その赤子が上げた産声は、ひどく細く、頼りないものだった。
一度だけ。肺に入り込んだ冷たい空気を吐き出すように小さく鳴き声を上げた後、赤子はひたすらに沈黙した。
京都の奥深く、鬱蒼とした山林に抱かれた広大な敷地。その末端に追いやられたような分家の家屋は、冬になれば容赦なく隙間風が入り込み、夏になれば重たい湿気が床下に澱む。
畳の目地には古びた埃が詰まり、障子の桟はどこか煤けていた。そんな侘しい空間にあって、分家に生まれた凡庸な両親は、手のかからない我が子を抱いて安堵の息を吐く。乳を欲して喚くことも、不快感を訴えて泣き叫ぶこともない。「大人しい子だ」と、彼らは素朴な喜びと共にその頭を撫でた。
だが、彼らが気づくはずもない。
その赤子——禪院
空気を満たすのは、無色透明な酸素ではない。宙を漂う淀んだ空気の塊があり、木々の隙間や縁の下からは、粘り気のある奇怪な何かが常に這い出そうと蠢いている。大人たちが近づけば、彼らの体表からは薄汚れた靄のようなエネルギーの残滓が、呼吸をするたびに漏れ出していく。
視界を埋め尽くす、無数の不快なノイズ。
後に彼が「呪霊」や「呪力」と認識することになるそれらの存在は、物心つく前の赤子の視界を容赦なく汚染する。
泣かなかったのではない。
泣き叫ぶという行為。大きく息を吸い込み、喉を震わせ、手足をばたつかせる。その一連の動作が己の体力を著しく消費するものであり、得られる対価——不快感の解消——に対して、あまりにも割に合わないと本能が察知していただけだ。
何もしなくても、時間が来れば親が乳を与えてくれる。肌が冷たくなれば、温かい布で包み直してくれる。
自分が動かなくとも、世界の方から必要な処置が施されるのであれば、自ら余計な熱を放出する理由はない。
生まれたその日から、彼の内奥には、一切の徒労を拒絶する極めて冷徹な天秤が備わっていた。
そして三年の歳月が流れる。
朔は、親の望み通り、否、親の想像以上に静かな幼児に育った。
同年代の子供たちが外で泥まみれになって走り回る中、彼はいつも縁側にぽつんと座っていた。眠たげに半眼を開き、どこを見るでもなく宙を眺めている。
両親は彼に「呪術師」としての未来など微塵も期待していない。分家の人間にとって、本家の血みどろの権力闘争や、御三家としての誇りといったものは、完全に別世界の御伽噺である。ただ平穏に、禪院の末端として目立たず生きていければそれでいい。そう願い、庭先で土をいじりながら平和な日々を噛み締めていた。
ある秋の日の午後。
澄み切った青空から、障子越しに柔らかい陽光が差し込む。
庭先では、両親が枯れ葉をかき集める竹箒の音が、規則正しく響いている。
朔は一人、縁側に座り、自身の足元に伸びる『影』をじっと見つめていた。
黒く、平面的で、光が遮断されることによって生まれる単なる物理現象。
しかし、朔の瞳には、それがただの暗がりとは映っていなかった。
彼自身の内側——へその少し下、深い深い底のあたりから、ドロドロとした重たい液体のようなものが、絶え間なく循環している感覚がある。心臓の鼓動とは違う、もう一つの脈動。
それが、足元の黒い染みと、見えない管で繋がっているような気がした。
「……これ、どうなるんだろう」
ぽつりと、誰に宛てるでもなく唇が動く。
彼は小さな両手を胸の前で合わせた。親指を交差させ、残りの指を丸めるようにして、犬の頭の形を作る。昔、父親が気まぐれに教えてくれた、ごくありふれた影絵遊びの形。
ただ一つ、決定的に異なっていたのは、彼が無意識のうちに、内側で渦巻く「重たい液体」を、両手の指先から影へとドクドクと流し込んだこと。
——ごくり。
空間が、巨大な喉仏を鳴らして唾を飲み込むような、生々しい異音を立てた。
直後、平面であるはずの影が、粘度の高い泥のようにボコボコと沸き立ち始める。
光を完全に吸い込むような漆黒の沼。そこから、ぬるり、と、二つの「立体」が這い出してくる。
一つは、雪のように真っ白な毛並み。
もう一つは、闇を固めたような漆黒の毛並み。
額に奇妙な紋様を刻んだ、大型犬ほどの体躯を持つ二匹の獣——式神『玉犬』。
「……へえ」
朔の小さな唇から漏れたのは、恐怖による悲鳴でも、歓喜の叫びでもない。ただ、温度の低い、薄い感嘆の息。
驚かなかったわけではない。だが、彼の内側にある感情の水面は、石を投げ込まれても波紋がすぐに消え去るほどに凪いでいた。
