——あれから、約八年の月日が流れた。
現在、十五歳になった禪院朔は、薄暗い森の中を一人で歩みを進めている。
この八年間、彼が小学校や中学校に通うことは一切なかった。当主である直毘人の黙認、というより放任のもと、一般社会との関わりを完全に遮断。自宅に引きこもり、ひたすらに自身の興味を惹く事象だけを学び続けてきたのだ。
呪術の基礎から応用、結界術の独自解釈による習得、蛇を模した呪骸もどきの制作実験。
そして何より、自身の呪力操作技術のチューニング。
八年という途方もない時間を費やし、朔の「呪力ロス」は、人間が到達し得る極限——限りなく『ゼロ』に近い領域へと至っている。
声変わりを経て声は一段低くなり、身長も相応に伸びた。とはいえ、百五十センチ台の中盤といったところで、同年代の平均と比べればやや小柄な部類に入る。
近接戦闘を根幹から放棄しているためか、着物の下から覗く手足は細く、一見すると吹けば飛ぶような貧弱な体つきのまま。
相変わらずの気怠げな半目。全身から滲み出ているやる気のなさは健在だが、呪術師としての純粋な『実力』は、七歳の頃とは次元が違うレベルにまで到達した。
ちなみに、基本的には自室での研鑽を好む引きこもり気質だが、ずっと家にいたわけではない。
禪院家の面倒な行事を避けるため、あるいは家の中では到底収まりきらない大規模な実験を行うため、ふらりと家を空けることはかなりの頻度であった。
長い時にはそのまま『海外』へ飛び、数年単位で日本に帰らないことすらあったのだ。家や常識といった枠組みに一切縛られない、相変わらずの男である。
ざっ、ざっ、と枯れ葉を踏む音が響く。
目的地の座標はすでに近い。
視界の先に、木々に埋もれるようにして建つ不気味な廃ビルが見えてきた。事前に回ってきた情報によれば、この一帯でかなり育った呪霊の目撃情報があったらしい。
禪院家を経由して朔の元へ討伐依頼が投げられた形だ。
(めんどくさいけど、ある程度こなしておかないと周りがごちゃごちゃうるさいからな……)
相伝の術式を持ちながら、義務や責務を一切果たそうとしない朔の傍若無人ぶり。それは、禪院家の大人たちの頭をこれ以上ないほど悩ませる種となっている。
当の直毘人はそれを聞いて酔っ払いながら爆笑しているらしいが。
――本当にあの当主は何を考えているのか。
それでも、家の中で朔を力ずくで従わせようとする声が表立って出ない理由はただ一つ。彼に抗いようのない『実力』があるからに他ならないだろう。
朔自身は強さなど求めていない。しかし、術式を解明し、システムを最適化していく過程で、結果的に特級呪霊の討伐任務すら単独でこなせるレベルの力を手に入れてしまったのだ。
だからこそ、時折こうして、彼が動く必要のない「カスみたいな任務」まで嫌がらせのように回ってくる。
最初は無視を決め込んでいたものの、ネチネチとした嫌味と共に仕事が増える一方だったため、渋々ながら適当に消化してやることにしている。すべてを投げ出して出奔しようかとも考えたが、まだ『十種目』を手に入れていない以上、時期尚早であると判断した。
(今回も、どうせ無いしたことない任務だろうし)
ため息を一つ。
いまだ最強の式神を調伏する算段がついていない己のシステム構築不足だと甘んじて受け入れ、我慢して廃ビルの敷地へと足を踏み入れる。
そもそも、こんな面倒な立場に追いやられた原因の半分は、あの酔っ払い当主にあると言っていい。
この数年間のいざこざの過程で、朔はいつの間にか『特別一級術師』などという、大仰で鬱陶しい階級を押し付けられていた。
『お前を、特別一級術師に推薦する!』
『……断る』
『ハハハハハ! もう無理だ! すでに高専に推薦の書類は送った! お前の名前と共にな!』
――何してんねん。
十二歳の頃に交わされた、理不尽極まりないやり取り。思い出すだけで頭痛がしてくる。
あの悪ノリのせいで、朔の名前はある程度、呪術界や呪詛師の裏社会にまで知れ渡ってしまった。面倒極まりないが、決定してしまったものはどうしようもない。
*
