劇団『ララライ』の地下稽古場には、初日の張り詰めた空気から一転、少しだけ気の抜けたような穏やかな時間が流れていた。
若手の劇団員たちが発声練習を終え、各自が台本と睨み合う休憩時間。
壁際のパイプ椅子が並べられたスペースで、星野アイとカミキヒカルは二人並んで座り、小さな声で談笑していた。
「ねえ、そこの台詞なんだけどさ。私、どうしても感情が乗らないんだよね」
「アイちゃんは、自分の役をどう理解してるの? この子は、本当は怒ってる? それとも悲しんでる?」
「うーん……どっちでもない気がする。ただ、どう見られるかを気にしているだけ、みたいな」
「なるほどね。じゃあ、怒るふりをして、実は周りの反応を窺ってるって解釈でやってみたら?」
「あ、それいいかも。やってみる」
アイが台本の余白にペンを走らせるのを、カミキは横から穏やかな微笑みを浮かべて見守っていた。
他の劇団員たちがその光景を見れば、誰もが「同年代の美男美女が、和やかに演技論を交わしている」と思うだろう。事実、カミキの柔らかい物腰と、アイの愛らしい相槌は、周囲の空気を和ませるような自然な親しさに満ちていた。
だが、その表面上の穏やかさの下で、二人の内側には全く違う色の血が流れていた。
――この子は、本当に面白い。
カミキは、アイの横顔を観察しながら心の中で小さく笑った。
昨日、「嘘つきの目をしてる」と見破られた時の鮮烈な印象は、今もカミキの胸の奥で心地よい熱を放っている。
アイは、カミキの「無垢な少年」という嘘に気づいている。
カミキもまた、アイの「完璧なアイドル」という嘘を見透かしている。
互いに、相手が張り付けている仮面の継ぎ目を知っていながら、あえてそれを剥がそうとはしない。腹の探り合いというほど殺伐としたものではなく、ただ「どこまでその嘘を通すつもりなのか」を静かに観察し合っている。
「カミキくんってさ」
不意に、ペンを置いたアイがカミキの方へと顔を向けた。
大きな瞳が、まっすぐにカミキを捉える。
「いつも笑ってるよね。さっき、演出家にキツく怒られてた時も、ずっと笑ってた」
「……そうかな。アイちゃんもじゃない? どんな時でも、完璧に可愛い笑顔のまま」
「私のは、嘘だから」
アイは悪びれもせず、あっさりとそう言った。
「私はアイドルだからね。ファンの人たちに愛してるって嘘をつき続けるのが仕事なの。本当は、心の中になんにもないのにさ」
「……」
「だから、私の笑顔は全部嘘。でも、カミキくんの笑顔も、嘘でしょ?」
アイの問いかけは、鋭利でありながら、どこか無邪気だった。
普通なら、核心を突かれて取り乱すか、ごまかす場面だ。
だが、カミキは眉一つ動かさず、ただアイの瞳の奥を覗き込むようにして、小さく頷いた。
「俺もだよ」
静かな肯定。
アイの目が、ほんのわずかに見開かれる。
「俺も、嘘をついてる。心の中になんにもないから、相手が欲しがるものをただ見せてるだけだよ」
「……ふふっ」
アイの口元から、自然な笑い声が漏れた。
アイドルの作り笑いではない、少しだけ安堵したような、柔らかな笑みだった。
アイはパイプ椅子の上で少しだけ姿勢を崩し、リラックスした様子でため息をついた。
「なんだ。やっぱり私たち、似てるね」
「だから、別にいいんじゃないかな」
「なにが?」
「嘘をついてても。お互い、嘘だって分かってるんだから。少なくとも、ここ(二人の間)では、無理して飾る必要はないでしょ?」
カミキの声は、甘く、そして決定的な引力を持っていた。
嘘を糾弾するのではなく、嘘を共有し、肯定する。
アイは少しの間カミキを見つめた後、再び「ふふっ」と笑って台本に視線を戻した。
