翌朝。
薄暗い部屋の中で、ゆっくりと目を開け、壁時計に視線を遣る。
「……五時半か。少し早いね」
気怠げな声が、静寂の落ちた部屋にポツリと響く。
「眠い」とこぼしながら、ゴロリと寝返りを打つ。昨夜は夕食を平らげ、いつもよりかなり早く床に就いたせいか、変な時間に目が覚めてしまったらしい。
目をこすりつつ、渋々と布団から這い出す。
「あぁー、体がだるい」
パキ、ポキ、と肩を軽く鳴らしながら立ち上がり、布団を畳んで小さく背伸びをした。
周囲を見渡せば、いつも通りの殺風景な自室。
備え付けられているのは簡素な机と座椅子。元々この部屋にあったよく分からない掛け軸が壁に飾ってあるくらいで、それ以外には何もない。物欲というものが根本的に欠落しているため、何かを収集して飾るといった趣味を一切持ち合わせていないのだ。ミニマリストの極致である。
だが、そんな彼の性格には似つかわしくないものが、机の上に二つだけチョコンと置かれていた。
手のひらサイズの、白い蛇のぬいぐるみ。
「ちょっと早いけど……いつもの、やるか」
座椅子にどかりと腰を下ろす。
両手で影絵を結び、一匹のウサギを顕現させて肩に乗せた。
そして、手のひらに呪力を集め、神経を研ぎ澄ませて極めて精密な操作を開始する。
朝起きてから、朔は毎日欠かさずこれをやっている。
身体の一部に極小の呪いを集め、ミリ単位で正確に動かし、操作精度を高めるチューニング作業。肉体を動かさない朔にとっての、筋トレのようなものだ。
今日の自分の
「うん、いい感じ」
指先の毛細血管にまでスムーズに呪力が巡る感覚に満足し、さらに操作の速度を上げていく。
ここ数年で、やるべきことはかなりこなしてきた。
九種類の式神の能力の完全な把握と、それぞれに最適な利用法の確立。式神の同時並列操作の大幅な強化。
呪力効率には程遠いが、呪力出力の絶対値も順当に上がってきている。相変わらず自身の肉体強化はお粗末だが、これはもう仕様として割り切っているため仕方がない。
「……ふぅ」
今日の操作精度に十分な満足を覚え、朔は息をついて畳の上に大の字に寝転がった。
「あぁーー」
この禪院家に引き取られてから、約十一年。面倒なことは山のようにあるが、環境としては有益と言える。
術式や呪力操作の探求だけでなく、簡単な結界術も習得した。式神経由という抜け道を使えば、御三家秘伝の対領域術『落花の情』も問題なく展開できる。術式を組み合わせた領域対策も用意してあるため使うことはないだろうが。
そして何より、机の上に置かれているアレだ。
真依と共同制作した、白い蛇のぬいぐるみ。
寝転がったまま首だけを動かし、その二つの蛇を眺めて満足げに頷く。自律する意思はないはずだが、なんとなく見つめ返してくれたような気がした。
あれを作る過程で、『大蛇』の式神を完全に失った。だが、問題はない。それに勝るリターンが得られたのだから。
完成した呪骸は全部で三体。残りの一体は、彼女に渡してある。
*
——記憶が、数年前のある日の工房へと飛ぶ。
『これ、あげる。できればでいいけど、肌身離さず持ってて』
『いい、の……? これ、アナタがずっと作りたがってたものよね? 私にはよくわからないけど』
息を切らせながらも、困惑した瞳で彼を見つめる真依。
制作の際、朔自身がほとんどの呪力を込めたとはいえ、器となるぬいぐるみの生成を構築術式で手伝わされた彼女も、相当に疲弊していた。
『いいよ。三つも必要ないし』
ぶっきらぼうに返すと、少しだけ嬉しそうな顔をして、すぐにその表情を隠すように俯く。
『……ありがと』
『うん』
手に握った白蛇のぬいぐるみを見つめ、真依は不思議そうに小首を傾げる。
『それで……これは、どうやって使うの? 私がやったのは器の作成だけだから、具体的に中身がどうなってるのかは分からないのだけれど』
『特に何にも使えないよ。なんとなく分かってると思うけど、別に特別な呪具ってわけでもないし』
『えっ!』
真依は、その制作工程のすべてを見ていた。
式神の一つを自らの手で潰し、その要素を抽出して、この白蛇の呪骸に注ぎ込んだことを。
十種影法術の価値は、真依自身も痛いほど理解している。
落ちこぼれで、失敗作と蔑まれる自分とは異なり、目の前の彼は『選ばれた側』の人間なのだ。
だからこそ、彼女には分からなかった。
子供の頃からずっと関わってきたが、彼は他の人間とは全く異なる基準で動いている。
極度の面倒くさがりで、サボり魔。その性質はなんとなく分かっているつもりだが、この男の全てを理解できたわけではない。
禪院真依は、わからない。
なぜ、こんな小さなぬいぐるみを作成して満足そうにしているのか。
何が目的なのか。
なぜ、自身の大切な術式の一部を、そう易々と投げ打てるのか。
そして何より。
なぜ自分なんかに。他の人間とは違って、自分なんかにそんな風に接してくれるのか。
虚勢を張った強気な態度の裏に隠された、弱気で卑屈な自分が、彼に頼られるたびにひょっこりと顔を出す。
頼られるのは嬉しい。話しかけてくれるのは嬉しい。子供の頃から、彼はただ一人優しかった。