薄暗い階段を上りながら、朔はダラダラと足を進める。
数匹に増殖させたウサギたちが先行して索敵を行っていた。
(早く帰りたいな……)
任務は毎回一人で来てるわけではない。
ごく稀にだが、上の許可を取ってきたらしく、『禪院真依』が朔の任務に同行してくることがあった。
ここ数年で、彼女はなぜかリボルバー式の拳銃を武器として携帯するようになっている。呪術師になどなりたくないタイプだと思っていたのだが、どうやら見立てが違ったらしい。相変わらず家では冷遇され、雑用ばかり押し付けられているようだから、暇つぶしにでもついてきているのだろうか。
『なんで君も来るの?』
『別になんとなくよ。強いて言うなら、アナタが危なっかしいから。前だってボロボロになって帰ってきたじゃない』
『……心配だったってこと?』
『ば、バカじゃないの!? 違うわよ!』
二年前、そんな会話を交わした記憶が蘇る。
子供の頃と比べれば呪力操作の効率こそ上がったものの、彼女の呪力総量はお察しのレベル。戦力としては全く期待できない。
最初は何か裏があるのか、誰かに指示されて監視に来ているのかと疑っていたが、どうやら本当にただ心配してついてきているようだ。
実際、地下での呪骸制作実験に際しては、彼女の構築術式で細かなパーツを作らせるなど散々協力してもらった手前、頭が上がらない部分もある。「気にしなくていいわよ」と本人は言っていたが。
(今回の任務もついてこようとしてたけど、断って正解だった。サボりたか……いや、危険かもしれないから)
心の中で誰に対するものともつかない適当な言い訳を並べていると、先行していたウサギたちがピタリと動きを止めた。
廃ビルの三階。広いフロアに出た瞬間である。
暗がりから、無数の「何か」が羽ばたきと共に襲いかかってきた。
「
朔が気怠げに名を呼ぶ。
呼応するように、足元のウサギたちが爆発的に増殖し、宙を舞う敵群へと跳躍した。
正体は、巨大なコウモリの姿をした呪霊の群れ。それが狂ったようにフロアを飛び回るが、雪崩のように押し寄せるキメラ兎の波がそれを猛追し、次々と空中で食らいつき、噛み砕いていく。
(……弱い。あまりにも弱すぎる)
やはり、嫌がらせの方の任務。彼の力など全く必要ない、ただの有象無象の群れだ。
こんな低次元な仕事を回されるくらいには、禪院家の大人たちから嫌われているという証左である。好感度ゲージは完全にマイナスを振り切っているが、もちろん朔の方も彼らをゴミだと思っているのだから、お互い様というやつだ。
ウサギたちがコウモリ呪霊の残党を噛み殺している最中。
ふと、背後の暗闇から明確な『気配』が膨れ上がった。
「キャンッ」
肩に乗っている一匹のウサギが短く鳴く。
無論、朔自身もウサギの知覚を通して正確に把握している。先ほどまでの雑魚とは比較にならない、より巨大で濃密な呪力を持った「親玉」が、背後の廊下から超高速で急接近してくる。
(あれがボスか。サクッとやろう)
朔は振り返ることもなく、両手で『蛙』の影絵を結んだ。
だが、その口から紡がれた名は、ただの蝦蟇を呼ぶものではない。
「
背後の床。朔の足元の影が泥のように大きく広がり、そこから這い出たのは——通常の蝦蟇を遥かに凌駕する姿。
見上げるほどの巨体を誇る蛙の頭部に神々しい角が生え揃っている。
これこそが、蝦蟇に円鹿の能力を継承させた、朔のオリジナルにして最悪の対呪霊キラー。
「絡めとれ」
背後から突撃してきた巨大な黒いコウモリ呪霊に対し、蛙は振り返りざまに極太の舌を射出した。
鞭のようにしなるそれは、空中にいる標的の胴体を易々と捉え、雁字搦めに拘束する。
特筆すべきは、その舌そのもの。尋常ではない神々しさを放ち、分泌される蛙の体液は眩いほどの純白に発光している。
「ギチチィッ!?」
舌が触れた瞬間に生じた『絶対的な死の危機』を感じ取ったのか、コウモリ呪霊はパニックを起こし、舌を引きちぎろうと上空へ飛び上がろうともがく。
だが、問題はない。
「鵺」
即座に新たな影絵を結び、鵺を顕現させた。
「落とせ」
――ガガガガガガガッ!!!
