そんなこんなで、特に代わり映えのしない日々が過ぎていく。
代わり映えしないとはいえ、それは退屈と同義ではない。日常の中で自らの術式と向き合い、試行錯誤を繰り返し、一つ一つ新たな発見のピースを組み上げていく。彼にとって、それは間違いなく充実した生活であった。
だが、そんな平和なモラトリアムが、彼の思い通りにいつまでも続くはずがない。
季節は巡り、秋の深まりを感じる頃合い。
肌に触れる風が少しずつ冷たさを帯びてきた現在、朔はなぜか、当主・禪院直毘人の私室に呼び出されていた。
――なぜか。本当になぜか。
大事なことなので内心で二度繰り返したが、呼び出された理由に全く心当たりがない。
「……それで? 用件は?」
畳の上に胡座をかき、朔は気怠げな声で直球を投げた。
対する直毘人は、酒の入った瓢箪を揺らしながら「ん?」と首を傾げる。
「あぁ、なんだったか? あれだ、あれ。あー……」
――ボケてんのか、このおっさん。
内心で盛大にツッコミを入れつつ、じっと待つ姿勢を崩さない。
ここで自分から余計な言葉を挟めば、必ず別のどうでもいい話題へと脱線させられる。これまでの経験から得た、血の滲むような学びだ。ちっとも嬉しくない成長だ。
「まあいい。飲むか?」
思い出すのをあっさりと諦めたらしく、直毘人は瓢箪をこちらへ突き出してきた。
「いえ、未成年なので」
朔が丁寧に断りを入れると、直毘人はどこか不満そうに鼻を鳴らす。
「げっふ。最近の若いやつは何かと気難しいな。なんだ、思春期というやつか。もう少し柔軟に物事を考えることができんのか」
「あんたの絡み方がおかしいだけだと思うけど」
若者とコミュニケーションを取ろうとして空回っている田舎の親戚のおじさんか。そうも思ったが、さすがにそれは失礼か。いや、そんなこともないか。
「用がないなら帰る。思い出したらまた呼んで」
さっさと見切りをつけ、立ち上がって背を向けようとした瞬間。
「分かった、分かった!」
慌てたように、直毘人が引き留める。
(最初から本題に入りなよ。なんでグダグダ話を引き伸ばすんだ)
この男は、どうやら僕をからかうことを日々の娯楽か何かと思っている節がある。特に目的も理由もなく、意味の分からない話を展開してはこちらの反応を面白がっているのだ。
心底呆れた雰囲気を醸し出し、冷めきった瞳を向けるも、直毘人はどこ吹く風で酒を煽る。
「ガハハハハ! なに、高専からお前宛の書類が届いた。その件についてな」
「……なら、その書類を女中あたりに頼んで、僕の部屋まで届けさせればいいじゃん。なんでいちいち部屋に呼ぶの?」
本当に勘弁してほしい。
こんな必要のない用事で毎度毎度呼び出されて話し込んでいるから、周囲の連中から「あの小僧は当主に媚びを売っている」だの「次期当主の座を狙っている」だの、いらん噂が立つのだ。
「まあ聞け。それなりに重要なことだ。お前の将来に関することだからな」
「……それで? 高専側は、僕になんと?」
朔が渋々腰を下ろし直すと、直毘人はニヤリと笑う。
「ふむ。簡単に言うと、高専所属の術師として、活動しないかという話だ」
「……ん? 何それ。どういうこと」
全く意味が分からない。
高専に所属? 学生として、ということか? 毎日学校に通う? 僕が?
