダイニングテーブルの端では、アイが一切の感情を排した無表情で、黙々と雑誌のページをめくっていた。その斜め向かいでは、ルビーが腕を組み、ぷいっとそっぽを向いて冷えた麦茶をストローで音を立てて吸っている。
カチャリ、と玄関の扉が開く音がした。
「ただいまー。いやぁ、今日の収録は長引いたな」
相変わらず高校生の制服をパツパツに着込んだままのマヤが、アクアを連れてリビングへと入ってくる。
だが、出迎えの声はない。
アイは雑誌から目を上げず、ルビーは麦茶をズズズッと吸い続けるだけだ。
「おいおい、なんだよ二人とも。晩飯はミヤコが作ってくれたんだろう? 腹減ったから温め直して……」
「…………」
「…………ズズズッ」
完全な無視。
世界的なアクションスターの言葉が、ただの空気の振動となって虚空に消えていく。
「お、おいアイ? ルビー? なあ、聞こえてるか?」
マヤが少し焦ったような声でアイの肩をトントンと叩くが、アイは微動だにせず、ただ淡々と雑誌を次のページへとめくった。ルビーに至っては、わざとらしく大きなため息をついて、さらに顔を背ける始末だ。
その後ろで、私服に着替えたアクアがやれやれと肩をすくめていた。
「自業自得だろ。テレビの生配信で『十八歳のイケメン転校生』なんて名乗って、女子高生を公開ナンパしたんだ。怒って当然だ」
「ばっ、あれは芝居だろ! 空間を掌握するためのメソッドというか……!」
「MEMちょに『俺たちもうカップルでいいね?』って言ったのもメソッドの一環か?」
「うっ……」
言葉に詰まるマヤ。
普段はどんな強敵にも怯まない男が、妻と娘の無言の圧力にタジタジになっている。
「悪かったって! アイ、ルビー! 機嫌直してくれよ。ほら、明日はお前らの好きなもん食いに連れてってやるからさ!」
「…………」
「…………」
それでも、二人は氷の彫像のように動かない。
十秒、二十秒。
リビングに、息が詰まるような沈黙が降り注ぐ。
マヤが大きな肩を落とし、「……すまん」と本当にしょんぼりした声を出した、その瞬間だった。
「ぷっ……あははははっ!」
アイが、耐えきれなくなったように雑誌で口元を覆い、肩を揺らして吹き出した。
無表情だった顔が、いつもの太陽のような屈託のない笑顔へと一瞬で崩れる。
「あー、もう無理! パパのあんな情けない顔、笑っちゃう!」
「え? アイ……?」
キョトンとするマヤをよそに、アイはソファーから立ち上がり、マヤの胸板を軽くポンと叩いた。
「わかってたよ! 全部、アクアとあかねちゃんのためでしょ?」
「……気付いてたのか」
「当たり前じゃない。だてにずっと一緒にいるわけじゃないんだから」
アイは得意げに胸を張り、マヤの首元に腕を回した。
「パパがわざと悪役……ううん、お茶目な転校生? になって引っ掻き回すことで、アクアがちゃんと男らしくあかねちゃんを守れるように仕向けたんでしょ? おかげで、すっごく良いシーンになってたじゃない」
「まあな。あいつら、俺が乱入したくらいで潰れるようなタマじゃなかったしな。……だが、ヒヤヒヤしただろ?」
「ぜーんぜん! パパのお芝居、すっごく面白かったよ。でも、若い女の子の腰に手を回すのは、ちょっとだけイラッとしたかも」
アイは悪戯っぽく舌を出し、マヤの鼻先を指でツンと突いた。
「あああああ! もうーーーっ、むっかついたぁぁぁ!!」
ドタドタと足音を立てて、ルビーがソファーから飛び出してきた。
彼女はマヤの腹部に猛烈な勢いで突撃し、そのままコアラのようにガシッと抱きついた。
「ルビー? お前、さっきまで口もきいてくれなかったじゃねえか」
「だってムカつくもん! パパがあんなギャル女に色目使って! 私のパパなのに!」
