スパイダーマンを知っている女の話。
……たぶん。
どうぞ、よろしくお願いします。
私のリスナーの皆さんはスパイダーマン、知ってます?
たぶん、普通にしてたらどこかで必ずぶつかるやつ。
知らない人向けにざっくり言うと、蜘蛛の力を持ってて、赤と青のスーツを着たヒーロー。
親愛なる隣人。
私────花札 千華という名前でVtuberをやらせてもらってる、普通の配信者────は、そこまでディープなオタクというわけではなくて。
新作の映画が話題になってたら映画館に足を運ぶし、テレビでやってたら作業の片手間にCGの作り込みや、役者の迫真の演技に息を漏らす。その程度のライトなオタクだって自覚してます。
ごめん、話を戻すね。みんなも知ってると思うけど、私今ロケのためにアメリカにいるんですよ。
それでさっきちょっと小腹が空いたから、今の時間帯までやってて結構美味しいドーナツ屋さんでドーナツ買って、ついでに一緒にきたスタッフさんとか、配信仲間のみんなの分も買って、帰る途中に不審者に襲われたんです。
旅行客ってお金あるから、みたいなこと言ってたような……まあクソザコイングリッシュなのでわからなかったけど。
すぐ逃げようとしたんだけど車で先回りされて、スマホ先に盗られて、私もガムテープみたいなの口に貼られて。
あーこれやばいなーって諦めかけたんですよ。
その時はもうめちゃくちゃ焦って、どうしようどうしようってパニクっちゃって。
そしたらね!?
銃持ってた人の腕が急に上に引っ張られてそのまま壁に貼っついちゃったの!!
でね、何が起きたんだ!?って周りを見たらね!
びゅんびゅん路地の壁を跳んでく何かがいて!!
もう凄かった!みんな銃とか持ってたのに全部奪って壁にはっつけたり、街灯に括りつけたりしてあっという間に倒しちゃった!
五人も居たんだよ!?しかもゴリゴリの怖い人!
『この街にはこんなのしかいないの?ドラッグでラリってるのと出会い頭に鉛玉撃ち込んでくるのと、キミみたいに巻き込まれる人と』
マイクに向かって、遥かどこかのリスナーたちへと喋りながら、その時の出来事を思い出す。
寒い路地裏、頼りない街灯に照らされた影は、四対八本の手脚に見えて。
彼は、まるで地面でも歩いてるかのように標識を垂直に、なんの抵抗もなく足を動かしている。
普通の人間ではできない、明らかな異常性だ。
それでも、私は腰を抜かしたまま無防備に彼の姿を見つめている。
『立てる?怪我は?なさそう?なら最高。心の怪我は、あー……ごめん、専門外。いいスイーツのお店知ってるけど、紹介しようか?行ったことないけど見た目は最高』
差し出された手を茫然と見つめる私は、彼の瞳にどう映っているだろうか?
少なくとも私の目には、現実にはありえないことを平然とやって、ありえない格好をした男がいる。
赤と青の特徴的なスーツに、胸と背中に象徴のように張り付く蜘蛛のシンボル。
「えっと、観光客だよね?立てる?ホテルまで着いて行こうか?」
聞こえてくる言葉が英語から日本語へと、スムーズに切り替わる。
そんな驚きなんて今はあってないようなもので。
映画と、ほとんど同じような軽妙な口調とひらひらした手振り。
それに反するような釣り上がった怒りの目。
どこか攻撃性を感じるそれらを包み込むような、やや高めの声に私は不思議な高揚感を隠せなかった。
「あの……あの!!」
「ん?なあに?」
立ち上がらせてくれた手を離すまいと、渾身の力を込めながら、確信をもって問うた。
「あなた、スパイダーマンだよね?!」
「スパイダーマン?……なに、それ?」
返ってきたのは、お決まりの返答ではなく。
むしろ、困惑と混乱を隠せない、本当に見たことも聞いたこともない誰かの名前を出された人の雰囲気を出していた。
◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆
「……んじゃあ、今日はこれでおしまいにしよっかな。今日も見てくれてありがとー!おつはなー!」
カメラの向こうに手を振り、配信を切る。
椅子のリクライニングに全体重を預けて、淡い天井光をじっと見つめて、今日あったことを思い返す。
まず、アメリカに着いた。
人生初の海外旅行……まあ仕事も兼ねてるけど……に目を光らせて、マネージャーさんと今後の打ち合わせして、とりあえず一日中行動もらえたから同期のナリタちゃんとご飯行って。
ホテルで解散……したけど小腹空いたからドーナツ買いに行って。
スパイダーマンに助けてもらいました。
「いやあ……自分で言うのもアレだけど、やっぱり疲れてたのかな?」
目元を指で揉み込んで、あれは疲労が見せた幻術だったのでは?と配信中に何度も思ったことを繰り返す。
「今日のリスナー面白かったぁ……ちょっとだけ、荒れてたカモ、だけど」
あの、映画から現実にそのまま飛び出してきたようなスパイダーマンによる救出劇を、私が体験したそのままに、配信に乗せた。
プチ炎上した。なんで?
