第6話:嘘と嘘の交差点
広々とした鏡張りの本格スタジオ劇団『ララライ』の稽古場は、外の空気とはまったく違う重さを持っていた。
無数の照明が照らし出す板張りの床。壁一面に広がる巨大な鏡。
空調が効いているはずなのに、数十人の劇団員たちが発する熱気と汗の匂いが、空間全体にまとわりつくように満ちている。
星野アイは、稽古場の隅に置かれたパイプ椅子に浅く腰掛け、目の前で繰り広げられる立ち稽古をじっと観察していた。
十五歳になったアイは、今やアイドルグループ『B小町』の絶対的センターとして、少しずつ世間の認知を集め始めている。
しかし、社長の斉藤壱護は言った。「お前の笑顔は完璧だが、もっと奥行きが欲しい。本物のバケモンたちが集まる場所で、演技の何たるかを見てこい」と。
そうして放り込まれたのが、この約一ヶ月間に及ぶララライのワークショップだった。
アイの視線の先では、ベテランの役者たちが激しく言葉をぶつけ合っている。
怒り、悲しみ、歓喜。
彼らが発する感情は、どれも台本に書かれた「作り物」のはずなのに、アイの目には恐ろしいほど生々しく、本物のように映った。
自分は、ファンに対して「愛してる」という嘘をつき続けている。
完璧な偶像としての嘘。
だが、この場所で役者たちが作っている嘘は、もっと粘度が高く、人間の心の奥底にある生々しい欲求を直接抉ってくるような迫力があった。
「……すごいな」
アイは小さく呟き、膝の上に乗せた台本の表紙を指でなぞった。
「退屈かい?」
不意に、真横から声が降ってきた。
アイが顔を上げると、そこには一人の少年が立っていた。
自分と同い年か、少し上くらいだろうか。色素の薄い髪と、どこか儚げで中性的な顔立ち。彼が微笑むと、稽古場の埃っぽい空気が一瞬だけ澄んだような錯覚を覚えるほど、洗練された美しさがあった。
「ううん。退屈じゃないよ。みんなすごいなって思ってただけ」
アイは、とっさに「B小町の星野アイ」としての完璧な笑顔を顔面に貼り付けた。
愛嬌があり、隙がなく、誰もが好感を抱くアイドルの笑み。
だが、少年はそのアイの笑顔を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「そっか。僕はカミキヒカル。君、B小町の星野アイちゃんだよね。ワークショップ、よろしく」
カミキはアイの隣のパイプ椅子に腰を下ろした。
その所作には、一切の無駄も遠慮もなかった。馴れ馴れしすぎることもなく、かといって遠すぎることもない。まるで最初からそこに座るのが自然であったかのように、アイのパーソナルスペースにするりと入り込んでくる。
「アイちゃんは、お芝居の経験は?」
「全然ないよ。私、歌って踊ることしかできないから。今日は見学ばっかり」
「じゃあ、後で台本の読み合わせ、一緒にやってみる? 僕でよければ付き合うよ」
カミキの言葉は柔らかく、その視線には無垢な優しさが滲んでいた。
普通なら、ここで誰もが彼のペースに巻き込まれる。
カミキは、劇団の看板女優である姫川愛梨との歪んだ密室の中で、人間の欲求を読み取り、感情のレバーを操作する技術を完璧に身につけていた。
相手が不安を感じていれば、安心を与える。
相手が孤独なら、理解者として寄り添う。
今、アイがこの張り詰めた稽古場で感じている「疎外感」や「演技へのコンプレックス」を的確に見抜き、もっとも彼女が欲しがるトーンで手を差し伸べているのだ。
だが、アイは台本を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。
じっと、カミキの横顔を見つめている。
「……どうしたの?」
カミキが不思議そうに小首を傾げる。
完璧な少年の、完璧な困惑の表情。
アイは、ふっと自分の顔から「アイドルの笑顔」を消した。
代わりに浮かんだのは、感情の底が見えない、ただ対象を正確に測るような、ガラス玉のような瞳。
「君ってさ」
アイは台本を閉じ、カミキの目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「すっごく、嘘つきの目をしてるね」
稽古場の喧騒が、カミキの耳からスッと遠のいた。
カミキは、自分の心臓が奇妙なリズムで跳ねるのを感じた。
嘘つきの目。
これまで、大人の役者たちでさえ、カミキの被った「無垢な少年」の仮面を疑う者はいなかった。愛梨でさえ、自分の欲求に目が眩み、カミキの奥にある冷徹な観察眼に気づくことはなかった。
それなのに、今日初めて会ったばかりの、アイドルという虚業の世界から来た同年代の少女が、たった数分の会話で自分の「底」を見透かしたのだ。
アイは、面白そうにカミキを観察している。
彼女自身が、息をするようにファンに嘘をつき、嘘で自分を塗り固めようとしている人間だからこそ、同じように嘘で他者を操ろうとするカミキの『同類の匂い』を敏感に嗅ぎ取っていた。
「……ばれちゃったか」
数秒の沈黙の後、カミキはふっと肩の力を抜き、唇の端を吊り上げた。
無垢な少年の仮面が剥がれ落ち、年相応の少年の輪郭に、ぞっとするような冷たい知性が混ざり合う。
「すごいね、アイちゃん。僕のこと、そんな風に言った人は初めてだよ」
カミキの声のトーンが変わった。
甘さや優しさが消え、ただ目の前の興味深い生き物を解剖しようとするような、剥き出しの熱を帯びている。
カミキの中で、星野アイという存在が「ただのワークショップの部外者」から、「自分の嘘を理解し、共有できるかもしれない唯一の存在」へと反転した瞬間だった。
「アイちゃんだって、さっきからずっと嘘の笑顔を作ってるじゃないか。本当は、ここを息苦しいって思ってるくせに」
「あはは、正解。やっぱり、私たち似てるかもね」
アイは悪びれもせず、くすくすと笑った。
アイドルの作り笑いではない、少しだけ影を帯びた、等身大の少女の笑い声。
カミキは、その横顔から目が離せなかった。
人間を意のままに動かすことを覚え、世界が退屈な実験場にしか見えなくなっていた彼にとって、アイの存在はあまりにも鮮烈だった。
この子の奥にあるものをもっと見たい。
自分と同じ嘘で塗り固められた殻を破り、その奥にある本性を引きずり出したい。
「ねえ、アイちゃん」
カミキは、パイプ椅子を少しだけアイの方へ引き寄せた。
「君の嘘、もっと僕に教えてよ。代わりに、僕の嘘も全部教えてあげるからさ」