周囲の冷たい大人たちとは違って、彼は。なぜ私に——。
『……助かったよ』
その思考を断ち切ったのは、ポツリとこぼされた一言。
顔を上げ、幼馴染の彼を見つめる。
暗く閉ざされた心に、気怠げで、けれど嘘のない声が染み渡っていく。
それだけで、胸の奥の不安が緩和され、温かなものに満たされていくのを感じた。自分の悩みすら、抱える不安すら、どうでもよくなってしまうような。
彼女は、差し出された白蛇の呪骸を、祈るようにギュッと両手で握りしめた。
『大蛇の骸を媒介として構築した呪骸』
『遠隔架設式神・
『何かあったら、それに呪力を込めて。そうしたら——■■■■■■から』
記憶は、そこまで。
*
「……やばい、一瞬寝かけた」
現在。畳の上で大の字になっていた朔は、ハッと意識を覚醒させた。
やはり、早起きした弊害だろうか。ブンブンと首を振って、へばりつく眠気を散らす。
ここ数年で、呪術師としての技量は劇的に磨かれた。
それでも、まだ決定的に足りないものがある。
言うまでもなく、最後の式神の調伏。
これに関しては、ある程度の目途は立っている。こちらの手札と、長大な時間を失うリスクはあるものの、勝算ゼロの博打ではなくなった。
だが、問題はもう一つ。
『領域展開』である。
結界術の習熟度は、ここ数年で確実に上がったという自負がある。
領域展開に必要な『外郭』を構築し、現実空間と領域内部を分断して閉じるイメージも明確に出来上がった。
ただ、いまだに領域展開が成功していない決定的な理由。
(結界に、僕自身の『十種影法術』の術式を付与することが、いまだに出来ていない)
内部と外部を分断することが出来ても、そこに自身の肝となる生得術式が付与できなければ、ただの空っぽの檻でしかない。必中効果の伴わない領域など、呪力の無駄遣いである。
――まだまだだな……。
そもそも、朔自身は『領域』という大技に対してそこまでの魅力を感じていなかった。
最大の理由は、領域を展開し終了した直後、一定時間『術式が焼き切れ、使用困難になる』というクソみたいな仕様のせい。
戦闘の索敵、機動、攻撃、防御、そのすべてを式神というシステムに代行させている朔にとって、術式が使えなくなるというのは致命的すぎる。
純粋な肉体強化すらまともに出来ないヒョロガリの状態で、一体何が出来るというのか。術式ありきで戦闘を組み立てている朔にとって、領域展開という奥の手は、あまりにも相性が悪すぎる。
それに、領域に対する防御策自体は複数用意してある。術式の焼き切れというハイリスクを背負ってまで、自分から展開する必要性を感じない。押し合いになったとしても、自分が勝てるとは思えないし。
(でも、必要だ)
それでも、領域という手札は持っておきたい。
出来れば、お手本があれば一番良いのだが。
領域というものがどういうものかは、理解している。実際に、特級呪霊との戦闘で展開されそうになったことも何度かあった。
だが、敵の領域を悠長に観察している暇などない。展開された以上、自分が死なないために、さっさと外側からぶち壊して祓ってしまっていた。
(誰か、見せてくれないかな。どこかで機会はないものか。……やっぱり、自分の内側だけで完結させるには無理があるね)
何事も、他者の手本を見ることで新しい発見や発想にたどり着くものだ。
そんなことをボーッと考えていると、ふと、どうでもいい一つの記憶が蘇った。
(そういえば……自分と同じ術式を持った術者がいるらしい)
当時は自分のシステムの構築で手一杯だったため、完全にスルーしていた。
なんでも、禪院家に売り飛ばされてくる予定だったが、何かしらのトラブルでなんやかんやあったとか。うろ覚えどころか、ほとんどの経緯を覚えていない。
相変わらずの自分に苦笑いしつつ、唯一ちゃんと記憶しているのは「自分と同じ十種影法術を持っている」という部分。
――名前は、思い出せない。
(五条悟の預かりになってるとか、聞いた気がするけど……)
昔、当主である直毘人と雑談している時にチラリと聞いたのだ。
興味があるなら、聞きに行けばいいのだろうが、あの直毘人に自分から話しかければ、クソどうでもいいダル絡みをされる未来しか見えない。それを考えただけで、自分から接触するという選択肢は即座に切除された。まあ、どうでもいいか。
(いつか、会ってみたい。彼、ないし彼女は、どんな風に十種影法術を使うんだろう)
興味の熱が、ほんの少しだけ膨らんだ。
術式は、解釈によって様々な変化をする。使い手によって全く違うアプローチになるからこそ、自分以外の「サンプル」があるというのは純粋に面白い。
そんなことを色々と考えて時間を潰していると、いつの間にか朔は再び眠りに落ちてしまっていた。
*
——夢の中。
ゆらり、ゆらりと、温水にたゆたうような心地よさ。
そこに、突然強い物理的な揺れが加わった。
「ほら、早く起きなさい。なんで、床で寝てるのよ」
――なんだこれ。
「……はぁー」
変な声が漏れてしまった。
薄く目を開けると、目の前に禪院真依の顔がある。なんでこの子が僕の部屋にいるんだ?