「んもー……ほんとに、見たんだけどなあ」
アーカイブのコメント欄に目を通す。
『は?』
『はなちゃん疲れてるのよ』
『マジだったら何で配信できてるんですかね…』
『ガセ?』
『売名乙』
『もっと上手くやれるやろ。次ゴジラ?』
『情弱乙ネットニュース見てから言え』
「ん?ネットニュース?」
目に止まったコメントに導かれるように、アメリカの大手ニュースサイトにアクセス。
「んー?えーっと……り、りあ?りある、すぱいで……」
何とか見出しとタイトルは掴めたが本文が読めない。諦めて全文選択して翻訳をかける。
【リアル・スパイディ現る!?ニューヨークの夜に悪漢を刈り取る男……】
「へー早いね情報、ってか私の配信トレンド載ってね……?」
SNSで【スパイダー】、【蜘蛛】、【リアルスパイダーマン】と検索をかけると、私がちょうど話題に出した配信画面の切り抜きが無数に上がっている。
現代社会の恐ろしいところがまさに体現されているけど、それはそれ。
胸元で控えめに、しかし込めずにはいられない力を込めてぐっとガッツポーズ。
「知名度ちょっとでも上がったかなー。ウチもあともうちょっとで上場できるって言ってたし、頑張りどき!」
スマホをさらにスクロールすると、ニューヨークでよく見られるニュース番組の切り抜きが同じように流れてくる。
一つをタップして字幕に気を取られつつ、何が起きてるのか、一時停止を繰り返してゆっくりと、咀嚼するように流し見する。
【…現場には粘度の高い糸状の物質が複数残されており、監視カメラ映像にほとんど映ってはいませんが、拘束した容疑者や一部情報提供者によると、覆面を被った空を跳ぶ男を見た、という証言がいくつも挙がっており…】
「……私だけじゃない、たくさんの人が見てたってこと?」
少しだけ落胆して、冒頭五ページで飽きた本でも投げるようなそぶりでスマホをベッドに放る。
「あーあ、私だけだと思ったのにー……」
ちょっとだけ、悔しい。
よくわからないけど何かが不満で、温い熱が喉の辺りに突っかかる。
「もっと聞いとけばよかったなー、趣味は?恋人は?連絡先は?普段のお仕事は……聞きすぎ、かな?」
彼に助けてもらった後、私は絶えず口を動かしていた。どこから来たのか、本物のスパイダーマンなのか、などなど。
質問を押し付けてその答えを聞いている間、私は。
いや違う。
私たちは、人生で一番高くて綺麗なところにいた。
◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆
「……へえ、ラジオキャスターみたいなことやってるんだ?僕のこと話すの?」
「えと、その……い、い嫌だったら話しませんよ?だんまりできますよ私」
まるで新しい隣人とでもやりとりをするみたいに、私は至近距離にある蜘蛛の巣柄のマスクと談笑みたいな話をする。
どれだけ売れたくても、最低限のリテラシーくらいは持ち合わせている。
後々大問題になるくらいなら知りません、会ったことありませんで貫き通す方が長期的に考えても得になる場合もある、とマネージャーさんから教わった。
「このマスクの下のハンサム顔を公開しなかったら何でもいいよ。あーでも……あることないこと言うのは、勘弁かな。こっちであってる?」
彼は苦笑しながら、ニューヨークの眩しい夜景を見下ろすように、空を跳んでいる。
一定間隔で射出されるウェブが建物を捉え、振り子のように弧を描いて奥へ、そのまた奥へと進んでいく。
私は、彼にしがみついて、顔を切る風の気持ちの良さと、彼の体に身を預けている、という不安定さと、離すまいと片方の腕で抱えられる不思議な安心感のせめぎ合いで、頭がどうにかなりそうだった。
……映画で何度も見た、大迫力のスイング。
風が顔を面で捉えて、シャワーを浴びたばかりの髪がめちゃくちゃになる。
でも、驚くほどに早い跳躍とほとんどブレのない安定した感覚は、想像していたよりもスリルは少なくて。
むしろもっと長い間跳んでいたい、と思うほどだった。
「あってます、あってます。……ねえ、本当にスパイダーマンじゃないの?」
「この格好して随分経つけど一回も名乗ったことはないし、誰かにそう呼ばれたのもキミが初めてだよ。ここに来たのもついさっきのことだしっ」
手が空に届きそうなくらいの摩天楼の遥か上空に身を放り出し、そのまま急降下。