鵺の翼から放たれた強烈な雷撃が、空中のコウモリ呪霊を直撃。
雷による麻痺で完全に動きが停止した敵に対し、舌がさらに強く巻き付き、圧倒的な膂力で地上へと引き摺り下ろした。
「ガァァァァァァァッ!!?」
フロアに叩きつけられたコウモリ呪霊が、この世のものとは思えない絶叫を上げる。
神々しい光を放つ舌に拘束された部分から、呪霊の肉体がジュワジュワと音を立てて溶解し、白煙を上げて浄化されていく。
朔の呪霊討伐は、いつもこんなものだ。
この式神がいるからこそ、呪霊相手の戦闘は極めてイージーな作業でしかない。
鵺を解除し、癒舌跳蛙に短い指示を出す。
「引き寄せろ」
ズルズルと。
生きたまま溶かされ、抵抗の意志すら奪われたコウモリ呪霊は、そのまま蛙の巨大な口の中へと丸呑みにされていく。
そして、暗い口腔内で全身に致死量の反転術式を流し込まれ、音もなく完全消滅した。
背後で残党を狩り終えたウサギたちが、ピョンピョンと跳ねて朔の元へ戻ってくる。
「……おつかれ」
言葉少なに式神たちを労い、カエルとウサギたちを影へと還す。
一匹のウサギだけをいつも通り肩に乗せ、気怠げな足取りで廃ビルを後にした。
(これで仕事は終わり。帰ろ)
秒で終わった任務。
もっとも、この後、朔がこのまま真っ直ぐ家に帰るはずもないのだが。
*
廃ビルでの討伐任務が終了した後、朔が取った行動は明白である。
仕事が「かなり手こずった」ということにして、そのままフラッと新幹線に乗り込み、一週間ほど遠方の街を適当に観光して回ったのだ。
ご当地の美味いものを食べ、温泉に浸かり、旅館の部屋でひたすらゴロゴロと眠る。禪院家という息苦しい箱庭を離れ、誰にも邪魔されない至福の一週間を満喫した後、朔はようやく京都の本家へと帰還した。
本家に戻った朔は、一応の義務として当主・直毘人の元へ事後報告に向かう。
「……というわけで。任務の呪霊が事前の情報よりかなり強くてですね。討伐と事後処理に手間取って、マジで大変だったんすよ」
直毘人の部屋の畳に座り、一ミリも抑揚のない声で言い訳を並べ立てた。顔には「めんどくさい」とデカデカと書いてあり、苦労した痕跡など微塵も伺えない。
「ガハハハハハッ!!そうかそうか! それはさぞかし『大変』だっただろうな! ご当地の土産袋を提げたまま報告に来るくらいにな!」
「……ハハハ……ね!」
朔は自分の手元に置かれた、温泉地限定の銘菓の紙袋に視線を落とした。
完全にサボっていたのがバレバレである。
だが、直毘人はそれ以上追及する様子もなく、愉快そうに酒を呷った。
「まあ良い。少しくらい羽を伸ばす時間も必要だろう。……俺から適当に口裏を合わせておいてやる」
「……どうも」
この男は相変わらず、禪院家の中で一人だけルールが違う。
直毘人との報告、という名の茶番を数分で済ませ、朔は足早に部屋を後にした。
*
報告を終え、自室のある区画へと帰還した頃には、空はすでに茜色の夕焼けに染まっていた。
縁側に座り込み、ふぅ、と息を吐く。
(観光してきたせい……いやいや、任務のせいで疲れたな)
縁側の板間にだらーっと仰向けに寝転がった。
目を閉じ、思考のスイッチをオフにする。八年間で練り上げられた呪力のコントロールはもはや呼吸と同じであり、完全に意識を落としてもウサギが危険を察知してくれるため、何の不安もない。
秋の涼しい風に撫でられながら、心地よい微睡みへと落ちていった。
こうして数分が経過した、その時。
「——ちょっと、アナタ。なんでこんなところで寝てるのよ」
頭上から、呆れたような見知った女性の声が降り注いだ。
朔がゆっくりと薄目を開けると、夕日を背にして見下ろしてくる『禪院真依』の顔があった。
「……やぁ」
「やぁ、じゃないわよ」
昔は泥だらけになって泣いていた少女は、今やすっかり大人びている。
