「……朔様。お召し物の準備が、整っております」
細く震える声が、薄暗い和室の静寂を破った。
襖の隙間からすべるように入ってきた女中が、畳に額を擦りつけるようにして平伏している。彼女の横には、分家では見たこともないような上等な絹の着物が、盆の上に丁寧に畳まれていた。
「……ん」
女中はビクリと肩を跳ねさせると、恐る恐る近づき、五歳の小さな身体に着物を羽織らせ始めた。帯を締める指先が、カタカタと微かに震えている。
(……なんでこの人、ずっと下ばっかり見てるんだろう)
気怠い瞬きを繰り返しながら、女中の視線の先を追った。
彼女の目は、朔の顔を見ていない。首元すら見ていない。怯えたような、それでいてすがるような湿った瞳は、朔の足元——朝日に照らされて畳の上に黒々と伸びる『影』にのみ、じっと釘付けになっていた。
腫れ物に触るような手つき。
彼女が畏縮しているのは、分家から来た幼児に対してではない。この小さな肉体の奥底に眠る、禪院家の至宝に対してだ。
(まあ、どうでもいいか)
小さく欠伸を噛み殺す。
大人たちの不気味な視線も、過剰な世話焼きも、彼にとっては「己の体力を消費せずに済む」というただ一点においてのみ、都合の良い環境だった。
*
「——よって、呪術とは己の負の感情から抽出されるエネルギーを指す。いいですかな? 御三家たる我が禪院が今日まで築き上げてきた歴史とは、すなわち……」
白檀の香りが鼻を突く書院。
指南役の老人が、しわがれた声を朗々と響かせている。
しかし、上座に座らされた朔の意識は、老人の顔には微塵も向いていない。
(……この図式、おかしくない?)
朔の視線は、膝の上に広げられた分厚い和紙の束——歴代の十種影法術使いたちが遺した指南書にのみ、深く沈み込んでいた。
そこには、墨で描かれた『蝦蟇』や『大蛇』といった式神の姿と、呪力を流し込むための印の組み方が記されている。
(影の面積と、引き出せる式神の質量が釣り合ってない。影はただの『出入り口』に過ぎなくて、式神を構成するエネルギーの総量は、僕の腹の底から直接引き出されてる……? なら、一度影の中に引っ込めた時のエネルギーの保管場所はどこだ?)
頭の中で、仮説と検証が凄まじい速度で組み上がっていく。
自身の内側で渦巻く重たい液体の感覚を思い出しながら、朔は無意識のうちに指先を動かし、見よう見まねで印の形をなぞった。
「……聞いておいでか、朔様!」
パンッ! と、老人が扇子で畳を叩く音が弾けた。
「ん? ああ、聞いてるよ。御三家がどうとか」
「生返事は感心しませぬぞ! 貴方様はもはや、分家の者ではないのですからな」
老人は深いシワを寄せて咳払いをした後、声のトーンを一段階落とし、ひどく勿体ぶった口調で告げた。
「よいですか。当主様からの厳命です。現在、貴方様に許されているのは、既に顕現している『玉犬』との同調のみ。決して、独断で新たな式神の調伏を行ってはなりませぬ」
「……なんで?」
「なぜも何もありません! 調伏の儀式は、呼び出した式神を打ち倒して初めて成立するもの。万が一、貴方様がお命を落とし、禪院の相伝が失われるようなことがあれば……」
家の損失。術式の保護。
老人の口から溢れ出るのは、そんな言葉ばかりだ。
気怠げに視線を落とした。
(僕が死ぬことじゃなくて、術式が無くなることが嫌なだけじゃん)
そんなことはどうでもいい。
朔にとって耐え難いのは、目の前に「まだ試していない術式の運用方法」があるのに、誰かの決めたルールのせいでそれに触れられないという事実だけ。
「……わかったよ」
口先だけで応じながら、朔の指先は書物の端に描かれた影の印を、密かに、しかし確実に脳裏へと焼き付けていた。
*
その数日後。朔の静かな思考の世界は、暴力的なまでの喧噪によって強引にこじ開けられることとなる。
