直毘人の背中が完全に道場から見えなくなると、朔は大きなため息をつき、その場にどさりと座り込んだ。
(とりあえず、これで……)
「キャンッ」
肩に乗るウサギが鋭く鳴き毛を逆立てた。
式神の反応に、朔の目は再び気怠げな半目へと戻る。
「分かってる」
ウサギの頭を軽く撫でて落ち着かせた。
式神の感覚とある程度同調している朔は、ウサギが感じ取ったものを同じように感じ取ることができる。
(誰かいるな)
直毘人との戦闘の途中から、道場の外からこちらをねっとりと観察している『視線』を感じていた。
最初は、当主自身が仕掛けた別の伏兵か罠かと思っていた。しかし、直毘人が立ち去り、仕事へと向かった後も、その視線が消えずに留まっているということは、無関係の野次馬だろうか。
当主に用があったのなら、彼が立ち去った瞬間に後を追うはず。それをしないということは、この場に残った『自分』に対して何か目的があるということになる。
――めんどくさ。
朔は気づかないふりをしながら、「よいしょ」と掛け声をかけて立ち上がり、道場の隅へと移動した。
壁に背を預ける形で座り直す。これなら死角はなく、どこから踏み込まれても問題はない。一休みのポーズを装いつつ、ウサギの知覚を通じて周囲の警戒を続ける。
壁に後頭部をコツンとぶつけ、朔は呪力を脳に回して思考を加速させた。
何もしないで待つのも退屈だ。朔は、先ほど直毘人と話した持論について、脳内でこねくり回す。
『術者にできないことは、式神がやればいい』
戦闘も、索敵も、移動も。術者に欠けている能力を、式神というシステムに肩代わりさせる。それが十種影法術の役割だ。
逆説的に言うならば、「式神ができることを、本人がやる必要はない」ということになる。
(……まあ、それは流石に極端すぎかな)
口元から、自嘲気味な苦笑いが漏れる。
電卓があるのだから、自力で計算なんて頑張らなくていい。それはまるで、勉強ができない子供の言い訳のような、ひどく怠惰な思考だ。自分でそれに気づいて、少しだけおかしくなってしまった。
だが、それでも彼は自身の持論を曲げるつもりはない。
術者本人が持たない能力、時間、手数、行動範囲を、別個の存在に委託するためのシステム。
純粋に戦闘を任せるパワータイプの式神。かゆいところに手が届く、利便性に溢れたサポートタイプの式神。
それぞれの役割が確立しているからこそ、自分自身が肉体を鍛え、戦い、強くなる必要はない。
だからこそ。
(ほんとに、めんどくさい儀式)
朔は天井を見上げ、静かに目を閉じた。
彼の思考の奥に常にあるのは、最後の式神の存在。
歴代の十種影法術師の中で、誰一人として調伏できた者がいない最強の式神。
その文字列を思い浮かべるだけで、朔は深い疲労感を覚える。
この式神の調伏システムは、どう考えてもおかしい。というか、破綻している。
(そもそも、こっちに戦闘能力がないから式神に戦闘を任せたいのに。なんで最強の式神を調伏するために、そいつを単独で上回る『力』が必要なんだ)
意味がわからない。その力が欲しいから調伏の儀式に挑むというのに、挑む時点でそれ以上の力を要求される。
しかも、この儀式は「第三者が介入した時点で、調伏がノーカウントになる」という理不尽な縛りまでついている。
つまり、自分一人の実力で、真っ向からねじ伏せなければならない。
(それができるなら苦労はしないし。それができる実力があるなら、自分の実力一つで何でもできるでしょ……)
考えるだけで、脳味噌がスライムのようにドロドロととろけていく錯覚を覚える。
戦闘タイプの式神を調伏するために、それを上回る実力を身につけるという決定的な矛盾。
(もしや、最後のあれは戦闘じゃなくて、利便性が強みだったりするの?)
――サポートタイプなのか、君は。
そんな答えの出ない思考を、加速した脳内でぐるぐると繰り返していると。
肩に乗るウサギが、再びピクッと反応した。
入り口から、足音が近づいてくる。
「——なぁ。こんなところで一人、何しとるん?」
ねっとりとした、人を上からねぶるように見下す男の声が、道場に響き渡った。
――やっと来た。
朔は、「今気づきました」と言わんばかりの気怠げな動作で顔を上げた。
視線の先。道場の入り口に立っていたのは、見覚えのある男。
(……あの時の)
数週間前。大木の枝の上で昼寝をしていた時、下で彼女を無慈悲に踏みつけていた男。
禪院直哉。
「……少し、訓練をしてただけ」
互いの視線が交差する。
直哉の目は、どこまでも傲慢で、朔を路傍の石ころのように見下していた。声色こそ柔らかく繕っているが、その奥底にあるドロドロとした敵意は隠し切れていない。
(というか、この人、絶対ずっと見てたよね。何してんの?)
