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静寂に包まれた自室で、朔はあぐらをかき、己の体内に巡る呪力をただひたすらに観察していた。
呪力を練り上げ、術式構築プロセスへと流し込む。その過程で生じるごく僅かな漏出をミリ単位で削り落とし、ロスを限りなくゼロに近づけていく。
エネルギーの消費を極小に抑えるための、地道で繊細なチューニング作業。それは朔にとって、至福とも呼べる時間だった。
だが、その静寂は不意に破られる。
ピクッ、と。
肩に乗せていたウサギが、ピンと耳を立てて廊下の方へ鼻先を向けた。
何かが近づいてきている。
(……またか。今度は誰?)
朔はうんざりしながら、兎の知覚を共有した。
ズカズカと遠慮なく畳を踏み鳴らす、重々しい足音。その歩幅とリズムから、指南役のような下っ端ではないことがすぐに分かった。
ほんの少しだけ意外な人物の気配に、首を傾げた、その時。
——バーンッ!!
勢いよく襖が開け放たれ、廊下に一人の男が姿を現した。
「朔、いるか。少し顔を貸せい」
「……」
――なんでやねん。
現れたのは、禪院家当主・禪院直毘人その人だった。
その後ろでは、お供の女中たちが困惑しきった顔でオロオロしている。
「えっと。何の用?」
「ハッハッハ! 少し時間が空いたのでな。お前の現時点での実力を見てやろうと思ってな!」
豪快に笑いながら、直毘人は一方的な要求を突きつけてくる。
「……えぇー」
心底嫌そうな顔をして、露骨に顔を背けた。
「いや、いいです。遠慮しときます」
「まあそう言うな!」
拒絶の言葉を完全に無視し、直毘人はズカズカと部屋に上がり込むと、朔の着物の襟首をガシッと掴んだ。
「ハハハハ! 道場に行くぞ!」
「あ、ちょっ……」
グイッ、と乱暴に引っ張られ、そのまま部屋から引きずり出された。
マジで突拍子もないことを言い出す。そして行動が早すぎる。何を言ってもこのオッサンが話を聞かないのは分かっていたことだが、理不尽極まりない。
ずるずるずるずる。
首根っこを掴まれたまま、長い渡り廊下を引きずられていく。幸い、よく磨き上げられた廊下の板張りは滑りが良く、摩擦によるダメージはほぼ無い。
朔は完全に抵抗を諦め、無の境地でスライド移動を受け入れた。
(ひどい通り魔に襲われた気分だ……)
そんな気怠げな思考を巡らせながら、少年は道場へと連行されていく。
*
――意味、わかんねぇんだけど。
広い道場の中央。
十メートルほどの間合いを開けて直毘人と向かい合いながら、朔は死んだような目を向ける。
「む? 先ほども言っただろう。お前の現時点での実力を確かめるためだと」
「だから、なんで。確かめるにしても、別に当主直々である必要ないじゃん」
朔がぼそぼそとケチをつけると、直毘人は「なぜ当主が?」という疑問に対して、堂々と胸を張った。
「そんなもん、俺がやりたいからだ!!」
(この人、ほんと人生楽しんでるな……)
傍若無人な快楽主義。禪院家というドロドロとした環境にあって、この男の在り方は根本的におかしい。いや、それを言えば彼自身も人のことは言えないのだが。
「そんな嫌そうな顔をするな」
心底だるそうにしている朔を見て、直毘人は苦笑しながら軽く手を振る。
「軽い手合わせだ。俺に一撃でも与えられたら、お前の勝ちでいい。ほれ、構えろ」
「……はぁ。わかったよ」
もう逃げられないと悟り、朔はだらりと両手を下げたまま構えの姿勢に入った。
腐っても禪院家の当主。特別一級術師である直毘人の実力は相当なものだと聞いている。実際に戦っている姿を見たことはないが、油断できる相手ではない。
「どうした? こんのか?」
「……」
朔が体内で呪力を練り上げようとした、次の瞬間。
——ピクッ。
肩に乗っているウサギが、強烈な危機を察知して毛を逆立てた。
術式発動の「起こり」。直毘人の肉体が実際に動くよりも早く、ウサギの鋭敏な感覚が死の気配を捉えたのだ。
(何かが来る——!)
朔は、直毘人の姿を視認するよりも早く、自らの足元の影へと泥のように沈み込んだ。
――シュゴッ!!
先ほどまで朔の頭があった空間を、直毘人の拳が凄まじい風圧を伴って通り過ぎる。
(……速いッ!)
