「おやおや~。今日は一日姿が見えなかったけど。サボり〜? 良くないなぁ」
秋の空気を吸いに外へ出ていた五条悟は、背後から声をかけてきた朔を振り返り、からかうようにそう言った。
交流会の個人戦、その休憩時間である。
「そうですけど。五条先生も、学生時代は似たようなタイプだったのでは」
「えぇー。僕は君くらいの時は、それはもう品行方正な優等生だったよ?」
――あからさまな嘘だな。
会ったばかりの男であっても、直感的にそう確信できた。何せ、京都校の担任である歌姫先生が、親の仇のように五条の愚痴を延々とこぼしているのを聞いたから。
「歌姫先生に似てるって言われたんですけどね。僕のこういう所」
「僕と? 全然そんなことないと思うけどなぁ。ちなみに、僕はいまちょっと休憩中。サボってるわけじゃないからねー!」
おどけるように両手を振る現代最強の術師。
そんな彼の軽口を適当にスルーしつつ、朔はゆっくりと歩み寄り、本題を切り出した。
「あの。実は、頼みたいことがあって」
「あぁ、昨日も観戦室に来てたよね!」
そうだ。昨日の団体戦が始まる前、朔は学長たちが集まる観戦室へわざわざ足を運んだ。あの時は歌姫の逆鱗に触れ、問答無用で追い返されてしまったが。
あの時の用事というのは、『五条の領域展開を見せてほしい』というもの。
しかし、その用件はすぐに不要となった。団体戦で秤金次と遭遇し、その激闘の中で『坐殺博徒』というイカれた領域の構築プロセスを間近で観察する機会に恵まれたからだ。
昨日、帰宅してから、先ほどに至るまで。
様々な試行錯誤を重ねてきた。そしてついに、長年空っぽだった自分だけの結界に、明確な『ルール』を付与するプロセスを理解したのだ。
それを、試してみたい。
そして、現代最強と呼ばれる男が、一体どれほどの位置にいるのかを知りたい。
彼の中に渦巻く純粋な狂気と好奇心が、この無謀な提案を導き出した。
つまり、朔の頼みとは。
「僕と、模擬戦してもらえませんか」
「……へぇ」
その言葉は、五条にとっても予想外だったらしい。
目隠し越しにでも分かるほど、彼がひどく面白そうな顔をしたのが分かった。
彼にチャレンジャーとして正面から挑む者など、そうそういない。物珍しいおもちゃを見つけたような、そんな子供のような笑み。
「ハハッ、久しぶりだよ。こんなに真っ直ぐ挑まれるのは」
彼と戦うというのは、一種の自殺行為のようなものだ。そんなことを本気で考える人間は、特級呪霊か、余程頭のネジが飛んだ術師くらいしかいない。
彼に挑むという行為自体が、傲慢極まりない。まともに戦って勝てる人間など、この世に存在しないのだから。
だが、それでも。
禪院朔は、自分が一〇〇%負けるとは思っていない。
最強とは、真正面から戦うだけ無駄。そんなこと、僕だって分かってる。
であるならば。
(最強である『状態』から、引きずり下ろす)
内心で冷徹な思考を回しつつ、五条を見つめる。
「受けてもらえますか?」
「んんー、いいよー! ちょっと暇してたし、相手してあげる!」
思ったよりもあっさりと、快諾の言葉が返ってきた。助かる。
「じゃあ、場所とルールを決めようか。どうする?」
「バレて怒られるのも面倒だし、この先にある別の演習場に行きましょう」
森の奥の方角を示す。こんなこともあろうかと、高専内の敷地は一通り調べておいた。使用許可? 当然取っていない。
こうして、交流会二日目のインターバルという短い時間の中。
問題児二人の、密かな模擬戦闘が始まろうとしていた。
*
場所は移動し、京都校、第三演習場。
まばらに木が生え揃った、少し開けただけの空間。そこで、二人は十メートルほどの距離を空けて向かい合っていた。
「それで、ルールはどうする?」
五条が軽くアキレス腱を伸ばしながら、楽しそうに問いかけてきた。
その声は弾んでいるが、裏を返せば「何のルールもハンデも設定せずに戦えば、勝負にすらならないよ?」と暗に告げているのだ。
「そうですね。じゃあ、敗北条件と勝利条件を決めましょう。気を失って戦闘不能になるか、降参するか。それが敗北条件」
朔は淡々と告げる。
「相手をその状態にした方が勝ち、ということで」
「それだけで本当にいいの?」
五条が首を傾げた。
「僕としては、もっといっぱいハンデをあげてもいいんだけど?」
それは嫌味や煽りというより、純粋な事実。
現代最強からすれば、目の前の少年など、まだまだひよっこに過ぎない。
「なら、追加で」
「うんうん」
五条が、何か面白い要求でも出てくるのかと、興味深そうに耳を傾けてくる。
「あなたが『ギャフン』と言ったら、僕の勝ち。とかでいいですよ」
そのふてぶてしい提案に、五条はパァンッと手を叩いた。
「くくっ! 君、面白いね!」
軽く笑い、準備運動が終わったのか、五条がだらりと両手を下ろす。