長く伸ばしていた髪は短く切り揃えられ、身長も朔を追い抜いている。着物から洋装に近い動きやすい服に変わったせいもあるが、女性としての魅力が溢れる抜群のスタイルに成長していた。
だが、その見た目の美しさに反して、彼女は致命的に口うるさくなった。何かにつけて世話を焼こうとし、小言を言ってくる。
――なんで、こうなったんだっけ。
朔は「よいしょ」と身体を起こし、縁側の自分の隣をポンポンと手で叩く。
「隣、座ったら?」
気怠げに見上げながらそう言うと、真依はほんの少しだけビクッと肩を揺らし、どうしようかとキョロキョロと視線を彷徨わせた後、彼のすぐ隣ではなく、ほんの少しだけ距離を空けた位置にちょこんと腰を下ろす。
二人並んで縁側に座る。
朔が隣をチラリと見ると、真依はスッと顔を背け視線を逸らした。
――なんだよ。
「なんでここに? 仕事はどうしたの?」
「あなたが帰ってきたって聞いたから、探しに来たのよ。部屋まで迎えに行こうと思ったのだけれど……こんなところで寝てるなんて」
やれやれ、と言わんばかりに、真依はこちらへ身体の向きを変えた。
「少し、疲れててね」
「どうせ、任務先で遊び呆けていたのでしょう?」
「そんなことしてない。ちゃんと仕事して帰ってきた」
「どうだか」
ジト目で睨みつけた。
全く信用されていない。ここ数年間の付き合いで、真依は朔の「信じられないほどの面倒くさがり」と「何かにつけてサボる性質」を大まかに把握している。その負の信頼の積み重ねが、今の彼女の態度に繋がっているのだろう。
だからこそ、彼女がこんな性格に育ってしまったのかもしれない。
「はぁ……。ご飯、用意してあるわよ。食べるでしょ?」
「いや、いい。今日は疲れたから、また明日」
朔がそう言って立ち上がろうとした瞬間。
ガシッ、と。真依は立ち上がり、有無を言わさず朔の襟首を掴んで引っ張り上げた。
――なんでぇ?
「だめよ。せっかく『私』が作ったんだから。食べないなんて許されると思っているのかしら?」
(知らんよ。というか、なんでこの子が作ってるの? 女中が作ってるはずだよね?)
襟首を引かれながら、朔は内心で首を傾げた。
これも、八年間の変化の一つだ。なぜか、真依がわざわざ朔のために夕飯を作る日が、定期的に発生するようになったのだ。本当に理由がわからないが、時たまこういう日がある。
「疲れてるからって、ちゃんと食べなきゃダメよ! 全く、私がいないとダメなんだから……」
その口うるさい小言を聞きながら、ふと思い出した。
何年前だったか。術式の実験に没頭し、何日も部屋から出てこなかった時期があった。食事も摂らずに引きこもる朔に女中たちが困り果て、その噂が彼女の耳に入ったのだ。
ご飯を食べるようにと諭され、朔がそれをやんわりと拒否し続けていると、結果として「じゃあ私が作るから食べて!」と言い出し、料理をにこやかに差し出してきた。
さしもの彼も、それを拒否することはできなかった。
「ああ、始まりはそんな感じだったか」
「何か言った?」
「なにも」
ズルズルと食堂の方へ引きずられながら、気怠げに思考を回す。
無理やりにでも食事をさせようとする真依と、術式の研究を優先したい朔。そんな構図がいつしか定着し、現在に至る。
子供の頃の怯えていた少女と比べ、彼女は随分と変わった。まるで母親のように、何かにつけて世話を焼いてくる。
そのせいで、彼女の双子の姉から、廊下ですれ違うたびに殺意の籠もった視線で睨まれたり、「パシリに使ってんじゃねぇぞ」と胸ぐらを掴まれたりする羽目になった。あれは本当に散々だったな。
――マジで、めんどくせえ。
真依の好意も、真希からの理不尽な怒りも、すべてが面倒くさい。
こうして、文句を言いながらも真依の作った夕食にありつき、朔の怠惰な一日が終了したのだった。