動き出しから、今の位置まで到達する速度が異常だ。呪力による純粋な身体強化の域を超えている。何らかの術式による加速か。
即座に脳に呪力を回し、自身の思考速度を極限まで引き上げた。
「ほう。俺の一撃を避けるか。なかなかいい反応……いや、いい直感と言うべきか」
――大蛇
直毘人の足元の影から、大蛇の顎が弾丸のように飛び出す。
だが、直毘人はそれを視認すると同時に足元に呪力を収束させ、バネのように上空へと跳躍して容易く回避した。
「おっと」
空中へ逃げた直毘人を追い、朔は大蛇を即座に解除。
影から勢いよく飛び出すと同時に、両手で影絵を結ぶ。
「鵺」
顕現した怪鳥の背に飛び乗り、上空へ舞い上がる。
「出てきたか。それで、次はどうする?」
「こうする」
直毘人を見下ろし、鵺の翼に強力な雷撃をチャージし始めた。
――しかし。
「させんよ」
放電の発動を防ぐべく、直毘人は床を蹴り一気に朔との距離を詰めにかかる。
呪術師の脚力なら、空間を利用した三次元的な機動など造作もない。
だが、それは朔にとって『想定内』。
チャージに時間のかかる大技を見せれば、相手は当然その前に距離を詰めて潰しに来る。それは定石だ。
定石通りに動いてくれるなら、迎撃のプログラムを組むのは容易い。
「ん?」
一直線に迫り来る直毘人の頭上に、朔は新たな影を落とした。
両手で結ばれた、巨大な獣の影絵。
「——潰れろ」
空中という逃げ場のない空間で、数トンに及ぶ巨大な象の質量が、直毘人の真上から落下する。
単調で真っ直ぐすぎる攻撃だが、空中にいる相手には躱しようがない。これで決まる。
そう思った。
「甘い」
直毘人は、体外へ爆発的に呪力を放出させる反作用を利用し、空中で強引に軌道を変えてサイドへと跳んだのだ。
――ドゴォォォンッ!!
満象が道場の床に激突し、凄まじい地響きを鳴らす。即座に満象を解除する。
(当たると思ったのに。このオッサン、伊達に年取ってないな)
だが、鵺のチャージはすでに完了している。
「放て」
――バリバリバリッ!!
壁に向かって、極太の雷撃が放たれる。
直毘人は壁を思い切り蹴り飛ばし、超高速で放電の有効範囲から脱出した。ほんの一瞬、雷撃の端が体を掠めたが、直毘人は肉体に纏う呪力を活性化させ、力技で雷を弾き飛ばしてみせす。
――マジか。さっきから速すぎる。
脳を強化して思考を回し続けていても、ギリギリ目で追えるレベルの速度。
(高速移動の術式か? いや、でも少し違和感がある。なんなんだ、あの動きの不自然さは……)
「戦闘中に考え事か?」
ニヤリと笑う直毘人の手には、いつの間にか道場の隅に立てかけられていた『木刀』が握られていた。
それに膨大な呪力を込め、槍投げの如きフォームで朔に向かって投擲する。
――ヒュゴォッ!!
「ッ、避けろ」
空気を裂く恐ろしい速度と威力。
鵺に命令を出し、空中で回避行動をとらせるも、投擲の速度が勝り、木刀が鵺の片翼を鋭く掠めた。
「くっ……うわっ!」
バランスを崩した鵺の背から、朔が放り出される。
空中で踏ん張り、着地の体勢を整えるような筋力も体術の心得も、彼には欠片も存在していない。
「ふッ!」
それを決定的な好機と判断した直毘人が、息もつかせぬ速度で地上から接近してくる。
落下しながら、朔は冷静に両手で影絵を象った。
「
空中で、朔の影から無数のウサギが滝のように溢れ出し、増殖を始める。
視界を埋め尽くすほどのキメラ兎の群れ。これには直毘人も舌打ちをし、前進をキャンセルしてバックステップで距離を取った。
「ふっ、やるな」
――やるな、じゃねぇよ……。
内心で愚痴りながら、朔は着地の衝撃をウサギたちに殺させ、無傷で床に降り立つ。
そして、次の一手。
即座に両手で『蛙』の影絵を結ぶ。
ドンッ、と顕現した蝦蟇が、ウサギの群れの死角を迂回するように、長い舌を射出する。
鞭のようにしなる舌は、見事、直毘人の右腕の手首にグルリと巻き付いた。
「ほう」
直毘人は、舌が巻き付いた手首を見つめ、感心したようなため息を漏らす。
「式神の同時並列操作。なかなかの精度だ。……だが、この程度の拘束では——」
直毘人が、右腕に呪力を込めて力任せに舌を引きちぎろうとした、その時。
「……?」
直毘人の動きが、ピタリと止まる。
違和感。
蝦蟇の舌が絡み付いた右手首。そこに集めようとした自身の呪力が、ジュワッ……と蒸発するように中和されていくのを感じ取ったのだ。
(これ、は……浄化されているのか?)