「それじゃあ、始めようか。……いつでもいいよ」
ほれほれ、どこからでもかかってきなさい。そう言わんばかりの余裕の態度。当たり前だが、隙など微塵も存在しない。
「いきなり始めるのも何ですし。合図を決めましょうか。……んんー、どうしようかな」
朔は何かちょうどいいものはないかと悩むフリをしながら、ポイッと一つの提案を口にした。
「肩に乗っている、このウサギを宙に投げるので」
朔は肩に乗せていた知覚用のウサギを一匹、右手で摘み上げて見せる。
「これが着地したと同時に、戦闘開始。というのはどうでしょう」
「うん、構わないよ。……その式神、玉犬に脱兎を継承させたの? ずっと気になってたんだよね」
「そんな感じです」
脱兎に玉犬を継承させたものだが、今はそんなことはどうでもいい。
いよいよ、大一番が始まるのだから。
「それじゃあ、投げますね」
そう一言だけ声をかけ、摘み上げていたウサギを宙へ向かって思い切り放り投げた。
ウサギの呪力でブーストをかけ、遠くへ、力いっぱい。小さなウサギの身体は、かなりの放物線を描いて遠くの木々の方へと飛んでいく。
放り投げられたウサギが、空中でクルクルと回転しながら飛んでいく。
二人の視線が、その小さな影を追った。
そして、地面に触れる——その前に。
ポスッ、と。小さな足が、地面ではなく『少し離れた木の枝』に着地した。
着地したら戦闘開始。……『地面に』とは、一言も言っていない。
その瞬間、朔の両手が掌印——『
「領域展開」
そのいきなりの行動に、現代最強の術師である五条悟は、ほんのわずかに目を見開く。
彼の持つ特殊な目——『六眼』は、朔の呪力の起こりを、そしてそれが紛れもない『領域展開のプロセス』であることを完璧に捉えていた。
(構築速度と呪力の精密操作。……なかなか)
領域展開への対応手段は、極めて限られる。
五条悟は、その不意打ちじみた一撃に対し、全く焦ることなく正確に対応してみせた。
朔の行動からほんの少しだけ遅れたものの、彼の中では完全に間に合っているタイミング。
右手の中指と人差し指を交差させ、即座に『帝釈天印』を作る。
『領域展開・無量空処』
ありえないほどに速い。
その結界の構築プロセスの緻密さと、展開に至るまでの絶望的な速度は、昨晩徹夜でようやく形にしたばかりの未だ不完全な朔の技量を、遥かに、圧倒的に上回っていた。
塗りつぶされる。
無下限の領域が空間そのものへと広がり、展開される。
「それで? 次は何を——」
五条は、自身の領域内に取り込んだはずのチャレンジャーへと目を向ける。
これで終わりではないだろう、次の一手を見せてみなよ。そう言わんばかりの余裕の笑みを浮かべて。
だが。
次の瞬間、五条悟は自らが作り出した『異常な光景』に、レアな困惑の表情を浮かべた。
領域の展開が、少しでも遅れたら。相手の必中効果の種類によっては、取り返しのつかない致命傷を負うことになる。だからこそ、朔の呪力の起こりを感知した五条の行動は、術師としての反射行動において一〇〇%『正しい』。
しかし、それはあくまで『彼が用意したレールの上』での話だが。
異常な光景といっても、特段何かがおかしくなったわけではない。
いや、正確に言えば。
『何もなかった』のだ。
不意打ち気味に領域を展開しようとしたあの男は、目の前から忽然と姿を消しており。
展開されたはずの『領域』すら、そこには微塵も存在していなかった。
「……」
この果てしなく広がる無下限の領域内に、今、自分は一人ぼっちで立っている。
(……どういうことだ?)
六眼は確かに、彼が領域を展開するプロセスを視認した。黒い影のようなものが空間にせめぎ合い、朔自身の姿すら見えなくなるように覆い隠そうとしていた。
だが、五条が無量空処を展開した瞬間、それが幻のようにスッと消失したのだ。
朔が結界の構築を失敗したわけではない。見る限り領域の展開プロセスは完璧だった。それに、もしも失敗していたのならば、彼はそのままこの無量空処の中に取り残され、無限の情報を流し込まれて廃人になっているはず。
(僕の領域の必中効果が、彼を捉えていない。姿も視認できないということは……つまり、この領域内に『いない』ということ)
*
(さて。第一段階は、とりあえず成功、かな)
一方その頃。
朔は小さく息を吐く。
(あの六眼相手にこの手品が通用するかは、ぶっちゃけ五分五分だと思ってたけど)
彼なら必ず、こちらの領域を『自分の領域』で上書きして潰しにくる。その確信があったからこそ成立した、決死の囮作戦。
だが、安堵している暇はない。
詰将棋は、まだ終わっていないのだから。
(ここからだ)
静かに両手を組み直す。
頭の中で完璧な盤面を描きながら。
朔は暗闇の中で、次の一手である『牛』の影絵を、ゆっくりと結んだ。
VS五条 開幕