朔は恐れる様子もなく、目の前の板間で静かに伏せの姿勢をとる二匹の獣に向かって、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、白い犬の首筋に触れる。
(温かい。脈拍はない。でも、僕の中から何かが持っていかれている感覚がある……)
獣の体温。筋肉の硬さ。しかし、生き物特有の匂いはしない。ただ、自分と繋がっている透明な管を通して、自らのエネルギーがこの質量を維持するために消費されているという明確なフィードバック。
彼は、初めて己の手で現出させた超常の現象に対し、愛着を抱くでもなく、怯えるでもなく、底知れない熱を帯びた眼差しを向ける。
なぜ、形のないエネルギーが、物理的な法則を無視して質量を持った獣に変換されるのか。なぜ、己の肉体ではなく「影」という外部の現象を媒介としなければならないのか。
「朔、おやつに——」
背後で、母親の声が唐突に凍りついた。
朔がゆっくりと振り返る。そこには、盆を畳に落とし、陶器の割れる音と共に腰を抜かして震える母親の姿があった。
彼女の大きく見開かれた視線は、我が子ではなく、彼に寄り添うように控える二匹の獣に向けられている。
その日の夕刻を境に、分家の静かで侘しい家屋は、かつてないほどの騒波と熱狂に呑み込まれることとなった。
*
木枯らしが庭木の枝を容赦なく揺らす、冬の夜。
朔は、これまで足を踏み入れることすら許されなかった、本家の豪奢で威圧的な大広間に座らされていた。
分家の安っぽい畳とは違う、青く新しい井草の匂い。鼻を突く重苦しい沈香の香り。
上座には、厳格な顔つきをした本家の重鎮たちがずらりと並び、周囲には鋭い眼光を隠そうともしない術師たちが息を殺して控えている。彼らの粘り着くような眼差しの先にあるのは、ただ一つ。
分家の掃き溜めから引き上げられた、幼児であった。
禪院家相伝の術式・『十種影法術』。
御三家の一角たる禪院家において、それを宿して生まれたことの意味は、朔の理解の範疇を超えていた。
下座の端で平伏している両親は、顔を上げることもできず、ただひたすらに震え続けている。
分家の人間には、本家の決定に意見する権利などない。貴重な相伝の術式が発覚した以上、朔は本家の預かりとなり、次代の禪院を背負う駒として、徹底的な教育を施される。両親の元には、見返りとしていくばくかの金銭と、名ばかりの地位が与えられるだけで、我が子を抱きしめる権利は永遠に失われた。
「……見事なものだ」
重鎮の一人が、朔の背後に控える二匹の玉犬を見て、深く、ひどく満足げに頷いた。
「まさか分家の血から、これほどの才が芽吹くとはな。これで禪院の未来は盤石となる。よいか、今日からここがお前の家だ。十種影法術を持つ以上、それに見合う死に物狂いの努力をしろ」
熱狂。執着。欲望。
大人たちの声には、隠しきれない家の繁栄への執着がこびりついている。
遠くで、母親の押し殺した嗚咽が聞こえた。
重苦しい空気と、大広間に渦巻く無数の野心。
上座の中央では、当主である禪院直毘人が、瓢箪から酒を煽りながら上機嫌に笑い声を上げている。
それら全てに囲まれながら、朔はただ、薄く目を開けて上座の大人たちを見上げていた。
——ああ、ひどく息が詰まる。
それが、彼の偽らざる本心。
この大人たちは皆、彼自身を見ているのではない。彼の背後にある影と、そこから這い出る力だけを見ている。
最強の術師になりたいわけでも、自分を見下してきた家を見返したいわけでもない。そんな熱に浮かされた大義など、彼の内側には欠片も存在していない。
大人たちは口々に「死に物狂いで努力しろ」と強要するが、朔にとっての最大の関心事は、「なぜ自分のような人間に、こんな重たいものが宿ってしまったのか」という果てのない疑問と、目の前の影が持つ「未知の構造」に対する執着だけであった。
自分なんかに期待しても、彼らの望むような結果にはならない。
そう思いながらも、彼はそれを口に出して反駁することはない。自分の思考を言語化し、彼らの強固な価値観に真っ向からぶつかり、理解を得るための議論を交わす。その一連の工程を想像しただけで、途方もない疲労感が全身を覆う。
何かを主張することすら、彼にとってはあまりにも重労働だ。
大広間の冷たい空気を肌で感じながら、朔は無表情のまま、ゆっくりと視線を下げた。
周囲の熱狂を完全に遮断し、自身の足元に落ちる漆黒の影へと、ただ深く、微かに意識を落とす。
誰の理解も求めない。誰の期待にも応じない。
彼の退屈で、しかしひどく偏執的な探求が、この禪院家という巨大な檻の中で、ひっそりと幕を開けた瞬間であった。