ただの蛙の式神ではない。この舌には、明らかに「負のエネルギー」を打ち消す「正のエネルギー」が流れている。
長年の歴戦の経験から、直毘人は一瞬で答えに到達した。
(反転術式、か……!?)
右腕に集めた呪力が消え、舌を引きちぎることができない。
そして、目の前には数え切れないほどの兎の群れが牙を剥いて迫ってきている。
「——くッ!」
直毘人は即座に右手での拘束破壊を諦め、左手に強力な呪力を込めると、手刀で舌を両断した。
拘束を脱し、回避の機動に入る。
群牙散兎の群れが群がる中、直毘人はその超絶的な速度で牙と爪の雨を躱していくが、あまりにも数が多い。
チッ、と。
一匹の兎の鋭い爪が、辛うじて直毘人の肩を掠めた。
鮮血が舞う。
直毘人は兎の群れに強烈なカウンターの蹴りを叩き込み、群れの中からようやく脱出してみせた。
ザッ、と床を滑るように着地し、血が滴り落ちる自身の肩を左手で押さえる。
「……見事だ」
朔はパチンと指を鳴らし、ウサギの群れと蛙を影に還す。
肩に最初の一匹だけを乗せた状態に戻り、気怠げな視線を当主へ向けた。
「——これで、いい?」
「ガハハハハハッ!!」
血が滲む肩を押さえながら、直毘人は道場の床にどかりと胡座をかき、豪快な笑い声を上げる。
「あぁ、見事だ。なかなかの練度、予想以上だ!」
「……そう。それじゃ」
これ以上ここに留まる理由は一ミリもない。
朔は踵を返し、そそくさと道場の出口へ向かって歩き出す。早くこの無意味な時間を終わらせたい。
「まあ待て待て。そう急ぐな」
「……」
渋々振り返ると、直毘人が「こっちへ来い」と手招きをしている。端から見れば、暇を持て余した祖父のダル絡みを全力で回避しようとする孫の図にしか見えないだろう。
しぶしぶ数歩だけ戻った朔を見て、直毘人はうんうんと感慨深げに頷いた。
「術式の使い方、式神の同時並列操作、そして呪力の廻り。……どれをとっても、その歳では考えられないほどの腕だ」
「……うん」
純粋な称賛の言葉にも、朔は全く嬉しそうな素振りを見せない。
「だが、惜しいな」
直毘人は、ふと真面目なトーンで告げた。
「それで『体術』の腕もあれば、言うことなしなんだが」
――この人もそれか。
朔の顔に、さらに深い疲労の色が浮かんだ。
この家の大人は、判を押したように同じことばかり言う。
「僕には、必要ないから」
「む? だが、先ほどお前は俺が投げた木刀に反応できなかっただろう。一級の術師であれば、あんなもの拳一つで弾き落とせたはずだ」
直毘人の指摘は、極めて真っ当なもの。
術式への過剰なリソースの偏りが、肉体的な反応速度の欠落を招いているのではないか。
「……結果的に、躱せたんだから問題なかったでしょ」
朔は顔を逸らし、ぼそりと言い返した。
「それに、体術なんかに時間を使ってたら、僕の術式はここまで磨かれてない」
「ふむ、それは道理だな」
彼は、その反論を頭ごなしに否定しなかった。扇のような凝り固まった人間とは違い、この当主は圧倒的に柔軟な思考を持っている。
「だが、一つ聞かせてくれ」
値踏みするような、それでいて純粋な興味を惹かれたような目で見据えた。
「お前はなぜ、そこまで体術を嫌う? 術式を極める方が効率が良いというのは分かるが、接近戦をこなせるに越したことはないだろう」
呪術か、体術か。どちらかにリソースを偏らせたというレベルの話ではない。
朔は明確に、近接戦闘を「自分には必要ない」と切り捨てているのだ。
(あぁー……)
ため息をついた。ここで適当にはぐらかして、延々とダル絡みをされる方が面倒だと判断し、自身の持論を口にすることにした。
「……式神がいるから」
「ん?」
「自分にできないことは、式神にやらせればいい」
それが、禪院朔の根本的な考え方だった。
一般的な術師の思考回路は「接近戦が弱い」という弱点があるならば、「体術を鍛えて弱点を克服する」のがスタンダードな回答だろう。
だが、彼は違う。
接近戦が弱いならば、接近戦をしなければいい。