「いや、色目って……だからあれは芝居で」
「分かってる! 分かってるけどムカつくの!! もう絶対離さないからね!!」
怒っているのか甘えているのか分からない声で叫びながら、ルビーはマヤの太い腕に顔を埋め、グリグリと額を擦り付けている。
「言ってることとやってることが違うよ、ルビー……」
アイが呆れたように笑いながら、娘の赤い後頭部を優しく撫でた。
リビングの入り口で、アクアはその騒がしくも温かい光景を静かに見つめていた。
荒唐無稽で、無茶苦茶で、一歩間違えれば大惨事になるはずだった今日の収録。
だが、結果としてあかねは最高の形で覚醒し、番組は伝説的な盛り上がりを見せ、自分自身も役者として一つ大きな壁を越えることができた。
すべては、この規格外の父親の手のひらの上で転がされていたようなものだ。
「……父さん」
アクアの呟きに、ルビーに抱きつかれたままのマヤが「ん?」と視線を向ける。
「なんか……上手くいったの、すげーって思う。悔しいけど」
「なんだ、急に素直じゃねえか。まあ、お前が腹括って隣の女を守った結果だ。俺の無茶振りに文句言わず乗ってきたのは評価してやるよ」
マヤは豪快に笑い、空いている方の手でアクアの頭をガシガシと乱暴に撫で回した。
キッチンからは、ミヤコが温め直してくれたシチューの甘い香りが漂い始めている。
窓の外では、夜の街を冷たい秋風が吹き抜けていたが、神鬼邸のリビングだけは、どこまでも明るく熱を帯びていた。
温かいシチューの湯気が立ち上るダイニングテーブル。
先ほどまでの騒動が嘘のように、神鬼邸のリビングには和やかで温かい家族の夕食の時間が流れていた。
話題の中心は当然、先ほどテレビの生配信で起きた前代未聞の放送事故――もとい、マヤのゲリラ出演についてだった。
「でも、さっきのテレビのパパ……完全に別人だったね」
シチューの具材をスプーンで転がしながら、ルビーが目を丸くして言った。
「いっつもカッコいいけど、今日はなんというか、本物の同世代のイケメンって感じで……纏ってるオーラが全然違って見えたよ。あのMEMちょって子も、絶対まんざらじゃなさそうだったし」
「ふふん、パパは凄いのよ」
アイが自分のことのように得意げに胸を張り、マヤの腕にしなだれかかる。
「スイッチが入ると、本当にその役そのものにスッと入り込んじゃうんだから。息をするみたいに自然にね」
「……ああ。そこには本当に驚いたよ」
アクアはサラダを口に運びながら、深く同意するように頷いた。
「見た目はいつもの父さんなんだけど、画面越しでも『本物のスパダリ』が空間を支配したのが分かった。……もしあれで、父さんがMEMちょじゃなくて、自然に全員を口説きにきたり、あかねに的を絞って向かってきていたらと思うと……俺、完全に呑まれて負けてたかもしれない」
「あ〜、あれはさ」
マヤは照れくさそうに頭を掻きながら、あっけらかんと言った。
「あの子(MEMちょ)なら、あの無茶振りでも平気で受け止めてくれるかなって思ったんだよ。あの中で一番場慣れしてて、空気を読んで上手くリアクションを合わせてくれそうだったからな」
「……!」
アクアは小さく息を呑んだ。
マヤはただ適当に目に付いた女の子を口説いたわけではない。現場に乱入した一瞬の間に、誰が一番この無茶なアドリブ(事故)をエンタメとして成立させてくれるかを正確に見極め、的確に『場を支配』したのだ。
「それが、瞬時に見えていたのか……。それができなかった俺は、いったい何をしてたんだか」
アクアは自嘲気味に笑い、そして真っ直ぐにマヤを見た。
「でも……ありがとう。目の前で、凄くいいものを見せてもらったよ。場を支配するとか、空気を読むっていうことの本当の意味が、ようやく分かった気がする」
