床に散らばったガラスの破片が、窓から差し込む街灯の冷たい光を反射していた。
ツンと鼻を突く安いアルコールの匂いと、ひっくり返った灰皿からこぼれ落ちた吸い殻の臭いが、狭いワンルームの部屋に充満している。
星野アイは、部屋の隅で膝を抱えたまま、感情の抜け落ちた瞳でその光景をじっと見つめていた。
「あんたなんか、産まなきゃよかった!」
母親の金切り声と共に、また何かが壁に叩きつけられて砕ける。
怒号、理不尽な暴力、そして時折向けられる狂信的で歪んだ執着。それが、アイにとっての「日常」だった。
頬には乾きかけの血の跡があり、細い腕にはいくつもの青痣が浮いている。だが、アイの心に「悲しい」という感情は湧いてこなかった。
痛いのは嫌だ。怖いのも嫌だ。
けれど、涙を流す理由が分からなかった。涙というものは、温かいものを知っている人間が、それを奪われた時に流すものだ。最初から何も持っていないアイにとって、心はただの空洞でしかなかった。
愛。
それが自分の名前だった。
テレビの向こうの人間たちは、よくその言葉を口にする。愛している、愛されたい、愛は世界を救う。
だが、アイにはそれが何の色をして、どんな形をしているのか、全く理解できなかった。
自分を殴る母親の目に愛があるとは思えない。かといって、たまに機嫌が良い時に買ってくる安物のケーキに愛があるとも思えなかった。
言葉だけが宙に浮いている。
愛って、なんだろう。
空っぽのガラス細工のような自分には、一生理解できないものなのかもしれない。アイは薄暗い部屋の隅で、ただ静かに息を潜め、嵐が過ぎ去るのを待つだけだった。
*
やがて母親は窃盗で捕まり、アイは児童養護施設へと引き取られることになった。
暴力の匂いが消え、規則正しい食事と温かい布団が与えられる生活。
だが、アイの心の空洞がそれで満たされることはなかった。周囲の大人たちは腫れ物に触るように優しく接してくれるが、その目にあるのは哀れみや義務感であって、アイが探し求めている「それ」ではないことは、子どもながらに悟っていた。
あるよく晴れた午後のこと。
施設の中庭では、ぽかぽかとした陽だまりの中で、同年代の子供たちが元気な声を上げて走り回っていた。
アイは少し離れた藤棚の下のベンチに座り、その様子をぼんやりと眺めていた。
「いくぞー! 流星斬りー!!」
一人の男の子が、木の枝を振りかぶって叫んだ。
「うわー! 龍星だ!」
「じゃあ俺は龍星バリア!」
「バリアってなんだよ! ずるいぞ!」
「無敵だからいいんだよ!」
数人の子供たちが、何かの真似事をして転げ回っている。
誰もが目を輝かせ、心から楽しそうに笑い合っていた。その無邪気な熱量に、アイは首を傾げる。
「……ねえ、それ何?」
通りかかった同い年くらいの女の子に、アイはぽつりと尋ねた。
女の子は目を丸くして、信じられないものを見るような顔をした。
「知らないの!? 今テレビでやってる『流星忍者』のアニメだよ!」
「りゅうせいにんじゃ」
「そう! 主人公の龍星! 超すげーんだぞ!」
興奮した様子で、女の子は身振りを交えて語り始めた。
「壁をタタタッて走るんだよ! でね、悪いやつを全員ぶっ飛ばすんだぞ!」
アイは瞬きをした。
壁を走る。悪いやつを倒す。それはテレビの中のヒーローなら、よくあることのような気がする。だが、女の子はさらに顔をほころばせて、こう付け加えた。
「しかもね、最後、絶対笑うの!」
「……笑う?」
「うん! 怪我はないかーって、すっごく優しく笑うんだよ!」
アイの胸の奥で、何かが小さく引っかかった。
強いのに、笑う。
アイの記憶の中にある「強い人間」は、自分を力でねじ伏せる大人たちだけだった。彼らはいつも怒り、叫び、歪んだ顔をしていた。
圧倒的な力を持っている人間が、誰かのために戦って、最後に笑う。
アイにはその感覚が全く分からなかった。どうして笑うのだろう。勝ったから? それとも、助けたから?