身体を鍛えない。格闘技も学ばない。近接戦闘は最弱。だが、本人はそれを重大な欠点だとはこれっぽっちも考えていない。
「そもそも、僕は強くなること自体に興味がない」
淡々と語る。
「できないことを、無理して自分でやる必要はないでしょ。空を飛べないなら鳥に乗る。パワーが足りないなら象を落とす。僕自身がやる必要なんて、どこにもない」
術式を持つ者が、その術式を使って問題を解決する。極めて素朴な思想であり、朔はそれを誰よりも徹底しているだけ。
「最強になりたいなら、最強の式神を従えればいい。僕自身が最強である必要はない。式神っていうのは、自分自身ができないことをやらせるための『機構』だから」
自身の肩に乗っているウサギの頭を指先でつつく。
「だから、僕がやってるのはただの『役割分担』。……言ってみれば、業務委託みたいなものだよ」
自分がやるべきこと『術式のコントロールと最適化』、そうでないこと、『物理的な戦闘』。明確に見極め、捨てる努力と特化する努力を切り分ける。
本人が強いのではなく、本人が強くなる必要がないほど、徹底的にシステムを組み上げる。
それが十種影法術師の美学。
「——くっ、くくくく……」
直毘人の肩が、小刻みに震え始めた。
やがてそれは、爆発的な大笑いへと変わる。
「ふはははははッ!! 傑作だ!!」
直毘人は、バシバシと自分の膝を叩きながら腹を抱えて笑った。
「そうか、そうか! 確かにそうだ! 役割分担か! ハッハッハッハ!!」
当主は、禪院朔の極端すぎる考えを完全に理解した。
この少年は、決して努力をしていないわけではない。ただ、そのベクトルの向きが、この家の常識から完全に外れ切っているだけ。
彼なりの合理主義。一つの完成された「式神使いとしての哲学」として、直毘人はそれを認めた。
「もういい?」
笑い転げるオッサンを冷ややかな目で見下ろし、朔が尋ねる。
「カッカッカ! ああ、お前の言いたいことは理解した。お前がそれでいいと言うのなら、いい」
直毘人は目尻の涙を拭いながら立ち上がった。
その時、道場の外に控えていた女中が、おずおずと引き戸を開けて入ってくる。
「と、当主様……あの」
「あ? なんだ」
「そろそろ、お時間が……」
女中が目で訴えかけてくる。この後、直毘人に面会を求めている術師が待機しているのだ。
要するに、仕事の時間である。
「……はぁ。わかった、わかった」
直毘人は面倒くさそうに頭を掻き、大きなため息をつく。
(よし、帰れる)
「ああ、そうだ。そういえば……」
直毘人が、道場を出て行こうとする足を止め、振り返ってニヤリと笑った。
その眼が、獲物を射抜くような鋭い光を帯びて朔を捉える。
「戦闘中、あの蛙の舌に手を取られた時。俺の呪力が『中和』されたような気がしたんだが……何か知らんか?」
気づかれていた。ほんの一瞬の接触だったにも関わらず、あの男は反転術式のアウトプットによる呪力の浄化を、正確に感じ取っていた。
――やっぱ、バレてるか。
彼はいつも通りの、ひどく気怠げで眠そうな半目を直毘人に向けた。
「……気のせい、じゃない?」
白々しいことこの上ない返答。
直毘人はそれ以上追及することはなく、愉快そうに喉の奥で笑った。
「そうかそうか。気のせいか。……ならば、その辺もまた今度、じっくりと聞かせてもらうとしようか」
「……」
直毘人はひらひらと手を振り、今度こそ女中を引き連れて道場を出て行った。
静まり返った広い道場に、朔は一人だけ残される。
――強かった。
ポツリと独白がこぼれ落ちる。
もしも向こうが本気で来ていたなら、間違いなく床に転がっていたのはこちらだった。
あの規格外の速度と、息を呑むようなプレッシャー。直毘人が最初に口にした通り、あれは本当にただの『軽い手合わせ』に過ぎなかったのだと、肌に残るヒリつきが証明している。
朔は深々とため息をつき、心底うんざりしたような、それでいて僅かに引きつった表情を浮かべていた。