真依を背負ったまま、朔は森を抜けて高専医務室へと向かった。
なんでも、高専には専属の医者(?)のような存在がいるらしい。呪術師上がりなのかは知らないが。
医務室に到着し、真依を診察台の端に座らせて医者に診てもらう。
「それじゃあ、僕はこれで」
外見上、大した問題はなさそうだと判断し、朔は立ち上がって帰ろうとした。早くあのチンピラの領域の構築プロセスを忘れないうちに実験したいのだ。
しかし。立ち上がった彼が背を向けようとした瞬間、座ったままの彼女が袖口をギュッと掴んで離してくれなかった。
「……」
無言で引き留める真依の頑なな手を見て、朔は小さく溜め息をつく。
(まあ、いいか)
仕方なく、彼女の隣に置かれていた丸椅子に腰を下ろす。結局、なぜか二人並んで座るような形で、医者からの診察結果を一緒に聞くことになってしまった。
診察の結果は、ごく軽いもの。
「外傷自体は軽微ですね。ただ、強い衝撃を受けたことによる軽い脳震盪を起こしています。今日はベッドで安静にしておいてください」
医者は簡単な手当だけを施し、「お大事に」と言い残して医務室の奥へと引っ込んでいく。
大人が部屋からいなくなったのを見計らい、真依はゆっくりと身体を倒し、シーツの敷かれたベッドへ静かに横たわった。
「大したことなくて良かったね。分かってたけど」
「えぇ。あんなのに巻き込まれたんだもの。命があるだけ儲けものよね」
ベッドに寝転がったまま、真依はふいっと朔とは反対側へ顔を向けた。
(確かに、その通りだ)
彼も同意する。あれだけ圧倒的な密度の呪いは、今まで感じたこともない。
先ほどまで戦っていたあのチンピラも、無限の呪力に溢れ返ってはいたが、あれはあくまで『量』の話だ。あの乙骨とかいう少年が纏っていたのは、呪いそのものが途方もない『質量』を持ったような、空間を押し潰すほど重苦しいものだった。あれの至近距離にいて脳震盪だけで済んだのは、不幸中の幸いというやつだろう。
「軽い傷なら、僕が治そうか?」
ふと思いついて提案する。
「僕が、というか……式神が、だけど」
「え? あぁ、そうよね」
真依は少しだけ驚いた後、アナタならできるわよねと言わんばかりに思い出したように呟く。
高専に入学する前、家を出てから一緒に任務に行っていた時期がある。だから彼女も、朔が運用する『式神の能力』についてはある程度把握しているのだ。
両手でカエルの影絵を結ぶ。
「
ポンッ、と。
十種の『円鹿』の持つ反転術式の能力を継承させた、蝦蟇の式神。
白い鹿の角が生えた、巨大なカエルがベッドの脇に出現した。
「失礼するね」
「えっ?」
朔は断りを入れると同時に、真依にかかっている掛け布団をガバッと無造作に剥ぎ取る。
「ちょ、ちょっと! いきなり何——」
真依が抗議の声を最後まで言い切る前に、カエルに指示を出す。
ビュルルンッ! と、分厚く長い舌が真依の身体へ這い寄った。
足元の下半身から上半身に向けて、ぐるっ、ぐるっ、と。巨大な舌が、首のあたりまで簀巻きにするようにギュッと彼女の全身を縛り上げる。
「んっ……! な、なにっ……!」
そして、その分厚い舌を伝って、反転術式の『生のエネルギー』が皮膚の内部へと直接染み渡るように広がっていく。
身体の痛みや怠さが急速に消えていくのは分かるが、絵面が最悪すぎる。真依は仰向けのまま、もじもじと身体をよじらせながら朔を強く睨みつけ、恥ずかしそうに顔を真っ赤にする。
「……これ、本当に必要なの!? 普通に反転術式を流し込むことはできないのかしら!」
「もちろんできるよ」
「なら——!」
「でも、こっちの方が圧倒的に効率がいいんだよ」
抗議する真依に対し、極めて理路整然と答える。
「拘束することで患者の無駄な動きを封じて、治療箇所を固定できる。それに、蝦蟇が分泌する体液と融合させる形で生のエネルギーを流し込めば、皮膚への馴染みが段違いに良くなるし。……まぁ、詳しい仕組みはどうだっていいか」
つまり、冷酷な合理主義の産物である。患者の羞恥心など、治癒効率の前には一ミリも考慮されていない。
こうして、彼女の治療はあっという間に終わった。
実際、そこまで傷は深くなかったため、数秒で処置は完了する。
ズルンッ、とカエルの舌から解放された瞬間。
真依はガバッと掛け布団を引き寄せ、頭のてっぺんまで深く潜り込んで、完全に背を向けてしまった。