一切の支えはない。
重力に全てを預けて、体の中身が遅れて戻るみたいな。
「それじゃいくよ────ちゃんと捕まってね!!」
「あっちょっとまってウソウソウソっ────!?」
自重に体が引かれ、耳元で彼の楽しげな叫びと夜風がコーラスみたいに混ざり合って、映画のワンシーンみたいな二重奏がビルの谷間を貫いていく。……ついでに私の絶叫も添えて。
地面にぶつかる────そう確信してぎゅっと目を瞑る。けど次の瞬間、彼に体を支えられたまま素早く糸がビルを捕まえて、私たちを引っ張り上げた。
ぐんっ、と体が引っ張られて遅れて体の中身が戻ってくるような、自分がペットボトルになった気分。
「ジェットコースターの100倍くらい怖かった……!!」
「ハハハ……でも楽しかったでしょ?」
「めっっっちゃスリリングもうやりたくない……待って、やっぱりもう一回!あと五回ぐらいやったら楽しめるかも!」
背筋がゾクゾク泡立つ、独特の興奮した時の感覚に自然と口が動く。
「でしょ?僕も最初はビビって飛び降りれなかったけど回数こなしてくと気持ち良くなるんだ。時間帯とかでも感じる風の雰囲気とか、よく変わるし……おっと」
ぐらり、と糸が途切れるみたいに初めて体勢が崩れる。
しかしすぐに別のビルに糸を放ち、振り子のように巨大な半円を描きながら、私のしばらくの滞在先のホテルの入り口へと着地した。
「到着……で、合ってる?」
「ここです、ここ!えと……助けてくれてありがとう、スパイダーマン」
彼は少しばかりの呆れを滲ませた溜め息をマスクの下で漏らしながらも、どこか嬉しそうな笑いを吹き出した。
「スパイダーマン、ね。さっきからスパイダーマンスパイダーマンって言ってるけど結局それは何なの?」
彼は不思議そうに、目の当たりをこちらに向けてくる。
その格好で本当にスパイダーマン知らないの?と10割疑いの目を向けながらも、知らないふりをする理由も思いつかなかったし、黙る理由もないので正直に答える。
「正義の味方?……じゃなくてヒーロー?なんか違うな、えーと……そうだ!」
一番耳に馴染む、スパイダーマンといえばこの称号だろう。
「【親愛なる隣人】、かな!?」
思い切って指を立てたのが、たまたま彼を指しているみたいになってしまった。
慌てて指を後ろ手に隠して、笑って誤魔化す。
「な、なーんて……ただのヒーローじゃなくて。誰かに寄り添って、助けてくれる人!」
彼は数秒俯くと、なるほど、と一人納得がいったように頷いた。
「ここには、僕みたいな人がいるんだね」
……何を言ってるんだろう?
その言葉の真意を確かめるよりも早く、いつの間にか暗い路地へとスイングで消えていった。
「それじゃ、おやすみお嬢さん!これからは黒いものと夜道に気をつけて」
追いかけるように足が二歩、三歩前に出る。
街灯が作る影に紛れて消えていく彼の姿が見えなくなるまで見送ってから。
私の脳みそは、少なくともこの場で考えるべきではない、いくつかの絡み合った思考が頭を埋めた。
「待っていろいろ話聞きたい……あーこれ警察に通報すべきかな!?ていうかドーナツ!置きっぱなしじゃんどうしよ!?あー待って待って……!」
ホテルの前で、ギャーギャー喧しいと誰かがクレームを入れたのだろう。
数分後には青筋を立てたホテルマンが私の肩をポンポンと叩きホテルへ連れて行った。
警察を呼び、あらましを説明し────もちろん現地警察の皆さんは胡乱なものを見るような目で見られたが────回収したスマホを返してもらった後。
ホテルの自室でマネージャーと、一緒に来てくれた友人にこっ酷く、それはもう掃除前の雑巾の如く、絞られたのだった。
◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆
頭に響く、金切音じみた警告に従って銃撃を避け、背後に回し蹴り。
ヒットした感覚を流して次の相手に意識を向ける。
斜め左の死角からの奇襲を告げる仮想の痛みと、視界の端で激しく主張する仄かな光を避けるように体をひねって回避。
「どうなってんだ!?」
「スパイダーマンのコスプレ野郎が、マジで避けてんじゃねえ!!」
「さっきのコにも言われたけどスパイダーマンって何!?違うか親愛なる隣人だよね!」
避け切った後、素早くジャブを顎に見舞ってダウン。