「あっ、起きた?」
「おきた。おやすみ」
現実逃避して目を背けようとした瞬間、おでこをピシッと叩かれた。
「なんでここにいるの? 僕の部屋なんだけど」
「なかなか起きてこないから、起こしに来たのよ。なんで畳で寝てたの? 布団は?」
心底疑問ですと言わんばかりの、呆れ果てた顔を向けられる。
まさか、昨夜から畳で寝ていたのかと。
「いやね。ちょっと二度寝しちゃって。……あー、背中いたい」
「畳に直接寝そべるからよ。ほら、行くわよ」
軽く注意され、手を引かれる。
「えぇ、なに?」
疑問の声を上げるもスルーされ、そのまま部屋の外へ。どうやら、朝食らしい。
朔は渋々ながら、真依の後についていくことにした。
*
朝食を終え、自室に戻ろうとする朔を、真依が再び引き止めた。
「この後、ひま?」
少し迷うようなトーンで問いかけてくる。
何か用だろうか? 用件によっては「今からものすごく忙しくなる予定」なのだが。というか、暇かどうか聞く前に用件を教えてくれないかな。
「いやー、いそがしいねー」
「そう? 暇なのね」
(全く話聞いてくれないんだけど。当主といい、この家の人たちはなんなんよ……)
心底だるいんですけど、という顔を作るも、普通に無視された。
結局、二人で並んで廊下を歩く羽目になった。
特に目的地があるわけではない。
「仕事は?」
「今日はお休みなの。だから、付き合ってちょうだい」
決定事項かのように告げられる。
僕は僕で忙しいんだが。なんで彼女の休日の消化に付き合わなきゃいけないんだ。まあ、僕自身も特に任務が入っているわけではなく、研究に没頭したいだけなのだが。
だらだらと歩いていると、真依が「あっ」と何かを思い出したように声を漏らす。
「どしたの?」
「忘れてたわ。道場に、届け物をしなくちゃいけないんだった」
道場か。彼にとって、あまりいい思い出のない場所だ。
「ちょっとそこ寄ってもいいかしら?」
疑問形だが、自分に拒否権などないのだろう。「お好きにどうぞ」と指し示す。
今、道場は誰が使っているのだろう。
*
第一道場にたどり着いた。
相変わらず、暑苦しい場所だ。野太く、やたらとデカい声が響いている。
今日は『躯倶留隊』の連中が訓練しているらしい。術式を持たない、禪院家の底辺の術師たち。彼らが必死に声を張り上げながら、汗水垂らして木刀を振っている。
「うわぁ……」
自分とは最も相容れないことをやっている人たち。見ているだけで疲労感が押し寄せてくる。
真依はここに何の用があるのだろう。隣を歩く彼女は、小さな包みを持って道場の中へと進んでいった。
「はぁ。僕は待ってるから、それじゃ」
「えっ、ちょっと!」
何か言われるよりも早く、スッと気配を消して引っ込んだ。
特にやることもなかったため、一階の道場全体を見渡すことができる、二階のギャラリーのような観覧通路の方へと向かう。
ここまで来れば問題ない。あんな熱気がこもったむさ苦しい空間に、自ら突っ込みたくはない。また面倒な視線を向けられるだけだ。それに、僕なんかと一緒にいたら、彼女にとっても良くないはず。
そんな言い訳じみた思考と共に、手すりに寄りかかり、一階で木刀を振っている人間たちを見下ろす。
「せいがでるなぁー」
完全な他人事として呟く。
そして、道場の隅の方に、一人の見知った女性の姿を見つけた。
――あー、なるほどね。
真依の用事がなんとなくだが理解できた。
彼女の双子の姉、禪院真希。彼女は術式を持たないため、躯倶留隊に所属している。今も、周囲の男たちに混ざって必死に木刀を振っている姿が見えた。
彼女とまともに戦ったことはない。昔、何度か決闘を挑まれたことはあるが、得意の逃げ足で完全に逃げ切った。
(あの子、強そうだし。はぁ、やだやだ)
そう思いながら首を横に振っていると、不意に隣から声がかけられる。
「見つけた。こんなところにいたの」
少し怒った雰囲気を漂わせて、腕を組んだ真依が近づいてきた。
「用事、終わったの?」
「えぇ、大丈夫よ」
真依はジト目で朔を睨む。
「私から逃げて、何をしていたのかしら?」