「……傷はどう? 治った?」
声をかけても、返事はない。ただの屍のようだ。
(まあ、治ったでしょ)
そんなことを思いながら、丸椅子から立ち上がり、背を向ける。
「それじゃあ、僕はこれで。安静にね」
そうして歩き出し、医務室の扉に手をかけ、ゆっくりと閉めようとした時。
布団の山の中から、ボソリと一言だけ聞こえてきた。
「……ありがと」
か細い、不器用な感謝の言葉。
(どういたしまして)
その言葉を背中で受け止めながら、優しく医務室の扉を閉めた。
*
医務室を出た後。
朔は一度自室へと戻り、面倒な交流会の一日目が終わったことを思い返し、息を吐いた。
だが、休むつもりはない。彼の瞳の奥では、純粋な狂気が静かに燃え上がっていた。
(ここからだ)
今日、間近で見た秤金次の領域。
パチンコのルールを強制インストールし、大当たりの恩恵として無限の呪力を引き出す、あのイカれた構築プロセス。
(あれを、自分でも再現したい)
朔は自室の窓を開け放ち、『鵺』を呼び出して夜の空へと飛び立った。
向かったのは高専の敷地内ではない。高専から遠く離れた、彼が普段から術式の訓練や実験に使っている『いつもの森』だ。
夜風を切り裂いて飛び続け、人気のない開けた場所へと着地する。
誰にも邪魔されない、彼だけの実験場。いつも通り、ここで始める。
「思い出せ。あの時の感覚を」
領域の展開プロセスを、この目でじっくりと、一番特等席で見ることができた。
ただ空間を切り取るだけでなく、そこに『自分のルール』を組み込むという発想。
(今なら、できるかもしれない)
スゥッと深く息を吸い込み、両の手でゆっくりと掌印を組む。
頭の中で、自分だけの結界を構築していく。
「領域展開——」
深夜の森の中。
彼の顔には、この上なく楽しそうな『期待の笑み』が浮かんでいた。
朔の、終わらない夜の実験が始まる。
*
次の日の早朝。
禪院真依は、医務室のベッドで目を覚ました。
特に何もやることがなかったため、怪我人の特権として早く寝てしまったせいか、かなり早い時間帯での目覚めだ。
上体を起こし、小さく背伸びをする。
「ん、んんー……っ」
声をもらしながら身体をぐっと引き伸ばすも、痛みは一切ない。長時間眠っていたせいか少しだけ肩が凝っているようだが、気にならない程度だ。
(身体は大丈夫ね。問題なく動かせる)
それだけを確認して、ベッドから立ち上がる。
あの男のおかげで、動きに支障はない。
彼の気怠げな顔を思い出すと、連鎖的に昨日の出来事も鮮明に蘇ってきた。
『ついてこれないでしょ?』
彼に言われた言葉。それが不必要に心へ突き刺さり、あろうことか柄にもない真似をしてしまった。
(……ほんと、馬鹿みたい)
それは彼に対しての罵倒ではなく、自分自身の愚かさに対するひどく冷たい自嘲。
彼に悪意がないことなど、最初から痛いほど分かっている。あの男が、私を貶める意図で言葉を発したことなんて、出会ってからただの一度もない。
勝手に傷ついて。焦って。そして、一人で空回った。
その結果が、このザマだ。
彼に助けられ、背負われ、ダサい姿を見せてしまったことが悔しいのか、それとも悲しいのか、自分でもよく分からない。そんな名状しがたいモヤモヤが、胸の内側で渦巻いている。
あの時だけ、自分の中の卑屈な感情が顔を出し、がむしゃらに無理をしてしまった。特級の呪いに立ち向かうなんて、狂気の沙汰だ。
「ふっ……!」
パシリ、と。
真依は両手で自分自身の両頬を強めに叩き、ブンブンと首を振った。
(今日は個人戦。こんなところで、気分を落としてなんていられない)
気持ちを切り替えようとした時、ベッドの脇のサイドテーブルに置いていた携帯が震えた。アラームだろうか。
手に取って画面を開くと、複数のメッセージが溜まっていることに気づく。そこには西宮先輩や三輪からの、体調を心配するような温かいメッセージがずらりと並んでいた。
一通り目を通し、短く返信を打ちながら、ほんの少しだけ微笑む。
彼からのメッセージはなかったけれど。
あの連絡不精で筆不精の男に期待するだけ無駄というものだ。
「一度、部屋に戻りましょうか」
完全に思考を切り替え、真依は医務室を出た。朝の身支度をするために。
*
そして、本日。交流会、二日目。
今日は学生同士による『個人戦』が行われる。
そのため、指定の広場に東京校・京都校の生徒たちと、引率の教師陣が一通り集まっていた。