殺さないように限界まで手加減する。言動から察するに、連中が体を乗っ取っている素振りは見えない。
だからと言って完全に遊びの気分でやれば痛い目を見るだろうから、油断は御法度。
「そこ、よそ見厳禁!」
壁際で機会を伺っていた太い男と細い男目掛けてウェブを射出。
手首に力を込めて、ロックのかかった霧吹きをプッシュするイメージで何度も吹きかける。
五回の乾いた音の後に、二人組は仲良く壁に張り付いた。
「うわ、ベタベタしやがる!」
「これ取ってくれキモチわりい!」
「少しショック!……だなあっ!」
近場にあった標識に移動して回転、車に隠れていたもう一人の銃持ちをダウンさせる。
これで残り二人。
「このコスプレイカレ野郎め!」
「さっきから同じことしか言えないの?あとコスプレじゃなくて素材の問題で仕方ないのこの色は!」
色変えできるならもっと目立たない色にしてるよ!と何度考えたかわからない不満を込めて重めのストレートを腹に叩き込む。
膝から崩れ落ちる男を横目に、残った一人をその場から跳躍してドロップキックで吹っ飛ばした。
「よし、見えてるところのお仕事終わりっ。えと、痛かったらごめんね?」
ダウンしている男たちを全員糸で一巻きにした後、手頃な街頭の頭から吊り下げて逃げられないように処理。
後はこの国の保安官とかがやってくれるはず。
少しの満足感と心地よい疲労感を夜風で洗い流している最中、頭が何度も訴えかけるように疼いた。
「……うるさいな、わかってるよ」
頭の中で、蜘蛛の感覚がずっと警鐘を鳴らしている。
休め、もうすぐ倒れるぞ、と脅すように何度も耳鳴りが鳴り、目の前が白く点灯を繰り返す。
しかし、休む場所なんて見当たらない。
旅人用の宿らしい施設はあった。さっきの女の子を送ったあの建物……なんだけど、絶対いいところだよね。
大きな建物は大体いいところだ。もっと格安のモーテルを……そもそもお金ないから泊まれないじゃん。
「またここでも野宿かぁ……あれキッツイんだよなあ……」
ぼやきながら、ビルの壁に手をつく。
無理を通して穴を通ってきた代償のように身体は軋み、息も詰まる。
今までも同じように渡ってきたけど、ここまでしんどいことはなかったと思う。
「……そもそも、次に行けるのかさえわからないけど」
左腕に嵌めた、青い石の付けられた無骨な金属製の腕輪に視線をやる。
ばちばちと激しく火花が散り、誰の目から見ても壊れていることがわかるだろう。
「いや、弱気なこと言っちゃダメだろ。ここで仕留める。次なんて……ないっ!」
両腕を絞って、糸を放つ。
なるべく人目につかないように、高度を保ってスイング。
ビルに体を引っ張ってもらって、どこかを探す。
どこでもいい。
屋根があって少し静かで、風が凌げればさらにいい。
ご飯もついてたら何も言うことはない。
……まず、ないだろうけど。
街を見下ろす。
夜を完全に征服したように勝ち誇る、隅々まで行き渡った光源に、板を持ち歩いて陽気に話したり、耳に装飾をつけて特に気にすることのないように歩くここの人たち。
きっと危険がないのだろう。
あるかもしれないが、ある日突然得体の知れない怪物に自分や周りが侵される、なんて心配はしてないだろうね。
「……って、何見てるの僕」
他人のこと気にしてる暇なんてないでしょ、とガラス窓の壁を疾走。
まだ照明のついている鉄塔を避け、遠慮なく屋上に駆け上がり、ウェブを────
「あ、れ?」
視界が歪む。
手首から伸ばした糸が千々に千切れる。
体に込めた力が、膂力が失われていく。
久方ぶりに酒を浴びるように呑んだ酩酊感に近いそれとともに、落ちていく。
かろうじて伸ばした糸を手繰り寄せて、身を乗り出す。
先は、鉄と石材だらけの街中にぽっかりと孤立した、丁寧に揃えられた人工の庭園。
「……これ、ワンチャン死んじゃう?」
いやあ死なないでしょ、と頭の中の僕
そのまま冷たい空気を突っ切って、受け身を取れないまま沈没した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
まずは1話投稿できました。
書き始める前はもっと短くなる予定だったんですが、気付いたらこんな長さになっていました。
彼ら彼女らの話はまだ始まったばかりなので、これから少しずつ書いていければと思います。
次回もよろしくお願いします。