こうして、季節は巡り。
出会いと別れの季節、春がやってきた。
三月の後半。
禪院朔と禪院真依の二人は、規定より少し早めの時期に、京都呪術高専の学生寮へと入寮を果たしていた。いわゆる早期入寮というやつである。
あと数日で四月となり、呪術高専での新しい日常が本格的に幕を開ける。
先ほど、スーツを着た『窓』と思われる人間に寮内を簡単に案内されたばかりだ。まだ同級生や教師とは顔を合わせていないが、一体どんな人間が集まるのだろう。
そんな、どうでもいい思考を頭の片隅で回しながら。
朔は今現在、己の部屋で荷解き作業をやらされていた。
「めんどくさい……」
相変わらずの怠惰な男。
ダンボールを開ける手を完全に止め、窓から見える春の空を眺める。
――うん、雲が綺麗だな。
現実逃避をキメていると、背後から鋭い声が飛んできた。
「ちょっと。何サボってるのよ。早く終わらせるわよ」
振り返ると、腕を組んだ禪院真依が立っている。
(なんでここにいるんだ。僕の部屋なんだけど)
この数年間で幾度となく思った疑問を、再び内心で反芻する。
彼女は実家を出ても相変わらず、僕の世話を焼いてくる。こうしていちいち部屋にまでやって来て、荷解きを手伝ってくれているのである。
「はぁ……」
「人の顔を見て、ため息つかないでもらえる?」
ダンボールから無造作に生活用品を取り出しながら、真依がジト目でこちらを見つめてくる。お前も早く手を動かせと、その鋭い視線が雄弁に語っていた。
「自分の部屋を作りなよ。手伝わなくてもいいから」
「私はもう終わったわ。それに、アナタが手伝うように言ったんじゃない」
ダンボールに貼られたガムテープをベリッと剥がしながら、彼女は事も無げに言い放つ。
――早すぎだろ……。
そもそも、たいして持ち物がない超絶ミニマリストの僕よりも早く終わるとはどういうことか。
やはり、この手の家事全般に関しては彼女の方が長けているようだ。朔が遠い目をしていると、不審に思ったのか声がかけられる。
「どうしたのよ?」
「いや、真依は凄いな〜って思って」
「そ、そんなことないわよ。これくらい、普通でしょ」
ふんっ、と言わんばかりに彼女は少し赤くなった顔をそっぽへ向ける。
そうか、これが普通なのか。じゃあ、サボって空を眺めている僕は普通じゃないということだろうか。
そんな生産性のないことを考えながら、新しいダンボールを開ける。
中から、手のひらサイズの白い蛇の呪骸が一つ、ちょこんと顔を出した。
朔はそれを丁寧に両手で持ち上げ、部屋に備え付けられた机の引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
もう一つは、禪院家の自室の引き出しの中に置いたまま。同じ場所に置いておいても意味がないため、物理的な距離を離すことにしたのである。
「……んー、疲れたなぁ」
パキパキと、肩を軽く鳴らす。
やはり、長距離の移動はひどく疲れる。禪院家から京都校までは、実のところそこまで大した距離ではないのだが、彼にとっては十分な疲労の元だ。根本的に体力が致命的なまでに欠落しているの。
「長距離ってほどでもないでしょ。ほら、シャキッとしなさい」
「君は元気だねぇ」
新しい環境への不安とかないのか。
あの日の木陰で見せたような、メンタルが崩れている姿は今は見えない。いや、彼女のこの強気な態度は、どちらかというと弱気の裏返しであることに最近気づき始めたのだが。
これから、どんな人間たちと出会うのだろうか。
新しい環境。実家での引きこもり一歩手前のような生活だったからこそ、多少なりとも興味は湧く。
それにしても、と考える。
真依の姉・真希は、どうやら東京校の方へ行ったらしい。実家からそこまで離れたかったのか。
目の前の彼女は、東京に行かなくて良かったのだろうか。
なんとなく、聞いてみることにした。
「ねぇ」
「ん? なによ」
「君はさ、東京校じゃなくて良かったの? お姉さんはそっちに行ったみたいだけど」
その言葉に、真依はピタリと動きを止め、露骨に不機嫌そうな顔を作った。
「……なんで私が、真希と一緒がいいみたいな言い方なのよ」
「違うの?」
「違うわ。なんでそう思ったの?あいつと同じ高専なんて……」
ブツブツと、文句のようなものが続く。
違うのか。姉が高専に行くと聞いてあんなに精神を乱していたから、てっきり姉妹揃って仲良く一緒にいたいのかと思っていたのだが。
朔のこの考えは、完全に的外れというわけではないが、やはりどこか女心や彼女の複雑な感情の芯を捉え損ねている。
――うんうん、なるほどね。
「うんうんって、一人勝手に納得しないでちょうだい。私の話聞いてるの?」
「聞いてるよ、分かった。ごめんね」
謝りつつ、再び手を動かす。
どうやら、彼女は京都で良かったらしい。
「アナタは、こっちで良かったの?」
不意に、真依がチラリとこちらを見てきた。
「家からものすごく離れたいって、思ってたんでしょ?」
「そうだね。でも、真依が京都の方に行くって、早い段階で聞いてたし」
朔が何気なく事実を口にする。
その瞬間。真依の胸の奥で、トクン、と。
(……私に合わせて、こっちを選んでくれたってこと?)