いやいや、いらないだろう。完全に無駄な時間だ。
どういう意図か測りかねている朔の様子を察し、追加の説明を加える。
「高専からうちへ回ってきた仕事を、お前がそれなりに処理してきただろ。禪院朔の貢献度は、呪術界においても相当なものだと見なされている」
「……」
「まあ、これはスカウトに近いだろうな。お前は今年で十五だったか? 時期的なものも加味して、高専に入学しつつ、任務をこなす形で活動をしないかということだ」
回りくどい誘い文句だが、要約すればそういうことだろう。
――あーね、そういうこと。
完全に理解した。
禪院家の連中から嫌がらせのように回されてくる任務を淡々とこなした結果、皮肉なことに名前が売れてしまった。特別一級術師などというクソほどいらない階級すら押し付けられている。
呪術界は常に人手不足らしい。ワンチャン引き入れて、都合よくこき使おうという腹なのだろう。
これは確かに、学生に対する「入学の誘い」というよりは、術師に対する「スカウト」だ。
そもそも、呪術を学ぶための環境ならこの家で完結している。わざわざ高専に通う必要などどこにもない。少なくとも、禪院家の人間にとっては無用の長物である。
「それで、お前はどうしたい?」
「……どうしたいって。僕に決定権とかあるの? また勝手なことすると、上の連中がうるさいでしょ」
「ガハハハハハ! 確かにな!」
直毘人は愉快そうに腹を抱えた。
「俺としては、どちらでもいい。お前が行きたいというのなら、止めんよ」
好きにしろ、と言わんばかりの態度。
相変わらずの完全放任主義だ。マジでいいのか、これで。立場としては禪院家の人間として、高専への席にも座る形になる。それにより、禪院家を通さずとも朔に直接任務を振れるようになるわけだが。
「だるいなぁ……」
つい本音が口からこぼれ落ちる。直毘人がまた笑う。
――何わろてんねん。
真剣に、リスクとリターンを天秤にかけた。
高専所属の学生になることで、プラスになることはもちろんある。だが、マイナスだって多い。仕事を今まで以上に押し付けられるというのはあくまで想像だが、可能性は高い。
「なんだ? 喜んで飛びつくと思ったんだがな」
髭をさすりながら、直毘人が不思議そうにこちらを眺める。
この人には、僕がどう見えているんだ。
「なんで?」
「お前、ずっとこの家を出たそうにしてたろ。高専入学を機に、外に出て自由を謳歌したらどうだ」
そんな簡単な話でもない。
だが、確かにそれは魅力的な提案でもある。
自分の術式と向き合う時間がたっぷり確保できるのは、ここの魅力の一つだ。しかし、禪院家というクソみたいな環境のせいで、面倒な人間関係もたくさんついて回る。
高専に所属したとして、家の面倒が別の組織の面倒に変わるだけな気もするが。
――知らんけど。
それでも、ここを出て行く正当な理由になるのは悪くない。どうするべきか。
朔の頭の中で、葛藤が渦巻いていく。
「それに、タイミングもちょうどいいしな」
「……タイミング?」
問い返すと、直毘人はなぜかものすごく楽しそうに酒を呷り、語り出した。
(うわ、これは長くなるパターン踏んだな)
「ガハハハハハッ! あぁ、それがなぁ! 真希のやつが、家を出ると言い出してな!」
――何がそんなに面白いんだよ。
それにしても、あの禪院真希が家を出る?