「足腰がなっておらん! 術式があろうとなかろうと、呪術師の基本はまず強靭な肉体だ!」
むせ返るような汗と熱気。竹刀が空を切る鋭い音。床を強く踏み鳴らす振動が、足の裏から内臓まで響いてくる。
同世代の子供たちが顔を真っ赤にし、滝のように汗を流しながら、死に物狂いで素振りと走り込みを繰り返す。彼らの目はギラギラと燃え盛っている。
そして、朔もまた、小さな道着を着せられ、その狂乱の輪の中に放り込まれていた。
手には、自分の身長ほどもある重たい木刀。
「ほら朔! 動きが止まっているぞ! 踏み込みが甘い!」
教官の竹刀が、容赦なく朔の足元を打ち据える。
「……っ」
開始からわずか数十分。全身は汗に塗れ、道着は重く肌にへばりついている。慣れない踏み込みのせいで、足の裏はすでに皮が剥け、ヒリヒリと焼けるように痛かった。
心臓が不快な音を立てて早鐘を打っている。
(……なんだこれ。ひどく、疲れる)
膝に手をつきながら、朔は周囲で必死に汗を散らす同世代の少年たちを、冷めきった視線で観察した。
彼らは強くなるために必死だ。己の肉体を武器に変えようとしている。それが、呪術師としての生存率を上げる絶対の真理だと信じて疑っていない。
――でも、これに何の意味があるんだ?
ズキズキと痛む足の裏を感じながら、朔の脳内で冷徹な計算式が弾き出される。
(僕がこれから何年、何十年かけて拳を鍛え、血反吐を吐いてこの重たい木を振ったところで……あの玉犬の牙の殺傷力には、絶対に勝てない)
子供の脆弱な肉体。圧倒的な質量の差。
身体能力を上げて回避速度を上げる?
それも無駄。人間の脚力で跳躍するより、自身の足元にある影の中に潜伏した方が、速度も隠密性も圧倒的に理にかなっている。
(接近戦が弱いなら、接近戦をしなければいいだけのこと。なんでわざわざ、自分の苦手な分野で戦おうとする?)
彼らの「常識的な思考回路」が、朔にとっては異常な遠回りにしか見えなかった。
自分が強くなる必要など全くない。敵を噛み砕くのも、攻撃を防ぐのも、すべて「手駒」に委託すれば済む話。
十種影法術という完成された機構を持ちながら、わざわざ肉体を鍛え上げるなど、あまりにも非効率で無駄なカロリー消費でしかない。
——こんな面倒なこと、やる価値がない。
カランッ。
乾いた音が、騒がしい道場に小さく響いた。
朔は、握らされていた木刀を何のためらいもなく床に手放したのだ。
「おい、朔! 何をしている、拾え!」
教官が血相を変えて怒鳴り込んでくる。床を踏み鳴らし、巨大な影が朔を見下ろした。
「……もういいや」
「何っ!?」
「これ、僕には意味ないし」
気怠げな半目を床に向けたまま、朔はぽつりと呟いた。
教官の怒りで歪んだ顔を見ることもなく、朔の視線はただ、自身の足元に色濃く落ちる『影』だけを見つめている。
これ以上、無意味な疲労に付き合う義理はない。
それが、禪院朔という術師が、「自身の肉体による戦闘」を永遠に放棄した、静かなる決別の瞬間であった。
*
「朔様はどこだ! またサボりか!」
「本家の庭を隅々まで探せ! 蔵の裏はどうした!」
「外には出ていないな!? 」
怒号が飛び交い、ドタドタと荒々しい足音が頭上の板張りをけたたましく鳴らしていく。
道場から朔が姿を消して数十分。広大な禪院家の屋敷は、血眼になって探し回る大人たちの狂騒に包まれていた。
その怒声の震源地からわずか数メートル下。
陽の光が一切届かず、じめじめとした苔とカビの匂いが漂う床下の暗がりで、朔は小さく息を吐く。
(……うるさいなあ。そんなに大声出したら疲れるのに)
頭上で軋む床板を見上げながら、朔はどこか他人事のように思考する。
彼の腰から下は、物理的な土の地面にはない。漆黒の泥のように渦巻く自身の足元の『影』の中へ、半ば身体を沈没させていた。