ほんの少しだけ、彼女の心臓が高鳴る。
しかし、その淡い期待を裏切るように、彼は言葉を続けた。
「まぁそれに、シンプルに東京と京都って距離あるし。移動がめんどくさくて」
「……」
高鳴った熱が、一瞬にして冷水へと沈んだ。
なんとなく、そっちの方が本音っぽい。この男にはデリカシーというものが決定的に欠如しているらしい。いや、どちらかというと女心が絶望的に分かっていないと言うべきか。
「はぁ……。アナタって、そういう人よね」
「なにが?」
「いいえ、なんでも。……まあ確かに、いつ家からの呼び出しがあるか分からないし。東京からいちいち戻ってこなきゃいけないのも、面倒よね」
真依は「こいつはこういう人間だ」と長い経験則で理解し、半ば呆れつつも納得する。
無理に彼の言葉に共感を示し、話を合わせた。
「いや、行き来で言うなら、戻ってくるのは問題ないけど。初めの『行き』が純粋にだるくて」
「……?」
よく分からないことを口にする朔に、真依は疑問符を飛ばしながらも、空になった段ボールを畳んでいく。
「よし、これで一通り終わったかしら。このダンボールを捨てれば終わりね。他には何かある?」
「いーや、特には」
ふぁ、と。朔はあくびを一つこぼした。
純粋に眠い。
「時差というやつか……」
「都道府県すら跨いでないけど」
的確なツッコミが入る。
朔は、部屋に備え付けられた真新しいベッドに腰をかけた。
ようやく、己の新しい城が完成した。大満足である。
すると、隣のマットレスがボフッと沈み込む感触がした。
真依が、朔のすぐ隣に座ってきたのだ。
「お疲れさま。これで一段落ね。あとは入学式まで、適当に過ごしましょう」
「そだねー」
ベッドに隣同士で座りながら、言葉を交わす。
ようやく一仕事終えた開放感が、心地よい疲労と共に全身を包み込んでいく。そして始まる、他愛のない雑談タイム。
「同級生は、私たちを除いて二人らしいけど……どんな人たちが集まるのかしら」
「不安なの?」
「別に。少し気になっただけ」
強がるように唇を尖らせる。
彼女のそういった態度は、本当に何時までも変わらない。
もっとも、呪術師は変人が多いという噂は朔の耳にも届いている。問題児がいるとちょっとだるいな、とは思う。自分には関係ないが。
「まあ、なるようになるよ。先輩には変人がいるってどっかで聞いたけど。独り言叫びながら走り回るような」
「それ、どこの情報よ。不安になるんだけど……」
「ただの噂だって。本当か嘘かは神のみぞ知る。というか、入学すればわかるよ」
とても心地いい。
重力に身を任せ、朔は上半身だけを後ろへ倒し、ベッドに横たわった。
「あっ、ちょっと。行儀悪いわよ」
これくらいは許してほしい。今、とてつもなく心地いい気分なのだ。
一仕事終えた達成感もあるが、それ以上に『実家を出た』という安心感、あるいは圧倒的な開放感に包まれている。
きっと、隣にいる彼女も似たような感覚だろう。
注意されるのが少し鬱陶しくなった朔は、隣に座る真依の腕を軽く引っ張り、そのまま自分と同じように横へと引き倒した。
「——キャッ」
短い、女の子の可愛い悲鳴。
それを耳元で聞きながら、気怠げな瞳で真新しい天井を見つめる。
二人とも腰掛けた状態から、足だけを床に投げ出し、ベッドの上に並んで仰向けになる形となった。
深呼吸を一つ。気持ちいい。
あの家から出たという、ただそれだけの事実が、これほどまでに心を軽くするとは。
ふと、自分のすぐ隣に横たわった彼女へと視線を向ける。
パチリと、瞳が合わさる。
自然と、朔の口元から気怠げな笑みがこぼれた。