なぜだろう。いや、ちょうどいいということは、彼女も高専に入るということか。まあ、ここを地獄だと感じる人間からすれば、外の世界はどこに出たとしても天国に映るだろう。
「へぇー。それでそれで?」
全く話に興味はないが、話を終わらせるために適当に相槌を打ち、先を促す。
「それでな。真希のやつ、いずれここへ戻ってくると言うんだ」
「……? 出て行ったのに、戻ってくる? なんで? ここが嫌だから高専へ行くって話じゃないの?」
直毘人はニヤリと口角を吊り上げる。
「あいつはなんて言ったと思う? ん?」
「なんていったの」
――早くしろよ。
暗にそう告げるような冷ややかな視線を送る。
「『私が禪院家の当主になる』だと! くくくっ……ガハハハハハハッ!! これは傑作だ!!」
響き渡る豪快な笑い声を聞き、朔はほんの少しだけ面食らった。
(……当主? こんなゴミの煮こごりみたいな家の当主になりたい? 変わってんなぁ)
1ミリも共感できない。
真依のお姉ちゃん、マジで何考えてるかわかんねーな。朔の脳裏をよぎった感想は、本当にそれくらいのもの。
ほんの少しだけ意外だった。あれだけ必死に僕を睨みつけて木刀を振っていたのは、そういうことか。当主になるための実力をつけるために、高専に行くということなのだろう。
この因習まみれの家で、呪力を殆ど持たない女が当主になるイメージなど全く湧かないが。
(まぁ、最終的にどうなっても自己責任か)
一瞬だけ、朔の気怠げな瞳の奥に暗い色が宿る。
当主が誰になろうと、最終的に禪院家をどうするかは既に決めてある。彼女の野望が叶うことは永遠にないだろう。
「ガハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
――ながいな。いつまで笑ってんだ、この酔っ払い。
盛大に笑い続ける直毘人を冷めた目で見つめ、朔はその笑いを容赦なくぶった切る。
「それで? 『ちょうどいい』っていうのは、その彼女が来年から高専に入るから、手続き的に一緒にやるのが楽ってこと?」
「ハハハハ……んー? あぁ、それもあるがな。真依も通わせようと思っている」
その言葉を聞いて、朔の脳内にさらなる疑問がよぎった。
「あの子は関係ないでしょ」
「あいつと同じことを言うんだな」
大いに関係あるとも。
直毘人は笑いを含んだ声で告げる。
「真希と真依は双子。それが、呪術においてどういう意味を持つか……お前ならわかるだろう」
その意味を聞いて、朔は全てを理解した。
双子は、呪術においては『一人』として扱われる。
つまり、片方がどれだけ死に物狂いで努力し、前へ進もうとしたとしても、もう片方が同じように成長しなければ、システム上の足枷となってしまうという理不尽な法則。
だからこそ、来年、真希が呪術高専に入るタイミングで、真依も強制的に放り込むということか。
一通り思考がまとまり、沈黙が落ちる。
直毘人が、ピタリと笑いを止め、鋭い眼でこちらを真っ直ぐに見据えてきた。
「……お前は、どうする?」
その瞳には、こちらを値踏みし、品定めするような、当主としての強烈な光が宿っていた。
「僕は——」
*
結局、直毘人への返答は保留にした。
まだ考える時間は十分にあるし、高専からのスカウトをこの場で即答してやる義理もない。
「はぁぁぁぁー……」
秋の冷たい空気に、その気怠い吐息が白く混ざって散っていく。
なんだか最近、ため息をつくのが癖になってきている気がする。良くない、非常に良くない。
――少し、一人になって考えよう。
禪院家の敷地内で、完全に一人になれる場所。朔の足は、自然と決まった場所へ向かっていた。あまり人が寄り付かない、古い庭園の奥。大きな木陰の下。
落ち葉を踏みしめながら、目的の場所へと到着した。
朔がいつも陣取っている、昼寝の特等席。
「よし、とりあえずここで……ん?」
木陰の根元を見下ろし、彼は足を止める。
いつも座っているその場所に、先客がいたのだ。誰だろうと一瞬思ったが、視界に映るその後ろ姿を見てすぐにわかった。
(なんでこんなとこにいるんだろう?)