ただ、何人かの人間は足りていない。
昨日の団体戦で大怪我を負った生徒たちは当然欠席。そして、あの森に爆心地を作った張本人である東京校の一年生、乙骨憂太も、上の判断で本日は『出場停止』になったようだ。
「真依ちゃん、昨日は大丈夫だった?」
広場に集まった生徒の輪の中で、心配そうに西宮が声をかけてくる。
「えぇ、問題はないわ。怪我はすでに完治してるから」
「そうか、無事なら何よりだ」
西宮の後ろから、加茂憲紀が歩み寄ってきた。
「昨日のあの攻撃を至近距離で受けたと聞いて、心配していたよ。今日の個人戦への出場は厳しいかと思っていたが、その様子なら問題はなさそうだね」
「……えぇ、そうね」
真依はぶっきらぼうに返す。「アナタに心配される謂れはない」と言わんばかりの冷たい態度だ。
「それじゃあ! 個人戦のルールも決まったところで、誰と誰が戦うか、くじ引きをしようと思うんだけどぉ!」
集団の前に立ち、五条悟が相変わらずのハイテンションで声を張り上げた。
だが、生徒たちの顔をぐるりと見渡し、不自然に首を捻る。
「……なんか、京都校も人数足りなくない?」
怪我をして医務室にいる京都校の生徒たちや、出場停止の乙骨の不在は仕方がない。
だが、それとは別に、『禪院朔』の姿がどこにもないのだ。五条が指摘しているのは、明らかにそういうことだろう。
その言葉を聞き、真依の表情がピキリとこわばった。
あの男が、現在ここにいない。ということは、つまりそういうことだ
背後から、歌姫が真依の隣に歩み寄り、忌々しそうに耳打ちをしてくる。
「ねぇ。あのバカはどうしたの? 朝からどこにも見当たらないんだけど」
「……えぇ。私も今朝、身支度のついでに彼を迎えに部屋まで行きましたけど。もぬけの殻でした」
「はぁ!?」
歌姫の、ガチでイラついた声が響く。
私も全く同じ気持ちだ。
(完全にバックレたわね、あいつ)
一日目の団体戦が終わったから、二日目はもう面倒に感じて帰ったとか、そんなふざけた理由だろう。電話にも一切出ないし、どうなっているのか。
(ほんと、どこまで人を振り回せば気が済むのよ……)
内心で深い愚痴をこぼしながら悪態をつく。
「ちょっと、学長に報告してくるわ……」
このふざけたイレギュラーを報告しに、歌姫は頭を抱えながら教師たちの輪へと向かっていった。またしても、教師陣の間で厄介な話し合いが始まるのだろう。
こうして、前途多難な個人戦が幕を開けた。
あのサボり魔を欠いた、今いる人間だけでの。
*
時間は少し進み、個人戦のプログラムがどんどんと消化されていく。
ルールは至極単純だ。東京校と京都校の術師たちが、一人ずつ一対一で戦っていく形式。互いの実力を競い合い、降参するか、意識を失った方の負けとなる。
現在、予定されていた試合の半分が終了し、一時間ほどの『インターバル』に入っていた。
一時間後、再びこの広場に集合して後半戦が始まるという段取りのため、生徒だけではなく教師陣も、それぞれ自由に時間を過ごしていた。
五条悟も、その例外ではない。
彼は一人、窮屈な観戦室を抜け出し、外の空気を吸うべく高専の屋外をぶらつく。
「ふぅ〜。みんな青春してるねぇ」
次世代の術師たちが、こうして切磋琢磨して育っていることが喜ばしいのか。大きく息を吐きながらも、その口元は楽しそうに弧を描いている。
(だけど……今日の個人戦、彼がいないのは少しだけ残念だ)
五条が脳裏に思い浮かべているのは、姿を消した一年生、禪院朔のことだ。
昨日の団体戦、モニター越しに見ていた彼の戦いは、特筆すべきものだった。
なかなかの術式の練度。あの秤金次と、あそこまで互角にやり合うとは。
(さすがは禪院家というべきか。かなりの英才教育を施されてきたんだろうね。術式の扱い方や、式神の工夫がかなり上手い)
同じ十種影法術を持つ伏黒恵のことを思い浮かべる。
「ハハッ。恵あたりにぶつけたら、めちゃくちゃいい刺激になりそうだ」
五条は一人で軽く笑い、秋の澄んだ空を見上げた。
——すると。
「こんなところで、何してるの?」
不意に。背後から、ひどく気怠げな声が響いた。
五条がわずかに目を見開き、振り返る。
そこに立っていたのは。
朝から行方をくらませていたはずの男——『禪院朔』、その人だった。
途方もない闘志の宿った瞳を、眼下の五条悟へと向けている。