間違いなく、直毘人とやり合っていた途中から、こっそりと隠れ見ていたはずだ。
朔は内心で呆れながらも、相手の次の言葉を待つ。
「ふーん。なるほどなぁ。……君、名前は?」
「禪院朔」
絶対にこちらの素性を知っているくせに、白々しいな。
「はぁ〜、そうか、君が。君のことは知ってんで。分家の小僧が相伝の術式を持ってどうこうと……」
そこから、直哉のねちっこく、中身のない世間話がダラダラと始まった。
(この家の人間は、本題に入る前にダラダラとどうでもいいことを喋るのが趣味なの?)
朔のストレスが、目に見えない形で蓄積していく。
どう考えても、ただ世間話をしに来たノリではない。直哉の蛇のような鋭い目が、徹底的に朔の価値を貶めようと値踏みしているのがわかる。
「ところで、あなたは?」
「あぁ、名乗りがまだやったね。禪院直哉。名前くらいは聞いたことあるんやない?」
「そうですね。当主様の息子。……それくらいしか知らないですけど」
朔が冷ややかに返すと、直哉の眉がほんのわずかにピクリと動いた。
「だいぶ家を空けてたからなぁ。今日が初めましてってことで、仲良くしてな」
そう言って、直哉は笑みを浮かべ、朔に向かって右手を差し出してくる。
だが、朔の目はその手首の先に、微細な呪力が隠し込められているのを正確に見抜いていた。
(この手を取ったら、確実に何かされる……)
差し出された手を完全に無視し、直哉の顔だけを真っ直ぐに見据えた。
「それで。何か用件があったのでは?」
握手を露骨に拒絶されたことで、直哉の瞳に明確な不快の色が宿った。貼り付けていた薄っぺらい笑顔が、スッと消え去る。
「……まぁ、ええわ。ぽッと出の分家のガキが、えらいたいそうな術式を持ってる聞いてな。どんな面してんのか、見に来ただけや」
直哉の声から、先ほどの作り物めいた柔らかさが消え、本性の棘が顔を出し始める。
「周囲から持ち上げられて、気分ええんちゃう?」
「……」
――気分? 全く良くない。
持ち上げられた記憶など、ここに来て最初の一年目くらいのものだ。今向けられているのは、嫉妬や憎悪といった負の感情ばかり。
この男は長らく家を空けていたようだが、周囲からの朔に対する評価を知らないのだろうか。自分の日頃の行いや傲慢さを棚に上げ、朔は大人達を内心で罵倒した。
「いいえ。別に普通ですね」
「ふーん……」
直哉が、面白くなさそうに目を細めた。
その言葉の、数瞬後。
——ピクッ。
肩に乗るウサギが、直哉の体内で練られた『術式の起こり』を正確に捉えた。
(来る)
一切の躊躇なく、壁際に座った状態のまま、自身の足元の影へとドロリと沈み込む。
――ヒュンッ!!
先ほどまで朔の頭があった壁の位置を、恐ろしい速度の蹴りが通り過ぎた。
先ほど戦ったばかりだから、よくわかる。
当主・禪院直毘人と全く同じ、異常な速度を誇る術式。
朔は、直哉から数メートル離れた床の影から、ゆっくりと顔を出した。
——何の、つもりだ?