ここは、彼女と自分が初めて出会った場所だ。
子供の頃、幾度となくこの木陰で言葉を交わした。思い出の場所と言ってもいいかもしれない。
声をかけようと一歩前に踏み出した朔は、しかし、彼女の横顔を見て思わず声を飲み込む。
(……どうしたのかな)
纏っている雰囲気が、尋常ではなく暗い。
目に光が宿っておらず、まるで虚無の深淵を覗き込んでいるかのような絶望の色。悲しんでいるのか、それともすべてを諦めきっているのか。そんな、死人のような顔だった。
――うわぁ。
奇しくも、七歳の頃、彼女をこの場所で初めて見た時と似たような感情が内側に発生する。
(めんどい)
見なかったふりをして、そのまま後ろに下がって自室に引き返そうか。
だが、ちらりと、もう一度彼女の顔を見つめ。
——やめた。
別に、好奇心が勝ったわけではない。
なんとなく。本当に、なんとなく、そうしたいと思ったから。
一歩、踏み出す。
カサッ、と。枯れ葉を踏む音が、静かな庭園に響いた。
その音に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。
「やぁ」
気怠げに片手を上げるも、彼女の瞳は虚ろなまま。
「……さく」
かろうじて、名前を呼ぶ声が返ってきた。
本格的に重症だな、これは。いつもであれば、即座に立ち上がり、こちらへ寄ってくるはずの彼女が、微動だにしない。
朔は無言のまま距離を詰め、木の根元に座る彼女のすぐ横に腰を下ろした。
(さて。何を言ったらいいんだろう)
初めて会った時も、こんなことを思った気がする。七歳の頃の記憶を思い出しながら現実逃避してみるが、何も解決しない。
何かあったのかと、ストレートに聞いていいものだろうか?
あの時は聞かなかった。めんどくさかったから。必要なかったから。
――今回は、七歳の頃とは違う選択をする。
なぜだかは自分でも分からないが、必要な気がした。
「……真依」
ビクッと彼女の肩が反応する。だが、視線はこちらへ向けてはくれない。
彼女は今、何を求めているのか。
それを必死に考える。こんな風に他人の感情を推し量ることなど、今までの人生でやったことがないから、正解が全く分からない。
――どうしよ。
だが、時間は待ってくれない。いくら呪力操作を最適化しようと、時間は過ぎ去り、止まってはくれないのだ。
「何かあった?」
シンプルな問いかけ。だが、真依は口を開こうとしない。
言いたくないというよりは、「何をどう口にしたらいいか分からない」といった状態に見える。唇が微かに動くが、そこから明確な音は出てこない。
朔は視線を逸らし、前を向いた。
軽く頭を上げ、秋の深まる空を見上げる。
「ふぅー……」
ほんの少しだけ白く濁った息が、宙に舞って消えた。
「昔はさ。ここで、色々話したよね。懐かしいな」
問いかけているように見えて、ただの独り言のようなトーン。
返答は期待していない。なんとなく口にしただけだ。だが、その声に応じるように、真依の口が重く開かれた。
「……えぇ、そうね」
ほんの一言だけ紡がれた、酷く震えた声。
やはり彼女は、呪術師になどなりたくないのだろう。その割に、僕の任務には拳銃を携えてついてきていたが、やっぱり嫌だったのかな。それとも全く別の理由か。
色々と考察してみるが、全く分からない。
内心でそんなことを考えていると。
「ねぇ、朔」
「ん? なに?」
「真希がね……ここを出て、高専に行くって」
「……うん」
知っている。さっき当主から聞いたばかりだから。
「それでね、私も……わた、し……」
真依の言葉が詰まる。
朔が横を見ると、今にも内側の感情が爆発しそうな、悲痛な顔があった。
――あぁ……やめてほしい。
そんな顔をされると、なんて声をかけたらいいか、本当に分からなくなる。
自分の居場所がなくなってしまった、迷子の子供のような顔。
姉が家を出ていくのが嫌なのか?