「……そうだね。カミキくんの前でなら、ちょっとだけ楽ができるかも」
その言葉を聞いた瞬間。
カミキの胸の奥で、カチリと重い扉が閉まる音がした。
――勝った。
カミキは、表情を一切崩さずに心の中で冷たく微笑んだ。
アイにとって、この劇団は「嘘の塊」のような場所だ。周りの大人たちは皆、本気の演技でアイを圧倒し、彼女のコンプレックスを刺激する。
その息苦しい世界の中で、カミキという存在は「唯一、嘘のままで許される安全地帯」になった。
アイはもう、自分からカミキの側にしか逃げられない。
彼女の抱える「空洞」を、カミキが共有という名目で完全に塞ぎ、自分の支配領域(箱庭)へと閉じ込めることに成功したのだ。
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二人のパイプ椅子から少し離れた場所。
稽古場の入り口近くにある長机で、劇団の看板女優である姫川愛梨が、コーヒーを飲みながらその光景をじっと眺めていた。
「愛梨さん、どうしました? あの子たちばっかり見て」
隣でスケジュール表を整理していた若手の劇団員が、不思議そうに声をかける。
「……別に。少しだけ、尺に障るなって思っただけよ」
愛梨は、フッと鼻で笑った。
自分が手塩にかけて育て、「自分だけの特別な少年」として飼い慣らしていたはずのカミキが、昨日やってきたばかりのアイドルの小娘と親しげに話している。
かつての愛梨であれば、その光景を見ただけで激しい嫉妬と独占欲に狂い、カミキを自分の楽屋に連れ込んで痛めつけていたかもしれない。
だが、今の愛梨の瞳に浮かんでいるのは、苛立ちよりも、どこか余裕を含んだ奇妙な高揚感だった。
「まあ、いいわ。あの子たちも、今のうちにせいぜいお友達ごっこを楽しんでおけばいいのよ」
愛梨はコーヒーの紙コップを置き、手元にある分厚いスケジュール帳をポンポンと叩いた。
そのスケジュール帳の『明日』の欄には、赤いペンで何重にも丸がつけられ、大きな星印が書き込まれている。
愛梨の口元が、隠しきれない歓喜に歪む。
アイドルの小娘がどれだけカミキの気を惹こうが、もうどうでもよかった。
そんなものは、明日になればすべて吹き飛ぶ。
劇団の空気も、力関係も、そして自分の退屈な日常も。
自分が何年も前から目星をつけ、何度もオファーを出し続け、ようやくこの手の届く場所まで引きずり込むことに成功した「本物」が、ついにやって来るのだから。
「ふふっ……楽しみね」
愛梨は誰に言うでもなく呟き、もう一度カミキとアイの方へ視線をやった。
一方、カミキもまた、愛梨の視線に気づいていた。
背中に刺さる大人の女のねっとりとした視線。
カミキはアイと談笑しながら、内心で冷ややかに鼻を鳴らした。
――哀れな女だ。
愛梨は自分を支配しているつもりでいるが、実際に感情のレバーを握っているのはカミキの方だ。
あの女が自分への執着を手放せない限り、劇団内でのカミキの立場は揺るがない。
アイの心を掌握し、愛梨という大人の女すら意のままに転がしている。
カミキにとって、この世界は自分の知覚と思惑の範囲内で完璧に回っている、心地よい箱庭だった。
自分が作り上げた絶対的な優位。
そのすべてが、たった数時間後にやって来る「規格外の特異点」によって、跡形もなく粉砕されることなど、カミキは知る由もなかった。
明日、この箱庭の天井は理不尽なまでに叩き割られ、嘘など一切通じない本物の太陽が、真っ直ぐにこの場所に差し込んでくる。
カミキは、明日自分の身に降りかかる地獄の予兆など微塵も感じないまま、アイに向けて完璧に計算された「共犯者の微笑み」を深めた。