声には出さず、視線だけで静かにそう問いかけた。
「へぇ、随分器用やね。甘く見とったわ」
直哉は、悪びれる様子もなくニヤリと笑う。こちらの非難の意図など伝わっていないのか、あるいは意図的に無視しているのか。いつでも次の攻撃に移れるよう、その足先にはまだ微かな呪力の残滓が燻っている。
(純粋に、僕の存在が気に入らないのか)
なんとなく理由はわかる。だからこそ、彼はため息をついて牽制の言葉を投げた。
「……止めませんか。意味がない」
「意味?」
直哉は、意味深な雰囲気を作って口角を吊り上げる。
「僕が怖いの?」
安い挑発を添えて、冷めた視線を向け続けると、直哉の表情が更に深く、不快げに歪んだ。
「あかんなぁ。目上のモンへの口の利き方がなっとらん」
直哉の全身から滲み出る、ねっとりとした負の感情。
言葉の端々からは、「調子に乗るな」という強烈な見下しの念が溢れ出ている。今にも「直々に教育してやる」と言わんばかりの、陰湿な殺気。
(……あぁ、なるほど)
直哉が自分に向けている怒りの正体を正確に読み取った。
禪院家にとって、相伝の術式の価値は計り知れない。おそらく目の前の男は、当主・直毘人と同じ術式を持っている。僕が生まれるまでは、次期当主の座は疑いようもなく彼のものであり、この家で最も価値のある存在だったのだろう。
だが、そこに「十種影法術」という相伝を持った分家の男が現れた。
直哉にとって、それは寝耳に水だったはずだ。だからこそ、こうして目くじらを立てて絡んできている。
とはいえ、さすがにここで僕を殺すような短絡的な行動はとれないはず。そんなことをすれば、家での彼の立場が致命的に悪くなる。
軽く蹴り飛ばして「上下関係」をわからせ、自分が優位であることを示す。その程度の気持ちでここに来たのだろう。
(なら、誤解を晴らそう)
これ以上粘着されて時間を奪われるのは、鬱陶しいことこの上ない。
「安心してほしい」
影から完全に抜け出し、床に立ち上がりながら淡々と告げた。
「僕は、禪院家の当主の座には一切興味がないので」
「……は?」
直哉の表情が、スッと抜け落ちたように変わった。
割と分かりやすい人だな、と朔は思う。ひどく驚いているが、朔にとっては紛れもない本心だ。彼が喉から手が出るほど欲しいものでも、僕の人生においては一ミリも関係がない。
「ふうん……。相伝の術式を持って生まれてきて、当主の座に興味がない?」
「疑ってます?」
「当然やろ」
直哉は胡散臭そうに目を細めた。
「君、術式を相当鍛え込んどるって聞いてんで」
――なんで知ってんの。
とはいえ、術式を極めようとしている人間が、何らかの目的を持っていると予測するのは、極めて当然の思考回路だ。
「僕は、この家を継ぐつもりはないんです」
もう一度、はっきりと明言した。だが、直哉の疑いの目は晴れない。
「……ならば、『縛り』でも結びましょうか?」
「縛り?」
「ええ」
これが一番手っ取り早い。縛りを絶対視するのは間違っていると朔自身は考えているが、呪術界の人間を黙らせるには最も有効な契約だ。
「さっき言った通り、僕にこの家の当主になるつもりはない。自分から立候補する気はないと、ここで約束してもいい」
「……わからんやろ。君がそんな縛り結ぼうが、おとんが君を当主に押し上げるかもしれへん」
いくら本人が辞退しようと、当主の権限で強引に据えられれば縛りは無意味になる、と。彼らはよくも悪くも呪術師だ。親子の情など関係なく、次期当主の選出に際して直毘人の容赦のない「見極め」が入ることを、息子の彼は誰よりも理解している。
(じゃあ何しても意味ないだろ。めんどくさいな……)
朔は内心で盛大に舌打ちをしながらも、交渉を続けた。
「であれば。その場合も僕は降りる。ないと思いますけど、当主が直々に僕を指名したとしても、絶対に受けない。……当主からの言葉でも、僕本人にやる気がないなら、無理やり継がせることはできないでしょう」
直哉は、顎に手を当てて沈黙した。
目の前の気怠げな男が、本当にこの家の上に立つ気がないのか。冷静に振る舞おうとしつつも、その心は大きく揺れ始めていた。
(こいつの気が変わる前に、今のうちにこの縛りを結んでしまえば、勝ちなんやないか?)
直哉の瞳の奥で、野心の炎がチロリと舐めずるように揺れたのを、朔は見逃さなかった。
自身の椅子を揺るがす最大の不確定要素が、自ら権利を放棄して消える。直哉にとって、これほど都合の良い話はない。
「……そんな縛り、簡単に結んでもええの? 他者との縛りは、破れば相応の罰がある。それくらいは君でも分かっとるんやろ?」
「何も問題ないです。僕は本当に、ただ平和に過ごしたいだけなので」
まだ少し疑っていたが、こちらの提案を頭ごなしに突っぱねることはしないようだ。
ならば、あと一押しか。
「なんなら、追加で。もし次期当主を選出する場が設けられた時、『あなたを一番に推す』。これも追加して構いません」
当主にならない。推されても降りる。なんなら、直哉を推す。
これ以上ないほどの絶対的な譲歩。