「へえ……」
アイが曖昧な相槌を打つと、女の子は「今度アニメの再放送あるから、一緒に見ようね!」と笑って、再び中庭の輪の中へと走っていった。
ベンチに残されたアイは、子供たちの「流星斬りー!」という歓声を聴きながら、自分の頬に手を当ててみた。
口角を指で持ち上げてみる。
上手く笑えない。
あの子供たちのように、そして彼らが夢中になっているテレビの向こうの「龍星」のように、心から笑うということが、アイにはまるで遠い魔法のように思えた。
*
それから数年後。十二歳になったアイは、渋谷の雑居ビルの一室にいた。
壁には色褪せたアイドルのポスターが貼られ、テーブルの上にはコーヒーの空き缶や書類が散乱している。小さな芸能事務所「苺プロダクション」の応接室だ。
社長である斉藤壱護は、煙草の煙をふぅと吐き出しながら、向かいのソファに座るアイをじっと見つめていた。
街でスカウトされたアイは、一度はそれを断った。
親にも愛されたことのない自分に、アイドルなんてできるはずがない。ファンを愛することなんてできない。そう思っていた。
だが、壱護は言ったのだ。
『愛してるって嘘をつけ。嘘でもつき続けていれば、いつか本当になるかもしれない』と。
その言葉は、空っぽだったアイの心に奇妙な熱を落とした。
嘘でもいい。嘘で塗り固めてでも、いつか本物の愛を見つけられるなら。
「……社長。それ、何見てるの?」
アイが声をかけると、壱護は手元に広げていた週刊誌から顔を上げた。
その顔は、呆れているような、可笑しくてたまらないような、不思議な表情だった。
「ん? ああ、これか。ほんと、このガキは相変わらず意味わかんねえなと思ってな」
壱護がテーブルの上に放り投げた週刊誌のページには、カラーの特集記事が組まれていた。
見出しには、極太のフォントでこう書かれている。
『世界を席巻する神鬼マヤ! 奇天烈な身体能力の秘密は!?』
写真には、赤い髪をツーブロックにした少年の姿が写っている。
少し前に海外で行われた映画のプレミア上映か何からしく、フラッシュの海の中で、マイクを向けられた少年が屈託なく笑っていた。
「……マヤ?」
「『流星忍者』の子役だよ。もう今はただの子役じゃねえ、ハリウッドで無双してるバケモンだ。日本国内のアニメやら玩具やらだけでも桁違いの市場規模になってる」
壱護は煙草を灰皿に押し付けながら、記事の文章を指先でトントンと叩いた。
「記者が『ワイヤーも使わずに、どうしてあんな異常な動きが可能なのですか?』って聞いてるんだがな。本人の回答がこれだ」
壱護の指の先にある太字のテロップを、アイは目で追った。
『やればできるぞ!』
「……それだけ?」
「それだけだ」
壱護は肩を震わせて笑った。
「これだけ世界中のメディアが『重力を無視した東洋の神秘』だの『次世代の天才スタント』だのって持ち上げてるのに、当の本人は『やればできる』の一点張りだ。記者の奴らも困り果てて、最後には『我々はこれからも、この規格外の少年を追い続けます!』なんて開き直ってやがる。住む世界が違いすぎる、本物のバケモンだな」
アイは、週刊誌の紙面で笑う赤い髪の少年の写真をじっと見つめた。
彼が生きているのは、世界中から文字通り熱狂と称賛を浴びる、エンターテインメントの頂点。
嘘で塗り固められたこの芸能界において、何の後ろ盾もハッタリもなく、ただ己の身体一つで頂点に君臨している人間。
「ふーん」
アイは週刊誌から目を逸らし、短く相槌を打った。
今の彼女にとって、遠い異国の地で無双しているスターの事など、自分とは縁のないおとぎ話に過ぎない。施設で子供たちが夢中になっていた「龍星」がこの少年のことだとも、アイの頭の中ではまだ結びついてはいなかった。
アイが今見つめるべきは、遥か彼方の光ではなく、自分自身の足元にある暗闇をどうやって嘘で飾り立てるか、それだけだった。
「じゃあ、社長」
「ん?」
「私、やってみる。アイドル」
アイがそう告げると、壱護の目がスッと細くなった。
「嘘でもいいんだよね。私、上手く嘘をつけるか分からないけど……ファンのみんなに、愛してるって言ってみる」
空っぽのガラス細工の中に、初めて「嘘」という名の絵の具が流し込まれた瞬間だった。
*
事務所の片隅にある姿見の前。
アイは一人で鏡の前に立ち、自分の顔を見つめていた。
両手で頬を包み込み、口角をミリ単位で調整していく。
目を細め、瞳の奥に宿る虚無感を隠し、最も愛らしく、最も無垢に見える角度を探る。
嘘は、とびきりの愛なんだ。
自分には、心から湧き上がるような笑顔の作り方が分からない。
嬉しくて笑う感情が分からない。
だからこそ、計算し尽くした完璧な笑顔を顔面に貼り付ける。誰もが目を奪われ、誰もが信じて疑わない、究極の偶像(アイドル)になるために。
鏡の中の少女が、ふわりと花が咲くように笑った。
それは、どこにも綻びのない、完璧な嘘の笑顔だった。