「おう。分かったなら上出来だ」
マヤは満足そうに頷き、白米をかきこんだ。
「でもさ」と、アクアが呆れたようにため息をつく。
「父さんがあんな無茶苦茶やったせいで、今頃SNSもネットニュースも『あの転校生は誰だ!?』『伝説のマヤに似てる!?』って大パニックになっちゃってるけど……あれ、どうすんの?」
「いいんじゃね? あれも向こう流のカメオ出演みたいなもんだ。ノーギャラで出てやったんだ、番組にとっても最高の宣伝になっただろ?」
「もうっ、すぐそうやって自分の影響力を宣伝に使っちゃうんだから」
アイがジト目でマヤを睨みつけ、ツンと頬を膨らませた。
「……あとで、覚悟してよね!」
意味深で、どこか艶っぽい響きを含んだアイの言葉に、ルビーが「えっ?」と目を白黒させた。
「ちょ、ちょっとママ! そういうこと子供の前で言う!? ……ええーっ、なんかズルい! じゃあ今日は、私がパパと一緒に寝ようかな! 普通に!」
「なっ、何言ってるのルビー!?」
今度はアイが慌てて身を乗り出し、マヤの太い腕にギュッと抱きついた。
「パパはママのだよ!? 誰にも譲らないんだから!」
「えー! 家族なんだからたまにはいいじゃん!」
「まーまー。ルビーも冗談だって。アイ、大丈夫だから落ち着け」
バチバチと火花を散らす妻と娘の間に入り、マヤが苦笑いしながら宥める。ルビーは「むすっ」と分かりやすく頬を膨らませてそっぽを向いた。
そんな騒がしい家族のやり取りを眺めながら、アクアは密かに肩の力を抜いていた。
「ま、何はともあれ」
マヤが麦茶のグラスを持ち上げ、アクアに向かってニヤリと笑う。
「これで、アクアとは無事に『初共演』できたな?」
「……カメオ出演の通り魔と一緒にするなよ」
アクアも呆れたように笑い返し、グラスを軽く打ち合わせた。
チン、と涼やかな音が、温かいダイニングに響き渡った。
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夜も更け、子供たちが寝静まった神鬼邸。
間接照明の柔らかな光だけが照らす主寝室には、甘く気怠い空気が漂っていた。
乱れたシーツの中で、アイはマヤの広い胸板に頬を擦り寄せながら、少しだけ不満げに唇を尖らせた。
「……なんか、上手く誤魔化された気がするんですけど!」
「ん? 何が?」
「パパの浮気未遂疑惑! そりゃー……パパとすっごく良い事した後だからさ、多少は許してあげなくもないけど。カメラの前であんなに自然に他の女の子口説くんだもん、ちょっと焦ったんだからね」
アイはマヤの胸元を指先でツンツンと小突きながら、上目遣いで夫を見つめた。
カメラの前で見せた完璧な「イケメン転校生」の芝居。あまりにも自然で魅力的だったからこそ、本妻であるアイでさえ、一瞬だけ心がざわついてしまったのだ。
マヤは苦笑し、アイの細い肩を抱き寄せてその豊かな髪にそっと触れた。
「悪かったって。俺が女を大事にする男だってことは、アイが一番よく知ってるだろ?」
「むぅ……」
「それに」
マヤは低く優しく囁き、アイの額に落ちる前髪を指ですくった。
「カメラの前じゃ何にだってなりきるが……アイに対してだけは、絶対に演技なんかじゃないよ」
「…………っ」
アイの頬が、夜の闇の中でも分かるほどにぽっと朱に染まった。
世界最高の役者から贈られる、たった一人の女に向けた不器用で真っ直ぐな真実の言葉。
「……もう。パパはずるい」
ちゅ。
アイは背伸びをして、マヤの唇に甘いキスを落とした。
静かな夜の寝室に、小さなリップ音が溶けていく。テレビ越しの騒動など遠い別世界のように、夫婦の絶対的な絆は今日も揺るぎなくそこにあった。