その言葉を聞いた瞬間、直哉の瞳に浮かんでいた野心が、隠し切れないほどに高まった。
「そやね。俺にとっては、これ以上ないほどの利がある」
直哉は完全に余裕を取り戻し、ニヤリと笑った。
「で? こっちに求めるもんはなんや?」
縛りとは、等価の契約。こちらがそれだけの条件を提示する以上、見返りとして何を渡せばいいのか。直哉が値踏みするように聞いてくる。
(……特に考えてなかったな)
実際、どうでもいい。自分に粘着してこなければ、それでいい。
しかし、ここで「何もいらない」と言えば逆に怪しまれる。何か理由をこじつけるべきだ。
思考を巡らせ、朔は一つの「効率化」を思いついた。
「いずれ、次期当主が選出される。その期間……『僕を一切、害さないこと』。これが条件で」
「……」
「僕はあなたが当主になるのに協力する。ただ、その当主を決める期間内だけでも、僕には何もしないでほしい。自分の手でも、他人の手でも関係なく、僕を排除するための画策を一切しないこと」
その条件に、直哉は少しだけ眉をひそめ、そして鼻で笑った。
「なんや、僕のこと疑っとるん? そんなこと、せえへんで」
――どの口が言ってんだよ。
冷ややかに思いつつも、言葉を飲み込む。
縛りの条件が固まっていくことで、先ほどまでの刺すような殺気はすっかり鳴りを潜めていた。禪院家当主への道が開かれたことで、直哉は完全に上機嫌になっている。
「なんや、疑り深いなぁ朔くん。僕が裏から手ぇ回して、君を消すなんてことすると思っとるん?」
「思ってはいませんが。当主になるための『パーツ』が僕なら、使用用途がなくなった不用品は即座に消すというのが、当然の思考では?」
目の上のたんこぶは切除する。この腐った家では、あってもおかしくない当然のロジックだ。だからこそ、その期間だけでも自分を害さなければいい。
「ほぉん。わかった、その条件を飲むわ。……あとは? それだけでええん?」
「ええ。問題はありま——」
ありません。そう言い切ろうとした直前。
脳裏に、ふと、泥だらけになって泣いていた着物の少女の顔が思い浮かんだ。
「——もう一つだけ、いいですか」
「ん? まだあるん? なんや、言ってみぃ」
すっかり気を良くしている彼に、淡々と告げた。
「何週間か前くらいの話だけど。着物を着た女の子をいじめてたでしょ。あれ、できればやめてもらえませんか」
予想外の要求が飛び出し、直哉はきょとんと目を丸くした。
「んー、いつやろ。真希ちゃんと……真依ちゃんのこと? 見てたんやったら、声かけてくれたらよかったのに」
「巻き込まれるのが面倒くさかったので」
「ほーん。ふーん」
直哉は目を細め、ニタニタといやらしい笑みを浮かべた。
まるで、朔の「弱点」を発見したかのような顔。
「なるほどなぁ。君、あの子らのこと好きなん?」
――マジでうるせえな、こいつ。
朔の顔が死んだ。そういう感情の話を一ミリもしていないのに、なぜこの家の人間はすぐにそういうベクトルに持っていこうとするのか。
沈黙で返すと、直哉は勝手に納得したように「うんうん」と大袈裟に首を縦に振る。一つ一つの動作が、尋常ではなくうざい。
「わかった、真希ちゃんと真依ちゃんには手ぇ出さん。ちょっとした遊びみたいなもんやし。これでええんか?」
「ん、いや」
抑揚のない冷徹な声で直哉の言葉を訂正する。
「『禪院真依』だけでいいです。もう片方の人は知らないので」
「……」
そのあまりの冷酷な割り切りに、直哉は一瞬だけ毒気を抜かれたような顔をするが、すぐに「まあええわ」と頷く。
「よし。ほな、これで契約成立やな」
こうして、二人の間で盤外の『縛り』が結ばれる。
追加として、この場で交わされた契約内容を互いに外部へ漏らさないという条件も組み込まれ、直哉は意気揚々と道場を去っていった。
*
夕日が完全に沈み、薄暗くなった渡り廊下を、朔は一人で歩いていた。
思った以上に長話をしてしまった。夕食の時間が迫っている。
ふと、足を止める。
暗い庭園を見つめながら、朔は先ほどの直哉とのやり取りを反芻していた。
(禪院直哉との縛りは、完全な棚ぼただった)
当主の座になど、初めから一ミリの興味もない。
だが、それをダシに使うことで、特大のノイズを、直哉自身の手で封じ込めることができた。本来必要のなかった交渉だが、ゴミを一つ掃除する手間が省けたと思えば、悪くない成果だ。
――禪院直毘人。彼が死去するか、あるいは当主の座を他者に譲るべく身を引いた時。
朔の気怠げな瞳の奥に、暗く、冷たい炎が灯る。
禪院扇が向けてくる、ドロドロとした憎悪。
禪院直哉が抱く、傲慢な野心と選民思想。
その他もろもろの、腐り切った因習の全て。
それらを放置したまま生きていくのは、あまりにも面倒くさすぎる。
だから。
(……禪院家は、僕が潰す)
彼の中で、明確な『終わり』のスケジュールが決定した。
その時までに、十の影を極め、最強の式神を支配下に置く。
絶対的な自由を手に入れるための静かな決意を胸に秘め、再び、暗い廊下を歩き出した。