息を潜めているわけではない。大人たちへの反抗心から隠れんぼをしているつもりもない。
彼にとってこの行為は、汗水流す無意味な訓練を回避しつつ、術式の稼働時間を限界まで引き延ばすための、極めて合理的な生存戦略。
朔は、自身の胸の高さまで迫っている影の水面を、そっと指先で撫でて影絵を結ぶ。
ちゃぷん、と。
呪力が波紋となって広がり、黒い沼の中から、白い毛並みを持つ玉犬の頭部だけがぬるりと浮かび上がってくる。
「……よし」
朔は、玉犬の耳の裏を軽く掻いてやりながら、自身の内側を巡るエネルギーの残量を正確に推し量った。
一年前は、足首を影に沈めるだけで息が上がっていた。だが今は違う。胸まで没入した状態でも、呪力の循環は滑らかで、疲労感はほとんどない。玉犬を部分的に出し入れする動作も、呼吸をするのと同じくらい無意識の領域にまで最適化されていた。
(呪力の変換効率は上がってる。影の中での待機状態なら、消費も最小限に抑えられる。……でも)
ふと、朔の胸の奥で、静かな飢餓感が首をもたげた。
彼は手のひらを返し、浮かび上がっていた玉犬を再び影の底へと沈める。
(もう、玉犬だけで試せることは全部やり尽くした)
呪力の質量変換。影という空間の容量。術式と自身の接続感覚。
玉犬という二匹の獣は優秀だが、朔にとっての式神は、ペットでもなければ敵を倒すための道具でもない。あくまで「術式の構造を読み解くための実験台」だ。
既存の枠組みの中だけで同じ結果を繰り返していても、もはや何の面白みも、新たな発見もない。
脳裏に、座学で丸暗記した指南書のページが鮮明に浮かび上がる。
長い舌と強靭な跳躍力を持つ『蝦蟇』。
標的を丸呑みにする巨大な『大蛇』。
あれらを顕現させるための、複雑に絡み合う手の印。
——決して、独断で新たな式神の調伏を行ってはなりませぬ。
同時に、指南役の老人のしわがれた声が、鬱陶しいノイズとして記憶に割り込んできた。
朔は、影に沈めた指先を小さく動かしながら、無表情のまま思考を巡らせる。
(……もし、直談判して許可をもらいに行ったらどうなる?)
『僕は新しい式神を出したい。術式の構造を検証したいから』
『馬鹿なことを言うな! 五歳の子供の呪力量で成功するはずがない!』
『いや、玉犬の維持コストから計算すれば、蝦蟇の質量なら今の僕でも——』
『屁理屈をこねるな! もしお前が死んで術式が失われたらどう責任をとるつもりだ!』
(————)
頭の中でシミュレーションしただけで、全身を鉛のような疲労感が襲った。
自分の論理を言葉にして、頭の固い大人たちの価値観に真っ向からぶつけ、時間をかけて説得し、納得させる。
それは、彼がこの世で最も忌み嫌う「無駄な労力」そのものだ。木刀を何百回振るよりも、はるかに精神のカロリーを消費する。
(無理だ。めんどくさすぎる)
朔は小さく首を振った。
――勝手にやっちゃおうか
結論は、あまりにも唐突に、しかし彼の中では絶対な論理の帰結として導き出された。
調伏の儀式は、呼び出した式神を打ち倒さなければ成立しない。失敗すれば、式神に食い殺される危険がある。
だが、彼にとって「死のリスク」など、どうでもいい副産物に過ぎない。それよりも、「手の届く場所にある未知の術式を、誰かの決めたルールのせいで検証できないこと」の方が、遥かに耐え難い苦痛だったのだ。
「……いけるかな」
床下の深い暗闇の中。
遠くで自分を捜し回る大人たちの足音が次第に遠ざかっていくのを聞きながら、五歳の少年は気怠げに瞳を細めた。
ただ純粋に、次の実験への算段を練る。その瞳の奥には、恐怖や戸惑いなど微塵もなく、ただ冷たく透き通った異端の好奇心だけが、静かに、そして確かな熱を持って燃え上がっていた。