(考えてもしょうがない。わかんないし)
彼女は今、自分から僕に歩み寄って来れる状態じゃない。
だから、僕から歩み寄ることにした。
朔は、彼女が今、本当に求めている言葉が何なのかは分からないまま、一つの事実を告げる。
「あのさ……」
*
隣で考え込んでいる彼とは裏腹に、真依の内側では、ドロドロとした真っ黒な感情が激流のように荒れ狂っていた。
その感情の半分は姉に対して。そしてもう半分は、隣に座る幼馴染の男に対してのもの。
禪院家という地獄において、真依にとっての真希は、単なる姉ではない。
周りのカスどもがどれだけ自分たちをゴミのように扱ってきても、真希がいれば耐えられた。自分たちは『持たざる者』『落ちこぼれ』として、二人セットで底辺にいる。真依は、その最底辺の泥水の中に、ある種の安心感を抱いていたのだ。
だが、姉は「前へ進む力」を持っていた。
真希が前を向いて歩き出した瞬間、自分だけがドロドロの暗闇の底に取り残されることに気づいてしまった。
『置いていかないで』と叫びたい。それと同時に、『私より自分のプライドを選ぶのか』『私との時間は、彼女にとって価値はなかったのか』という、激しい不安が真依の胸をかきむしる。
私にはそんな勇気も力もないのに。どうして。自分の弱さを突きつけられた惨めさで、胸が張り裂けそうだった。
真依の心にあったのは、綺麗な言葉にするなら「寂しさ」。
だが、実際はもっと泥臭い、『頼むから、泥水の中でもいいから、私と一緒にここにいてほしい! 一人にしないで!』という悲鳴。
そして、もう一つの要素。
今、隣で自分を気遣うように寄り添ってくる彼。
真依にとってもう一つの心の拠り所である彼もまた、自分が強制的に高専に入れられれば、そう簡単に会うことはできなくなる。
彼が長期間家を空けることは何度もあった。だが、今回の『別離』は、それとは違う決定的な絶望を含んでいる。
真希の件で、彼女本来の卑屈さとネガティブさが前面に押し出された結果、全ての未来が悪い方向へ解釈されていく。
姉には置いていかれ、彼とも離れ離れになる。
物理的な距離が離れれば、精神的な距離も開いてしまうのではないか。
怒り、悲しみ、絶望、恐怖、孤独、劣等感、嫉妬、理不尽さ、恨み。
様々な感情の破片が生まれ、衝突し、心の中をめちゃくちゃに荒らしていく。
――どうしたら、いいの?
――私は、どうしたら……
そんな負のループに陥っていた思考は、彼の声で唐突に中断された。
「あのさ。さっき当主様から聞いたんだけど、高専に行くんだって?」
心臓を素手で掴まれたような思いだった。
心を読まれたのだろうか。
彼は自分を、どう思っているのだろう。何事にも無関心で、自分自身にしか興味がないように見える彼は……普通に、「頑張れよ」と私を送り出してくれるのだろうか。
私が彼に抱く重い感情と、彼が私に抱く感情は、決定的に違う。
何も思うことなく、ただの日常の一部として、私を切り離すのだろうか。
それは、酷く悲しい。
(私はこんなになってるのに。彼はいつものような瞳で。……あなたは……っ!)
ほんの少しの苛立ちと、行き場のない悲しさが混ざった瞳を、隣の彼に向けてしまった。
「ならさ、同じだね」
「……えっ?」
何を言われたのか、一瞬聞き取れなかった。
いや、音としては聞き取れていたが、意味が理解できなかった。
隣の彼が、気怠げな動作で立ち上がり、座り込んでいる真依の正面へと回り込む。
そして、スッと右手を差し出してきた。
「……僕も、高専に通うから」
——え?
「寮暮らしになると思うからさ。……荷解きとか、手伝ってね」
いつものような、何を考えているか分からない、気怠げな半目。
そんな顔で、こちらを見下ろしてくる。
ぽろり、と。
真依の目から、せき止めていたはずの涙が一筋こぼれ落ちた。
「……っ、うん……わが、った……っ」
あぁ、本当に嫌だ。
私の声は、酷く震えていなかっただろうか。
今の私を見ないでほしい。きっと、ぐしゃぐしゃの酷い顔をしている。
それでも、彼は何も言わず。
差し出した手で私の手を引き、力強く立ち上がらせてくれた。
何も言わず、ただ不器用に寄り添ってくれる。
そんな彼が……。
引かれた手を通して伝わるその熱を、いつまでも離さず歩きだす。