「……なにするの」
そんな真依の声を耳にしながら、朔は再び天井へと視線を戻す。
怒っているようだが、本気で嫌がっているわけではない。それは長年の付き合いで分かる。だから気にせず、心地よいベッドの感触を背中で味わう。
ふと、禪院家のことを思い返した。
あの、地獄のような閉鎖世界を。
朔は家の中で大多数の大人から嫌われていたが、自分の方が彼らをその何倍も嫌悪していたと本気で思っている。
彼から見た禪院家の人間は、クズでありゴミ。ど底辺のカスである。
全方位に歪みきった、「カスの煮こごり」のような一族だ。
(こき下ろす言葉なんて、いくらでも浮かんでくるな)
それは男に限った話ではない。
女も男も、その本質において全てが同じく見ていられない連中だった。
男尊女卑の思想が極めて強く、男たちの横暴さと屑さばかりが目立つ環境。だが、被害者側であるはずの女性たちも、家の思想に完全に毒されきっていた。自分より弱い立場を叩くことでしか、己の自尊心を保てない「ベクトルの違うカス」になり果てている。
それが、朔が端から観察して得た客観的な感想。
――本当に、どうなってんだよあの家は。
性別を超えて、あの家がどれほど底辺な精神構造をしているのか。いくつかの視点から整理すると、より鮮明にその狂気が見えてくる。
女中たちに象徴される、「弱者の加害者化」とでも言うべき歪み。
彼女たちは、強烈な男尊女卑の被害者であると同時に、自分より下の者を徹底的に見下し、精神的に追い詰める加害者でもあった。
上には媚び、下を叩く。
逆らえない強き存在には絶対服従し、理不尽に虐げられても絶対に言い返さない。その代わり、自分より立場が下の存在に八つ当たりすることで、精神のバランスを取っている。
あの家の大人たちは、どいつもこいつも術式至上主義と男尊女卑を疑うことなく、むしろ自分を縛るそのルールを、次世代の若者たちにも平然と強要する。これはカルト宗教や重度の機能不全家族に共通する、「奴隷が次の奴隷を監視する」という最悪の縮図だ。
(……控えめに言って、地獄だな)
そんな思考を巡らせつつ、朔は隣にいる幼馴染の女の子の髪へと無意識に指を伸ばし、その短い髪をサッと梳いた。
「っ……」
終始動揺しているのが伝わってくる。
何をしているのか、何が目的なのか分からない。そう言わんばかりの困惑した瞳。
そんな彼女に一瞬だけ思考を向け、思い返す。
真依自身、高専入学には消極的な部分も確かにあった。だが、結果的にこれで良かったのではないかと、朔はなんとなく思うのだ。
『自分より下』がいないと生きていけない一族。
男たちは生まれ持った才能にあぐらをかき、女性や躯倶留隊の男たちを見下す。
女たちは男に虐げられたストレスを、さらに下の落ちこぼれにぶつける。
結局、一族全員が「誰が一番上で、誰が一番下か」というマウンティングの鎖に雁字搦めにされていた。
実際に、真依や真希が女中から嫌がらせのようなものを受けている現場を、偶然見かけたことがある。僕が見ていないところでも、日常茶飯事だったのだろう。
双子の二人は特に冷遇されていた。色々と理不尽を押し付けられ、辛かったはずだ。
今、隣に横たわっている彼女が、そんな目に遭っていたのだ。
朔は、真依の目をじっと見つめる。
この子は今、何を考えているのだろう。
結局、あの家は強者が弱者を搾取するだけでなく、搾取された弱者がさらに弱いものを踏みつける最悪のシステムが完成していた。
十種影法術という『力』を持って生まれてきた自分が、上から評価するのは傲慢かもしれない。だが、外から見れば「どっちもどっちのカス」という評価に落ち着く。