「逃げたのは君からじゃなくて、道場の暑苦しさからだけどね。……頑張ってるなと思って、ちょっと見てただけ」
一階へ視線を投げると、真依も並んで手すりから下を見下ろした。
その瞳に浮かぶ複雑な感情を、朔はよく分からない。姉の背中を追っているようにも見えた。
姉妹同士、仲が良かったと記憶しているが、今はそうでもないのだろうか。横顔を見ながら観察する。努力する姉を眩しそうに見つめる感情と、それと相反するドロドロとした感情が、同時に混ざっているような。
(まぁ、僕には関係のないことか)
考えてもわからないと思考を断ち切る。
「あなたも、混ざってきたら?」
「……ん?」
真依の口から、信じられない言葉が飛び出した。
何か聞き間違いをした気がする。何を言っているんだ、この子は。
「あなた、昔から鍛練をサボってたそうじゃない。だから、そんなにひ弱なのよ」
そう言わんばかりに、真依はこちらのヒョロヒョロの身体を上から下まで値踏みするように眺めた。
「……えぇー」
君までそんなことを言わないでほしい。
そんなクレームを表情だけで語る。
「僕には、必要ないよ」
「術式があるから?」
よく分かっているな。ここ数年で彼女と関わり、朔の思考回路をそれなりに理解してくれたらしい。納得はしていなさそうだが。
「もし、その術式が使えなくなったらどうするの? 術式でも、呪具でも。術式を封じられた時、最後に頼れるのは自分の身体だけなんだから」
真依は、面倒見のいい母のような口調で言葉を並べる。
どこまで行っても、彼女は朔を心配しているのだ。だからこそ、非常時のために少しは肉体を鍛えた方がいいんじゃないかと言っている。
でも、朔はまったく乗り気じゃない。これが平常運転だ。
「あー、それ無理。僕、もう体術できないから」
「いや、だから鍛えなさいって言ってるのよ」
真依の小言を遮るように、朔は気怠げに返す。
「だから、それが『無理』だって話」
「……??」
真依の脳裏に、疑問符が浮かんだ。
やりたくない、ではなく、『できない』とはどういうことか。普段のサボりの言い訳のようにも聞こえるが、決定的にニュアンスが違う。強烈な違和感。
彼の言葉を思い返す。
――もう、体術できないから。
「『もう』って、どういうこと?」
以前ならできたが、今はできないという言い回し。
その追及に、朔は心底面倒そうに「あーうー」と唸り、そして、あっさりと答えた。
「縛りを、課したんだよ」
「縛り……? どんな?」
「武器を一つ捨てることで、新しい武器を一つ手に入れるみたいな。本当は、手札がもっと増えるかなって思ったんだけどね」
「武器を捨てる? それって……」
「『呪力を纏っての物理的攻撃を封じる』縛り。……僕はもう、自分の手で人を殴ったり蹴ったりできなくなったってこと。わかる?」
「——は?」
目の前の少年の異常性には幾度となく驚かされてきたが、今回も例外なく、彼女の思考は完全に空白になった。
何を言っているのかわからない。
物理攻撃の、完全な禁止? 呪術師なのに?
開いた口が塞がらない。
そんな縛り、いつの間に。どういうこと?なんで、そんな頭のおかしい制約を自ら背負うのか。
正気の沙汰ではない。
(だいたい、八年から九年くらいの付き合いになるけど……)
真依は、気怠げにあくびをする幼馴染を見つめた。
目の前の男の子のことが、彼女にはいまだにわからない。
禪院真依は、やっぱりわからない。
蝦蟇×脱兎
【挿絵表示】
画像はイメージです。
おかげさまで評価が60を超えました!
評価してくださった方、ありがとうございます!
記念じゃないですけど、採用しなかった没案を載せときます。
色々と書くにあたって、十種影法術の「破壊された式神の能力がほかの式神に継承される」というシステムを、うまく活用できないかと色々考えていました。
顎吐のように複数の式神を組み合わせるか、牛と象を組み合わせるのか。あるいは鵺と鹿を組み合わせるのか……みたいな。
あれこれ考えていた案の一つです。
脱兎は何と掛け合わせても可愛い!!