男は傲慢なカス。女は卑屈で陰湿なカス。性別関係なく、あの環境に長居すれば、人間性そのものが腐り果てる。
だからこそ、あの家から出るという選択が正解だ。
(あそこに残り続ければ、この姉妹たちもいずれ『ああ』なってしまっていたかもしれないし)
――なら、この選択が最善なのかな。
そう軽く呟き、朔は真依の柔らかい頬を、ぷにッと摘まむ。
「——もうっ! なんなのよ!」
我慢できなかったのか、真依がベッドから勢いよく跳ね起きた。
顔が赤い。
「怒った?」
仰向けのまま寝そべり、彼女を見上げて問いかける。
「……別に、怒ってない」
顔を完全に逸らされてしまった。やはり怒っているようだ。
「ご飯食べよう。なんかお腹空いた」
朔もベッドから起き上がり、彼女の手を軽く引く。
「いこう?」
——ここから、二人の呪術高専での新しい日常が始まる。
真依は、確かにそう思っていた。
*
数日後。四月。
呪術高専・京都校の、入学式当日がやってきた。
現在、禪院真依は、朔の部屋の前にいる。
一緒に登校しようと、適当に声をかけてノックをする。
だが、いつまで経っても返事がない。寝坊でもしているのだろうか。
「……どうしたのよ」
部屋の鍵でも構築しようかと思う。彼の部屋の鍵の構造は、入寮したその日のうちにすでに把握済みだ。
構築を開始しようとドアノブに手をかけると、ガチャリと軽い音が鳴る。
「開いてる?」
部屋に鍵はかかっていなかったようだ。
「入るわよ」
断りを入れて廊下を進み、部屋に入る。
だが、そこに朔の姿はない。
周囲を見て回ると、綺麗に整頓された机の上に、一枚のメモ用紙がポツンと置かれている。
それを見た瞬間、真依の目からスッと感情が抜け落ちた。
「……は?」
*
こうして、呪術高等専門学校・京都校の一年生たちが教室に集まり、初の顔合わせが行われる。
パンパン、と。
教師が手を叩き、生徒たちの注目を集める。
「はいはい、注目。今日からあなたたちの担任になる庵歌姫よ。よろしくね」
巫女服を着た、顔に傷のある髪の長い女性。庵歌姫。
彼女が教卓から生徒たちに目を向ける。
そこにいるのは、三人。
禪院真依。水色の髪をした少女。そして、メカのような姿をしたカラクリ。
それぞれが並んで、これから自己紹介が始まる流れだろうか。
だが、そこで歌姫から待ったがかかる。
「あら、一人足りなくない? もう一人、いるはずなんだけど」
そう、その通り。
この教室には、『禪院朔』の姿がどこにもなかった。
疑問に首を傾げる歌姫に対し、真依のこめかみがピキリと引きつった。明らかにイラついているのが周囲に伝わる。
「あの、先生」
真依が一歩、前に進み出た。
「ん? どうしたの、禪院さん。もしかして……」
そういえば、もう一人は彼女と同じ禪院家の男の子だ。それなりに名の通っている術師である。高専に所属する過程で、実力に見合った『一級』の階級が改めて与えられたと聞いているが。
「今朝、本人の部屋を訪ねたところ、このようなものが残されていまして」
極めて丁寧な言葉遣い。だが、その端々には隠し切れない棘と怒りを含んでいた。
彼女が教卓へ差し出したのは、一枚の紙。置き手紙のようなものだ。
歌姫がそれを受け取り、そこに書かれた文字を読み上げる。
『ちょっと旅に出ます。探さないで下さい』
ふざけきった文言が、そこにはデカデカと書き殴られていた。
(あの、バカ男……ッ!)
真依は、これ以上ないほど強く拳を握りしめる。
彼女の全身から発せられる圧倒的な殺気に、隣に立っていた水色髪の少女は、ビビリ散らかして青ざめていた。